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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第1章 非凡な農民 1

 私達は、コムギとトウモロコシに埋めつくされ、輝く空の下で世界が緑に波打って広がり、雑草や大量の収穫物の強い色と臭いで息が詰まるほどの燃えるような夏と、全てが裸で鉄板のように灰色な、風の吹きすさぶ雪の少ない冬とからなる刺激的なほどに極端な気候の、このように小さな町で子供時代を過ごすことがどんなことかについて語り合った。そんな時、私達はいつも、こうした経験は草原の小さな町で育ったことのない者にはまったく分からないことだという同じ思いを共有するのだった2

ネブラスカ東部のサウンダース郡の郡庁所在地ワフーはそんな町のひとつだった。ジョージ・ウェルズ・ビードルはワフーから1マイル半南の40エーカーの広さをもつ農場で生まれ育った。一帯の土地は1803年のルイジアナ買収で合衆国のものとなり、1854年に準州となった後でオトエ・インディアンの平らな水を意味する言葉からネブラスカと名付けられた。ネブラスカ準州の大半は州の3パーセントを占めるに過ぎなかった森がところどころに散在する草に被われた平らな土地だった。1862年に議会が自作農場法を制定するとすぐに、準州の東部のすぐれて肥沃なこの無料の農地が手に入ることに惹かれた入植者達が東からやって来はじめた。入植者に続いて鉄道が敷かれ、ミズリー河やプラッテ河から遠く離れた土地まで旅行したり農産物を輸送したりできるようになった。そうしてネブラスカは1867年に合衆国で37番目の州になった。

 農場経営がジョージ・ビードルの家族の生活の柱だった。母ハティーの父親アレキサンダー・アルブロは農民だったサムエル・アルブロ夫妻の子として1824年に生まれた。1833年に家族が西方への移住に加わった時、オハイオ州のメディナ郡とイリノイ州のペオリア郡(当時はフォート・クラーク郡)に暫く留まったが、1836年までにはイリノイ州ノックス郡のリン準郡に定住した。アルブロの8人の子供達は家族農場の成功にとって極めて大事な存在だったから、誰も学校へ行くことを許されず、アレキサンダーは3ヶ月の公的な学校教育しか受けられなかった。17才の時に父サムエルが死ぬとアレキサンダーは幌馬車作り職人のもとへ奉公にでた。彼はこの安定なしっかりした職業に10年間ついたが、この間に結婚し、離婚し、再婚した。アレキサンダーの2番目の妻、エミリー・スポールディングは同じような開拓農民の子として1827年にニューヨークで生まれた。アレキサンダーとエミリーはイリノイ州ガルバの町づくりに貢献し、1855年までには町の外れでロックアイランドとペオリアを結ぶ10マイルの鉄道敷設事業など様々な営利事業に携わり成功を収めた。ケンタッキーの合衆国陸軍第112イリノイ志願歩兵連隊に2年間従軍し、生涯の称号となった大尉の位を1863年に得て彼は故郷のガルバに戻った。アルブロ大尉は高い尊敬を勝ち得た活動的な共和党員であり、ガルバのファースト・ナショナル銀行の創始者と取締を勤め、1868年から1872年には、ヘンリー郡の合衆国財務部副補佐官だった。彼は財を蓄積し、そのうちの一部でネブラスカ州オマハの郊外に土地を購入し、エミリーとともに晩年のほとんどをそこで過ごした。それでも、ガルバは彼らの故郷であり続け、1896年には二人はガルバへ戻って友人達とともに金婚式を祝った3

 ビードルの優しい母ハティー・アルブロは、ネブラスカ州エルクホーンの姉夫婦の農場で働いていたハンサムな農夫チャウンシー・エルマー・ビードルと1892年に結婚した。ハティーの姉のエスサー・アルブロ・バビットは、雇われ者のチャウンシーは妹の結婚相手に相応しくないと考えたが、たたき上げで成功した父アレキサンダーはチャウンシーには見込みがあると考えたに違いない。イリノイ州ガルバのアルブロ家で行われた結婚式は簡素なものだった4。不自由のないほど裕福だったアレキサンダー・アルブロは、ハティーとチャウンシー・ビードルと一歳になる息子のために、ワフーの近くに一軒の土地付きの家を3,600ドルで買い与えた5。激しい独立心の持ち主ではあったが名誉となる財産を持たなかったチャウンシーにとって、義理の父アレキサンダーの寛大さは自分が家族に貢献し自らの希望を叶えることを可能にした大きな贈り物だった。

 皆にCEという名で知られたチャウンシー・エルマー・ビードルも、わずかな起業的成功しか収めなかった開拓農家の出身者のひとりだった。CEは、1886年に19才でインディアナ州ケンダールビルの両親の農場を出て、自身の道を探して鉄道で西へ向かった。CEの祖先は1656年という早い時期にボストン近郊に住んだサムエルとスザンナ・ビードルにまで遡ることができる。ビードル家は次の18世紀まではニューイングランドの様々な地に住んでいたが、18世紀の後半にはニューヨークとペンシルバニアで通常は農業に携わっていたと記録されている6。CEの父のコールマン・ビードルは1828年にニューヨーク州で生まれたクエーカー教徒だった。コールマンは若くして西へ向かい、1852年にオハイオでアデレード・インマンと結婚した。5年後に2人はケンダールビルへ移り、そこで行商人として働き始めた。しかしすぐに彼は農場を手に入れ、そこでCEと他に7人の子供が生まれ育った。コールマンは、CEとハティーが結婚した1年後に死んだ。

 CEは、ずっと後になってだが、「農民は生きる決意を持たなければならない」と言ったことがあった7。CEには実際、言葉以上の決意があった。CEが農場に注いだエネルギーと知恵それに彼と結婚した娘ハティーが恵まれたよい暮らしを楽しんでいることを知ったアルブロ大尉は喜んだに違いない。実際、アルブロは1898年に農場の権利をハティーに譲渡していた。病気がちでよく痛みを訴えた子供の頃のハティーは両親にとって心配の種だった。ハティーの生長は遅く、17才の時には流行の温泉浴が役に立つだろうと期待した両親はアーカンソーの温泉療養にハティーを連れて行って数ヶ月間を過ごした。ハティーにとっては妹のような存在で誰よりもハティーに近かった6才の従妹のコーラが一緒だった。ハティーは知恵が豊かでよく本を読んだが、健康にすぐれなかったことから高校を卒業することができなかった。虚弱だった彼女は、それでも、自分が他の女の子達と同じようでない事実に不平を述べたり、悲しんだり、腹を立てたりすることがなかったし、並はずれて親切なことで誰からも好かれていた。28才で結婚した後は、農民の妻として母として、8部屋あった家の全てを一人で取り仕切ったが、その強い行動力に家族の誰もが驚くほどだった。当時の大変な状況下で食事を用意し、パンとパイとケーキを焼き、洗濯とアイロンかけを行い、果物の缶詰を作り、裁縫(彼女は素晴らしい裁縫家だった)をして、家を完全にきりもりしたが、その小さな手と病弱な体でこうしたすべてができたことはまさに奇跡だった。ハティーはよく訪問客をもてなしたが、ワフーに暫くの間住んでピアノ教師として生計を立てていたコーラは幸せなビードル家の頻繁なお客さまだった8

 チャウンシーの農民としての成功が合衆国農務省の報告に記録されている9。1907年までには、よく手入れされた芝生を囲むニレ、マツと様々な果物の木々と灌木が茂ったビクトリア調の家には2,000ドルの評価額がつき、40エーカーの土地は8,000ドルの価値を持つまでになっていた。報告書はビードル農場を詳細に記載し、いかにしたら40エーカーの土地で、余分な労働なしでも町の生活と同じくらいの良い暮らしができるかを宣伝している。CEのジャガイモ管理、なかでも近隣の男の子達を雇って100匹当たり5セントの報酬で黄色と黒の縞模様が入ったジャガイモ害虫のコロラドハムシを指で摘んで念入りにこれを駆除した功績には特別の賞賛が与えられた。ニワトリ、イチゴ、ブラックベリーからも現金収入が得られた。家族にとっては特に乳牛、野菜、卵、ブドウ、食用ダイオウ、ミツバチが食料となったし、バラ、スイカズラ、ボタン、ライラックやその他の花々を楽しむこともできた。CEは、家事労働の重要な部分を3人の子供達に頼ることで、時折の雇い人だけでこれらすべてをやりこなした10

 ジョージ・ウェルズ・ビードルはハティーとCEの2番目の子供として1903年10月22日に生まれたが、そのとき兄のアレキサンダーは8才だった。CEは2番目の息子ジョージの誕生広告をサウンダース郡人民党新聞「新時代」に載せた11。ジョージが生まれた年にハティーは農場の名義をCEに移した12。妹のルースが3年後に生まれた。その頃までには、CEは成功し快適な生活が可能になっていたので、ハティーは文学、音楽や美術などの興味に時間を割くことができた。ピアノは居間に高貴さを与えたし13、ハティーの描いた絵が家具の上手に配置された快適な部屋の壁に飾られた。1902年にゴールデン・ロッド電話会社が設立されるとすぐに、ビードルの家族は電話を手に入れた。まもなく電話は2台に増えたが、それらはそれぞれワフーで当時営業していた幾つかの電話会社のひとつとの契約だった。二つの会社と契約することでずっと多くの隣人達と電話で話すことができたのだった14

 こうした慎ましく快適な生活をもたらした成功の様子は別にして、ネブラスカは依然として辺境で、そこでの生活は容易でなかった。草で覆った家に住む家族もあった。州のより西部の町々についてではあったが、ウィラ・キャザーの小説には初期の頃のネブラスカの農家の生活が描かれている15。「風の吹きすさぶ冬」は厳しく、特に学校まで2マイルの道を歩いて通うジョージには寒さが身を刺すほどだった。春と秋には猫の手を借りたいほどたくさんの仕事があった。「灼ける夏」は火焔のように暑かった。ワフーはキャザーが描いた町や村と同じように多様な経過を経て生まれた共同体だった。初期の定植者達は1865年には東部から到着し始めていた。大きな定住集落に住んでいたポーニーあるいはオトエ・インディアンに虐殺された者もあった。ワフーは1870年に町になり、インディアンはこれを恐れて他所へ移住せざるを得なかった。幌馬車は泥濘の轍ができたワフーの通りを通って東部から人や物を運んできた。町の名が何に由来するかについて絶え間ない議論があったが、どの説明もそれが土地あるいは近くを流れる支流のインディアン語の名前から来ているという点については一致していた16

 1873年にワフーはサウンダース郡の郡庁所在地に選ばれた。翌年には2階建ての裁判所が建設され、1875年には週刊新聞のワフーWASPが創刊された(注:WASPはホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの頭文字をとった略語)。最初の高等学校は10年後に建てられた。1904年に建て替えられた堅固な裁判所は住民の希望の記念碑として今もなおその姿を留めている。土地は肥沃だったし人々は勤勉で労働を厭わなかったから、誰もが楽観的になる十分な理由があった。初期に定住した人々は、土壌の肥沃さが穀物の高収量をきっともたらすだろうと囁きあった。その時までには、ユニオン・パシフィック、ノースウエスタンとバーリントンの3つの鉄道が合流し、この地に豊かさの継続を約束していた。町の人々は周辺の農家へサービスを提供することで小さいながら割のいい商売を興すこともできた。ビードル家が町のすぐ郊外に定住した1年後の1897年に、ウイリアム・ベニングス・ブライアンが大統領選に向けた最初のキャンペーンをワフーで開いた17。今日でもワフーは周辺の農場の市場センターであり、その人口は3,400でジョージ・ビードルが生まれたときとほぼ同じである。鉄道はもはや通っていないが1本の小さな高速道路が町中を走り、21マイル南でインターステート80と通じている。サウンダース郡の社会歴史博物館の裏に今も保存されている鉄道駅舎とレールは、ジョージ・ビードルが毎日歩いて学校へ通った様子を懐かしく回顧させる記念である。

 19世紀の終わりまでは無料かそれに近い安値で手に入った土地が、20世紀の初めの数十年で大きな富を生むことになった。しかし、CEはジョージが生長して農場を離れてもなお不動産の価値に執着することはなかった。ジョージの子供時代、CEは40エーカーの農場をできる限り生産的にすることに集中した。家族は豊かではなかったが経済的には何とかやって行けた。しかし、全体として恵まれた生活も、ルースが生まれた後に体力を回復することがなかったハティーが1908年の春に死ぬと全く状況が変わってしまった。子供達に宗教的で文化的な素養を授けたのはハティーだった。子供達がじきに彼らの愛する母を失うことを悟ったハティーは子供達を後に残す思いに苦しんだ。「おまえはまだ小さいから、しばらくはマンマを思い出すだろうけど、いつも思い出してはくれないようになるかも知れない」。ハティーは死ぬ前に悲痛な思いを「可愛い小さなジョージ」にむけて書き残した。彼女には、特にCEが、彼女の通っていたバプティスト教会に加わらず、子供達の精神的な要求に目を向けようとしないことが気がかりだった。「マンマにはお父さんの愛が私の愛と同じものだとは思えないのです。私は、ああどんなにか、おまえが優しく善良な男の子になることを、生長して立派なクリスチャンになって、他の人々がクリスチャンになるように助けてあげ、そうして皆が天国で再会して幸せな家族にもう一度なれることを望んでいることでしょう」18。ハティーの心配は当たっていた。彼女の死んだ後、CEも子供達も定期的に教会へ行くことはなかった。後になってジョージは、「母の思い出は少ないけれど、大切な人格形成期に母が私に与えた影響はとても大きいものだった」と語っている19。妹のルースは、おそらくもっと正直で、「ずっと意識下で母の喪失感を感じていた」と書き記した20

 ハティーの死で、CEは突然思っても見なかった責任を、特に13才、5才と2才の3人の子供の面倒を見るという責任を負うことになった。彼は土地の女の子達を次々と家政婦に雇って、子供達と家の面倒を見させた。ついに、寡婦だった彼の母が一緒に住んで家事を助けることになったが、子供達は「口うるさい老婦人」があまり好きではなかった21。ワフーの人々の記憶では、ビードル家の子供達には辛い時期だった22。人々の記憶によると、CEは子供達に家の雑用を多く言いつけていた。ルースはCEを思い出して、「厳しい父」だったが自分たちの安全は父のお蔭だったと語っている。CEは、裏のポーチの近くにあったニレの木から子供達自身に折り取って来させた細枝で、時折彼らをむち打つことさえあった。

 アレキサンダーが高等学校を卒業して大学進学を望んだとき、CEはそれを許さなかったので、アレキサンダーは自分の道を探してしばらく農場を離れた。しかし、彼が農場に戻るとすぐに草原の厳しい現実がまた家族を襲った。ハティーが死んだ5年後に、18才のアレキサンダーが馬に蹴られた怪我がもとで死んでしまったのだった。アレキサンダーのために早急な医療上の注意を払わなかったという理由で、息子の死の責任の幾分かは父CEにあるとワフーの人々が評したことが今でも人々に記憶されている。事故の1週間後になってようやく家の食堂のテーブルの上で外科手術が行われたが、4日後の1913年4月15日にアレキサンダーは死んだ。ルースは、父がいつも馬の後ろを歩くなと荒々しい声でアレキサンダーを叱っていたことをよく覚えている23

 アレキサンダーの死にまつわる出来事は、思いやりがなく虐待的ですらあると町の人々がCEに対して抱いていた人物像をさらに確信させるものだった。CEは、事故で片腕を失った農夫に「貴方は何故愚かにもそんな不注意をしでかしたのか」と詰問したという逸話が残っている24。アレキサンダーの死で、残された2人の兄妹は母に加えてもう一つの支えを失った。残された唯一の肉親である父は彼らの衣食を守りはしたが、心の広い情愛に溢れた人物ではなかったから、子供達は自分のことは自分で行い、そのうえ農場の仕事もしなければならなかった。

 アレキサンダーを失った2年後には祖母が亡くなりワフーのサンライズ墓地の孫息子と義理の娘の近くに埋葬された。毎年の追悼記念日には、それぞれがよく磨かれた赤い御影石で飾られた3つの墓すべてに家族でペオニアの花束を捧げたが、当時8才だったルースは自分もジョージも祖母を失って悲しいとは思わなかったことを覚えている。同じ年に、最も愛され記憶されることになる家政婦のルル・スタップルフォードがやって来た。20代前半の彼女は子供達とCEの間の緩衝役となり、子供達にとっては「代理母にもっとも近い存在」となった。後に、ワフーのロイ・ミラーと結婚したルルはビードル家の子供達のそば近くに留まって面倒を見た25, 26

 この時期、ルースは家事をジョージは夜明け前に起きて畑と家畜の世話をした。兄と妹は一緒にたくさんの犬と猫の世話をし新しい子犬や子猫が生まれるのを見守ったが、2人のどちらが子猫と子犬の世話をして名前を付ける喜びを手にするかで言い争ったりした27。父が留守の時には、父に代わって農場の収穫物を売りにでたりもした。家事や農場での義務に加えて、2人の子供は片道2マイルの道を教室がひとつしかなかった学校まで通った。冬には雪を掻いて歩かなければならないこともしばしばだった。ルースにはジョージが頼りで、ジョージはルースの面倒を見た。こうして子供時代に培った親近感を兄妹は残りの生涯を通じて持ち続けた。ルースは同い年の子供達より1年遅れて入学したが、それは彼女の小さな足では学校までの距離が長過ぎたからだった。数年後に同年の他の子供達と同じクラスに入れて欲しいと頼んだが、先生はこれを聞き入れなかった。学業と家事の手伝いを同時にやりきることはできないだろうと先生は考えたからだった。

 生長するにつれてジョージの毎日は学校、地域の4Hクラブのボーイスカウトと農場の仕事で一杯になった(注:4HクラブはHead、Heart、Hands、Healthの頭文字をとった合衆国の農村青少年クラブで、農務省の管轄下で農業・農村を作る活動を行っている)。家畜や農場生産物、特にトウモロコシの品定めが行われる年に一度の品評会は大きな行事だった。ネブラスカはコーンベルトの一部であり、ワフーの周りは何処でもトウモロコシが王様で地域の生活の中心だった28。農務省は子供達のトウモロコシ・クラブを支援した。トウモロコシの皮むき競争はいつもトウモロコシ祭りのハイライトで、最も長い穂、最も長い茎と最も面白い斑入りの種子をつけた穂には賞が授けられた。ワフーよりも大きく豊かな市にはトウモロコシ御殿が建てられていて、御殿の内と外の壁という壁はすべて装飾的なパターンを示す様々な色の種子が稔った穂や茎や外皮で飾られた29。初秋の2週間は17世紀のオランダのチューリップ・ショーと同じほど人気があったトウモロコシ・ショーの見せ場で、アイオワ州西部のスー・シティーで開催された1888年のショーではトウモロコシ御殿に35万人の見物客が訪れた30。山も海もなく東部の大都会のような娯楽もない地域では、ショーは、「文化の観点から言えば、東部の傲慢さに対する中西部の誇り」だった31

 すでにビーツという名で知られていたジョージは、他の農家の息子達と一緒にトウモロコシ祭りに参加した。ジョージは、イチゴやアスパラガスの収穫作業のような他の農場の仕事と同じく、祭りへの参加で何時もなにがしかの小遣いを稼いだ。その後の生涯を通じて見るのも嫌になるほど大量のイチゴやアスパラガスをCEのために摘んで、オマハの市場へ出荷もした32。妹のルースは、ジョージには設備の整った工作所で大工仕事や鍛冶仕事を学ぶ機会が父から与えられているのに、なぜ女の子である自分はそこへ行くことが許されないのか悔しく思った。第一次世界大戦の間、ジョージは若すぎるか年を取り過ぎて軍隊に入れない他の村人達と共に、地方義勇兵に加わった。

 バプティスト教会でのアレキサンダーの葬儀ではリンカーン教区の牧師が司祭を務めたが33、ハティーの死後は家族がワフーにたくさんあった教会のどれかに属して定期的に通ったという記録は全く残っていない34。教会が多くあったことは、当時の地域共同体が多様だった事実の反映だった。ジョージが生まれたとき、ネブラスカの住民のおよそ半分は外国生まれの人々だった35。ウィラ・キャザーの小説を読むと、アングロサクソン人、チェコ人とスエーデン人の社会はそれぞれ密着してはいたが互いに離れていたこと、それでも市街地区では3つの社会が互いに依存度を高めていたことが分かる。ワフーにひとつだけあった公立高等学校は若者達を集める場だった。1900年8月の水泳大会の写真には、当時の典型的な水着を着た若い男女のグループが写っているが、彼らの名前から出身地の多様さが分かる36

 ワフーに来た当初からCEは独立心が旺盛で怒りっぽい人物という評判を得ていた。時間が経つにつれて彼はより孤独でワフー社会の変わり者になったが、主としてそれは彼が強い正義感から一風変わった行動をとりがちだったことが原因だった。彼は自分の農場の生産物の他に遠くワシントン州からジャガイモやリンゴを買い付け始めた。農産物を求めて頻繁な旅行に出て買い付けや発送を手配し、貨車に満載した荷が鉄道駅に届くと望みの価格でそれらの商品を売った。CEの安売りを嫌ったワフーの商店主達は電話注文を含む注文品の発送ための免許料として1日25ドルの支払いを要求する市条例を通過させることで反撃に出た。CEは1921年3月10日のワフーWASPに大きな広告を出し、市条例で許される雑貨店への卸売り以外の商売はしないことを宣言する他なかった。それでも彼は挫けることなく、「店に来くれば誰でも卸売り値でリンゴやジャガイモを買える」と宣伝した。1921年10月のワフーWASPの広告ではリンゴとジャガイモを積んだ貨車の到着を告げる広告も出した。翌年の春にもイチゴの苗とカキの殻(土壌へのカルシウム散布用)を売りに出すと宣伝した。ワフーの住民の一人だったケン・カールソンは父親と一緒にでかけてCEの農場の地下貯蔵庫からジャガイモを買ったことを今でも覚えている。

 ワフー商店主達の怒りは燃えさかり、クークラックス・クランがビードル農場から続く牧草地に火を付けて十字架を燃やす騒ぎがあったほどだった(注:十字架を燃やす行為はクークラックス・クランの憎悪の表明である)。クランはワフーでは通常こんな無茶はしなかった。ネブラスカのクランの怒りは主としてカソリック社会にいつもは向けられていたが、それは彼らがカソリック社会に牛耳られるのを恐れたからだった37。1936年にワフーからずっと辺鄙な農場へ移った後も、CEは土曜日の晩にはワフーを訪れて、熱弁を振るい世の不正義を批判した。彼は弁舌で批判するだけではなかった。町を走る危険な鉄道や町の保安官が所有するアライグマ用の猟犬など公的な妨害物を取り除こうと、CEは何年もの間一人でキャンペーンや告訴を仕掛け続けた。

 このように振る舞う父を持っていたから、ジョージがむしろおとなしい男の子だったと記憶されたのも無理はなかった。高校の1学年先輩でビードルの数学クラスのチューターだったローラ・モートはジョージが学校を辞めようとはしなかったが助けを求めることも決してなかったことを覚えている。ジョージは高校の弁論チームに所属し、陸上競技部では棒高跳びの選手だった。町に住む学友からは間違いなく田舎者と思われていたし、父親の常軌を逸した行動が彼の立場に影響を与えていた。クラスメートの一人だったマリー・カーニーは、ジョージからの夕食会への誘いを断ったが、それは、彼がハンサムな若者だったにも関わらず、間違いなく堆肥の着いた靴を履いて来ることを知っていたからだった38

 CEは息子が高校を卒業したら農場を一緒に経営してくれると期待したし、ジョージもまた、特に兄のアレキサンダーが大学へ行くことを許されなかったことから、農場を継ぐことになるだろうと思っていた39。そんな1920年に、ジョージはネブラスカ大学を卒業してワフー高校の化学と物理の教師になったばかりのベス・マクドナルドと出会った。ベスは生徒達よりおよそ10才年上だったが、彼女を覚えている者は誰でもベスはウェーブのかかった茶色の髪をした綺麗で見栄えの良い女性だったと評した。母も学校の先生だったベスは結婚してワフーに住むことになった。教育があり如才ない一人の女性として結婚後も彼女はジョージの先生であり友であり続けた。ジョージは学校が引けた午後を彼女の家で過ごした。彼女がハワード・ハンソン弦楽4重奏団でビオラを弾くのを聴いたこともあっただろう。彼女は物静かな農場少年に本や外部の世界との接触を教えた。最も重要な点は、彼女が熱心にワフーの僅か25マイル南にあるネブラスカ大学のことを彼に話したことだった。ジョージは彼女から大学は授業料が無料だからお金は大学に入る障害ではないと教えられた。ベスはジョージに大学へ行くよう説得することには成功したが、彼は彼女の強い宗教信仰には何の興味も示さなかった。その時も、その後の生涯を通じても、ジョージは教会へ足を運ぶことも特別の信仰も持たなかったが生涯ベスを忘れずしばしば彼女への感謝を口にした。彼は彼女に対して10代にありがちな葛藤を覚えたのではと感じた人もあったし、本当に恋をしていたに違いないと思った人もいた。いずれにしても、それは彼にとって女性との最初の親密な関係であり、彼女は間違いなく母の死が奪ったものの一部を彼に与えたのだった。

 公の教育をほとんど受けずに成功したCEには、農場を継ぐために生き残った息子を大学に送りだす理由は全くなかった。ビードルは後になって、「父の考えでは農民になるのに大学へ行くのは馬鹿なことだったが、最後には許してくれた40」と語っている。ジョージは1922年の秋にリンカーンのネブラスカ大学農学部に入学した41

 ワフーからリンカーンまでは、ほとんど気づかないほどの僅かな起伏があるだけの平らで穏やかな土地の連続だった。夏のはじめには、道の両側に見渡す限りトウモロコシ畑が広がった。大学へは汽車でも通えたが、ビードルはフォードのT型モデル車で通学した。生活費と車の費用はCEが払ったか、あるいは祖母のアルブロの遺産で賄われたに違いなかった。粗野ではあったがCEはケチではなかった。実際、ルースは自分の気に入った服をワフーの店でいつも買うことができた。

 偶然からかあるいは学校教育のお陰か定かではないが、ワフーは20年間にジョージ・ビードルの他に4人のそれぞれ別分野で傑出した人物を世に送り出した。サム・クローフォードは1890年代に10代でワフー地区の興行師のもとで野球を始めた。ワフー・サムとして知られた彼は何年間もデトロイト・タイガースの大黒柱で、1957年には野球殿堂に入った。クローフォードより11才若いクラレンス・W・アンダーソンは馬の絵で有名な傑出した絵描きになるべく1891年にワフーで生まれた。子供用図書として有名な彼の「ビリーとブレーズ」は今日まで長くアメリカの子供達のお気に入りの絵本である。ハワード・ハンソンもイーストマン音楽学校の作曲家、指揮者として名声を博した。最も有名な人物は初期映画産業の大立て者の一人だったダリー・F・ザヌックである。ザヌックは1902年に生まれ、7年間しかワフーに住まなかったが、ワフー市にとって彼は偉大な英雄の一人だった。ザヌックの名は他の4人とともに、市の入り口の広告板に誇らしげに書かれており、彼の記録はワフーの郷土歴史博物館の人目を引く場所に展示されている。今日でもワフーは、テレビのトークショーのホスト、デービッド・レターマンの架空のオフィースがある場所として少なからず注目を集めている42

 ジョージは後に公的な場所で何度か、ワフーでの生活は退屈ではなかったし実際住みやすかったから教育を受けた後は農民としてワフーに帰るつもりだったと語ったことがあった。今では農場に暮らすことが特権だと知る者も少なく、その特権を得ようとする若者もほとんどいないことを彼は悲しみを込めて語ったりもした43。しかし家族や人々に向かっては、農場へ帰る気はなかったし農場もワフーも好きじゃないと語っていたようだ44。大学に入ると、父CEとルースへの関係は別にして、彼のワフーとの絆はすべて消えてしまった。数年すると、ルースもワフーを離れることになった。近隣の農家にとって便利な存在だった鉄道が閉鎖された後では重要性を失ったワフーで一人になってしまったCEはますます独立心が強く孤独でつむじ曲がりな人間になっていった。

 農場とワフーに対する愛着は失われたが、そこで育ったことはジョージの生涯を通じた遺産として心に刻まれて残った。父のCEはたくさんの辛い仕事と責任を自由とともにジョージに与えたが45、それらすべてが成人後の彼の人生の中核となった。ジョージは、農場や仕事場で学んだ技術をどんなに取るにたらない仕事にでもいつも実際に活用した。生涯を通じて彼は自分と他の人々に対する責任を進んで引き受けたし、複雑な問題には父から受け継いだ強い正義感を持っていつも対処した。それにおそらく、成人後のジョージの人格的傾向は父から受け継いだ性格と母を失った事実で説明できるだろうし、それが常にもの静かで感情的な反応や好き嫌いを明らかな形では滅多に表明しようとしなかった人間ジョージの礎となったのだろう。



1. Ruth Beadle, “An Uncommon Farmer.”非公開メモ, Oct. 1981. RB.
2. W. Cather, My Antonia. 1995. Houghton Mifflin Company, New York, 1918.
3. R. Beadle, “An Uncommon Farmer.”
4. 当時の新聞記事切り抜き, Box36.2, George Wells Beadle Papers. Archives, CIT.
5. 不動産権利登記記録, 1896. Wahoo, Nebraska.
6. Walter J. Beadle. “SAMUEL BEADLE FAMILY, History and Genealogy of Descendants of Samuel Beadle, Planter, Who lived in Charlestown, Massachusetts in 1656 and died in Salem, Massachusetts in 1664.”自費出版1979. The New England Historic Genealogical Society, 101 Newbury Street, Boston, MA 02116所蔵
7. R. Beadle, “An Uncommon Farmer.”
8. Cora BabbittからR. Beadleへの手紙, June 3, 1961
9. J.A. Warren.1908. Small farms in the corn belt. USDA Farmers Bull. 325 (May 9): 5-17. US Government Printing Office. George W. Beadle Paers, CHG.
10. 1862年のホームステッド法で160エーカー(約65ヘクタール)の農地が無償で提供されていた近隣入植者の多くはビードル農場の少なくとも4倍の農地を所有していたが、ビードル農場の生産高は近隣農家のおよそ2倍だった(Plat of Stocking Township, 14 North, Range 7 East, Saunders County, Nebraska, 1907)。1,400ブッシェルものジャガイモの貯蔵はCEにとっては挑戦的だったが、彼はそれまで使っていた古い洞穴に換えてモデルとなる地下貯蔵庫を建設した。サイロの半分は深い溝の土台の上に建てられ、正面にはベルトコンベヤーが備え付けられた。CEの強固な建造物は周囲を草と雑草が覆っているが、およそ1世紀を経た1997年になっても依然としてそこに立っていた。
11. 人民党はそのとき創立10年を越えていたが、すでに忘れ去られつつある存在だった。人民党は農民同盟によって創立され1893年と1894年の旱魃による広範な不作の後では、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンが率いるネブラスカ州民主党の重要な下部組織として栄えた。
12. 不動産権利登記記録, 1903. Wahoo, Nebraska.
13. Laura Mote and Ken Carlson,インタビュー, Wahoo, Nebraska, July 10, 1997; WAHの所蔵写真.
14. ワフー百年史(Wahoo’s Century Round-up: 1870-1970),Nebraska State Historical Society Museum and Library, Lincoln, Nebraska.
15. W. Cather. My Antonia; O, pioneers. 1994. Penguinペーパーバック版. Houghton Mifflin, New York, 1913.
16. ワフー百年史.
17. 同上.
18. Hattie AlbroからGWBへの手紙. 1908. Box 36.3, George Wells Beadle Papers, CIT
19. GWB. 1975. Biochemical genetics: Reflections. Three Lectures. January 15-17, 1975. The Edna H. Drane Visiting Lectureship, University of Southern California, School of Medicine, p.11, CHG.
20. R. Beadle, “ An uncommon farmer.”
21. 同上.
22. Laura Motes, Ken Carlson, and Dorothy Miller, インタビュー, July 10, 1997, Wahoo, Nebraska.
23. R. Beadle, インタビュー, August 14, 1997.
24. Redmond Barnett, インタビュー, July 22, 1997.
25. Dorothy Miller(Lulu Stapleford Millerの義理の娘),インタビュー,Wahoo, Nebraska, July 10, 1997; R. Beadle, インタビュー.
26. R. Beadle, “ An uncommon farmer.”
27. David Bedale, インタビュー,August 13, 1997.
29. E.W.Irish. Soiux City’s corn palaces: 1890, 1889, 1888, 1887. Pinckney Book and Stationery, Chicago, 1890.
30. E.J.Kahn. 1984. The staffs of life, I. The golden thread. New Yorker June 18: 46-88.
31. B. Fussell. The story of corn.
32. D. Beadle, インタビュー, June 27, 1997.
33. The Wahoo Wasp. April 17, 1913: 2, WAH.
34. 最初の10年でワフーにはいくつかプロテスタント教会が建てられた。カソリックの僧侶と教会はチェコからの移民とともに1877年にやって来た。1883年にはスェーデン移民の社会が成長し、ルター派の教会が建てられ、スェーデン語による礼拝が第二次世界大戦の終了まで続いた(ワフー百年史)。ジョージが生まれたときには、ネブラスカ州のおよそ半分の住民は海外生まれの移住者だった。ウィラ・キャザーの小説から窺えるように、アングロサクソン人、チェコ人とスェーデン人のコミュニティーは密着しつつ別れてはいたが、3者の相互依存関係は特に都市部で強くなっていた。
35. R. Smith. 1998. Nebraska standing tall again. Natl. Geograph. Mg. November: 118-139.
36. ワフー百年史.
37. R. Beadle, “ An uncommon farmer.”
38. Laura Motes,インタビュー, July 10, 1997,
39. GWB, “Biochemical genetics: Reflections.”
40. 同上.Bryce Nelson. Corn Patch Laureate. Bulletin of the Atomic Scientists, October 1977, pp. 48-50で引用。
41. George S. Round. GWBとの非公表インタビュー.March 7, 1975. Institute of Agriculture and Natural Resources, The Beadle Center, University of Nebraska, Lincoln.
42. New York Times, October 8, 1997.
43. GWB, “Biochemical genetics: Reflections.”
44. 集合インタビュー
45. GWB, “Biochemical genetics: Reflections.”