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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第10章 一遺伝子一タンパク質

 1941年の夏に輝かしい科学的業績をあげていたちょうどそのとき、ビードルは家族と新しい家に引っ越すことになった。スタンフォード大学が設立されて間もない時代には、主任教授達は大学から借り受けたキャンパス内の土地に家を建てて住むよう勧められていた。しかし時間が経ち彼らが退職あるいは大学を去った今、そうした家々は売りに出されていたので、ビードル一家はキャンパス内に住めると期待した。マリオンとデビッドがロスアラモスの近くの友人宅で夏を過ごしている間、ビードルはしばらくテータム一家から部屋を借りて過ごし、新しい家の購入交渉を開始した。ビードルが選んだ家は、周りに家がない袋小路の奥に位置して研究室へ歩いて通える距離にある日干しレンガ造りで赤いタイルを葺いた傾斜のある屋根をもった、その地域の多くのスペイン風の家のひとつだった。デビッドが思い出して語ったところによると、家から10マイルほど離れたモフェット・フィールド海軍航空基地の上空を停空飛行する防御飛行船が見えたようだ。テータムの家族もビードル達の家からそう離れていないキャンパスの一角に移って来た。

 ビードルの最初の仕事のひとつは、家の前と両側を囲む十分に広い庭を花と野菜のために整えることだった。何処に住もうと庭を造り庭に手を入れるのはビードルにとってなくてならない仕事で、それはおそらく若い頃に好きだった農場生活のひとつの遺産として彼に根付いたものだった。その後の何年間か、庭がもたらす収穫物が戦時の食料不足を補ってくれた。友人や仲間を広い庭のある家に呼ぶことはビードル一家に大きな喜びを与えた。週末には研究室の人間と家族がやって来て、キャンパスで自分の農作業のために確保した畑で育てて収穫したスイートコーンとステーキのバーベキューを楽しんだ。ビードルはトウモロコシを育てて収穫し食べるネブラスカ農民の喜びを決して失うことがなかったし、実際それは人生を通じて変わらない彼の喜びだった。研究室の学生達もしばしば庭にやって来て 「農作業」 を助けたが、それで労働の報酬として収穫物を持って帰る権利を手にすることができた。マリオンは女主人と料理人の役割を楽しみながら、どちらもうまくこなした。彼女は特に 「ハウスワイフ」 としての役割を楽しみ、デビッドが研究室の皆と知り合いになる機会を歓迎した。

 研究室での毎日は忙しく和やかだったが、それは大学院生とポストドク達が活き活きとして気心の通じた仲間だったからである。実験に必要な骨の折れる仕事のほとんどを行う学部学生達は研究室グループの大事な一員であると見なされた。しかし、仕事ばかりで遊びのない毎日は研究室の努力をむしろ腐らせがちであることをビードルはよく心得ていた。それで時々はグループの皆を誘って早朝に丘へハイキングに出かけて、そこで火を焚いて揚げ卵サンドイッチを作ったりした"。時には実験台で仕事中のグループに研究室の一時 「休暇」 を宣言して、海岸部まで10マイルの自転車旅行に誘うこともあったが、そんな時にはビードルはハンドルにスイカをぶら下げて自転車を漕いだ。マリオンは自転車をもたない学生と全員のランチをフォードのロードスターで海岸まで運んだ。彼女は、年に一度のハロウィーン・リンゴジュース・パーティーと頻繁に催したバーベキュー・パーティでは、親切だが控えめなホステスだった。毎週金曜日の午後に開かれた研究室のティー・パーティーではマリオンのケーキの差し入れがあり、この時間は1930年代初めのカルテックでモルガンが発揮した精神を引き継いだ研究ミーティングの役割を果たす集いの時だった。ビードルは、モルガンの習慣を引き継いで、集まったグループ皆に興味のある手紙や小論文を読んで紹介した。

 ビードルとアドリアン・サーブには、コーネルでビードルがエマーソンとの間で楽しんだ関係とよく似た特別な関係が育まれた。助言者と学生の間の絆とは別に、彼らはテニス、幅跳び、トウモロコシ作りなどで活発な競争を楽しんだ。ビードルに競争を挑んだ誰もが経験したことだったが、ビードルには相手に手心を加えるようなことが全くないことにサーブはすぐに気がついた。どんなゲームであろうと勝つことが重要だったが、ゲームは誠実に公正になされなければならなかった。競争することと勝って一番になることはおそらく科学的野心においても彼の重要な駆動力だったが、一番になり損ねた時には正直さと度量が彼を慰めた。

 サーブの家族は生物学部の研究室に近い実験用のトウモロコシ畑にある小さなキャビンに住んだ。ビードルは全く気兼ねなしに、サーブの家族がまだベッドで寝ている早朝にキャビンを訪ねて中に入り込み、産まれてまだ数ヶ月の彼らの娘を背中のパックに背負ってトウモロコシを見に畑に出るのが常だった。マリオンも社会科学の大学院生だったジョーが訪ねてくるのを喜び、時々は一緒に太平洋に面した近くの海岸へ魚釣りに出かけたりした。

 戦争が始まり、通常は男性が従事する活動を女性も支援する必要から、マリオンは地域の自動車軍団で運転手のボランティアとして奉仕した。加えて彼女はますます大学と近隣社会の活動に時間を割くようになった。魅力的で知的で社交的な彼女はすぐにスタンフォードの多くの教員夫人達と友人になることができた。ビードルが英語の教授でスタンフォードの古典英語の権威だったウォルター・メリットと近しい個人的関係を築くことができたのは、ひとえにウォルターの妻のコニーとマリオンの間の友情のお蔭だった。メリットはビードルが遺伝子と酵素について語る能力に畏敬の念を覚えたし、一方でビードルはメリットのベオウルフを暗唱する能力に驚嘆するほどの魅力を感じたから、彼らの友情は一層花開くことになった(注:ベオウルフは8世紀初めに書かれた伝承英文学最古の古英語の叙事詩)。メリットはビードルがスタンフォードの生物学部門以外の正教授のうちで得ることのできたただ一人の友人だった。しかし、マリオンの自分本位で他人より優位に立たないでは気が済まない性格がついにはコニーを遠ざけ、二組の夫婦の関係も冷めて終焉を迎えることになってしまった。ビードル一家と近隣のカールトン・ルイス夫妻との近しい関係もマリオンの勝手で気まぐれな性格から壊れてしまった。彼女の常に自分の優位を保とうとする性格が繰り返し人間関係を気まずいものし、彼女とビードル、デビッドとの関係にもそれは暗い影を落とした。そうするうちにビードルとマリオンの関係は緊張の度を増し、ビードルの家族生活からの逃避が顕著になった。二人の関係は時間が経つにつれて一層険悪になるばかりだった

 デビッドは、少なくとも大人から見ると、恥ずかしがり屋で不幸だった。彼は後に、母の高圧的な態度によって父と近しい関係をつくることができなかったのだと語っている。学校生活がうまく行かないことに落胆したビードルは12才のデビッドをロスアンジェルスに近い砂漠にあるメッカの寄宿学校に一人で送ることを決断した。この頃、マリオンは不明瞭な目的の度重なるメキシコへの長旅を始めた。マリオンがいない時にだけデビッドは研究室に父を訪ねることができたし、友達を家に呼んでバーベキューをしてもいいのだと感じることができた。こうした父と息子だけの一対一の状況では、例えば配管工事のボランティア仕事に参加してボーイスカウトの功労バッジをもらいたいと願ったデビッドの熱意にビードルが協力するまでに二人の関係は回復することができた。デビッドは父の研究室を訪ねて顕微鏡を覗き、ハエの腹部に第3の眼が生えているのを見たことをよく覚えている。デビッドは、父は概して感情の起伏が穏やかな人間だったけれど、動物をいじめることは決して許さなかったことを小さい頃から学んで知っていた。自分が無慈悲に動物を傷つけたあるとき、父の機嫌が 「まさに爆発した」 ことをデビッドは忘れなかった

 日本軍によるハワイ真珠湾の攻撃と合衆国の第二次世界大戦への参戦は大学の状況を著しく変え、ビードルの研究計画にも大きな影響を与えた。加速化する戦争への取組を強化する必要性に応えるために、スタンフォードは学年歴を3学期制プラス夏休みの現状から、講義が朝の7時30分に開始し夜の11時30分まで続く1年を通した4学期制のスケジュールに変更した。新しいコースが幾つかできたが、現存する研究課題のいくつかは、より直接的に戦争遂行努力へ貢献できるような内容に修正させられた。重要な教員達がワシントンに新設された政府機関で職に就くためにキャンパスから消えた。空襲の危険に対応するために空襲監視義務を担うことになったビードルは必要な訓練を受けるためにキャンパスを暫く離れることになった。半年後にはスタンフォードのキャンパスは軍隊の用地に変身していた。ビードルの圃場の裏を軍隊と軍用自動車の行列が隊列をなして行進するのも珍しいことではなかった10。大学生活に付随した活動でも例えば男子学生の学友会であるフラタニティーや大学間対抗スポーツなどには停止命令が出された。ビードルが新たに雇用した学生や研究フェローがスタンフォードに顔を見せた1942年中頃までには既に、陸軍、海軍と海兵隊の訓練生が学生自治会を凌駕していた。

 多くの若者が高校卒でボランティアや軍隊に招集された。軍隊に接収されていた大学の本部建物のエンシナ・ホールは軍事郵便物の交換の場で、そこでは無料でハーシェー・バーがもらえるから子供達が好んだたまり場だったことをデビッドは覚えていた11(注:ハーシェー・バーは合衆国で有名なミルク入りの板チョコ)。およそ4,500人の陸軍、海軍、海兵隊と臨時の女子陸軍部隊に加えて学生団体の長と新聞編集長を含む2,100人の一般学生がキャンパスにいたが、そのうち1,400人は女子学生だった。戦争が混乱をもたらす前は基本的に健全だった大学の財政状況は予算不足状態に陥り、戦争が終わった後も長い間大学活動を阻害した。遺伝学は男子学生の興味の対象ではなく、ビードルの講義を受講する学生の大半は女子学生で、僅かに医学部を目指す男子学生が時折いるだけになった。

 それでも厳しい戦争のニュースもビードルとテータムの大発見が遺伝学の研究共同体にもたらした興奮を打ち消すことはなかった。カルテックでのセミナーの数週間後に、ビードルはテキサス州ダラスで開かれたアメリカ科学振興協会(AAAS)の会議で自分とテータムの発見を報告した。会議から帰った人々は新しい方法論に対する並外れた熱狂の様子を回りの人々に報告した。マラーはビードルの報告を 「ダラスでの最も重要な出来事のひとつだった」 と断言したし、遺伝学の開拓者の一人であるシューアル・ライトは 「ショウジョウバエの唾液線染色体の発見以来の遺伝学における最も重要な発見であると評価する」 と述べた。エフルッシは会議のベスト論文賞として1,000ドルがビードルに授与されなかったのは残念だったと手紙で伝えた12。それでも、実験的アプローチと実験から得た推論の両方に懐疑的な研究者も依然としていた。ビードルは後にこれを回想して、議論の時に一人の科学者が立ち上がり、ビードルとテータムが信じられないほどに勤勉であったか、あるいはその結果を信じないとおそらく言うつもりで、私は懐疑的にならざるを得ないとコメントしたことがあったと語った。ビードルは自分達の仮説が彼には間違いなく余りに単純過ぎたのだと受けとったようだ13

 その間、研究室は大いに活気づいていた。 「突然変異体の探索部屋」 から溢れ出る新しい突然変異体の洪水に誰もが驚き、30年近くも前のモルガンのハエ部屋から生まれ出る新しい突然変異体が与えたのと同じ程の畏敬と不思議の念を皆に呼び起こした。ビードルはスターリング・エマーソンに、 「アカパンカビの突然変異が次から次へと現れて、これではついていけない」 と伝えたほどだった14。ビードルは、国家が戦争遂行努力に取組むためにタンクや爆撃機の大量生産方法を組み立てるのと同じように、実験手順は効率的に組み立てられなければならないと思っていた。当時キャンパスにいた大半の学生は女子学生だったが、彼は彼女達を雇用し訓練して栄養要求性に関する突然変異体と推定できるアカパンカビのスクリーニングと突然変異が染色体の特定部位に生じたか否かを決定するために必要な試験の実施を担当させた。

 ビードルには初めから、アカパンカビの突然変異体は当該突然変異体が要求する物質の生物検定に使えるという確信があった。ピリドキン(ビタミンB6)を合成できない突然変異体の分離を記述した最初の論文で、ビードルとテータムはピリドキシンを欠いた培地では6日経っても菌糸体の重量は僅かに増加するだけであったとする結果を報告した。培地により多くのピリドキシンを加えると、同一の時間が経過した後の菌糸体の重量は加えたピリドキシンの量にほぼ比例して増加した。明らかに、ある試料中のピリドキシンの量はそれが支える菌糸体の生長量から推定できることになる。多くの類似物質または関連物質の内ただひとつの化合物が突然変異体の特定の要求性を代替できるとすれば、その化合物の生物検定は、たとえ試験に供される試料が不純物を含むものであっても、極めて正確な判定となる。突然変異体が特定の天然物と代謝的あるいは化学的に関連した物質群を成長に利用できる場合には、検定の特異性はもちろん妥協的で不正確さを欠くことにがなるが。ホロウィッツとビードルはこの検定法を細胞内の脂質の成分であるコリンの様々な食品試料中の存在量の測定に利用する手法を開発した。この過程で、彼らはコリンの代わりにアミノ酸のメチオニンを加えてもコリン要求性突然変異体が正常に生育できることを発見した。アカパンカビでは、ヒトを含む多くの生物と同様に、コリンとメチオニンは代謝的に関連しているからである(注:コリンとその代謝産物は細胞膜の構成成分および細胞内シグナル物質としての働きの他に神経伝達物質であるアセチルコリンの前駆体として、さらにトリメチルグリシン、メチオニン、S―アデノシルメチオニンを介した細胞に必須なメチル基の原材料として重要な栄養素である)。幸運なことに、コリンとメチオニンは容易に分離し識別ができたから、広範囲な食品試料中のコリンの存在量を正確に評価することが可能であった15。ビードルには国家で供給される食料の栄養価を評価できることは戦時下にあって大きな商業的価値を持つことが分かっていた。食品産業と特に医薬品産業がこの新しい方法を自分達の研究プログラムに応用することに熱心だったので、ビードルは彼らの興味をさらに駆り立てるために彼らを研究室に招いて現場経験の機会を喜んで提供した。

 ビードルは自分の性格から、厄介な菌糸体の重量測定に依存して突然変異体が必要とする特定栄養素を決定する現状の方法に満足できなかった。もっと手早い方法はないかと彼は考えた。アカパンカビは菌糸の先端を伸ばして成長するのだから、菌糸体の塊の先端部分が水平なガラス培養管の半分だけ埋めた寒天培地の上を伸長する速度を測定すればよいことに彼は気がついた。ガラス細工には自信があったから、ビードルは後に 「競争試験管」 と呼ばれることになる実験器具を考案して作り上げた。実際には、彼は内部の直径がおよそ半インチで長さが15-20インチのガラス管を作り、培養時には先端の折り返しの着いた開口部分を綿栓で遮蔽して用いた。開口部の内側の寒天培地に少量の菌糸を移植し、適当な時間間隔で伸長する先端部分の位置を記録した。伸長する先端部は驚くほど明瞭で、その位置はミリメーター単位で決めることができた。野生型または突然変異型のアカパンカビを完全培地に移植すると、菌糸の先端は一定の速度で伸長した。一方、例えばピリドキシンを含まない最小培地にピリドキシンを合成できない突然変異体を移植すると、菌糸の先端伸長は見られなかった。培地のピリドキシン量を増やすと、培地中のピリドキシン量に応じた速度で菌糸の先端部分がチューブに沿って伸長した。同じ方法で、アカパンカビの突然変異体が要求するどんな物質であってもその要求量を測定することができた16。生物検定のこの改良版はビードルが工夫したものだったが、競争試験管法の変数と条件を分類し整理して結果の再現性と信頼性を確かにしたのは全米研究評議会フェローのフランシス J.・ライアンだった17。ライアンはニューヨークのコロンビア大学で両生類の発生研究に関するPh.D.論文を完成し、スタンフォードへ来てウィッタカーの研究室で一年間、海生無脊椎動物の胚発生を研究していた。だがアカパンカビのまだ初期段階の実験結果を聞いただけでその意味するところを理解したライアンは、衝撃を受けて研究室を変える決断をした。さらに、アカパンカビの有用性に夢中になったライアンは、彼の研究の最初の恋の相手だった発生学を諦めて、コロンビアへ戻るとすぐに自分自身でアカパンカビの栄養要求性突然変異体の収集に乗り出した。新しい研究室に落ち着くまで彼は、速やかに新しい突然変異体が生み出されているタンフォードの研究室での状況に驚き羨ましく思っていた18。ビードル自身も栄養要求性突然変異体の探索がこれほどのスピードで進んだことに吃驚していた。彼はエフルッシに自慢して、 「私達のところでは今10人がアカパンカビをあれこれ弄っています。突然変異体がかなりの速度で見つかるのでとても消化しきれないほどです」 と伝えた19。ライアンが研究対象に選んだひとつの突然変異体はリジン要求性で、A. H. (Gus)・ドールマンがPh.D.取得のために使っていた突然変異体と同じものだった。ビードルは、学生の独自性と主導権を守るために、ライアンに穏やかな忠告を与え、仕事については常にドールマンに情報を提供し二人の発見は同時に公表する可能性を探るように促した20

 ホロウィッツにとっては1942年から1946年までのスタンフォードでの年月はまさに 「科学的なパラダイス」 で人生のもっとも刺激的な時間だったが、研究室の誰にとってもそうであったに違いないと彼は思った。 「アカパンカビの大発見の前には、遺伝学と生化学を統合するアイディアを支持する観察結果は僅かな分散したものでしかなく、それは単なる夢に過ぎなかった。しかし今や生化学遺伝学は実体のある全く新しい科学になった。信じられないことだが、それを行う特権が私達に与えられているのだった。毎日新しい予想外の結果と新しい突然変異体や現象が発見された。その頃は誰もが毎朝、今日は一体どんな興奮が得られるかワクワクしながら実験室に出かけたものだった。」 21

 ビードルと研究仲間は、新しい遺伝学の時代の幕開けが明らかになり今や遺伝子を酵素と酵素が触媒する代謝反応により直接的に関連づけることが可能になったのだと理解した。遺伝学はもはや 「モルガン学校」 で始まり重要視された焦点、すなわち世代から世代へ遺伝子が伝達される仕組みと様式を調べる実験に限定される学問分野ではなかった。それでもまだ、ビードルも当時の他の誰にも、こうした実験が遺伝学を抽象的な段階から分子を対象とした新たな出発への先駆けとなると予見することはできなかっただろう。

 栄養要求性突然変異体とそれがもたらした新しい結果は何を意味し、どのようにして遺伝学と生化学の 「結婚」 を急がせることに繋がったか?最大の意義は、特定の単一遺伝子の変化が原因となって生じる特定の栄養要求性をもった突然変異体の数と種類が爆発的に増加したことだった。アカパアンカビの個々の遺伝子はそれぞれひとつの代謝反応を制御する、これが予備的だが合理的な推論だった。しかし、一組の遺伝的に区別できる突然変異体が同一の栄養要求性を示す場合もあった。この明らかな変則的結果の原因を究明するために、サーブとホロウィッツはそのような例のひとつを丹念に調べた22。彼らは生育の欠損がアミノ酸の一種アルギニンで回復する15の突然変異系統を解析した。彼らは15系統間で可能なすべての組み合わせを交配して得た子孫と、系統それぞれと野生型との交配で得た子孫および二つ一組で各系統の菌糸を融合させて得たヘテロカリオンの栄養要求性を調べることによって、7系統は遺伝的に異なっており残りの8系統は初めの7系統のいずれかと同じ遺伝子に生じた突然変異であることを明らかにした。3つの方法のそれぞれは突然変異が同じ遺伝子あるいは別の遺伝子に起こったものか否かを決める独立な検定法である。アルギニンと構造的によく似た化合物に対する生育反応は特に興味深い情報を与えた。ひとつの突然変異体はアルギニンだけに反応し、二つ目はシトルリンかアルギニンを与えると正常に育ったが、残りの4つはオルニチンでもシトルリンでもアルギニンでも同じように育った。おそらく、これら4系統の突然変異体ではオルニチン合成に至る異なる反応経路のどこかがブロックされているのだろう。サーブとホロウィッツは、オルニチンとシトルリンはアルギニン合成のおそらく前駆物質だという動物におけるアルギニンの代謝分解に関する情報から、アカパンカビについても正しい推論を導いた。

Fig_1


 この解釈は、アルギニンにのみ反応する突然変異体を少量のアルギニンを含む培地で育てるとシトルリンが培地に蓄積することを発見したことで、その確からしさが補強された。突然変異体7でブロックされた反応がアルギニンの直接の前駆物質であるシトルリンの蓄積をもたらしたと考えられた。同様に、シトルリンで育つ二つの突然変異体5と6のどちらもシトルリンを補給しない培地ではオルニチンが蓄積した事実から、突然変異体5と6はどちらもオルニチンをシトルリンに変換できないことが示唆された。サーブとホロウィッツはアルギニンの代わりにオルニチンで育つことができる4種類の突然変異体を得ていたから、彼らはオルニチンの合成にはおそらく少なくとも4つの個別な反応が関与していると結論できた。彼らは、アカパンカビではアルギニンはシトルリンを経てオルニチンから作られると結論したが、これは哺乳動物が同じ目的で使う経路と一致していた。

 サーブとホロウィッツの推論をさらに進めてビードルは、 「生合成の経路が生化学遺伝学の方法で始めの無機物質まですべてを逆方向に辿って決められない特別の理由はない」 と確信した23。原理的には正しいが、実はこれはほとんど現実的ではなかった。オルニチンの合成に導く反応がブロックされた突然変異体は、例えば経路中でオルニチンより手前の中間産物を測定可能な量だけ蓄積することはなかった。そのうえ細胞が培地から代謝中間体を吸収することができない場合があって、そのような代謝中間体はそれらがもつ突然変異体の生育を支える能力をもとにした方法で検出されることはおそらくない。現在では、オルニチンの生合成には5つの反応が含まれること、そのうち4つの反応はサーブとホロウィッツが同定した遺伝子によって特定されることが分かっている。

 今や突然変異の 「製造ライン」 だった 「突然変異体探索部屋」 は、生育にトリプトファンを要求する約30の突然変異体を見つけた。ボナーがこれらを調べる仕事を引き受けた。広範な試験にも関わらず、彼は二つの遺伝的に異なる系統しか見いだせなかった。トリプトファンを与えれば生育可能であることを別にして、一組(突然変異1)はインドールで正常に生育したが、インドールと化学的に類似した一群の化合物のどれもこの突然変異体群の生育を回復しなかった。インドールを要求する突然変異体群を少量のインドールで育てると、それらはインドールやトリプトァンを代替して別の突然変異体群の生育を可能とするある化合物を蓄積した。この化合物は芳香族アミノ酸の一種でビタミンL1とも呼ばれるアントラニル酸だった。アントラニル酸はトリプトファン合成経路の中間体である可能性が高い。突然変異体の中にインドールで生育できるがアントラニル酸では生育できないもの(突然変異1)があった事実から、インドールとトリプトファンはアントラニル酸から合成されると考えるのが妥当だった。

Fig_2


 ではインドールはどのようにしてトリプトファンへ変換されるのだろうか?細菌におけるトリプトファン合成経路の研究からヒントを得たテータムとボナーは、アカパンカビがインドールとセリンをトリプトファンに変換できるか調べてみた。すると予想通り、インドールはセリンが存在すると急速に失われ、ほぼ同量のトリプトファンが合成された24。今では私達は、インドールとセリンからトリプトファンを合成する反応は一段階で起こることを知っている。そうだとすると、この反応がブロックされた突然変異体(注:突然変異2)が見いだせなかったのは何故なのかという疑問がわく。同様に奇妙なことは、アントラニル酸の合成とインドールへの変換には明らかに異なる複数の反応が含まれているにも関わらず、インドールで育つ突然変異体がただ一種類しか見いだせなかったことだった。今日では、変異体の内にはインドールを細胞内に吸収できないものがあること、インドールに至るいくつかの代謝中間体も細胞に吸収されないことが分かっており、従って実験で別の突然変異体として検出できなかったのであろう。

 1944年始めまでに得られた結果の全てが、単一の突然変異が単一の反応に影響を与える、すなわち一遺伝子一代謝反応の関係が存在するという見解を支持していた。時折、特性あるいは行動が変則的であるか、またはこの単純な見解に合致しない突然変異体が見つかることがあったが、そのような変則的な突然変異体のひとつは、生育のために2種類の栄養素を要求する、すなわちどちらかひとつでは生育できないような突然変異体だった。この種の突然変異体のひとつは、野生型の親と比べてひとつの遺伝子が異なっているだけだったが、バリンとイソロイシンを同時に要求した25。バリンとイソロイシンは構造的に極めてよく似ているから、突然変異は二つのアミノ酸の合成に共通なひとつの反応に影響を与えるのだろうとボナーは考えたが、実はもっと複雑な反応であることが分かった26。この特別の突然変異ではイソロイシン合成の最終段階がブロックされていたが、この事実は突然変異体のイソロイシン要求性と合致していた。しかしなぜ、バリンを同時に要求するのだろうか?判明した事実は以下の通りだった。イソロイシン合成の阻害は、予想通りイソロイシンへ変換される化合物の蓄積をもたらしたが、この化合物はバリンの合成をもたらす極めてよく似た反応も阻害した。従って、ひとつの突然変異が二重の栄養素要求性をもたらす原因は、ひとつの反応段階が遺伝的に阻害された結果として蓄積した中間産物が別のよく似た反応を阻害することであったと説明できた。実は、他にも一遺伝子一生化学反応の一般化に挑戦すると見えた変則的な発見があった。そのうちのひとつは、単一遺伝子に起こった突然変異が、二つのアミノ酸すなわちスレオニンとメチオニンに対する二重の栄養要求性をもたらしたことだった。この突然変異体ではスレオニンとメチオニンの共通前駆体であるホモセリン合成が突然変異によって阻害されることが原因であると説明された。

 アミノ酸ではなくビタミンを合成できない突然変異体も見つかった。水溶性のビタミンB複合体のひとつであるナイアシンの合成経路が阻害されていると思われた突然変異体は、ビードルがエフルッシとともに以前に行ったショウジョウバエの仕事で見いだした代謝中間体を含むものだった。ナイアシンを要求する遺伝的に明確に区別できる3つのクラスの突然変異体が見つかった。説明のために、これらを突然変異1, 2, 3と名付ける。ボナーは 「ケミカルライブラリーに記載されている」 多くの化合物を試験したが、ナイアシンに代わって3群の突然変異体の生育を可能とするものが見つからなかった。しかし、少量のナイアシンで育てた突然変異体2が、突然変異体1の生育を助けるが突然変異体3の生育は助けないある化合物を蓄積することが分かった。この結果は、化合物Bが突然変異1によって阻害される化合物Aの後段で、突然変異3で阻害される化合物Cの前段で合成されることを示唆した。

Fig_3


 これは、エフルッシとビードルがショウジョウバエのv物質とcn物質の形成に関わる反応経路として考えたものと同じ論理的予想だった。ボナーはスタンフォードでは化合物Bの同定に失敗したが、イェール大学へ移った数年後に、完全な経路には3つ以上の反応が含まれることを発見した。全く予想しなかったことだが、トリプトファンがナイアシンの代謝前駆体で、連続的に化合物A(N-フォルミルキヌレニン)、B(キヌレニン)、C(3-ヒドロキシキヌレニン)に変換されること、BとCはショウジョウバエの眼色素の合資に含まれるv物質とcn物質であることが分かった。それぞれ別の遺伝子で支配される複数の別の反応が3-ヒドロキシキヌレニンをナイアシンに変換する。

 彼らのグループは核酸の構成物質の形成や脂肪と炭水化物の代謝に影響を与える様々な反応を阻害する突然変異も見いだした。 「確かに、ビードルとテータムのチームは、数世代の生化学者達がそれまでに伝統的な方法で集積して来た生化学的な反応経路よりもっと多くの経路に関する知識を短時間で生み出した」 27。研究室の努力の歩調が1942年の中頃から1944年の終わりまで順調に進むにつれて、突然変異体を生み出し確認しその性質を明らかにするためのより効率的な研究組織の基盤を構築する必要性がますます高まった。膨大な数の胞子培養を放射線処理して突然変異体の検定を行う必要があった。無数の交配とヘテロカリオンの作成には膨大な手間と時間がかかった。 「もっと多くのテクニシャン」 がこの決まりきった所定の仕事には必要だった。研究室はまるで誰が最も面白い突然変異体を探すかに関していつも競争状態におかれたある種の工場だった」 とビードル自身が述べている28。ビードルとともに遺伝学に関係した仕事をするグループは迷路のような実験室の一方の端に陣取り、突然変異の表現型効果を分類するテータムのグループはもう一方の端に陣取っていた。それぞれの研究グループの活動場所は物理的には分かれていたが、グループ内でもグループ間でも 「何か興味のある事実を見つけたら、皆に伝えなさい」 が長く当然のこととして受入れられていた29。新しい発見はすぐに共有することをモットーとした 「モルガンのハエ部屋」 とコーネルのエマーソンの 「ホール」 のやり方が身にしみ込んでいたビードルは、起こっていることを常に誰もが共有する価値を高く評価していた。

 研究室で日々生み出される最新情報を皆が共有している状態を維持するためにビードルが用いた方策は毎日のティータイムだった。特別の言い訳がある場合を除いて全員の参加が求められた。仕事の進捗状態によっては 「新しいスタッフ」 の報告もビードルは熱心に聞いた。テーマは誰がどれだけの突然変異体を見つけたか、新しい結果の発表と議論またはビードルが選んだ話題について学生がセミナー発表をすることもあった。ビードルはしばしば頻繁な質問を発するグループを招待して、彼らが提起した科学的問題について議論した。彼にとって毎日のティータイムは、無責任なやり方だと考えられる研究室での違反行為に対してグループに 「譴責を申し渡す」 機会でもあった。グループが責任を負うべきビオチンがアカパンカビの胞子で汚染されること、冷蔵庫の中で食べ物をカビの培養と一緒に置くこと、混雑した実験室での一般的な不注意などは間違いなくビードルの怒りを買った。怒りが燃える上がる時には必ずその根拠があった。彼は厳格だったが公正で、皆が問題を理解してしまえば、それ以上拘ることはなかった30。自分達に落ち度があるときでもビードルがいつまでも拘泥しないことを誰でも知っていたから、皆は概して困惑もしなかった。学生達が期待できたことのひとつはビードルの感情表現が率直なことだった。 「怒れば私達を酷く非難するけれど、言いたいことを言ってしまえばそれで仕舞い」 だった31。そうした態度は、息子のデビッドがまだ小さかった頃、ビードルにとって強い思い入れの対象である何かについて違反があった時に父としてデビッドに見せた性質そのものだった。

 ビードルはいつも厳しい仕事を課す人で、旅行で研究室を留守にする前には自分が帰るまでに何か新しいことを見つけるよう懸命に働くことを皆に強要した。生産的でない学生にはビードルが無関心になることを彼らはすぐに悟った。ビードルにはお気に入りの学生があったが、人気番付のトップにいた者も努力を怠ればすぐに最後尾に評価がさがることを誰でも知っていた。発見には決まって興奮するビードルには、はやる思いを自分と共有しない学生を理解することができなかった。生涯を通じて彼は大きなチャレンジに興奮し、他の者にも同じように成功への意欲に駆り立てられることを期待した。研究室で過ごす時間が少なくなり、多くの時間を旅行や資金集めに使うようになっても、グループをまとめて研究活動を運営するビードルのやり方は皆に高く評価された。

 アカパンカビの仕事を続ける間、ビードルはスタンフォードに来た当初から担当したコースの講義を通じて学生達に教え続けた。それはテ−タムと一緒に書いた教科書を用いた一週間に2回の講義からなる一般遺伝学のコースとショウジョウバエを主な実験材料に用いた週5時間の実験コースだった。特別なトピックスに関する上級コースを隔年で担当して独自な実験課題を実施する機会も学生達に提供した。実験室での仕事に手一杯な時ほどコースを履修する学生達と過ごすことで緊張をほぐしているように見えた。講義が終わるとビードルと学生達は中庭を避けた場所に集まってタバコとお喋りを楽しむことも少なくなかった(中庭での喫煙は禁止だった)。それに教授と学生のあいだの公式な緊張関係をほぐすことができるとおそらく考えたビードルは、一つには競争自体を楽しむためでもあったが、時々学生達を立ち幅跳びに誘うこともあった。ビードルが若い学生達を相手にどれだけうまく飛んだか、残念だが記録は残っていない32

 研究とますます大きくなる世帯に注意を払う必要に加えて旅行の頻度と期間が増えるに連れて、ビードルのマリオンとの関係は綻びの度をました。ビードルの人生は余りにも仕事で覆い尽くされており、クリスマスの夕食を終えると研究室に戻るほどで、それがマリオンとデビッドに与える影響に思いが及ばなかった。しばしば彼は早朝に朝食もとらずに研究室に行き、夕食時をとうに過ぎても家に帰ろうとしなかった33。結婚当初からマリオンは音楽、芸術と文学に強い興味を抱いていたが、一方ビードルは研究以外の知的な趣味を含むどれにも無関心で、これが二人の諍いの種であった。マリオンはいつもビードルの芸術と文学への無関心をなじった。ビードルとマリオンの間の亀裂は広がったが、どちらも自分達の問題を一緒に話し合おうとはしなかったようだった34。ビードルは何かを成就しなければ気が済まない人間、今日の言葉で言えばワークホリックで、反対にマリオンは慢性的に自分の能力を十分に発揮ができない性格で、実際に自分が立てた目標の達成に失敗することが多かった35。彼らにはデビッドを育てること以外に共通点がなく、悪いことにそれさえも争いの種となった。学生のいる前で口喧嘩が展開されることさえあった36。研究室に長時間滞在することで、ビードルはマリオンの感情的な反応と直面することで困惑したり互いに罵り合ったりすることを避けることができた37。寄宿舎で離れて生活していたデビッドも、日々の家族の絆としての役割を果たすことができなかった。デビッドは、何十年も後になってその当時を思い出して、父は母の感情だけでなく間違いなく自分の感情さえ理解していなかったと語っている。意図してか、学んでか、天性か、いずれにしてもビードルの感情は抑制的だった。彼の家族に対する関係は感情ではなく理性が支配していたようで、自分と他の人間の感情は自分がすることに最小限の影響しか与えないかのように振る舞うことが多かった。研究室ではマリオンとデビッドの問題に直面する必要がなかったが、そのような状態に身を置いていれば自分で全ての責任が取れたのだった。

 研究室の中核的なメンバーの誰も戦争遂行努力を目的に研究室を離れる者はなかったが、1942年夏を過ぎる頃には、この先どれだけこの状態が続くのかビードルは自信を失った。事実、ビードルが補助的研究資金の検査を毎年実施するようロックフェラー財団に求めたのはそれが理由だった。彼は栄養学分野の訓練と技能は兵役よりは戦争遂行努力により貢献するという理由をつけて、栄養機構の支援を受けている学生達のために徴兵の延期を勝ち取ってあげた。ビードルがボナーの兵役について徴兵委員会に手紙を書き送り、ボナーの仕事は 「戦争努力と市民福祉」 にとって掛け替えがないと訴えたことでボナーの徴兵は延期された38。しかし有望な大学院生の一人のドールマンに関しては、ビードルが提出した徴兵延期願いが地域の徴兵委員会によって却下され、入隊が近いことが通知された。それでもなおこれを阻止するためにビードルは地域徴兵委員会と州の控訴局に折衝して、ドールマンの仕事の価値は事実上の戦争努力に利益を与える旨の証言をしてくれるようロックフェラー財団のハンソンに訴えた39。ハンソンはビードルの訴えに即座に対応したが、財団は徴兵委員会の行動に干渉しないという方針を既に採用しているが彼の応えだった40。ビードルは財団の 「知恵」 を認めざるを得ず、研究を続けるのならば応用研究にもっと注力する必要があることを痛感した。融通が利かない政府契約の不便さを回避したいとは思ったが、人員の雇用と物品の購入の必要性から生じる窮状はいよいよ危機的な度合いを増していると認めざるを得なかった。そこで彼はビタミンおよびアミノ酸検定法の開発について提携先を探しているのだとハンソンに窮状を何度も訴えた41

 交渉は不調に終わったが、その代わり、戦争によって創設された科学研究開発事務所(OSRD)の関連機関のひとつ医学研究委員会(CMR)から予期しなかったより重要な褒美がビードルに与えられた。委員会のA. N.・リチャード博士から、 「戦争遂行努力へのより直接的で実際的な利用が見込まれる他の研究が優先されるべきではあるが、貴殿の研究は十分な基礎的重要性と潜在的な実用性を兼ね備えており中断されるべきではないと判断する」 としたCMRの決定がビードルに伝えられた。委員会の決定では、政府との研究継続の契約がなければ研究室職員の懲役延期を約束することはできないとされたが、リチャードは 「貴君の研究室の誰であれ、不可欠で代替がいないことを証明できる職員については、貴君からの要求があれば、私達はOSRDのもつ全影響力を行使するよう全力でことに当たりましょう。同じように、高い優先権が必要な重要案件については、私達は全力で貴君を支援するでありましょう」 とビードルに確約した42。こうして頭を悩ましてきた問題が解決され、研究室の基礎的研究計画を進めて結果を自由に公表することができるようになった。

 更に追加的な資金提供を求めて、ビードルはフィラデルフィアのメルク・シャープ&ドーム(MSD)研究所のA. D.・ウェルチ研究部長と会った。ウェルチは、既存のアカパンカビ突然変異体のいくつかと可能なら新たな突然変異体を対象にペニシリン生産能力を調べて見たらどうかとビードルに提案した。うまく行く蓋然性は小さかったが、やって見る価値はあると考えたビードルは、ハンソンへのメモで、ペニシリンはアカパンカビのある反応経路の正常な代謝中間体だから、その経路を突然変異によって遮断できればペニシリンの蓄積が見られるはずだとの推定に基づく理論的な考察を伝えた。突然変異が新しい性質すなわちペニシリンの合成能を付与する可能性はありそうもなかったが、当該計画は研究室の主要な仕事の障害にはならないうえ、一人のテクニシャンで数ヶ月あればできると請け合うことで、ビードルはハンソンから計画遂行への賛同を得ようとした43。数週間後に、MSDはビードルの申請を受入れ、テクニシャンを一人数ヶ月間雇用する費用として600ドルの提供を約束した。そうするうちに、ビードルには予想外だったが、戦争生産委員会からペニシリン生産菌のアオカビ(Penicillium notatum)を遺伝的に改変してペニシリン生産能力の向上を図ることが可能かどうか調べるよう依頼を受けた44。ペニシリンは戦傷による感染症の治療に極めて有効なことが分かっており、北部ヨーロッパ侵攻が直前に迫った今では、その生産力の向上が急務だった。アオカビはアカパンカビよりはペニシリン生産のための良い材料だと考えられたので、ウェルチとハンソンは戦争生産委員会からの仕事を受けたビードルの決定を了承した。この仕事を主導する責任を負ったボナーは、現存の系統より高レベルのペニシリン生産能力をもつ突然変異体の探索に集中し、アカパンカビと同様な栄養要求性突然変異体の選抜も同時に実施した45。彼は適度にペニシリンの生産レベルが増加した突然変異体の取得には成功したが、別のグループがより生産性の高い系統を発見したことで、残念ながらこのプロジェクトは停止が決まった。最良の系統はコールド・スプリング・ハーバーのミリスラフ・デメレックが作ったP. chrysogenumの突然変異体だった46。ペニシリンの仕事は事実上、ビードル研究室が手がけた仕事のうちで戦争に直結した唯一のプロジェクトだった。

 ビードルには、コーネルの大学院生時代とその後のカルテックでのポスドク研究員時代に、トウモロコシとショウジョウバエで減数分裂に影響を与える突然変異体に関心を持った経験があった。アカパンカビの突然変異体の数が蓄積しそれぞれが連鎖群に割り当てられると、ビードルが二つの生物を対象とした初期の研究で達成したのと同じように、個々の連鎖群をアカパンカビの染色体と関連づけることが急務となった(注:突然変異遺伝子の遺伝学的な連鎖関係が分かっても、それが細胞学的にどの染色体に対応するかは細胞遺伝学的な解析をしなければ分からない)。古い友人であり同僚でもあったバーバラ・マックリントックに勝る細胞遺伝学者は世界の何処にもいないと信じていたビードルは、1944年の初めに、スタンフォードに10週間滞在してアカパンカビの染色体を調べてくれないかとバーバラを誘った。アカパンカビの細胞はマックリントックにとって全く新しい材料ではなかった。彼女は何年か前に発達中の子嚢における減数分裂の様子を調べたことがあった。減数分裂時の染色体観察における彼女の長い経験と幅広い知識から、接合体の形成を経て減数分裂を構成する二つの細胞分裂と引き続く一つの体細胞分裂に至るまでの染色体の行動様式を追跡することができた。発達中の子嚢で見られる減数分裂が他の真核生物の典型的な減数分裂と同じであることを明らかにした他、彼女はアカパンカビの染色体数が7であることを疑問の余地なく決定した。染色体数は遺伝交配で推定されていた連鎖群の数と一致した。子嚢の発達過程における染色体行動を詳細に記述した他に、マックリントックは遺伝交配におけるいくつかの突然変異体の異常な行動が染色体の構造変異によって説明できることを明らかにした。マックリントックがスタンフォードで過ごした10ヶ月は、彼女の輝かしい経歴からすれば小さな勝利でしかなかったが、糸状菌の細胞遺伝学に主要な進歩をもたらすものだった47

 アカパンカビの仕事が進展するにつれてテータムは細菌でも栄養要求性が誘導できないかを明らかにしようと決心した。テ−タムの細菌学に関する知識と天性から、ビードルとともにアカパンカビで用いた方法が細菌に応用できると確信したのだろう。当時は、細菌が遺伝子をもつか否かについてさえ不確かだった48(注:サルバドール・ルリアとマックス・デルブリュックによって、大腸菌のファージ抵抗性突然変異がファージとの接触なしに自然に起こることが証明され、これによって細菌が自然突然変異を起こすこと、さらにダーウィンの自然選択が働くことが明らかになり、細菌は遺伝学の格好の材料となりうることが証明されたのは1943年のことだった)。ビードルは 「自分にしかない能力に自信をもって」 仕事をすれば、適切な職場を獲得する機会がより確かになるとテータムを励ました49。テータムはアカパンカビの生育に用いた単純な培地とほぼ同様な培地で生育できる2系統の細菌をスタンフォードの細菌学科のコレクションから選んだ。彼が選んだ大腸菌K12株と呼ばれる株は後に細菌遺伝学研究の標準的な系統になった(注:大腸菌のK12株はジフテリア患者の便から分離されスタンフォードで保管されていた大腸菌コレクションのひとつ。1945年にスタンフォードからイェール大学へ移ったテータムのポスドクだったジョシュア・レーダーバーグの女子学生の一人が、1946年にK12株を含む2種類の栄養要求性変異株を混合培養すると野生型の原栄養株が生じることを偶然に発見する。大腸菌に性があることを示すこの接合現象には稔性因子(F因子)と呼ばれるプラスミドが関与することが明らかとなるが、K12株はもうひとつの標準株であるB株とともに細菌遺伝学の発展に大きく貢献する)。テータムは大腸菌にX線を照射して、アミノ酸、ビタミンあるいは核酸前駆体のような単一の栄養素の補給を必要とする突然変異体を選抜した。その時はまだ個々の栄養要求性が単一遺伝子の突然変異によると結論することはできなかったが、テータムは 「細菌における生合成は特定の遺伝子に支配されている」 と結論した50。その年の内にテータムは単一要求性を示す突然変異体に繰り返しX線を照射し、生育に2つないし3つの栄養素を要求する突然変異体を選抜することで2重あるいは3重突然変異体の獲得に成功した。これによって、細菌でも特定の 「栄養素要求性は真の遺伝子突然変異と類似した遺伝的変化の結果である」 ことが明らかになった51

 ビードルと共同研究を始めた1937年からテータムには将来の雇用の可能性について心配が絶えなかった。ある日、当時ウィスコンシン大学の薬学教授だったテータムの父が息子の職業上の将来が心配だとビードルに悩みを訴えた。 「貴殿は息子を純粋な生化学者でも真の遺伝学者でもない立場に置いておられる。息子はどちらの領域でも適切な機会を探すことができないのではと、私は心配でなりません」 。ビードルはテータム教授に、 「全てうまく行きます」 と伝えて、心配がないことを改めて確認してもらった52。一緒に仕事を始めた3年後の1940年になると、ビードルはテータムの教員採用を真剣に考慮するよう生物学科を説得した。彼はまたテータムの大学教員としての有能性をハンソンに訴え続けた。ハンソンはビードルの研究プログラムへのテータムの貢献度を高く評価していたから、テキサス大学のR. J.・ウィリアムに彼を推薦した。スタンフォードの生物学科はテータムに高い評価を与えたが、生化学者のためのポストがなかった。それでもアカパンカビの仕事から大発見が生まれた1941年に32才のテータムはスタンフォードの助教に任命された。

 スタンフォードでビードルとテータムが共同研究を重ねていた年月の間、外から見て二人の間に摩擦や軋轢があったという証拠はないが、彼らの間には個人的あるいは打ち解けた関係が全くなかったようである53。テータムの家族がビードルのガーデン・パーティーや遠出に参加したことはほとんどなかった54。テータムは1944年までには独り立ちを決心していた。彼は明らかに生化学の技能と歩調を合わせるまでの十分な遺伝学の素養を身につけていた。ビタミンの検定における微生物利用のコースをテータムと共同で受け持ったコルネリス B.・ファン・ニールが仲介したお蔭で、テータムにはイェール大学の准教授の職が提供された。彼はスタンフォードに残りたい希望を生物学科に伝えたが、ファン・ニールが驚いたことに、おそらくテータムの能力評価とはほとんど関わりのないことを理由に、生物学科はまたも彼の申し出を拒否した。学科での審議と決定に際して、ビードルに出番があったとしてどんな役割を果たしたかは不明である。そこでテータムはイェールの申し出を受入れ、1945年の始めにスタンフォードを離れた。イェールでは大腸菌の栄養要求突然変異体の収集を続けたが、より重要なことは、彼と彼の学生のジョシュア・レーダーバーグが2重および3重突然変異体を利用して大腸菌に性を通じた遺伝子の交換能力があることを発見したことだった。これは微生物分子遺伝学に道を開いた大発見だった55。ビードルは 「細菌の性生活は途方もなく面白い」 と伝えてテータムを祝福した。さらに 「この発見は細菌学の過去100年間で最も重要な躍進だと思われる」 とも付け加えている56(注:細菌における性の発見の功績でビードル、テータムとともに1958年にノーベル生理学・医学賞を共同受賞した時、レーダーバーグは弱冠33才の若さだった)。ビードルはテータムを全米科学評議会(NRC)会員に推薦したが(1952年)、これはビードルがテータムの成し遂げた仕事を高く評価していた一つの証拠である。確かに、大陸を横断する旅行の際には互いを訪ね会うなど、彼らは断続的ではあったが暖かい交流を維持した。運命の不思議で、スタンフォードが新しい学長と生物学科の新しい指導者達を得た3年後にビードルはカルテックへ戻り、テータムはスタンフォードから提供された正教授の職を受けたのだった。およそ10年後、スタンフォードが医学部に新しい生物化学科の創設を計画したとき、テータムはその最初の学科長に選出された。しかし、離婚に至った結婚生活の問題で彼はロクフェラー大学へ移り1975年に死ぬまでそこに残った。

 ビードルとテータムの連携は遺伝学発展の一つの転換点を築いた。それまでの遺伝学者の主要な興味は、染色体と遺伝子の遺伝子型がもつ性質すなわち連続した世代の子孫における分離の様式にあった。ビードルは、おそらくテータムの指導があって、遺伝子の作用は生化学の問題であること、両者の統合が後の分子生物学の先駆けとなることを理解した。しかし、アカパンカビの重大発見の前までは、遺伝学と生化学の統合というアイディアは夢だったに過ぎず、集中を欠いたほんの僅かな関連観察があっただけの状態だった。ふたつの分野が 「結婚する」 ことで初めて生化学遺伝学という新しい分野が真の科学となり新しく挑戦的な課題を提供できるようになった。遺伝子は生物のもつ代謝と生合成の能力の明らかな決定因子で、ビードルとテータムの実験はそれらの関係の分子的詳細を試験する方法を提示した。数年間の集中した努力で達成された彼らの発見は、アミノ酸の生合成経路に関して伝統的な研究が何十年もの間に積み上げて来たよりもっと多くの知識を効率的に生みだして科学に貢献したのだった。

 遺伝子の作用と酵素の合成を関連づけ、さらに遺伝子がタンパク質の特異性を決定するしくみに関する彼らの推定が遺伝子の構造に向けた新たな注意を科学者の間に喚起することになった。タンパク質構造の複雑さが評価されるにはアカパンカビの実験が新事実を見いだしてからほぼ10年の歳月がなお必要だったが、タンパク質は鋳型として働く遺伝子の上で組み立てられるのだろうとするビードルの推論は刺激的だった。ビードルの推論は懐疑者達に不信の標的を提供することにもなったが、遺伝子の分子的実体を解析することがタンパク質合成への遺伝子の関与を理解するための最重要な課題となったのである。



1. David Beadle, インタビュー,June 27, 1997.
2. 同上.
3. Norman Horowitz, インタビュー,Oct. 16, 1996.
4. David Beadle, インタビュー,June 27, 1997.
5. Jo Srb, インタビュー,April 1998.
6. D. Beadle, インタビュー,June 27, 1997.
7. D. Beadle, インタビュー,Augst 13, 1997.
8. D. Beadle, インタビュー,June 27 and Augst 13, 1997.
9. D. Beadle, インタビュー,August 31, 1997.
10. D. Beadle, インタビュー,May 14,2001.
11. 同上.
12. EphrussiからGWBへの手紙,January 5, 1942, CIT, Beadle Collection, box 1.26,
13. GWB. 1966. Biochemical genetics: Some recollections. Phage and the origin of molecular biology (ed. J. Cairns, G.S. Stent, and J.D. Watson), pp. 23-32. Cold Spring Harbor Laboratory Quantitative Biology. Cold Spring Harbor, New York.
14. GWBからStering Emersonへの手紙, March 14, 1942. CIT, Beadle collection, box 3.15.
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18. RyanからGWBへの手紙,June 27, 1942. CIT, Beadle collection, box 2.23.
19. GWBからEphrussiへの手紙,August 1, 1942. CIT, Beadle collection, box1.26.
20. GWBからRyanへの手紙,January 4, 1943. CIT, Beadle collection, box 6.22.
21. Norman H. Horowitz. George Wells Beadle. Biographical Memoir of the National Academy of Sciences, 1990, pp. 45-54掲載.
22. A.M. Srb and N. Horowitz. 1944. The ornithine cycle in Neurospora and its genetic control. J. Biol. Chem. 154: 129-139.
23. GWB. 1945. The genetic control of biochemical reactions. Harvey Lect. 40: 179-194.
24. GWB and E.L. Tatum. 1941. “Genetic contol of biochemical reactions”; E.L. Tatum, D. Bonner, and GWB. 1944. Anthranilic acid and the biosynthesis of indole and tryptophan by Neurospora. Arch. Biochem. 3: 477-478; E L. Tatum and D. Bonner. 1944. Indole and serine in the biosynthesis and breakdown of tryptophan. Proc. Natl. Acad. Sci. 30: 30-37.
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27. R.E. Kohler. Lords of the fly. University of Chicago Press, 1994, p. 240.
28. GWB. Harriet Zuzkermanによるシカゴ,イリノイでのインタビュー, December 12, 1963, COL.
29. 同上.
30. David Regnery, インタビュー,July 3, 1996.
31. D. Regnery, インタビュー,July 3, 1996; Norman Horowitz, インタビュー,October 16, 1996; Esther Zimmer Lederberg, インタビュー,October 19, 1996.(ビードルの指導でマスターの学位を得た後,エスターは1946年にイェール大学でテータム研究室に加わりジョシュア・レーダーバーグとの共同研究を始め、すぐに結婚).
32. D. Regnery, インタビュー,July 3, 1996.
33. D. Beadle, インタビュー,August 3, 1997; Jo Srb, インタビュー,April 17, 1998; Esther Zimmer Lederberg, インタビュー,October 19, 1996.
34. Jo Srb, インタビュー,April 17, 1998.
35. D. Beadle, インタビュー,June 27, 1997.
36. Esther Zimmer Lederberg, インタビュー,October 19, 1996.
37. David beadleとの電話インタビュー,June 14, 1999.
38. GWBからBonnerの徴兵委員会への手紙,CIT, Beadle collection, box 1.19.
39. GWB からF.B. Hansonへの手紙,July 3, 1942. RFA 205D, record group 1.1, box 10, Folder 142.
40. HansonからGWBへの手紙,July 8, 1942, 同上.
41. GWBからHansonへの手紙,July 13, 1942, 同上.
42. A.N. Richards, GWBからHansonへの手紙で言及,November 6, 1942, 同上で言及.
43. GWBからHansonへの手紙,January 17, 1944. RFA 205D, record group 1.1, box10, folder 144およびA Proposed Study of the Production of Antibiotic Substances by Neurosporaの表題のついたメモ,CIT, Beadle collection box 34, folder 4.
44. GWBからA.D. Welchへの手紙,February 18, 1944,同上.
45. D. Bonner. 1946. Biochemical mutations in Neurospora. Cold Spring Harbor Symp. Quant. Biol. 11: 14-24.
46. R.D. Coghill and R.S. Koch. 1945. Penicillin: A wartime accomplishment. Chem. Eng. News 23: 2310-1316.
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48. GWB. 1945. Do bacteria have genes? J. Hered. 36: 23-24; J. Lederberg. 1987. Genetic recombination in bacteria: A discovery account. Annu. Rev. Genet. 21: 31-33.
49. GWBからJ. Lederbergへの手紙,およそ1978-1979年.
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52. GWB. 1978. Recollections. Annu. Rev. Biochem. 43: 1-13.
53. J.Lederberg, インタビュー,September 26, 1996.
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56. GWBからTatumへの手紙,September 9, 1946. Beadle collection, box 7.24.