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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第13章 戦後の科学と政治

 いったん戦争が終わると大きな変化が国家の形を変えた。科学と技術が合衆国の勝利に決定的な役割を果たしたのだった。国家利益を振興するという期待から、この経験が平時における連邦政府の研究支援の拡大を奨励することに繋がった。科学者達はこの政策に熱狂的に反応した。彼らは、敵を打ち破ることが最大の目標だった長い年月の間に、研究が必要な新しい課題を蓄えていた。ビードルの指揮のもとで進んでいたカルテック生物学部門の再生は保証されたが、それはアメリカ国立科学財団(NSF)が創設され、アメリカ国立衛生研究所(NIH)がその存在意義を高めるだろうという国家的な見通しが根拠だった(注;NIHは1887年に保健福祉省公衆衛生局(HHS)のもとに設立された合衆国最大の医学保健研究機関)

 第二次世界大戦が終結した後の科学界は、ビードルや同僚が知っていた1940年以前のそれとは違ったものになった。モルガンは既に逝き、ロリン・エマーソンも1947年12月にこの世を去った。科学界を指導する役割はビードルと彼の年代に渡された。しかし、スターテバントとスターリング・エマーソンが1945年の春と夏にビードルに宛てた手紙には、戦後初期の内向的な科学界の様子を暗示する痕跡が現れていた。彼らは5月のナチス・ドイツと8月の日本に対する連合国の勝利については何も語らなかった。広島と長崎への原子爆弾攻撃についても、それは並外れた科学の偉業で世界に深刻で困難な変化をもたらす前兆であったが、彼らは全く言及しなかった。しかし間もなく、遺伝学に携わる研究者は原爆投下が彼らの人生と研究所のあり方に実は甚大な影響を既に及ぼしていたことを知ることになる。科学が公の関心事になったのだった。ポーリングからマグナソン法案に描かれたアメリカ国立科学財団(NSF)のあり方への支援を求められ、カルテックへの招聘を引き受けた直ぐ後に、ビードルはこうした未来をすでに垣間見ていた。

 科学者達の直接的な関心事に対してはすぐに対処が必要だった。ビードルはこの問題に多くの配慮と時間を費やすことになった。ひとつは原子爆弾がもたらした結果だった。日本への原爆攻撃の前にも、物理学者達は原爆製造と新しい兵器が世界平和にもたらす影響について彼らがどんな役割を果たすべきかを考え苦悩した。しかし彼らは放射線が人間と他の生命に及ぼす影響という問題に知的に答えることができなかった。物理学者には放射線被爆による直接的な健康被害の評価が求められ、遺伝学者にはより微妙な突然変異による被害の評価が求められた。マラーとスタッドラーが20年前にX線による突然変異の誘発を証明しており、ビードルもアカパンカビで突然変異を誘発するためにX線を用いていた。国家は新兵器の意味を理解しそれを検証しようと苦慮していたから、遺伝学者達に助言が求められるのは間違いなかった。

 1946年7月1日、ビードルがカルテックの職務を引き受けた日に、南太平洋のビキニ環礁で最初のクロスロード作戦による核実験が行われた。3週間後には再びビキニで2回目の核実験が行われた(注:クロスロード作戦は、合衆国が1946年に行った2回の核実験をいう。エイブルと名付けられた最初の21キロトン級の核爆弾は高度158mで炸裂し、7月25日の2つ目のベーカーは水深27mで爆発した)。カルテックは既にこの作戦に関与していた。E. G.・アンダーソンは核爆発で被爆したトウモロコシの種子を得て、被爆による突然変異とX線による染色体異常との詳細な比較研究を開始した。彼の広範なデータから、ビキニ原爆は15,000レントゲン相当の効果を与えたと推定された(注:レントゲンは過去に使われていた照射線量の単位で、1レントゲンは、放射線の照射によって、一気圧、摂氏0度の乾燥空気1立方センチメートル当たり2.08×109個の正負イオン対に相当する1静電単位のイオン電荷が発生したときの放射線の総量と定義された。次の第14章で記述するように、1940年代のアメリカ人は平均して30才に達するまでに、自然放射線は別にして、医学および歯学上の措置で3レントゲン=約30ミリシーベルトの放射線を浴びていたと推定される)。

 ハリー・トルーマン大統領は、1946年11月に、全米研究評議会(NRC)に原子爆弾による人的被害の調査委員会を設置して原子爆弾が日本人に与えた効果の長期に渡る研究任務を命じた。ビードルは調査委員会の委員に任命されたが、この任命はビードルの国家への忠誠が試される連邦捜査局(FBI)による複数回の調査のはじまりだった。調査官がネブラスカ、イサカ、ケンブリッジ、パサディナとパロアルトのビードルの同僚、住民や教師達を訪ねた。誰もがビードルの誠実さ、徳性と忠誠を高く評価した。だが、ビードルの政治的な見方について明確に知る者はなかった。ポーリングはビードルを称して、 「温厚な自由主義者だが政治への関心は薄く、政治的な事柄に関与して時間を費やす人物ではない」 と答えた。ビードルは穏健な保守主義者だと答えた人もおそらくあっただだろう。明らかにビードルは同僚や知人と政治的な見解について議論することが滅多にない人物だった。ビードルは申請用紙に彼が所属する組織のリストを書き記した。ひとつを除いて全てが全米科学アカデミー(NAS)やアメリカ哲学協会など学術と科学に関係する組織だった。ただひとつの例外は、‘芸術、科学と職業に関する独立市民委員会(ICCASP)’の1945-1946年度会員だったことだが、この委員会の活動のある部分はスタンフォードでFBIによるインタビューを受けた者のうちの一人によって、 「共産主義擁護団体である」 として批判されていたものだった。この人物は付け加えて以下のように語った。もしこの噂に間違いがなく、ビードルがまだ会員だったとしても、彼が 「反共産主義の信条をいつも語っていた事実を考えると」 、間違いなく彼はICCASPとの関係を断ち切るだろうと私は考えます。ビードルは1年後にICCASP会員を辞任したが、それはICCASPに共産主義への共鳴があることに気がついたからではなかったと10年後にFBIに報告している。ビードルは実際 「ICCASPでは、その方針と計画が会員への事前の通知あるいは承認なしに策定されて認められる」 事実に反対していた。1947年7月に、核兵器と核エネルギーに関連した全ての情報を入手する権限を保証する合衆国エネルギー省の安全保証委任許可であるQクリアランスが与えられるとすぐに、ビードルはアメリカ原子力委員会(AEC)の顧問に任命された。明らかにFBIは、ソ連からの招待科学者3人の歓迎レセプションに参加するなど安全保障委任許可を取り消すに十分なだけの重大事項であっても、ビードルの他の活動には注意をほとんど向けなかった。

 AEC顧問の立場にいることには科学上の利点もあった。1953年にビードルはネバダ砂漠の原爆実験に参加して、中性子の被爆線量と染色体転座の頻度との関係の測定を望んでいたエド・ルイスのためにショウジョウバエを放射線に被爆させることができた(注:切断された染色体断片が同じあるいは別の染色体に移る現象を転座と呼ぶ。ふたつの染色体に起こった切断から生じたふたつの染色体断片が相互に入れ替わる転座は特に相互転座と呼ばれる。相互転座は自然界では多く植物種に見られるが、もちろん放射線はその誘発要因のひとつである)。自身で試験場にハエを持って行きたかったルイスはQクリアランスに申請したが、合衆国エネルギー省(DOE)からカリフォルニア大学組織に求められた国家忠誠宣誓を拒否する嘆願書に署名したことがおそらく理由で、彼の申請は却下された。ビードルは、ハエの入ったアルミニウム管(ガンマ線による放射線を遮る)が放射能に汚染されることはないと確信していたが、パサディナへ帰るとそれが誤りであることをルイスが明らかにした。中性子被爆によって放射性アルミニウムの同位体が生じており、ビードルは被爆したアルミニウム管から10レントゲンの放射線被爆を受けていたことを知った。

 連邦政府の研究補助金と契約プログラムが実質的な要求を伴ったうえで増大したこともまた、各大学にワシントンの連邦政府との幅広い対話の必要性を要求した。戦時の経験から、非連邦政府機関の研究を連邦政府が支援することは科学と技術を前進させる上で効率的で生産的であることが明らかとなった。科学者が資金の適切な充当と使用のあり方に影響を及ぼしたいと考えるのなら、彼らには政治プロセスで協力する必要があるとされた。冷戦の開始と同時に科学者の公的活動の範囲はますます増大し、安全と忠誠に関する偏執病ともいえる国家的関心を引きこした。国家の混乱が科学界を飲み込んだ。放射線の影響を調べる遺伝学者は調査の対象とされ、彼らの研究が重要な国家機密と無関係であっても、国家に対する不忠に対して公然の批判を浴びる恐れがあった。ポーリングが気づいていたように、それまでビードルは政治的活動の対象を典型的な科学と学術に関係する事柄にのみ限定していたが、今は科学の独立性と大学の利益に相反する国家施策に関わる問題に関与しなければならなかった。

 ビードルは国家の核機密を秘匿する必要自体は受入れたが、安全上のリスクを排除する政府のやり方とスパイ工作機関には頭を悩ませた。芸術と科学の分野で傑出した多くの人々に疑いの眼が向けられ、彼らに対する訴訟が単なる噂や暗示に基づいて起こされるようになった。合衆国上院の影響力が及ぶ関連部署などの特定領域では、関与罪がほとんど当然のように成立することになった。自由主義あるいは左翼的傾向がある者は誰でも疑われ、その不名誉は彼らの同僚、友人と職場にも向けられた。ビードルをもっとも困惑させたのは、近しい同僚が不忠に対する公然の告発に巻き込まれることだった。ビードルは、その強く厳格な正義感から、こうしたすべてに不快感を覚えた。彼の養子のレドモンド・バーネット(本章の後段を参照)は、大学職員に合衆国とマサチューセッツ州法への忠誠を誓う誓書への署名を求めるハーバード大学当局の要求に関してどう思うかと、 「おやじさん」 と議論したことをよく覚えている。ビードルは、マサチューセッツの州法は革命の権利さえ保障しているのだから、自分は何の問題もないと思うと答えた。1948年に、息子のデビッドがノーマン・トーマスの大統領選挙キャンペーンに参加し、国旗への敬礼を拒んだことで高校から休学処分を受けたとき、マリオンはそれが夫の経歴に与える影響を心配した(注:ノーマン・トーマスはフランクリン・ルーズベルトが勝利した1932年の大統領選に出馬したアメリカ社会党選出の候補)。ビードル自身は自分の経歴に傷が付くなどということには全く無関心で、レドモンドに言わせれば、 「おやじは皆の権利を守った」 のだった。ビードルは友人と同僚を守り続けたが、それは忠誠問題が 「困難で複雑で恐ろしいくらいに重要」 であることを理解していたからだった。しかし、自分の考えで行動することを好んだ彼は、忠誠問題に関する科学者委員会のような同じ考えをもつ人達の集まりとは関係をもとうとはしなかった。 「もしそうした委員会と関係すれば、委員会が将来とるに違いない行動を、積極的な関与のないままに自分が支持することになる」 と考えたからだった10

 彼が守ろうとした一人は、原爆計画に参加した有名な物理学者で当時はアメリカ国立標準局の所長を務めていたエドワード U.・コンドンだった(注:国立標準局は1901年に創設された組織で、1988年以降はアメリカ国立標準技術研究所に名称が変わった。合衆国の技術革新と競争力の強化を目的として計測学、企画・産業技術の促進に当たっている)。 「ロシアの科学者や合衆国の共産主義信奉者」 と連絡があるという理由で、コンドンは深刻な安全への脅威だとして告発されていた11。1948年に、米国科学アカデミーは、実証されている訳ではない不忠の咎を理由に下院非米活動委員会がコンドンを公開告発したことに対して、真っ向から立ち向かいコンドンを弁護するためにJ.・パーネル・トーマス委員長へ公開書簡を送るか否かについて熟慮した(注:下院非米活動委員会は1938年に国内の破壊活動を監視する目的で作られた委員会で、いわゆる赤狩りの舞台となった。この組織は1975年に廃止されたが、機能の一部は連邦政府の監督を目的とした下院司法委員会に継承されている)。公開書簡の声明はアカデミー会員の間で議論を呼ぶに十分で、全会員による投票が行われた。310名(会員は410名)が投票してビードルを含む275名が公開を望んだが、他の会員は公開に反対した。ビードルはアカデミーの委員長に書簡を送り、提案された書簡は 「現状に関する公正な声明であり、私の問題意識でもある」 と伝えた12。次の弁護は1949年のことで、ミズリーのルイス・スタッドラーについてだった。ビードルは 「私は彼への告発内容を知りませんが、もしそれが私の聞いた性質のものだったとしたなら、公正な判断力をもつ忠誠委員会の皆様は不忠の汚名について彼が完全に無実であると判定する他ないと私は確信致します」 と述べて彼を弁護した。幸いなことにスタッドラーはすぐに告発を解かれた13

 ビードルがパサディナに着任した時期に始まった混乱の中心にいたのがポーリングだったから、不忠の申立てに関わる問題にビードルは完全に習熟していた。1946年末に、カルテックの評議会は既にポーリングの政治的活動、特に彼のヘンリー・ウォレスに対する公然とした擁護に批判的だった。ウォレスは、 「力の均衡政策を受入れて、東ヨーロッパに対するソ連のヘゲモニーを認めることが戦後の世界の現実であると認めなければならないと説いた」 ことで、ハリー・トルーマンの下で合衆国商務長官職の辞任を迫られていた14(注:ウォレスは、フランクリン・ルーズベルト大統領のもとで農務長官、副大統領と商務長官を務めた。パイオニア・ハイブリッドは彼が設立したトウモロコシ種苗会社で、現在のデュポン・パイオニアに発展している)。ポーリングの遠慮ない政治活動が活発化すると、評議員の何人かは彼が共産主義者であると確信して解雇を求めた。状況は1949年にポーリングがシドニー・ウェインバウムを研究室に呼び戻したことで悪化した。ウェインバウムは20年前にポーリングのグループと仕事をしたことがあり、1930年代にはカルテック共産主義者クラブに参加していた。戦後に彼はジェット推進研究所で機密任務に関する秘密取扱許可を得たが、1949年に彼はこの許可と仕事を失った(注:ジェット推進研究所は無人探査機などの研究開発と運用に携わるアメリカ航空宇宙局に属する研究所)。ポーリングは未解決なウェインバウムの国家安全保障に関する決定に対して上訴し彼の弁護に努めたが、ウェインバウムは安全保障審査会に虚偽の陳述をした廉で有罪とされ収監された。カルテックの評議員達の多くにとって、ポーリングがウェインバウムの訴訟経費を賄うために義援金集めに奔走した事実は、彼らに最悪の疑いを確証させるに十分だった15。1950年には、カリフォルニア大学評議会が要求した忠誠宣誓書への署名を拒んだ職員を解雇する決定に対するバークレー教職員の反対運動を彼が公に弁護したことで、状況はさらに悪化した。評議会と教職員からなるふたつの委員会にポーリングの調査が要求された。どちらの委員会も、そのうえ同時に調査していたFBIも、彼が共産主義者である証拠を見つけることはできなかった。しかし、そのときまでにジョセフ・マッカーシー上院議員はポーリングの共産主義者との関係を断定した記事を新聞の一面に掲載した(注:マッカーシーはウィスコンシン州選出の共和党上院議員で、‘マッカーシズム’と呼ばれた1948年から1950年代半ばまで続いた共産党員と共産主義信奉者への攻撃的な魔女狩り行動を主導した政治家の一人)。ポーリングはパスポートを取り上げられ、科学の会合を目的とした海外旅行にすら参加できない状況に置かれた。

 カルテックの評判が下がることを心配した保守的な評議員達は、カルテックの共産主義者に関する世間の関心がさらに大きくなることを避けようとした。1950年に、彼らは生化学者のジャコブ W.・デュブノフの生物学部門における上級研究者への任命の更新に反対した。カリフォルニアで生まれ教育を受けたデュブノフはソ連で生化学者として2年間を過ごした後、1936年にカルテックのボルスークの研究室に加わった16。学生時代にデュブノフはパサディナの共産主義者クラブに参加していた17。1940年代の初めに、大学院生だったデュブノフはボルスークとともにクレアチン分子にメチル基を供給する物資を調べる重要な仕事に従事していた18(注:クレアチンは特に筋肉中でクレアチンリン酸として貯蔵されるエネルギー源で、アルギニンとグリシンから作られた中間体に活性メチオニンからメチル基が転移して合成される)。Ph.D.を1944年に取得後、 「第一級の生化学者」 だったデュブノフはボルスーク研究室の貴重な研究助手として留まっていた19。 「9月の会議に参加して仕事を発表して欲しい」 とビードルは、会議への参加経費に必要な資金が手に入ることを伝えたメモを添えてデュブノフを誘った20。生物学部門の上級研究者達は皆、パサディナ共産主義者クラブが解散した1937年には彼は既に共産主義者との関係を絶っていたことを理由に、デュブノフの再雇用を拒否した決定の再検討を迫った。ところが、教学上の理由からデュブノフを正規の教員職に任命する意向をもたなかった生物学部門にとっては、これは扱いが厄介な問題だった。ビードルは、 「デュブノフは、他の場所に移動する適当な機会が手に入るなら移るべきだ」 とデュブリッジに手紙で伝えたが、 「もしデュブノフを引き止めればカルテックはある機関からの批判に曝される」 に違いなく、一方で 「彼との雇用契約を終了させれば特に科学界で厄介な立場に立つことになるだろう」 とも指摘した21。カルテックの学長デュブリッジは、評議員達がビードルの手紙を確実に読むよう手配した22。デュブリッジはビードルの意見を入れて、デュブノフは 「忠誠で、仕事熱心で、価値ある市民」 であるという意見を述べた23。ついにデュブノフは再雇用されたが、1962年にロマ・リンダ大学の教授になるまでカルテックでは適当な地位を得ることがなかった24(注:ロマ・リンダ大学はカリフォルニアのロマ・リンダにあるセブンスデー・アドベンティスト教会が設立した健康科学専攻を主とする共学の大学)。

 デュブリッジはこの先も忠誠問題が続くと見ていた。1950年に彼はアカデミズムの自由と教職に関する委員会を創設して、カルテックの物理学、数学、天文学部門の長であるロバート F.・バチャール教授をその委員長に任命した。バチャールは最初のアメリカ原子力委員会(AEC)の委員を努めた経験者だったから、彼の委員長としての有能さは明らかだった。カルテックの教員組織はもう一人の委員会委員としてビードルを選出し、ビードルは1950年代を通じて委員を務めた。評議会への情報提供、バークレーキャンパスの状況と継続中のポーリングに関わる緊張関係の3つが委員会の重要審議事項だった。ポーリングは共産党メンバーであるとして再び告発を受けたが、今度は陸海空軍の人的安全保証委員会とカリフォルニア州の非米活動委員会による告発だった。1951年の夏にポーリングは、現在も過去も共産党員であったことはないという供述書に署名したが、当時はこの供述書すら彼に対する反対運動を止めさせることはできなかった。率直であからさまな彼の公言は、やり過ぎだった。

 ビードルにとって安全保障問題はますます切実なものとなり、次には彼の優秀な学生の一人でジェームス・ボナーの弟のデビッド・ボナーに脅威が及んだ。1947年にスタンフォードを去ったデビッド・ボナーはイェール大学で行ったアカパンカビを材料にした独立な仕事で既に評判を得ていた。彼の学生は彼を率直で形式張らない人間だと評した25。オークリッジ国立研究所の生物学部門が彼をテネシーへ赴任するよう説得した時に、Qクリアランスのための安全保障調査が始まった(注:オークリッジは合衆国政府の秘密原爆製造計画の拠点都市で、オークリッジ国立研究所は‘マンハッタン計画’の一翼として創設され、現在は合衆国エネルギー省の管轄下でエネルギー、安全保障と自然環境保全の分野で研究活動を続け他機関への支援を行っている)。共産党員だと疑われたボナーと妻の友人、同僚と学生にも調査が及んだ。教え子の一人を調査するFBI捜査官に向けられたおそらく自己告発宣言文と、兄ジェームスによるウェインバウムの弁護に向けた資金集めもまた調査の対象となった26。ボナーをオークリッジへ招聘したアレクサンダー・ホレンダーはボナーが正式な告発を受ける数ヶ月前に状況に注意するようビードルに警告した27。ビードルはホレンダーとオークリッジにあった生物学者のための組織母体である原子力委員会生物学・医学部門の当時の部門長だったシールズ・ワレンにすぐに手紙を書いて、デビッド・ボナーと彼の妻、兄と他の家族達との長い付き合いについて詳しく説明した。ボナーを信頼するビードルは、 「彼は完全に正直で、良心的で、我が国の理想への忠誠心をもつ信頼できる人物です。カルテックの学生時代に共産党員達と関係したのも、おそらくは彼の不注意からだっただろうと私には思われます。彼を知る年月のあいだ、政治的あるいは社会的な問題について彼の意見にいつも賛成した訳ではなかったとはいえ、私は彼の国家への忠誠心と完全な誠実さを疑うことはありませんでした。」 28。ビードルはこの手紙で、ボナーが悪性リンパ腫の一種であるホジキン・リンパ腫に侵され深刻な状態にあることも通知した。

 ボナーは真夏にオークリッジで開かれる公聴会で費用の弁済を約束すると宣誓してくれるようビードルに懇願した29。彼をずっと指導して来たビードルはこれを了承した。ビードルの旅行のための出費を軽減するために、ホレンダーは証言のためにオークリッジへくる際にはセミナーで講演することを条件にビードルを招待し30、ビードルは1951年8月2日の公聴会への参加費用は自分で賄ってオークリッジを訪ねた。オークリッジに滞在する間に彼はセミナー講演の他に研究者達との議論にも参加した31。ビードルは11時間を要した公聴会の全てを聞き、それは 「実に公正で完全」 で、 「デビッドは、幾分不運にも共産党員との関係をもち、時に思慮の足らない発言もしたが、それらはむしろ軽はずみな心から出たことで、それ以上に非難されるべき咎の証拠はない」 と証言し、よい判断が下るとの確証を得た32

 数年後に、 「安全保障審査システムは自由社会における正義の基本原則に違反している」 という理由で審査システムを批判した記事のなかで、ビードルは、おそらくボナーを対象としたオークリッジでの公聴会であった一連の質問についてだと思うが、以下のように書き記している。

「質問:貴君は貴君の親友Aが共産主義者であると信じますか? ビードル:いいえ 質問:貴君はBを知っていましたか? ビードル:はい 質問:貴君はBが共産主義者であることを知っていましたか? ビードル:いいえ 質問:それでは、どうして貴君はAが共産主義者でないとわかるのですか? ビードル:Aは安全保障上のリスクではありません」 33

 ビードルの努力は無益に終わった。安全保障許可は3月に却下され、ボナーはオークリッジの職を失っただけでなく、1952年7月以後はイェールでの非機密事項に関する研究への資金も打ち切られた34。彼は求職を諦めたが、名誉回復の決定がなされるよう訴えた35。ビードルはこの訴訟を支持し、ボナーと彼の兄のジェームスがワシントンの弁護士に相談した時には彼らに付き添った。ビードルはまた、イェールでの資金の保持を期待して、ボナーには非忠誠を示す証拠はなく、軽微な安全保障上のリスクに関する懸念があっただけだとする公式な見解を示すようシールズ・ウォーレンを説得した36。ウォーレンの反応は、特にボナーの問題は機密保持に関連しているとした点で、ビードルを失望させるものだった。そこには次のように書かれていた。 「主要な研究者が自ら共産主義者と長期に渡り広い地域で関係をもつばかりか、支援を受けるプロジェクトに共産主義者と強い絆をもつ研究者が指導する大学院生が含まれるような事業を、税金で賄われる研究機関が納税者の金を使って支援することを正当化するのは極めて難しい」 37。ビードルの他にも多くの同僚が、ボナーが陥っていた事態とウォーレンの手紙に現れた問題への姿勢に驚いたが、それは非機密事項に関して表明されたものだったからなおさらであった。アムハーストの生物学の教授で一時的にワシントンのAECで副生物部長を務めていたH.H.・プローは、ビードルに個人的な手紙を書き送り、 「ボナーはどんな破壊的組織との関係も持たないことを私達全てが道徳的に見て確かであると認めているにも関わらず、ボナーの無実が否定された」 と伝えた38。1917年にモルガンの指導でPh.D.を得たプローは、1939年9月にシティー・オブ・フリント号でビードルと大西洋を渡って合衆国を目指した困難な帰国旅行をともにした同僚だった。1940年に雇用の見込みがないままにエジンバラから戻ったマラーにアムハーストでの仕事を手配したのもプローだった。しかしついに1953年になってようやく先の決定が上訴で覆り、ボナーのためにそれまでに注がれた努力が報われて、彼は名誉を回復した。科学的研究とは違って政治的な状況では、事実の率直な分析とともに様々に関連する他の事柄への注意深い配慮が伴わなければならいことを、ビードルはこの経験から学んだに違いなかった。公正さと正義に対する強い感覚の持ち主であるビードルはこうした状況に間違いなく憤りを覚えたであろう。

 こうした活動は別にして、ビードルの関心は何よりも生物学部門が第一だった。彼には生物学部門をカルテック共同体の主要な力とするとともに世界的な研究をリードする機関とする強い意志があった。新しい教員の採用は進んでいたが、それには時間がかかった。コースを組織化し講義スケジュールを再編成する必要があった。大学院生とポスドク研究員の入学選抜をしなければならなかった。カルテックの学生は学部生も大学院生も全て男子で、軍隊からの復員者と復員兵救護法のためにかってないほど学生の数が増えていた(注:復員兵救護法は、第2次世界大戦からの復員兵への便宜提供を目的に1944年に施行された法案で、一般にGI法案と呼ばれる)。1947年5月に、生物学部門の教員達は、 「女子学生の大学院への入学優先を公言した」 規則改正に全員が賛成票を投じた39。大学院への進学を希望する女子学生は少ないと予想したビードルは、女子の大学院生が学部生への講義義務を負うことには反対したが、大学院への入学を希望する女子学生は最終的にそれぞれの部門の自由裁量に従うことこととされた(注:合衆国の多くの大学では、大学院生がティーチング・アシスタントとして教員の講義の手伝いをして給与を受けるだけでなく、学位の取得には学部学生への講義義務が課せられている)。しかし彼の配慮は不要だった。最初の女子学生が大学院生として入学を許可されたのは6年後の1953年のことだった。

 政府の補助金による大学院学生への奨学金の支給と受入教員との契約に関する規則にも変化があった40。新しい奨学金政策は合衆国の大学で広く歓迎されたが、生物学部門では以前から問題となっており、これを機に独自の規則が制定された41。 「生物学部門では、指導教員が主たる研究者である研究計画について指導教員によって雇用された大学院生が行った仕事は博士論文の材料とは認めない」 とされた42。生物学部門は博士論文の仕事は大学院生独自のものでなければならないと定めたのだった。この規則では、博士論文の研究が主査である指導教員が責任を負う研究プロジェクトの重要な一部である場合は、大学院生による博士論文の作成を主査が密接に指導する必要があるか又は研究の責任が学生に予め移譲されている場合には適用されないと定められた。例外は認められなかった。同時に、 「一般に大学院生の生活自体がこうした奨学金に依存しているのだから」 、研究の方向転換を考える場合は、 「学生に大幅な選択の自由はない」 とされた。生物学部門は、独自の奨学金支給の実施や全米科学財団(NSF)が学生個人に支給する奨学金を含む外部資金を見つけるための支援をするなど、他部門が羨む状況にあった。生物学部門は、部門が独自に奨学金の受給学生を選抜できる1957年に発足した全米科学財団初の 「訓練奨学金」 制度に応募し、これを受給することになった。しかし、アメリカ国立衛生研究所(NIH)が大規模に活用し成功を収めていたこの種類の 「包括奨学基金」 プログラムは全米科学財団では内外の政治的配慮から継続的事業にはならなかった43

 ビードルとデルブリュックはデュブリッジの友人が動物ウイルス学の研究プログラムを開始するのに必要な15万ドルの提供を約束した事実を知って大いに喜んだ。この富豪の男性は、子供時代にヘルペス帯状疱疹ウイルスに感染し、何十年もの潜伏期間を経て発病した水疱瘡に苦しんでいた。デュブリッジから、残念ながらこの病気や他の動物ウイルス病についてはほとんど何も分かっていない事実を告げられた男性は研究支援を決断した44。研究計画の開始に相応しい研究者を探す仕事が1950年に始まった。最適な助言者はいつも研究者情報に精通したウィーバーだったが、ウィーバーが推薦したジョナス・ソークは、おそらく基礎科学に興味がないという理由からだったと思われるが、不適格であると却下された45。しかし彼らは、1947年に33才でインディアナ大学のサルバドール・ルリアの研究室でファージの組換えの仕事をするためにイタリアから合衆国へ渡って来ていたレナート・デュルベッコという相応しい候補者を見つけることができた。デュルベッコとルリアの二人は戦前にトリノの医学校でともに過ごした仲だった。デュルベッコがファージ・グループの夏の学校でコールド・スプリング・ハーバーを訪ねたとき、デルブリュックが彼を上級研究員としてカルテックへ来るよう勧誘した46。デルブリュックはデュルベッコの他にもう一人の研究員としてシーモア・ベンザーに動物ウイルス学で仕事をする機会を提供すると申し出たが、その時デュルベッコは既にパサディナに来ていた。ベンザーはこの勧誘に興味を示さなかったが、デュルベッコは熱心だった。彼はファージで成功した方法とよく似た動物ウイルスの量的検定法を見つける仕事をすでに始めていた。研究棟で働く人々へのウイルス感染を心配したビードルはウイルス実験室を主要な実験室群とは離れた地下に配置することにした。デュルベッコはそこで西部馬脳脊髄炎ウイルスとニワトリ胚細胞のシート状培養(モノレイヤー)に素晴らしい成功を収めた。ウイルスが感染したモノレイヤーのどの細胞も子ウイルスを生産し、さらに子ウイルスが周辺の細胞に感染してそれらを殺した。生きた細胞は色素で染まり、染まった生細胞のモノレイヤー上に死細胞の塊からなる無色で円形の斑点が生じた。プラークと呼ばれるそのような斑点を数えることで、初めに加えたウイルスの数が測定できた。この発見から、ウイルス粒子はひとつで感染を引き起こす十分な力を持つという重要な結論が導かれた47。デュルベッコが開発した方法によって動物ウイルスの研究は量的で実りの多いものになった。彼はこの方法をポリオウイルスに拡張しようと計画したので、全米小児麻痺財団(MOD)はすぐにこの仕事に対する寛大な支援を開始した。デュルベッコの業績と資金獲得の事実を評価したビードルは、デュルベッコを常勤教員に任命した。デュルベッコは1975年に二人の教え子だったデビッド・バルチモアー、ハワード・テミンとともにノーベル生理学・医学賞を受賞することになる(注:彼らの受賞は腫瘍ウイルスと細胞内の遺伝物質との相互作用に関する発見に対してだった。腫瘍ウイルスが正常細胞に侵入すると、ウイルス由来の遺伝子が細胞のがん化を引き起こす事実を発見し、その後のがん研究の基礎を築いた。ボルチモアーとテミンによるウイルスRNAをDNAへ変換する逆転写酵素の発見はクリックが提唱したセントラルドグマに反する例外的な現象で、後の遺伝子工学で重要な技術として貢献する。バルティモアーは、後に論文捏造スキャンダルの当事者になったこともあったが、1997年から2006年までカルテックの学長を務めた)。

 こうした大きなエネルギーを必要とする活動の最中で、ビードルの家庭状況は堪え難いものになり始めていた。ビードルは多くの時間を家族と離れて過ごしたが、パサディナにいる間は悩みの渦中だった。小さな家にマリオンは満足せず、デビッドが1949年に全米で最も教育熱心な大学として知られるオレゴン州ポートランドのリード・カレッジに入学すると、二人はサウス・マレンゴ通りのアパートに移った。ポーリングの娘はリードでうまく大学生活を送っていたが、デビッドが1951年に退学し空軍に入隊すると家族関係は修復不可能な状態になった48。その年の4月にビードルは家を出て49、7月にはカルテック教員クラブの宿舎アセナウムに落ち着き、そこで2年間を過ごす決心をした。マリオンは1952年8月に離婚訴訟を起こした50。ビードルはスターテバントに事実を話し、離婚という事態を考えれば学部長職を辞任すべきではなかろかと悩みを打ち明けた。スターテバントはおそらく離婚を思い止まらせようと考えて、 「そうする必要はないと彼を説得した」 51。カルテックの共同体内部では、状況は秘密ではなかったが、広く知れ渡ってもいなかった。ビードルは以前よりもっと長時間働き、研究室でより多くの時間を学生達に語りかけて過ごすようになったが、活動に目立った変化は見られなかった52。デルブリュックはコールド・スプリング・ハーバーから手紙を出して、 「貴兄の離婚について何か友人らしい言葉を伝えたいと思います。少なくとも、いつも私達は貴兄を気遣っており、うまく行くよう願っています」 と伝えた53。これに対してビードルは、いつものように曖昧で遠慮勝ちに、 「親切なお言葉に感謝します。容易でない状況ですから嬉しく思いました」 と答えた54

 自分だけの生活をもったビードルは自由に新しい人々と新たな活動を開拓できるようになった。彼は、カルテックの物理化学者グナール・バーグマンとスイスからの客員研究員アルフレッド・ティズィーレと一緒に好きな岩登りを楽しんだ。1953年の6月に、彼らはアラスカの7,457フィートのマウント・デューネラックに登る数週間の旅に出た。この登山はビードルが好んだ挑戦のひとつだったが、以前にこの山を目指した登山家がほとんど征服することが不可能な山だと言っていたことを考えると、彼らが最初の登頂者になる可能性があった(注:デューネラックは、アラスカ北部からカナダのユーコン準州に向かって東西に延びるブルック山脈のコユクック河に沿った岩山のひとつで、1930年代の初めに合衆国農務省から派遣された技師のボブ・ナーシャルによって発見された。標高は高くなく氷河もないが、コユクックのマッターホルンと呼ばれる秀麗な山である)。降り続く雨の中の湿地帯を踏破するノラン・クリークの金鉱からデューネラックまでの65マイルの道のりは、登山口から一日で到達した山頂への登攀そのものよりはずっと挑戦的だった。特に登山の最初の日は過酷で、彼らは 「以前に経験したことがないほど疲れ果て意気消沈した」 55

 デューネラック遠征は特別な夏の始まりだった。ビードルがアセナウムに住むようになってから、友人の何人かが彼に興味深い婦人達を紹介した。そのうちの一人だったミュリエル・マッククルアー・バーネットはレドモンドという名前の小さな息子をもつ若く活発な寡婦だった。ジャーナリストとして成功を収めた彼女はロサンゼルス・タイムス婦人部の編集者で、ビードルは犬も猫も好きだったが、猫が大好きだった。ある話しによれば、二人を引き合わせたマッチメーカーは近所のベルノンとバージニア・ニュートン夫妻で56、別の話しによれば、バーネットとビードルの間を取り持ったのは実験室でハエの餌の準備と洗い物を担当する教養ある未亡人のジェス・ウイリアムスだったらしい5758

 ミュリエル・バーネットは1915年にカリフォルニアで生まれ、母の生まれ故郷のシカゴで育った。カレッジへ入学する時が来ると彼女は独立を望んでカリフォルニアへ戻り、私学のポモナ・カレッジへ入学した。シカゴを離れてすぐに彼女は眉毛を細くし、髪をショートカットにして、タバコを吸い始めた。1936年にカレッジを卒業すると、彼女はシカゴで宣伝文を書く仕事から職業人生を始めた。第2次世界大戦の間にジョセフ Y.・バーネットと結婚し、戦争が終わると彼らは幼い息子と一緒にロサンジェルスへ移った。ミュリエルはそこでロサンゼルス・タイムス特集記事の編集者になった。彼女は50年後のカレッジ同窓会で、当時としては一方変わった自分の経歴を話したことがある。 「戦争が終わり、銃声が静かになると、‘正常に戻る’ことは私にとっては妻となり母となって同時にキャリアーウーマンの役割を果たすという意味でした。私は単に可能というだけでなく楽しめることを見つけたのです。」 59。彼女は幸運だった。というのは、1951年に戦争で受けた傷が原因でジョセフ・バーネットが死ぬと、ロサンゼルス・タイムスは7才になるレドモンドの勉学に支援の手を差し伸べたのだった。その時までに彼女は婦人部の編集委員になっており、繁栄する大都市の大衆的によく知られた著名人の一人だった。

 ビードルとミュリエル・バーネットの仲は急速に発展し、同僚は彼女に高い評価を与えた60。ビードルとマリオンの離婚は、新たな結婚について法的に要求される1年間が過ぎる1953年8月10日という最終段階を迎えていた61。離婚の二日後にミュリエルとビードルは結婚し、ワイオミング州ジャクソン・ホールへのハネムーン旅行に出かけた。3人の新しい家族はサン・パスクワーレ通りにあるモルガン一家が住んでいた古い家に移り、ミュリエルは仕事を継続した62。1年後に、ビードルはレドモンド‘レッド’・バーネットを養子にした。実の息子のデビッドはたまにしか訪ねて来なかった。デビッドは最初の妻との離婚を経て再婚したが、ミュリエルとビードルの結婚式の一ヶ月後に、新しい妻が男の子ジョン・ヴィンセントを生んだ。レドモンドはデビッドと同じように、 「おやじ」 は愛情表現が豊かではなかったと記憶しているが、ビードルの同僚は、今や二人の息子と一人の孫息子とともに友好的で立身し機知に富んだ妻をもつ穏やかなビードルを感じていた63。水に入るなど以前にはなかった彼が、スキューバダイビングさえ始めた64

 しばらくの間ビードルは生物学部門の建設に専念した。1953年にはロジャー・スペリーの任用に努力を傾けた。行動における脳の構造と神経細胞(ニューロン)の特異性との関係に関する優れた研究でよく知られていた40才のスペリーはシカゴ大学からアメリカ衛生研究所(NIH)に移ろうと計画していたが、研究所のあるメリーランド州ベセスダ・キャンパスの研究棟建設計画の遅れで赴任が遅れていた。ビードルは、生物学部門はこの好機を使って彼を招聘すべきだと提案した。同僚の多くはこの提案に乗り気で、最終決定権をもつデュブリッジも賛成した65。スペリーは神経心理学の教授として1954年の始めにパサディナに移籍し、40年後に死ぬまでそこに残った。彼は部門に栄誉と実質を加え、1981年には大脳半球の機能分化に関する発見でノーベル生理学・医学賞を受賞した66

 ビードルの指導のもとで、生物学部門は彼が展望した生化学遺伝学の様相を呈しつつあった。そうするうちに、遺伝学における並外れた発展が他の場所で、しかも予想もしないやり方で起こった。1951年のおわりに、英国ケンブリッジのキャベンディッシ研究所で、フランシス H.・クリックと彼の若いアメリカ人の同僚だったジェームス D.・ワトソンがDNAの構造をモデル化する試みを始めていた。ワトソンとファージ・グループの他の研究者達は、1944年のエイブリー、マックラウドとマッカーティーによる実験結果を真剣に捉えて、もし遺伝子がDNAで構成されているとすれば、その構造を知ることが遺伝子の実際の作用を理解する鍵となると考えた67。コールド・スプリング・ハーバーのアルフレッド・ハーシーとマーサ・チェースが1952年に、ファージの遺伝物質はタンパク質ではなくDNAであるというエイブリー達の発見を再確認すると、DNAの構造を解くことが更に緊急の挑戦課題になった。ハーシーとチェースは、イオウの放射性同位元素で標識したタンパク質外皮をもつファージと、放射性のリンで標識したDNAをもつファージの2種類を用意した。ファージを大腸菌の懸濁培養に加えて感染を開始した後で、混合物をワーリング・ブレンダーにかけて細菌細胞の表面からファージ粒子を震い落とし、細菌を遠心分離機で沈殿として回収した。リンの放射性同位元素をもつDNAは主として細菌の沈殿とともに回収されたが、イオウの放射性同位体をもつファージタンパク質のほとんどは細菌が含まれない上澄みから回収された。細菌細胞中では感染と新規のファージ形成が正常に進んだ。この結果はDNAのみで新しい子ファージが形成されること、すなわちDNAがファージの形成に必要な遺伝子であることを示唆していた68(注:ワシントンのカーネギー研究所で行われた彼らの実験結果はエイブリー達のそれと比べると厳密さの点で見劣りがする。事実、彼らの実験では、約20%もの35S-タンパク質がおそらく細菌細胞に付着して細胞の沈殿から得られ、一方で、細菌細胞中に侵入した32P-DNAは約65%に過ぎず、残りの約35%が上澄みに残り、これだけではタンパク質が遺伝子であることを決定できてはいない。新たに生じた子ファージのうち約50%が32P-DNAを持っていたが、35S-タンパク質をもつファージは1%以下であった事実は重要だが、これとて、なぜ子ファージが35S-タンパク質をもつのか説明ができない。それでも彼らの実験結果が多くの科学者達にDNAこそが遺伝物質であると信じさせた理由は、ハーシー自身を含むファージ・グループによるファージ遺伝学と細菌遺伝学の発展が基礎にあったからだと考えられる。科学の世界ではよくあることだが、新発見が世に認められるにはその時代の科学的知識がそれを受入れるまでに十分成熟している必要があるのだろう)。

 ワトソンとクリックの他にもDNA構造の決定を目指していた研究者達がいた。キングス・カレッジ・ロンドンのモーリス・ウイルキンスとロザリンド・フランクリンはDNAのX線回折の仕事をしていたし、他方では、アルファーヘリックスと呼ばれるタンパク質の二次構造の主要なモチーフである右巻きらせん構造を1952年の終わりに発表したばかりだったポーリングもまたDNA構造を明らかにしようとしていた69。並外れて光り輝いてはいたが貪欲でもあったこの競争の物語はワトソンの著書‘2重らせん’で有名であり、科学的な詳細については他に多くの記載がある70。落胆と進展が同時に速やかにパサディナとケンブリッジの間で交わされた。当時キャベンディッシ研究所でPh.D.の取得に向けた勉強をしていたポーリングの息子のピーターは、父がワトソン、クリックと交わした手紙で情報を共有していた。ワトソンはその間デルブリュックに頻繁に手紙を書いたので、カルテックでは誰もが競争の状況を手に取るように知っていた。ポーリングが決定的な誤りだった3重鎖構造を提唱した論文を急いで発表したとき、ワトソンとクリックは論文が公表される数ヶ月前に既にポーリングの誤りを知っていた71。ポーリングがカルテックのセミナーでDNA構造を発表したときデルブリュックは、貴方は誤っているとポーリングに無遠慮に告げた。ワトソンとクリックはロンドンのロザリンド・フランクリンが既に得ていた結晶構造に関する決定的なデータを知っていた点で極めて有利な立場に立っていた。実は、二人はロザリンドのデータを不名誉なやり方で流用し、これに適切な評価をあたえることさえ怠っていたのだった(注:ロザリンドの上司であったウイルキンスが、ロザリンドが1952年5月に撮影したX線回折像を彼女に内密でワトソンに見せた。後に有名となる‘フォト51’と呼ばれるこのX線回折像は、DNAが右巻き、2本鎖、逆向きのらせん構造をとることを見事に表していた。この件は後に論争を呼ぶことになる。ワトソンとウイルキンスの言い分は異なったが、事の一端はロザロンドとウイルキンスの確執にあったと一般に考えられている。残念ながらロザリンドは卵巣がんがもとで1958年に37才の若さで死亡する)。ワトソンとクリックは、賢明にも、全てのDNA資料でアデニンの量がチミンの量と等しくグアニンの量がシトシンと等しい事実を示したエドウィン・シャルガフの分析結果にも十分な注意を払った72。この情報からワトソンとクリックは見事に正しいDNA構造モデルを導きだしたのだった73。彼らが発表したDNAの洗練された構造、すなわちふたつのデオキシリボ核酸の鎖が互いに巻き付く2重らせん構造はいまや誰でも知っているDNAのアイコンである。

 ワトソンが1953年に勝利を収めて意気揚々と合衆国に帰って来たとき、デルブリュックとの近い交友関係から彼はビードルの招聘を受けてカルテックの生物部門へ上級研究員として参加することになった。生物学研究者の間で彼は既に最高位の評価を得ていたが、生まれ故郷のシカゴの徴兵委員会には別の意図があった。朝鮮戦争が進行中で、25才だったワトソンは陸軍への入隊を求められた(注:朝鮮戦争は1950年6月25に始まり1953年7月27日の休戦まで続く)。一連の兵役延期願いが却下された後、ビードルは直ちに入隊手続きの停止に向けた再考を願い出るようデュブリッジに訴えた。 「世界にもう一人のジェームス・ワトソンはいないのだから、彼は我々の研究にとって必須の人物で他に替えようがない」 74。ついに考えられる最も高い権威である大統領付きの再調査委員会によって延期の決定が与えられた。数年後にビードルは、 「ジムを知っていたから、それで陸軍は幸運にも多くの頭痛の種が解消できたのだと私は思う」 と思い出話しをした75。陸軍の代わりに今度はビードルが頭痛の種を手にすることになった。

 デルブリュックは 「ワトソンを生物学のアインシュタインだと考えるワトソン信者の一人ではあった」 が、1954年春には 「ジムへの責任から手を引きたい」 と望むようになった。デルブリュックが見るところでは、ワトソンは 「完全に落ち込んで、カルテックでの最初の年の約束を全て忘れ去っていた」 が、徴兵されるかも知れないという 「恐怖」 がその理由だった。責任を自覚できない点はデルブリュックがワトソンの問題だと感じていたことの一つに過ぎなかった。デルブリュックは、この若い同僚は 「科学の問題について無慈悲なほど自己中心的」 で、 「未完成な論文を発表し、つねに自分が第一著者であることに拘り、公開講演を多く引き受けすぎる」 と非難した76。実際、その年にカルテックでワトソンがなし遂げた新しい仕事は自分自身の論文と当時カルテックでポスドクだったアレクサンダー・リッチとの2報の共著論文の発表だけだった77

 デルブリュックは、 「ビードルがワトソンを買い被りすぎることに腹を立てさえした」 78。彼は自ら得た全米小児麻痺財団の補助金からワトソンが給与を得ることをもはやいさぎよしとは思わず、責任をビードルに投げ出した。 「全てのよい人と全てのよい仕事をカルテックに」 79を目標とするビードルと部門の他の職員はワトソンが残るよう希望した。ビードルはウッズ・ホールで夏を過ごしていたワトソンに手紙を書いて、 「マックスは、何と言うか、基本的には貴君の強力な応援者ではあるけれど、彼には去年の細々したことへの不満がまだあってそのように言うのだろう」 80と宥めた。ビードルはメルクかロックフェラーの資金による支援を得て向こう3年間ワトソンが上級研究員として任命されるように手配した。残りの全米小児麻痺財団の補助金は有望なヨーロッパからの生物学者だったニール・ジェルネに使われることになった81。一年後の1955年にワトソンがハーバードの招聘を受けたことで、ビードルは大きな失望を味わったに違いない82

 ワトソンがいようといまいとビードルが着任して以後の生物学部門は誰もが望んだ通りに前進を果たした。アメリカ原子力委員会からの大きな補助金を得たし、1952年から1954年にはアメリカ国立科学財団の資金獲得で大規模大学に続いて全米で6番目にランクされた83。1953年にデルブリュックの研究室で半年を過ごしたロバート・シンシェーマーは次のように回顧している。 「カルテックは世界のセンターのひとつで、多くの研究者を世に送り出していた。1年あるいは半年そこに滞在してセミナーに参加すれば、世界中で何が起こっているかすべてを学ぶ事ができた。MITですらそうではなかったのに」 84(注:カルテックは、タイムズ・ハイヤー・エデュケーションの世界大学ランキングでは2013-2014年と2014-2015年に2年連続で世界のナンバーワンである)。

 忠誠と安全保障に関する国家の関心はカルテックの科学者共同体を苦しめ続けた。ポーリングのNIHからの補助金は1953年の後半には一時停止となり、新しい補助金申請も却下された。他の研究者達も同様の問題を抱えていた。カルテックの評議員も後援者もポーリングを大学に留め置く事をますます躊躇するようになった。彼のパスポートが却下され研究資金が撤回される度に、評議員の中にはポーリングの解雇を要求する者があった。ビードルは、アメリカ公衆衛生局(USPHS)からのポーリングへの補助金が一時停止になったのは、USPHSが共産主義者を支援していると指弾されるのを恐れたからだとポーリングに告げて宥めなければと感じた(注: USPHSは合衆国保健福祉省の下部機関で国立衛生研究所NIHの上部機関)。デュブリッジには難しい時だったが、ビードルの助けで彼はポーリングの側に立った。しかし、この学長と化学者の関係は微妙なものとなり、二人の間は会話を交わすことさえほとんどないほど険悪になってしまった。そんな中、1953年11月初めにポーリングにノーベル化学賞が授与されたことで人々の驚嘆と興奮は沸点に達した。FBIはポーリングが共産党員であった証拠を掘り出す事ができなかったが、国務省パスポート部門の長だったルース・シップレイにはノーベル賞を受けにストックホルムへ旅行するためのパスポートをポーリングに発行する理由は見つからなかった。シップレイよりは賢明で力のある者達は、もしポーリングのストックホルム行きが禁止されれば国際的な評判は恐ろしいことになるだろうと理解し、結局、シップレイはこれに負けた。ポーリングがカルテックから追い払われることをここ何年間も望んでいたハーバート・フーバー・ジュニアーは激怒して、評議会の委員を辞任した85(注:ハーバート・フーバー・ジュニアーは第31代合衆国大統領であるハーバート・フーバーの息子で、エンジニア、ビジネスマン、政治家として成功を収めた。1954年から1957年には合衆国国務次官を務めた)。

 ビードルは、思慮深いものの見方とカルテックでの指導力によって、科学と科学者の賢明で慎重な擁護者であるという評判を勝ち得た。1954年にはアメリカ科学振興協会(AAAS)の会長に選出された。彼自身も自信を得て、安全保障問題に関する国家の熱狂がますます科学コミュニティーに影響するようになると、より広く自ら発言するようになった。彼はアメリカ原子力委員会のロバート・オッペンハイマーに対する扱いに公開の場で力強く反対を唱えた。卒業生を含むカルテック・コミュニティーに配布された雑誌86で彼は、AAAS報告で述べた考え方を丁寧に説明した。ビードルの批判の一部は、接触罪を含む機密情報へのアクセス資格を審査する際に用いられる手続きと、誹謗情報に対して非誹謗者が申立てる権利に関するものだった。彼は一定の国家機密の必要性を認めたが、安全保障を達成するにはバランス感覚が必要だと主張した。 「合理的な会話の自由を認めることは確かに漏洩の危険性を孕むが、このリスクはより多くの自由から得られる利益に対して調整されなければならない」 。彼は 「非機密領域への安全保障審査の拡張」 を批判し、特にアメリカ公衆衛生局(USPHS)、従ってアメリカ国立衛生研究所(NIH)による審査の実施に強い反対意見を述べた。彼は 「研究者が善良な人物であるとする判断は研究所に委ねられるべき」 で、政府の機関がこれをすべきではないと主張した。ポーリングの名前を挙げはしなかったが、ビードルの念頭には他の研究者とともにポーリングがあったに違いなかった。ビードルの記事は最後に、この問題を注意深く学び自分達の結論と関与について公の理解を得る責任をとるよう大学人に訴えて終わっていた。

 ビードルの記事が発表された時には、既に誰もがポーリングのノーベル化学賞受賞を知っていた。学長も評議員達もポーリングに反対する公式の行動をとらなかったのだから、カルテックでは困惑の内にあっても受賞を祝うことができた。しかし、彼らが内々にはポーリングに公の政治的な活動を控えるよう圧力をかけていたことをビードルは知っていた。ポーリングは黙っていたが、落胆を隠せず、ノーベル賞受賞の祝いにまつわるできごとから、むしろ自分の信念を新たにしたようだった。ストックホルムでの式典の後、彼は日本を含む世界を回った。彼はビキニ環礁での新型水素爆弾実験がもたらす放射性降下物質(フォールアウト)は受入れることができない人類の健康への脅威であると確信する87

 ビードルは今こそポーリングを公に弁護する機会だと決心した。彼は1955年3月25日にビバリーヒルズであった全米腎臓疾患財団の夕食会の講演で自分の見解を語り、カルテック・コミュニティー全体に向けた大学記事でポーリングの件を含めて同様の見解を繰り返した88。ビードルは以前から指摘していた安全保障システムが抱える問題点を列挙することから話しを始めた。次に彼は科学者がもつべき 「偉大さの要素」 を分析し、 「科学における偉大さをもたらす要素がなんであろうと、ライナス・ポーリングにはそれがあることを疑う余地はない」 と結論した。彼の話しはポーリングの科学だけに止まらなかった。 「ポーリングには多方面で‘偉大な人物’と評価されるその他多くの特性があります。彼の見解が公から好意的に受入れられることがなかった時でさえ、有罪判決に立ち向かった彼の勇気に私は敬服します。私は、彼の偉大さ、それに彼が知恵と先見の明を持ち研究所の発展に完全な自由を与えた教員組織の一員であることを誇りに思います」 。デュブリッジ学長も評議員達もビードルの結論であった以下の点を見逃すことはなかった。ビードルは訴えた。 「私はカルテックが学術の真の自由の意味を知り、それに従って語り行動する勇気ある学長を頂くことを誇りに思います。私は学術の自由に対する知恵と進歩的な礼儀正しさに対する信頼を容易に蝕み得る不信と疑いという病に屈しなかった評議会に深甚の感謝を表明します」 。AAASの会長としてのビードルの所見にはニュース価値があり、ワシントンポストとタイムス・ヘラルドが腎臓疾患研究者達に向けられた彼の言葉を報道した。記事は忠誠調査の対象となった研究者への研究補助金の支給を拒絶する合衆国公衆衛生局の政策に対する国家的注目を呼んだ。

 同じ月にビードルは、エルウィン・グリスウォルドによる憲法修正第5条の弁護に公式に同意した89(注:憲法修正第5条は、検察官の判断だけで事件が裁判に付されることを防ぐために、一般市民から選ばれた陪審員で構成される大陪審による審議を保証する権利章典の改正条項)。当時は、修正案が完全であるかどうかについて、その行使は他者による罪の告発を容認すると解釈する上院その他の冷戦主義者による挑戦を受けていた。AAASは上院委員会に 「修正第5条の利用から導かれる不当な結論」 に関する司法権についてコメントを送った90。ビードルはそこに、 「国会の全議員がグリスウォルドの小さな本を読むことを期待します」 と書いた。

 1953年にはポーリングだけが問題として取り上げられたが、1954年春になると合衆国公衆衛生局は、各省(保健医療、教育、福祉)の満足を買うために、合衆国への不忠が告発され確定した個人への国立衛生研究所(NIH)補助金を無効にする決定を下した91。この政策は非機密事項へも適応可能で、被告発者には申立てに反論するための正式な手続きも機会も与えられなかった。この決定は、自白によるか又は正式な司法手続きによって共産主義者であることが証明された研究者に対してのみ補助金の支給が無効あるいは却下されるとしたアメリカ科学財団(AAAS)の政策とは対照的な内容だった92。1954年11月末には、カルテックはボルスークへのNIHからのふたつの補助金が何の説明もなく早期に打ち切られた事実を知らされた9394。ビードルは、公衆衛生局(PHS)長官のレオナルド・シーレに、カルテックは 「停止の原因はボルスークに関する誹謗情報の存在であると思わざるを得ない」 と訴えた95。ボルスーク自身は、誹謗情報は自分がスペイン人の政府支持者に資金を提供したことと関係すると信じていた96。ビードルの支援でカルテック教員組織は、1954年12月6日に、 「PHSからの新しい研究資金は、現在の政策が適切に変更されるまでは一切受理しない」 と勇気をもって決断した97。ビードルはPHS長官に電報を打って提案された公の反対を警告した98。ボルスークを支援する生物学部門の声明はスターテバント、フォン・ハリベルトとスペリーが草稿を作成し、部門が投票して決めたが、ボルスーク自身は棄権し、G.・アレスだけが反対した99。デュブリッジはこの問題を評議員達と議論した。彼らの決定が出るとデュブリッジは教員組織に、一人ないし数人の評議員が、現在の補助金を全てNIHに返却するという条件を飲むなら、少なくとも1年間だけだが100万ドルを喜んで保障すると約束していいと言っていると報告した。教員組織は賛成した。しかしデュブリッジがNIHの所長に電話して資金の返却手続きを申し出ると、NIHからは返却金を受けとるいかなる仕組みも存在しないと告げられた100。PHS長官からボルスークの補助金が再入金されるとの知らせが届いたのは数週間後のことだった101

 科学上の評価、大学経営者としての能力、研究資金獲得者としての成功と困難な問題に対する公正な取組みから、ビードルは頻繁に科学政策の立案に参加するよう多くの研究機関から要請を受けることになった。おそらくポーリングを賞賛し彼を弁護することで、ビードルは重要な問題に対して常に自分自身の控えめなやり方で公的な立場をとる価値を確認したのだろう。カルテックと国家に関する問題が彼をますますキャンパスから遠ざけることになった。アメリカ国立科学財団(NSF)の生物学部門の助言者として、彼はワシントンで過ごす週が多くなったが、そんな時はしばしば他の研究所を訪ねて助言を与えた。彼は1952年から1953年の学期をワシントンのNSF職員として過ごすことを真剣に考えもしたが、個人的および他の理由でこれを断念した102。飛行機での旅が快適なものになるにつれて、カリフォルニアと東海岸は簡単に移動できる距離だと思えるようになった。実際20世紀の終わりには、合衆国の両岸の間を行き来する研究者達の旅は日常的な全く当たり前のことになったが、ビードルの旅はその原型と言えるものだった。



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58. 恐らくどちらも正しいようだ。George and Muriel Beadleの著書, The language of life (Doubleday, 1966)には 「バージニアとベルノンへ、さらにジェスの思い出に捧げる」 と書かれている.
59. Muriel Barnett Beadle. ポモナ・カレッジ50周年クラス会でのスピーチ,April 19, 1986.
60. Barbara Wright KalckarからGWBへの手紙, January 27, 1953. Box 4/27, Beadle collection, CIT. Kakckarはスタンフォードでビードルの学生だった.
61. ロスアンジェルス郡カリフォルニア州最高裁, book 2589, p.191, August 10, 1953記録.
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90. Dael WolfleからThomas C. Hennings, Jr.上院議員への手紙, June 16, 1955. Box 6, L-2-3, government relations file, Borras collection, AAAS.
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93. BorsookからWattへの手紙, December 14, 1954. Box 73/2, biology division collection, CIT.
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95. 同上.
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98. GWBからLeonard Scheele and C.N. Van Slykeへの手紙, December 7, 1954. Box 73/11, biology division collection, CIT.
99. 投票用紙,December 13, 1954. Box 73/2, biology division collection, CIT.
100. L. Bogorad, 私信.
101. L. ScheeleからDuBridgeへの電報, 日付なし;ScheeleからGWBへの手紙, December 23, 1954, Box 73/11, biology division collection, CIT.
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