*

非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

HOMEPROFILELINK

第15章 オックスフォードとノーベル賞

 カルテックの生物学部門をもう一度モルガン時代のような名誉ある研究センターにまで高める仕事が1957年の夏には完成に近づいていた。自身の研究室での仕事はパサディナへ赴任する数年前に終わっていたが、ビードルは既に生物学に転換をもたらしつつある大発見を完成していたし、それにまつわる諸行事を通じて活動的で明瞭な発言をする科学の解説者になっていた。公開講義や地域の研究者グループに加えて科学関係者以外の同僚達との会合を通じて、 「生物学の革命」 が始まっているという認識がカルテック内で広まっていた。しかし1950年代に彼が注いだエネルギーと知恵のほとんどは人々をカルテック研究共同体に結集することで、実際その努力は科学を進める上で大きな利益を与え、各分野で指導者となる多くの研究者を輩出する結果につながった。学部学生の教育も価値あることとして評価されたが、部門の第一の焦点は研究と大学院生およびポスドク・フェローの教育訓練だった。カルテックは既に分子生物学、細胞生物学と発生生物学の中心として世に広く認められていたので、学生と客員研究者は生物学部門の教員と仕事をする機会を狙って競争した。生物学部門の活動に対するビードルの日々の監督は彼の指導を求めた委託委員会など各種の委員会と社会に対す義務に道を譲ってはいたが、そうした義務もまた既に終了あるいは終わり近づいていたか延期の状態にあった。ビードルは真剣に、おそらく熱心に、オックスフォード大学のバリオール・カレッジからの招待を受けて1958年から1959年の学年期にジョージ・イーストマン客員教授職を受けるかどうか思案した。ビードルは、この招待を自分のキャリアー、すなわち科学と教育と公への奉仕にとって次の蓄えを得るよい機会だと考えたに違いなかった。

 デュブリッジはビードルのサバティカルの願いを受入れ、ジェームス・ボナーをビードルが不在の間の代理部門長に任命した。イーストマン客員教授職は、1929年にイーストマン・コダック社の創設者だったジュージ・イーストマンの寄附で設けられた制度で、 「最高級の栄誉」 をもつアメリカ人学者にオックスフォードで1年間過ごす許可を与えることを目的とする奨学金制度だった。候補者はオックスフォード大学の学長とイーストマン・トラスト(企業合同体)の代表者達、それにバリオール・カレッジはイーストマン客員教員のために指定された付属カレッジだったから、その学長が加わった選考委員会で選ばれた。イーストマン客員教授のリストは真に名誉あるアメリカ人学者のための目録だった。ライナス・ポーリングが10年前にフェローシップを得ており、ビードルの1年前には卓越した政治家だったジョージ F.・ケナンに栄誉が与えられていた。

 ビードル一家は船でイングランドへ渡り、リバプールに着くと列車でロンドンへの旅を続けた。ビードルは、パサディナを離れる前に注文しておいた新しいボルクヴァルトを手に入れて車でオックスフォードへ直行したが、ミュリエルとレドモンドは列車に乗った(注:ボルクヴァルトは第2次世界大戦前の1921年にカール・ボルクヴァルトが創設したドイツの自動車メーカーで、戦時中は軍用トラックなどを製造したが1961年に経営破綻で破産した)。列車がオックスフォードへ入った時にミュリエルが受けた最初の印象は 「まるでペオリアの郊外のように見える」 で、二人が列車を降りて見た無秩序な周囲の様子から得た心証はその後も改善することがなかった(注:ペオリアは、イリノイ州ペオリア郡の郡都)。オックスフォードの商用道路をタクシーで走ってヘディングトン郊外の新しい家となる場所へ向かう途上でも、二人の憂鬱な気分は晴れなかった。カレッジがビードル一家のために借受けていた家は150年から300年以上も前に建てられた古い小さな家だった。部屋を回ってみて、全く魅力がない訳ではなかったが、アメリカ人が期待するような快適さの点では今ひとつと感じたその家をミュリエルはすぐに 「余分な装飾のないただの石の箱」 と名付けた。家主のヘディングトン婦人が 「レイバーン」 と呼んだ簡素な古い石炭ストーブが調理と家全体の暖房用に取り付けられていた。レイバーンに石炭をくべて手当するやり方を学ばなければならなかったが、それは家族が学んだ多くの家事の最初のひとつに過ぎなかった。暖かくするには3つのパラフィン・ストーブと3つの電気ストーブ、暖炉とレイバーンを総動員で稼働しなければならなかった。そうするうちに彼らもイングランドでの生活に少しずつ慣れていったが、特にビードルが10ダースもの春植え球根を手に入れて庭に植えるという彼らしいやり方でこの家の装いを整えたことは、こうした気分を醸し出すのに有効だった。ミュリエルは素早く反応して、 「貴方が球根を植えさえすれば、この庭の土も外国のものじゃないと思えるわね」 と言葉を添えた。レドモンドはオックスフォードの私立学校のひとつに入学して、そこでパサディナの学校では学んだことがなかった新しい課目を履修するよう期待された。

 手に入れたボルグヴァルトは車庫の出し入れが厄介で、その上オックスフォードは恐ろしいほどの交通渋滞だったから、全く役立たずの代物であることがすぐに分かった。カッコーという名の路地からウッドランド通りとメソポタミア遊歩道を通って植物学科の研究室まで歩いて通うのをビードルは好んだが、それを知った地元の人々は面白がった。それでもボルグヴァルトはビードル達に 「推進力」 を与える上では役に立ち、彼らは本で読んだことしかなかった英国の田園や歴史的な場所を探索することができた。ストーンヘンジとバースへの短い旅行では、地方のパブや二つ星の宿の魅力とイギリス人の乱暴な運転などを知ることになった(注:ストーンヘンジはロンドンの西210 kmにある環状列石をもつ古代遺跡。バースは温泉で有名なイングランドの古都。どちらもユネスコの世界遺産)。

 バリオールを最初に訪ねた時、ビードルのオックスフォードに対するイメージはいっぺんで損なわれた。 「街はちょうど薄汚れた灰色の石造りの建物の連続で、一方の端にはスコットランド風の小塔があったが、その小塔の基部の扉はまるで小さなネズミの穴のようだった」 。カッレジを訪ねてすぐに、ミュリエルはバリオールの奇妙な決まりごとに気がついたが、それは次のようなことだった。カレッジの多くの土地建物にはフェロー以外は入ってはならなかったし、 「学期中に女性がホールで食事をすることは禁止」 は破ってはならない規則であった。ビードルにはバリオールで腕のいい料理人と素敵なワインのもてなしを楽しむことができたが、そんな夜はいつもミュリエルとレドモンドは2人だけで寂しく食事するのが習いだった。ミュリエルは、他の夫人達と同様に、夫達とは独立な社交の場を持つことで、その多くは女性クラブの集まりに参加することだったが、この事態を解決した。 「シェリー・パーティーに続くシェリー・パーティー」 が、カッレジの社交の季節の始まりで、パーティーは休むことなくクリスマスの数週間前の学期が終わるまで続いた。それに学期が始まるとすぐに別の社交パーティーが新たに始まったから、学期と学期の狭間でこうした社交が中断するのは一時のことだった。一年の間に数回、オックスフォード大学長とバリオール・カレッジ学長が主催する正式な夕食会があってミュリエルも招待されたが、その他にも、カレッジの社交儀礼に従って自分達をもてなしてくれた友人や知己を今度は自分達が招待してもてなし喜んでもらう返礼の習わしがあったので、いわば招待合戦を続けなければならなかった。

 イーストマン教授達には、ミカエルマス学期(秋学期)とヒラリー学期(冬学期)での定期的な講義と学年期を通した一連の非公式セミナーの義務が課せられていた(注:オックスフォードの学期には、ミカエルマス、ヒラリーとトリニティ(春学期)の3つの学期がある)。ビードルは、規則で決まったものだと聞かされていたので、一学期に16回の講義を提案した。しかし、回数が多すぎると考えた世話係の教授はビードルに学期ごとに8回の講義、すなわち週1回の講義に抑えるように勧めた。連続講義の一般的なテーマは 「遺伝学の話題」 で、そのタイトルから考えると、彼は新しく生まれつつある遺伝学の概念とそれが社会に及ぼす影響について語ることにしたのだろう。それに、一般市民向けの公開講義の時がやってくると、講義はごく一般的な内容がよいのかあるいはDNAに関する何かのような 「中身のある」 ものがいいのかビードルは思案した。ビードルの最初の講義は 「淑女紳士の皆様、アメリカのスタイルで講義をすることを提案させてください」 の一言で始まった。聴衆が眠ってしまわないように聴衆を引きつけ得るしっかり中身のしまった講演にしようと考えた同僚教授の一人が、講義の最後に質問を加えた。彼はビードルに、アメリカンスタイルとは何を意味していたのですかと尋ねた。 「別に意味はないのです」 とビードルは答えてから、 「何かがうまく行かなかった場合に、少しだけ自分を守る言い訳にしようと考えただけなのです」 と付け足した

 ビードルはもちろんオックスフォードの一風変わった特徴とバリオールの習慣を経験することになった。何時、何処でオックスフォードを象徴するガウンを身につけるべきかを定めた社交儀礼を彼は全く学ばなかった。聴衆の前で学説を披露する特権(注:原文では学説を読む特権)を行使する前には講演者は宣誓をしなければならなかったが、こうした愚かだとしか思えない一連の規則に講演者が忠誠を誓わなければならない決まり事に対しては馬鹿馬鹿しいという感情を彼は抑えることができなかった。科学の世界の進展を常に把握していたいと考えていた彼は、50もあるオックスフォード図書館で一冊の本やひとつの雑誌を探す際の極めて分かりにくい配架様式に失望し苛立さえ覚えた。ついに彼は、パサディナの事務所に連絡を取って、月刊の米国科学アカデミー紀要を航空便で送ってくれるよう手配した。彼はいつも昼食と夕食をカレッジで取ったが、カレッジは彼にとって研究の場であるというよりは社交クラブだった。彼は時折にしかカレッジの会合に出席しなかったが、それはバリオール・フェロー達の政治談義で語られるオックスフォード流儀の英語を理解するのが難しかったからだった。そのような討論では、とうの昔に忘れ去られたオックスフォードの歴史や人物に関する不明瞭な引用が引き合いに出されることがしばしばで、時には学識をひけらかして反対者を困惑させ混乱させようとする試みすらあった。

 その年が過ぎて行くにつれて、オックスフォードで科学を専攻する学生達の質に対するビードルの評価はますます低下していった。カッレッジのある会合で、チューターを務めていた生物学を 「読む」 一人の学生についてビードルは所見を述べたことがあった。彼はその学生には数学と物理学に関する絶望的な知識の欠如があるからカルテックのPh.D.コースに入学許可を得るのは無理だと断言した。遺伝学コースの講義の時簡に学生達が滅多に質問しないことに彼は失望したが、後になって学生達は講義の内容を全く理解していなかったことが分かった。しかしアメリカの大学で教えた経験を持つ何人かのバリオール・フェロー達は、同僚教員の多くは質問で講義が中断されるのを好まないのだとビードルに打ち明けた。ビードルは一人の学生に驚嘆した。その学生は自ら認めるほど酔っていたが、講義が終わった後でビードルの上着の襟の折り返し部分を掴まえて、“ビードル教授、最高に啓発的な講義でした。ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンの連続講義より、そう言ってもよければですが、ずっと素晴らしかったです。教授の講義には大げさなところがずっと少なかったです」 (注:ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンはロンドン大学で最初のカレッジでタイムズ高等教育の大学ランキングで10指に入る総合大学)。

 オックスフォードに着いて間もなく、ビードルがノーベル賞を受賞するという噂が広まった。物理学賞と化学賞はスウェーデン王立科学アカデミーが選考し、医学・生理学賞は王立カロリンスカ研究所が、文学賞は王立スウェーデン・アカデミーが選考することになっていた。一方、アルフレッド・ノーベルは平和賞を授与する責任をノルウェー議会に与えていた。実際に推薦者の評価と選考を行うノーベル委員会は最高機密の厳守を誇りとしていた。従って、毎年10月中旬のストックホルムとオスロでの受賞者の発表は驚きで迎えられた。しかし時折、可能性のある勝利者の噂や漏洩した秘密が広まることがあり、実際1958年がそうだった。噂に根拠がない場合もあったので、受賞者の発表日が近づくとビードルは心配になり自ら糠喜びを戒めた。しかし、最後の講義を上の空であらぬ方向の話ばかりしていたことに気づくと、自分も不安に免疫ではなかったのだと理解した。

 ノーベル委員会が時期尚早の開示に神経質だったにも関わらず、ストックホルムの新聞記者達に受賞者のニュースが漏れてしまい、国際電話サービスで速報された。長い7日間の止むことのないプレス会議がその年のノーベル賞受賞者の家でも研究所でも続いた。レポーターと写真家がニューヨークのテータム、ウィスコンシンのレーダーバーとイギリスのビードルにまつわりついて離れなかった。今はどんなお気持ちですか?賞金は何に使われますか?など意味のない同じ質問をレポーターは繰り返した。ビードルの答えはいつも決まって、素晴らしい気分です、どうぞご心配なく、だった。ついにビードルは、ストックホルムでのニュース発表の二日後の10月30日に、ノーベル財団からエドワード・テータム、ジョシュア・レーダーバーグとノーベル生理学・医学賞を共同受賞する正式な知らせを受けた。ミュリエルは、公表までの長々と続いた時間について、ノーベル賞を受けるのは 「もし受賞の知らせが青天の霹靂のように届くのなら無上の喜びだったでしょうに」 と感じた。ネブラスカのフレモントに一人で住む91歳になるビードルの父CEは、まだ頭脳が明晰で、 「もし遺伝がジョージの名声の何かの原因だとするなら、それは母親の側にあるに違いありません。八ティーは、今日は、大いに息子を自慢に思っているでしょう」 と嬉しそうに語った。ビードルがコヨーテとモルモットをペットにして庭で色々と工夫して遊んでいたことを思い出しながら、 「男の子を育てる最良の場所は農場です」 と父は付け加えた10

 ビードルの受賞はカルテックの友人や同僚から喜びと創造的なユーモアで迎えられた。デュブリッジとカルッテク評議会の議長はビードルに電報を送り、貴兄を誇りに思うと伝えた11。ビードルの学生だったアドリアン・スルブは通常の祝い言葉ではなく、ここ何年間も培って来たビードルとの人間的な近しい関係から、 「衝撃です、ボス。ボスにお伝えできることは、私が非情に嬉しい思いで満たされているということだけで、それはボスが嬉しく思われているに違いないからです」 と伝えた。サーブは、J. B.・サムナーがウレアーゼの結晶化でノーベル賞を受賞したときに言ったというエピソード、 「人が何と考えようとどうでもよかった、賞の方が勝手にやって来て自分はそれを嬉しく思っただけで、誰が知っていようとどうでもよかった」 を思い出して、 「もしあの年寄りのサムナーが嬉しかったのならボスが嬉しくないはずはないでしょう」 と付け加えた12。ビードルはスルブに返事を書いて、 「そのような名誉に値するか分からないのです。科学の発展に根本的なやり方で多くの人々が貢献している時に、一人か数人が拾い上げられて勝利して、豪勢な晩賛に与って、メダルと分厚い小切手を手にするのはよろしくない」 と感想を述べた13

 祝電のひとつには、ビードルのお蔭で有名になったアカパンカビの署名、N. crassaが付されていた。カルテック生物学部門の大学院生達は電報で 「ものすごく嬉しいです。先生は誇りです。賞金を持って早くお帰りを!」 と伝えてきた。ビードルの返事は次のようだったと思われる。 「ありがとう、君達もノーベル賞をとれる。精出して仕事して、DNAに敬意を払い、煙草を吸わず、酒を飲まず、女性と政治を避ける。これが君達への私の処方箋です」 14。おそらく最も奇妙なメッセージは、遺伝暗号に関する当時の主流だった推測に基づく重複のないコードで書かれた祝電だった(注:塩基3つで構成されるひとつのコドンがひとつのアミノ酸を指令するが、コドンの読み取り枠は重複しない、すなわち3塩基ずつの連続した並びとしてアミノ酸に解読されるとする説)。ビードルは苦労してメッセージを解読したが、それは 「暗号を解くかノーベル賞を返すか」 だった。ビードルは 「電報に感謝。素晴らしいご意見です」 と返事を送ったが、その直ぐ後に航空便で、 「私はひどい暗号作成者ですから、普通の言葉で正確にお伝えしますが、多くの友人や親戚が助けてくれて既にお金のほとんどを使ってしまったので返すことができません。一体どうしたものでしょう?」 とマックス・デルブリュックへ書き送った15。ノーベル賞の式典が始まったときでも暗号ゲームは続き、今度は4つの要素を代表する4色の爪楊枝でできた特別な2重らせんが届いた(注:4色を使って3つ一組でひとつのアルファベットに対応させるやり方は64通りある。アルファベットは24文字だから、予め24通りの暗号を決めておけば暗号文が書ける)。その暗号メッセージの意味は、 「私は人生の謎、私が分かればあなた自身がわかる」 だった。オックスフォードへ帰った後でこれを解読したビードルが返したメッセージには、 「私自身は分かるが、貴方は解読不能」 だった16

 アメリカ人のこうした人を楽しませ自分も楽しむユーモアは、イギリス人同僚の反応とは極めて対照的だった。公衆の注目を浴びて困らせてはいけないという訳で、誰も人前で受賞についてビードルに語りかける者はなかった。彼が一人でいる時にたまたま2人きりになると、彼らは気後れ勝ちに唾を飲み込んでから穏やかに握手を求め、 「貴方の栄誉に関する素晴らしいニュースは、つまり、貴方はいい仕事をなさった!上出来です」 と呟くのだった。特別の記念として、バリオール・カレッジの高演台に招かれて、皆がシェリー酒で一回り乾杯することもあっただろう(注:高演台はオックスフォードやケンブリジなどイギリスの多くの大学でフェローと客員教授達が講義を行うテーブルで、講堂の正面に高く設置される演台のこと)。2人のイギリス人で先のノーベル賞受賞者だったハンス・クレブス卿(1953年)とウィリス・ラム(1955年)はその時、ストックホルムの受賞式と記念行事がどんな風に進行するかについてビードルとミュリエルに手短に説明した17(注:クレブスはドイツ出身のユダヤ人生化学者、医師で1933年にイギリスに逃れた。1945年にシェフィールド大学で生化学の教授となる。アセチルCoAの酸化によってATPやNADHなどのエネルギー源を生じるミトコンドリアのクエン酸回路を発見した功績でノーベル生理学・医学賞を得た。(ラムは、アメリカ人物理学者で、水素スペクトルの微細構造に関する業績でノーベル物理学賞を得た。カリフォルニア大学バークレー校でPh.D.を取得した後、1956年から1962年にオックスフォードで教授を務めた)。

 その年は、生理学・医学賞を受賞したビードル、テータム、レーダーバーグの他にケンブリッジ大学のフレデリック・サンガーがタンパク質の一次構造の最初の決定例としてインスリンのアミノ酸配列を解読した功績でノーベル化学賞を受賞した。サンガーはインスリン分子を小さな断片に分断し、各断片を分離し、それらのアミノ酸配列を決定した後で、完全な長さの分子中で各断片の正しい並びを決める方法を開発した。この業績により、現代生物学における基本的な原理のひとつ、すなわちタンパク質は関連した配列の混合物ではなく特有のアミノ酸配列をもつ分子であるという原理が確立された。

 物理学賞は、光速に近い速度で動く荷電粒子が発する青色光の発見とその解釈の業績で、3人のソ連の科学者達、パベル A. チェレンコフ、イリヤ M.フランクとイゴール E.タムに与えられた。この効果の呼称となったチェレンコフが最初の手がかりとなった重要な観察をし、タムとフランクが現象の理論的説明を行った。文学賞は高名なロシアの詩人で作家のボリス・パステルナークに、彼の現代詩に対する注目すべき功績とロシア文学の偉大な伝統に対して授与された18。ソビエト共産主義思想の裏切りとスターリンによる息詰まる規制が生んだ果てることのない残虐性を赤裸々に描いた小説 「ドクトル・ジバゴ」 に対する特別な言及はなかった。この小説はソ連で発禁処分となっていたが、原稿がイタリアとフランスの出版社に密かに持ち出された後に、訳本が西側世界で出版された。小説はソ連の支配体制にとっては許しがたい侮辱であり、スウェーデン・アカデミーがこれにノーベル文学賞を授与したことで集中砲火を浴びたパステルナークとソ連文学界を内部闘争に巻き込んだ激しい反発の引き金となった。

 受賞で意気が上がったパステルナークはスウェーデン・アカデミーに電報を打って 「計り知れない感謝と、感動と、誇りと、驚きと困惑」 を伝えた19。数日後に、しかし、ソ連作家同盟の評議会は会議を招集してパステルナークに対する非難決議を行い、同盟の文学新聞は 「これは虚偽と偽善をちりばめた観念的な破壊工作の明瞭な発露である」 として非難し、彼とスウェーデン・アカデミーへの暴力的な攻撃を仕掛けた。ソ連作家同盟は、それまではパステルナークを最も優れた同僚であると賞賛していたにも拘らず、彼を追放し、彼に許されていた特典と文学で収入を得る全ての機会を奪った。彼の近しい友人達さえ彼から離反し、同盟に対して 「反逆者へのソ連市民権の剥奪と国家からの追放」 を訴えた。パステルナークはスウェーデン・アカデミーに2度目の電報を打って次のように訴えた。 「私が所属する共同体から与えられたこの栄誉の意味を考えれば、私は頂戴した思いもよらない栄誉を辞退すべきだと思います。私の自主的な拒否を悪意の意志だとはどうぞお考えにならないでください」 。フルシチョフ首相への屈塾的な手紙でパステルナークは 「過ちと非行」 を認めざるを得なかったが、 「母国を去ることは死ぬことと同じ」 であるから追放は許して欲しいと嘆願した。これは、1939年にアドルフF.J.・ブテナントとG.ドマークがヒットラーによって受賞を禁じられた最初の例に続いて、受賞者が賞を拒否したノーベル賞の歴史で2番目の事件だった(注:ブテナントは、卵巣黄体および胎盤から分泌される女性ホルモンであるエストロゲンとプロゲステロンの結晶を単離し化学賞を受賞した。ドマークは、赤色アゾ染料の一種である赤色プロントジルに抗菌作用があることを発見して生理学・医学賞を受賞した。赤色プロントジルは1935年にサルファ剤系の合成抗菌剤として世にでた。なお、第二次世界大戦終了後の1947年にドマークが、1949年にはブテンナントが改めてノーベル賞を受賞している)。

 フルシチョフには、この事件が処理されたやり方を後悔する理由があった。 「年金生活者として人生の終わりに近づいている今、私はパステルナークを支援しなかったことを深く悔いています。彼の本の発禁に手を下したこととミハエル・スースロフを支持したことを後悔しています(注:スースロフは、フルシチェフとブレジネス時代のソ連共産党のイデオロギー担当書記で、影の実力者として権力を発揮した)。私達は読者に自ら判断する機会を与えるべきでした。判定は読者に委ねられるべきでした。パステルナークに対して私がとった行動を心から済まなかったと思います。私にできる言い訳はただひとつです。実は私はその本を読んでいなかったのです」 20。パステルナークは1960年に死んだが、その後にゴルバチョフの指導のもとで、作家同盟はパステルナークの除籍を破棄しソビエト連邦でのドクトル・ジバゴの出版を認めた。

 ミュリエルとレドモンドはビードルと一緒にストックホルムへ向かったが、妹のルースとアリゾナに住んでいた息子のデビッドは受賞に同行しなかった。それでも、テータムの妻のビオラと2人の娘、それにレーダ−バーグの妻のエスターが同行したことで生物学の一行は完全なものになった。賞の発表から6週間ばかりは旅への準備に費やされた。ビードル、テータムとレーダーバーグは要求された講演の準備をしなければならなかったし、誰もが3つの別々に執り行われる予定の行事に必要な正式な晩餐会の服装(男性には 「白いネクタイと燕尾服」 、婦人にはロング・ガウン)を整える必要があった。ミュリエルは盛装することに慣れていたが、エスターには自分の好みに合ったものを見つけるのは明らかに挑戦的なことだった。テータムの2人の娘達は、彼女達がテータムに同行してストックホルムへ行くことを最初の妻が許可したのが出発の直前だったことで、 「適切に盛装」 することができず、正式な式典の間は短いドレスを着て離れて立っていなければならなかった21

 ストックホルムに到着したビードルは、様々な社交行事の時間、場所、正しい服装と礼儀を説明する役割を担った外務省の若いスウェーデン人に紹介された。彼らが宿泊したグランドホテルの完全暖房システムは、彼らにとってはオックスフォードに住んで以来味わったことのない贅沢だった。受賞の日々には、昼食会や非公式な集まりが時折に入ったが、予定された義務的な行事で一杯だった。プレス会議も何回かあって、そこではスウェーデン・プレスから業績の意義の説明が求められた(注:スウェーデン・プレスは、スウェェーデン政府の助成金を得てパブリック・プレス・オンブズマンとスウェーデン・プレス評議会を通じて経営される新聞社)。スウェーデン民衆にとってのハイライトのひとつはテレビの円卓インタビューで、そこではその年の受賞者全員が参加して外交や未来学などの問題について幅広い意見を交換することになっていた。

 正式な授与の式典は受賞者の家族と友人の他にスウェーデン国王、王室の皇族方と科学界のエリート達が列席して、精巧な装飾品で飾られたストックホルムの王立コンサートホールで行われた。勝利のマーチとともにトランペットのファンファーレが鳴り響く中、晴れの受賞者達が一人一人舞台に進み、スウェーデンと各国の外交官やノーベル賞の各賞委員会を代表するウェーデンの指導的科学者達が両脇に居並び、王冠を頂いた国王と王妃が座る玉座に面した紅いビロードのプラッシュの椅子にそれぞれ座を占めた。伝統に従って、物理学受賞者が先導し、化学と生理学・医学の受賞者がそれに続いた。通常は文学賞受賞者が列の最後に続くはずだったが、今年度は欠席だった。受賞者達は一人一人順に呼び出されて舞台の中央に進み、彼らの業績が朗読されて、金賞と賞状が国王グスタフ6世アドルフから授与された。賞金の授与は後日だった。その年の賞金額は82,500ドルで、ビードルとテータムは半分の41,250を折半し、レーダーバーグが残りの半分を受けとった。皮肉と言うべきか、テータムについては、もしノーベル賞を受賞することがあれば賞金の半分を与えることにすると約束した離婚訴訟時の条件に従って、先妻のジューンが規定額を受けとることになった。晩年にマリオンは自分も同じような約束をしておかなかったことを悔やんだようだった22

 式典の後に、ストックホルム市庁舎の壮麗なホールで晩餐会が開かれた。会場のブルー・ホールはローソクの光に照らされて金色に輝き、ノーベルが生涯を閉じたイタリア、サン・マリノの市民が寄贈した花々がホールと食事のテーブルを飾っていた。オーケストラの音楽が国王グスタフ6世アドルフの入場を知らせた。およそ1,500人の紳士淑女が席に着く中を、国王はチェレンコフ婦人をエスコートして厳かに大階段を降りた。続いて、王室ファミリーの女性王族と腕を組んだ受賞者が一人ずつ入場し、男性王族がエスコートした受賞者の夫人達がそれに従った。オーケストラの音楽と学生コーラス・グループの歌声が食事の間じゅう列席者をもてなした。慣例で、受賞者は食事の後に短いスピーチをすることになっていた。まずタムが物理学賞受賞者を代表して語ったが、彼は挨拶をスウェーデン語で始めて列席者を驚かせた。サンガーの短いスピーチの後、レーダーバーグが自分の関与した賞の半分について語り、テータムがビードルと自身を代表して最後に語った。

 翌日の晩には、受賞者と婦人達は国王、王妃と共に王宮で会食した。参列客と打ち解けて会話ができたから、この会食は 「本物のパーティー」 だったとミュリエルは後に語った。残りの日々はショッピング、観光とパーティーで埋まった。ある朝早く、火のついたローソクで飾った冠をかぶり、冬の光の祭典の始まりを祝うサンタ・ルチアの聖歌を歌いながらコーヒーとケーキを部屋に運んできた若くて美しい女性達のパレードでジョージとミュリエルは眼を覚ました(注:サンタ・ルチアは3世紀後半から4世紀初頭までシチリア島に住んだ実在の女性で、ローマ帝国のディオクレティアヌス帝のキリスト教徒迫害政策により拷問で両目をくりぬかれる。ルチアはラテン語で光を意味するルクスに由来し、目の不自由な人の守護として慕われている)。中でも彼らが滞在した1週間のうちで最高の社交行事は伝統的で正式なディナーダンスとスウェーデンの大学生達との騒々しい非公式パーティーだった。こうした沢山の祝いの催事と消耗する出来事が終わって、ビードル達はオックスフォードへ向かった。運悪く、ロンドン行きの便は霧でマンチェスター行きに変更になり、そこから列車で移動したが、かなりの遅れでオックスフォードへ着いたのは翌朝の午前2時45分だった。その夜の短い眠りでは先の週の祝賀会から引きずった高揚した気分を追い払うことはできなかった。ビードルはムリエルの憂鬱を和らげようとして、 「あんな週が続いたら、君は台所に立つ必要がないのに」 と言って慰めたりした23

 ノーベル賞の100年以上の歴史を通じて、選考委員会による選考漏れや判断ミスと非難される例がしばしばあった。ノーベルの意志によって、ひとつの賞で3人を超える数の受賞者は認められなかったので、候補者リストは特定の科学上の業績についてもっとも関連が近いと判断される一人、2人あるいは3人に絞る必要があった。最終的にビードル、テータムとレーダーバーグに決まったノーベル賞選考委員会の協議の記録は、委員会の50年ルールに従えば、2008年までは秘密である。しかし、一遺伝子一機能の概念の鍵となった貢献者が他にもいたと主張する意見があったことを委員会はほぼ間違いなく理解していた。そのような主張者の一人は、1930年代にショウジョウバエの眼色の遺伝的支配の研究でビードルの同僚だったボリス・エフルッシだった。ビードルと彼の共同研究が成熟した赤色素を作る経路の各段階が単一の遺伝子で支配されているという概念を提案した事実があったからである。論文で彼らは遺伝子が酵素を通して作用することを暗示したが、ショウジョウバエが遺伝子と酵素の関連を化学レベルで追及するには向いていないことを理解していた。ビードルとテータムにインスピレーションを与え、彼らが作戦を変えて新しい生物システムを採用したのは、ショウジョウバエを用いた分析では前に進むことができなかったという事実だった。

 ノーベル賞選考委員会の引用を見ると、賞が高く評価したのは遺伝子とその代謝機能を結びつける方法論をビードルとテータムが開発したことだった事実が分かる。ノーベル賞選考委員会を代表して、トルジョーン 0.・カスパーソンは彼らの貢献を次のような極めて均衡の取れた見方で説明した。 「遺伝子によって世代から世代へ伝えられる性質は、途方もない複雑さを示すひとつの絵画のようなものである。遺伝子の効果がもつこの複雑さが、その構造とそれが機能する仕組みの問題に実験的に取り組むことを難しくしていた。ビードルとテータムが大胆かつ抜かりなく実験材料を選択し、この分野への化学的な挑戦に可能性を開いたことで、状況は劇的に変わった。彼らの発見は遺伝子が作用する仕組みを見抜く最良の手段を与え、現代遺伝学の重要な基礎のひとつとなった。この重要性は他の分野にも影響を及ぼしている」 24。ノーベル賞を保証した業績は、一遺伝子一酵素の概念を明確化した事実だけではなく、遺伝子の機能をそれまでよりはずっと詳細に解析することを可能にした新しい戦略と実験手法を開発したことにあった。

 エフルッシは当初、賞から排除されたことに深く心をかき乱された。そもそも遺伝子はタンパク質の合成を通じて働くという洞察を最初に提示したのは彼とビードルだった。彼をよく知る人々は、彼がどれだけスウェーデン・アカデミーの決定に失望したか気づいていた25。フランス人生物学達と特にマスコミは、アカデミーの決定は 「部分的で不十分な情報に基づく」 と看做した。エフルッシとビードルが 「遺伝子が生物の中で進行する化学反応の修飾を通じて作用することを証明する新しい道を開いた」 と主張した週間レクスプレス誌の記事はフランスの典型的な論評のひとつだった。この記事は、 「もしノーベル賞が完了した仕事に報いるものであるなら、賞は公正だった。しかし、賞がもし生命の理解に向けて新しい道を切り開いた先駆者を評価するものであるならば、エフルッシの名はビードルとともにあるべきだった」 26

 賞のニュースを知った直ぐ後でエフルッシは友人のトレイシー・ソーンボーンに手紙を書いて悩みを伝えた。 「このところ私はノーベル賞の件で悩んでいることを認めなければなりません。私は認めたくはないのですが、自分の人生が無駄だったと突然感じたのです」 27。友人の反応を気遣ったソーンボーンは、 「適切な展望のもとで全体を見るように」 とエフルッシに伝え、さらに彼の人生と仕事は 「ノーベル賞を勝ち取ったか勝ち得なかったかに基づく成功か失敗かで評価されるものではない」 と言って励ました。ソーンボーンは、 「貴君が自分に満足できること、過去には貴君に一定の名声と栄光と何よりも大きな満足を与えたに違いない発見への熱意と意欲を貴君がまだ持っていることを私は望みます」 と手紙の最後に結論を述べた28。エフルッシは心の痛みを和らげるソーンボーンの励ましに感動し、長い手紙を書いて自分の思いを伝えた。 「ノーベル賞への一時的な悩みの感情は消えてなくなり、もっと仕事をしたいという燃える願望だけが残ったと理解して頂きたいと今私は思います。私は、外部の評価が、それがどんな形であれ、私の意欲をかき立てたことは今までなかったと間違いなく言うことができます。(これはもちろん、もしそれが私に回って来たとしても嬉しくもないとか、多くの同僚専門家がそうであるほどにはそれから刺激を受けることはないという意味ではありませんが)。特に、私はノーベル賞を夢見たことはありませんでした。それなら何故、ビードルとテータムに賞が与えられるという発表を聞いて(彼らはもちろんそれにふさわしいと私は賛同します)、私が平静を失うことがあるのでしょう?私を狼狽させたのは、私がそれを手にできなかったとうい事実であるよりは、ショウジョウバエの移植の仕事の重要性について私にはうぬぼれがあったのではという疑いなのです。アカパンカビの方法論が化学遺伝学の発展にとってノーベル賞に値するほど決定的なステップであるとは私には思えないと言うつもりはありませんが、一言で言えば、それはショウジョウバエの仕事の直接的で論理的な発展の結果に過ぎなかったのです。ノーベル賞に対するこれが私の最後の言葉です」 29

 ソーンボーンへ手紙を投函する2週間前に、エフルッシはレクスプレス誌のインタビューを受けた。彼はそこで次のように語った。 「ビードル博士とテータム博士がノーベル賞を受賞し、そのことで私が人生の多くの時間を捧げて来たこの分野の研究の重要性が認められたことを嬉しく思います。スウェーデン・アカデミーには受賞者を選ぶ自由があり、どんな要求も不当です。一方で、科学の一分野の発展は、ひとつひとつの新しい進歩がそれ以前の進歩に依存し、それぞれの新しい発見がその次の発見に向けた出発点となるような連続した段階を経てなされます。それぞれの研究者にはそれぞれが仕事を評価する資格がありますが、その評価は不可避的に任意です。重要な点は、判定は可能な限り客観的であるべきことで、スウェーデン・アカデミーはそのための十分な努力を払ってきたと私は確信しています」 30

 何年も後で、ビードルは著名な遺伝学者のヘーシェル・ローマンに、エフルッシとともに行った仕事がなかったならその後の仕事に進むことは決してできなかったことを認めた31。二人に人生の終わりが近づいていた頃、ビードルはエフルッシに改めて語っている。 「私は、科学では、多分その他の分野でも同じことだと思いますが、評価が不公平に与えられることについて何度も考えてみました。あなたがなし遂げたことはアイディアを私と共有しただけではなかった。あなたと私が共有したのは一遺伝子一反応という基本的な概念でした。アカパンカビはそれを確認しただけでしたが、実際には、40年以上前のガロッドの概念を確認したのです。エド(テータム)とジョシ(レーダーバーグ)は、適切な場所と適切な時間に身を置いて公平な配分以上の評価を得る信じられないくらいの幸運に恵まれたのです。私は何度も物語をそのままに語りましたが、事実はそれだけのことだったのです」 32。遺伝子と酵素の関係を世に問うた点でエフルッシが決定的な役割を果たしたことを評価することで、ビードルは公平さに対する基本的な感覚と正直さ以上の何かを明らかにした。ビードルは、友人や以前の同僚達の心に残る感情、すなわちビードル自身がエフルッシの貢献の重要性を完全には評価していなかったのではないかという思いを知り、そうした彼らに同情もした。しかし、一遺伝子一タンパク質概念の生みの親であるエフルッシが主張することに反論した人々もいた。実際、ビードルとの共同研究の間とその後の何年間も、エフルッシは遺伝子が代謝反応に影響を与える仕組みについてほとんど注意を払うことがなかった。もっと端的に言えば、遺伝子と酵素の間に一対一の関係が存在する可能性についてエフルッシが思索したことを示す証拠はほとんどなかった33

 それでも、スウェーデン・アカデミーによって 「素通りされた」 ことでフルッシの評価に傷がつくことはなく、戦後に彼はショウジョウバエの仕事を辞めて全く異なる一連の仕事を始めた。ビードルが遺伝学の仕事にアカパンカビを使うことで成功を収めた事実を考えて、エフルッシは実験材料に酵母菌を選択した。学生のピョートル・スロニムスキーとともに、エフルッシは酸素を効率的なエネルギー生産に用いることができず生育力の弱い 「プチ突然変異体」 と名付けた新規な酵母菌株を得た。エフルッシとスロニムスキーは、これらの突然変異体は細胞のエネルギー生産工場であると認められた正常なミトコンドリアを形成できないことを明らかにした(注:ミトコンドリアの機能が損なわれた突然変異体は1952年にM. B. ミッチェルらによって発見されたアカパンカビのポーキー突然変異体が最初だった。ポーキーはミトコンドリア機能の一部を欠いており、増殖速度が遅く、培地上で小型のコロニーをつくった。翌年には、エフルッシとスロニムスキーが出芽酵母で同様のプチ突然変異体を分離した。プチはチトクローム酸化酵素、クエン酸脱水素酵素やリンゴ酸脱水素酵素などのミトコンドリア酵素の活性を欠いた呼吸機能の欠損株であった。呼吸欠損株は一般に致死であるからそうした突然変異体を得ることは難しい。アカパンカビや酵母には便利な特徴があり、呼吸欠損株はすべてグリセロール培地上では生存できないが、グルコース培地上の無酸素条件でもアルコール発酵によりATPを生産して生存できる)。

 フランス生物学会の重鎮達は核に依存しない遺伝の発見を大いに喜んだが、それは核遺伝子が細胞の遺伝の唯一の決定者であるという広く認められた見解を彼らが拒絶し続けて来たからだった34。今や核遺伝子が生物のゲノムの唯一の貯蔵庫ではないことが分かった。事実、エフルッシとスロニムスキーは、ミトコンドリアがDNAを保有すること、酵母の呼吸欠損はミトコンドリアDNAの突然変異の結果であることを確立したのだった(注:プチ突然変異体の大半は野生型と交配したとき非メンデル遺伝様式を示した。こうした発見から、葉緑体とともにミトコンドリアにも遺伝子が存在することが明らかとなった。なお、ミトコンドリアDNAは1972年にリチャード・コロドナーとクリシュナ・テワリがエンドウマメから、葉緑体DNAは1963年にルース・セイガーと石田正弘がクラミドモナスから初めて単離・精製した)。

 メンデル遺伝をする核遺伝子と違って酵母のミトコンドリア遺伝子は交配の間に変化しないという発見は当時同じような驚きをもって迎えられた35。この非対称な遺伝様式は哺乳動物では 「母性遺伝」 と呼ばれていたが、この事実は今ではミトコンドリアDNA配列が母と子供の間で保存されていることを利用して遺伝の様式を追跡することに用いられている(注:1987年に、カリフォルニア大学バークレー校のレベッカ・キャノン、マーク・ストーンキングとアラン・ウイルソンが多くの民族のミトコンドリアDNAを調査し、その系譜を解析することで原生人類がミトコンドリア・イブと称されるアフリカの共通女性祖先に由来すると示唆した例が有名である)。同じ頃、エフルッシはパリを出てジフ・シュル・イヴェット郊外にある政府支援の研究センターの遺伝学部門を率いることになった。1966年には、オハイオ州クリーブランドのケース・ウエスタン・リザーブ大学発生生物学科の学科長になった。そこで彼は哺乳動物遺伝学では全く新しい体細胞遺伝学という分野の開発を始めた。この分野では、マウスやハムスターの細胞を人の培養細胞と融合して得たいわゆる体細胞雑種の作成が基本となる。これによって、ヒトの特定の遺伝子をヒトの特定の染色体と関連づけることが可能となった(注:ヒトとマウスの雑種細胞は1967年にニューヨーク大学のM. C. ヴァイスとH. グリーンによって初めて作られ、これを契機に生殖系を経ないヒト染色体の実験システムが確立された。通常はヒトの繊維芽細胞、白血球、リンパ球などと人工培地で増殖するマウスやハムスターの株化細胞を融合して作成するが、その際には1957年に岡田善雄博士が開発した仙台ウイルスと呼ばれるマウス由来のRNAウイルスが一般に用いられる)。エフルッシは1971年にジフ・シュル・イヴェットへ戻ったが、病が彼を襲い研究を続けることができなくなった。エフルッシが1979年に死んだ時、彼はフランス遺伝学と発生生物学の巨人の一人とされた。実際、バクテリオファージの研究で1975年にマックス・デルブリュックとともにノーベル賞を受賞したサルバドール・ルリアは、1976年のノーベル賞にジーン・ブラチェットとトルブヨーン O. キャスパーソンとともにエフルッシを推薦したが、そこで上げられたエフルッシの業績は 「ヒトゲノムの分析における更なる発展を約束する培養(動物)細胞を用いた新しい遺伝学分野」 の開拓だった36

 イーストマン教授としてビードルは大学の3学期間は宿舎に入居する義務を負わされていたが、春にはカリフォルニアへの数回の短い旅行をする機会を何とか手に入れることができた。オックスフォードの冬学期と春学期の間の休暇期間を利用して、ビードルは招待を受けたローマ、ナポリとストラスブルグを訪れて講演を行った。ミュリエルはこうした機会を喜び、広い地域をカバーした旅行計画を立てた。パリへの旅行では、ビードルの家族はイタリア北部を旅してベニスに立寄り、ローマを経てフローレンスへ向かい、さらにトスカナの丘に点在する街々を訪ね歩きナポリまで足を伸ばした。有名な観光名所を訪ねる旅をミュリエルとレドモンドは楽しんだが、ビードルはすぐに城や博物館などに辟易してしまった。ポンペイの遺跡へのツアーには有名なヴェッティ家の壁に描かれたポルノ絵画の見学が含まれていて、もちろんミュリエルはこれを楽しめなかったが、レドモンドも同道を許された。ミュリエルがぷりぷりしていたので、ビードルは笑って眼をこすりながら言った。 「母親の監督のもとで最初のポルノ館見学をする男の子はそうはいないだろう」 37。旅のスケジュールで疲れ果てそうになったが、彼らはイギリスへ戻る前にアルザスでのフランス流の歓迎と食事を楽しんだ。他にもエディンバラとグラスゴーに旅をして、イタリア人の糸状菌遺伝学者のグイド・ポンテコルボと会って楽しい時間を過ごした。

 ローマから帰るとすぐにビードルは父のチャウンシーが1959年4月5日に死んだ知らせを受けた。92才だった父は 「熟した老年期」 まで生きて、息子が想像を越えた成功を収めるのを見た。葬儀のためのワフーへの旅の準備をしているとき、老人ホームで父の世話をしていた一人の婦人はビードルに、 「あの方は最後までしっかりしていて、皆様のことをよく覚えていました」 と請け合った。ワフーから戻ると、ビードルとルースはワフーとその近辺にあった父の所有物の処置について色々と話し合い調整した。様々な選択肢を考慮した後で彼らは、ワフーの不動産の一部を地元の慈善事業者に売却し、その後に事業者と一緒にその区画全体を、公園か必要が生じれば学校として利用するために、市に譲渡することに決めた。ビードルの抜かりのない商売感覚で、慈善事業としての税控除とともに幾分の余剰金も得ることができた。周辺の街にあった父の何軒かの家屋は、そこに長年住んで色々と手を入れて来た借家人に与えられた。

 オックスフォードでの滞在が終わる頃に、ビードルは選ばれた一握りの著名な学者、科学者と政治家にのみ与えられてきた栄誉である名誉学位がオックスフォードから授与されることを知らされた。ノーベル賞ほどの祝い事ではなかったが、オックスフォードの名誉学位を授与されることはその壮観さの点でストックホルムでの出来事に匹敵するものだった。伝統的なイチゴとシャンペンで授与の当日が始まったので、完全なアカデミック・ドレスに身を包んだ教授達の列に先導されてオックスフォードのキャンパスを行進する気恥ずかしさにも彼は耐えることができたようだった。シェルドン劇場で開催されるオックスフォードのエンカエニアは名誉学位を授与するための一年中で最も厳かな式典である(注:エンカエニアはギリシャ語が語源で、聖ヨハネの黙示録では献身の式典と訳される。オックスフォード大学では、毎年、トリニティー学期の第9週目の金曜日に開催される)。その日に栄誉を与えられたのはビードルの他に、バレリーナのダーム・モルゴー・フォンテイン、オーストリア首相のゴードン・メンズィース、連合王国原子力兵器研究所長のウイリアム G.・ペニー卿、イギリス法学者のサマービル・ハロウ卿、歴史学者のピーター・ゲイルとドイツ人学者のエリザ・バトラーだった。様々な色のガウンを纏った大学役員に先導された受賞者達は2人ずつ並んでこれに従った。ダーム・モルゴーと連れ立つことになったビードルは、彼女と並んだのはいいが 「早足」 だったのは不運だったと後にこぼした。一人ずつ受賞者の業績が代表演説者によってラテン語で長々と賞賛された。しかしビードルにとって耳慣れたラテン語で聞き取れたのは 「アカパンカビという名の糸状菌」 と、最後の 「グレゴリウム・ウエルズ・ビードル」 だけだった38。この授賞式は、実際、オックスフォードで過ごした彼らの1年の最後に相応しい出来事だった。

 イングランドでの1年は価値あるものだったが、家族は皆パサディナへ戻る日を待ち望んでいた。彼らは8月10日にイギリスを離れ、途中ニューヨークに立ち寄ってデビッドの家族がイギリスへ引っ越す前に彼らと会ってからパサディナに22日に着くように計画を立てた。旅行を十二分に堪能したビードル達はいつもの普通の生活に早く戻りたかった。しかし家に戻った彼らは、家を留守にすることがどれだけ慣れ親しんだ記憶を曖昧にするものかを知って驚いた。誰もが間違いなく家の暖炉にはほこりをかぶった薪乗せ台があったはずと 「誓った」 けれど、ビードルが家の内部を撮った以前の写真を見ると、そこには薪乗せ台など元からなかったことが判明したのだった。



1. Muriel Beadle. These ruins are inhabited. Doubleday, New York, 1961, pp. 9-32; GWB. How to be an Eastman Visiting Professor. The American Oxonian. Bloonmington, ID Alumni Association of American Rhodes Scholars, 1959, pp. 124-128.
2. M. Beadle. These ruins are inhabited, pp. 14-17.
3. 同上, P. 27.
4. GWB, “How to be an Eastman Visiting Professor.”
5. 同上
6. M. Beadle. These ruins are inhabited, pp.79-81.
7. 同上, pp. 321-322.
8. Joshua Lederberg日記,October 26, 1958, 私信.
9. M. Beadle. These ruins are inhabited, pp.166-167.
10. Chauncey E. beadle, インタビュー. Lincoln Evening Journal, October 30, 1958.
11. 電報,October 31, 1958. CIT, DuBridge collection, Bpx 1.3.
12. Adrian SrbからGWBへの手紙, 日付なし,恐らくNovember初旬, 1958,Jo. Srb提供.
13. GWBからSrbへの手紙, November 9, 1958, Jo. Srb提供.
14. Cal Tech雑誌,Engineering and Science, November 1958.
15. GWBからMax Delbr?ckへの手紙, November 14, 1958. CIT, Delbr?ck collection. Box 2.10.
16. S.W. Golomb. 1982. Max Delbr?ck, An appreciation. Am. Schol. 51: 358-359.
17. M. Beadle. These ruins are inhabited, pp.167-169.
18. New York Times, October 29, 1958, p. 10.
19. L. Fleishman. Boris Pasternak: The poet and his politics. Harvard University Press, 1990, pp. 272-300.
20. J.L. Schecter and V.V. Luchkov, eds. Kruschchev remembers: The glasnost tapes. Boston Little, Brown, 1990, pp. 195-196.
21. Esther Lederberg, インタビュー. October 19, 1997.
22. David Beadle, インタビュー. June 27, 1997.
23. M. Beadle. These ruins are inhabited, p.181.
24. Les Prix Nobel. The Nobel Prize for Physiology or Medicine. Stockholm, pp. 32-33.
25. Irene Ehrussi Barluet,パリ,インタビュー. November 11, 1997.
26. L’Express. November 6, 1958.
27. B. EphrussiからT. Sonnebornへの手紙, October 6, 1958(恐らく、ビードルのノーベル賞受賞の知らせがあった直後のNovember 6, 1958).
28. SonnebornからEphrussiへの手紙, November 10, 1958.
29. EphrussiからSonnebornへの手紙, November 20, 1958.
30. L’Express. November 6, 1958.
31. Barluetによる引用,インタビュー, November 11, 1997.
32. GWBからEphrussiへの手紙, December 30, 恐らく1972; Anne Ephrussiの提供.
33. R.M. Burian, J. Gayon, and D. Zallen. 1988. The singular fate of genetics in the history of French biology, 1900-1940. J. Hist. Biol. 21: 357-402.
34. 同上.およびPiotr Slonimski, インタビュー,November 12, 1997.
35. Slonimski, インタビュー, November 12, 1997.
36. S. LuriaからDelbr?ckへの手紙, June 28, 1976. CIT, Delbr?ck collection, box 14.42, CIT archive.
37. M. Beadle. These ruins are inhabited, pp. 246.
38. 同上., pp. 332-335.