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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第16章 学長になる

 ビードルがカルテックを留守にしていた間にも生物学部門はうまく機能していたので、気にかけなければならないような問題はほとんどなかった。ビードルはデルブリュックとの定期的な連絡によってパサディナで起こっていることをよく把握していた。しかし、ドイツのコロン大学で遺伝学研究所を創設するために2年間の休職を要求する手紙を受けとった時には驚きを隠せなかった。デルブリュックを失うことはカルテックにとって大きな痛手であったが、数ヶ月後にビードルは申し出を受入れた。デルブリュックは多分その後もドイツに残ることになるだろうし、部門の主要な職員の何人かは間もなく退職し、他所へ移る者もあることを気遣ったビードルは、新しい職員の採用を考慮するようデルブリュックに要求したうえで、部門には分子生物化学と物理化学の研究者のバランスが必要であることを改めて強調した。2人は可能な候補者について何回か手紙を交換したが、結論はビードルがパサディナへ戻るまで待つことで合意した

 ビードルはいつも新しい挑戦を目指していたが、オックスフォードから帰るとすぐに生物学部門で起こりうると予期していた問題に実際に直面することになった。ビードルが赴任した年にカルテックの学長に就任したリー・デュブリッジはビードルとほぼ同じ年齢だったから、ビードルが学長になろうと期待することなどあり得ないことだった。それでも、ビードルの落ちつかない様子と研究所の科学的な役割にもっと積極的に関与したい意欲を察したデュブリッジは、ビードルがオックスフォードから戻ると学部長代理を務めるよう彼に勧めた。おそらくデュブリッジは、1959年末にE C. ワトソンが退職した後にビードルを学部長に任命する計画だったのだろう。ビードルには「より大きな靴を履く」能力があるとデュブリッジが確信していることをビードルは嬉しく思い、「まさかとは思いますが、それでも全く素晴らしい気分です」と伝えた。その2週間後にビードルは訪問先のローマからデュブリッジに手紙を書き、ワトソンの長年の貢献を考えて退職時までワトソンが学部長職に留まることを再確認した。ビードルは学部長代理で満足だった

 1959年の終わりにワトソンが退職したとき、ビードルは肩書きから代理が消えて正式な学部長になった。彼はデュブリッジが自分に信頼を寄せてくれることをありがたく思ったが、「学部長職が自分に勤まるだろうか?」と戸惑いも感じた。給与がかなり増えたことにも、嬉しくはあったが困惑した。ビードルは、「私にはカルテック以上によい場所は他にない」と言葉を添えて、学部長職を受けた。重責を引き受けるに相応しくはないと主張した理由の一つは、ポーリングの政治的主張と活動に対して評議員達がとった処置に対して過去に非難する声明を出したことだった。特に5年前にカルテックの広報でポーリングの活動を弁護した事実に触れたロスアンゼルス・ミラーの記事が評議員達に対するデュブリッジの立場を悪くするのではとの気遣いが学部長職を固辞した理由のひとつだった。だがデュブリッジはビードルの懸念を少しも気にもかけず、これは問題にならなかった

 ノーベル賞受賞者としてビードルには以前よりいっそう講演者としての役割が重くのしかかって来ていた。彼の話題はますます科学の「核心」とは遠い内容になっていった。ビードルは生物学の進歩が「市井の人々」にとってもっと意味のあるものになるにはどうすればよいか、科学に携わる者は社会の問題についてどう関わるべきかについて多く語るようになった。ヨーロッパから帰国した直後にワシントンDCで開催された未来のための資源に関するフォーラムで、ビードルは「人類がどのようにして動植物の進化を自分達の目的に沿うよう方向付けてきたか、知識をどのように未来を決めるために用いて来たか」について語った。同時に彼は「こうした行為をこれまで以上に多くの知恵を用いて続けなければ、私達は惨めな失敗を味わうことになるだろう」とつけ加えた。彼は「科学と社会のギャップ」には橋渡しが必要で、その仕事を始めるのはアカデミアであると信じていた。しかし、科学と技術に重きを置き人文学や社会科学には僅かな関心しか示さなかったカルテックはそのための努力を始める場所では到底なかった。

 科学と社会の乖離に橋をかける仕事を始める機会が1960年の10月に思いもしないところから持ち上がった。ある午後にビードルはデュブリッジのオフィスから電話を受けた。「ビードル博士、シカゴから立ち寄られたグレン・ロイド氏と短時間でもお会いになれますでしょうか?」。ビードルは承知したが、お会いするのは出席する予定のセミナーが終了した後になると伝えた。しかしセミナーは長引き、部屋へ戻ったのは午後5時半を回っていた。彼を辛抱強く待っていたのは「帽子を手に持ちベストの着いた服を身にまとった明らかに東部の小柄な紳士」だった。困惑したビードルは、ミュリエルは突然の客にも十分な食事を用意できると期待して、ロイドを夕食のために家へ誘った。幸いにもミュリエルは客をもてなすためにチキンを余分に提供することができた。ロイドがカルテックへの寄付を申し出に来た人物か、商売人か、世論調査人なのか全く分からなかったから、2人の会話の初めは丁寧ではあったが中身のないものに終始した。暫くしてロイドは自分がシカゴ大学評議会の議長であることを明らかにして、シカゴ大学が新しい学長を捜していること、可能性のある候補者について助言と提案を求めてビードルを訪問したのだと告げた。ビードルは大学の管理者や公的職務に就く何人かのよく知られた人物の名前を挙げたが、ロイドはその提案を丁寧に記録してビードル家を辞した。

 人事調査委員会は5人の評議員と補佐役の5人の学部評議会委員で構成されていた。「シカゴに優れた研究者達を引きつけうる輝く光となるような自ら最高の科学者」を学長として求めるべきだという強い合意が初めからあった10。そのような人物探しでは、評議員と学部の合同委員会が適当な候補者の名前を広い範囲から求めるのが通例だった。ロイドがビードルに会う前に、委員会は375人を既に調査ずみだったが、そのリストに上がっていたのは高名な政治家と有名な大学長や経営者達で、そのほとんどが実は望み薄か適当な人物ではなかった。ビードルは優れた生物学者で生物科学部門長のローウェル T コッゲスホールと何人かの優れた人文学者、自然科学者と重要な研究所長達から推薦を受けていた。調査委員会の学部委員で明らかに主要な役割を担っていたエドワード・レヴィーはビードルがシカゴ大学の学長として十分な「器量を持つ人物」であるか自信が持てず、ビードルを望む声が大きいとだけロイドに状況を伝えていた。そのこともあって、ロイドがカルテックを訪ねてシカゴへ戻った後にはビードルを候補者として推す声は小さくなっていた11

 しかし、レヴィーの懸念からもビードルとの非公式な出会いからもロイドがマイナスの印象を受けていなかったことは明らかだった。実際、ビードルとミュリエルは1ヶ月後にはシカゴへ招待され調査委員会の委員全員と会うことができた。その会合でビードルは、学長職への意欲という点では、委員会に喜びも失望も与えることがなかったようだ。ビードルとミュリエルは、評議員達がシカゴで最も精力的で洗練され公共意識の強い実業家や専門家であり、シカゴ大学を熟知し、大学に対して親密で熱意を持った人々だと感じ、彼らに強く肯定的な印象を持った。一方、2人にはシカゴへ移ること自体はそれほど魅力的ではなかったようだった12。その後の何回かの訪問でビードルは多くの部門の主要な教員達に会い、学長に選ばれた場合の抱負を率直に話すことができた。明らかにレヴィーの当初の懸念は払拭され、選考手続きは順調に進んで、ミュリエルがキャンパスを訪ねて学長邸の住み心地を調べることになった。大学がビードルと接触しているという噂が広まるのを避けるため、それに交渉がうまく行かなかった場合に大学の印象が損なわれることを避けるために、彼らの訪問は秘密裏に行われた。実際、学部教員のうち限られた人間しかビードルが有力候補である事実を知らなかった。

 シカゴ訪問の間、ミュリエルは明らかにキャンパスと周辺の様子に「ご不満」だった。彼女はキャンパスの建物が「灰色のゴシック風」ばかりであることと「ゴミの散乱した通りに面した煤で汚れた石の建物」やシカゴに来ることになれば住むことになる筈のビクトリア風の家々に満足できなかった。一方、ビードルにはパサディナを離れることへの躊躇が続いていたが、彼はシカゴからの再度の招待を断ることができなかった。調査委員会はそれまでの訪問でビードルが会う機会のなかったレヴィーにビードルを会わせようと思った。レヴィーは、大学の長所をあげつらうのではなく、むしろ多くの問題点を強調して、額面通りにそれらを引き受けるようビードルを挑発した。シカゴ大学は70年間も混乱の渦中にあり、ビードルには継続中の課題解決への果敢な挑戦が求められた。明らかにレヴィーは挑戦から逃げることができないビードルの弱点を既に理解していた。レヴィーはビードルの人生にその後も大きな影響を与えることになる。

 調査委員会は1960年12月の終わりにビードルの採用を決定した。彼らは「ビードルの人間としての謙虚さと誠実さに加えて分析能力、決定的で直裁な応答と行動から強い感銘を受けた」。彼らは「ビードルの広範な学術的造詣」を高く評価し、「ビードルが現実の課題の効果的な解決に向けて知識を総動員すること、科学の全ての領域を互いに関連付けるとともに焦点を絞る必要性を確信していることに魅力を覚えた」13。シカゴ大学の第7代最高経営責任者である学長への正式な招聘を受けたビードルはこれを速やかに引き受けた。レヴィーはすぐに手紙を書き、「今や貴兄の大学となったシカゴ大学の指導を引き受けて頂けたことを誰もが嬉しく思っています」と伝えた14。ビードルは返事を書いて、「シカゴで直面すると予想される問題を貴兄から率直に伺っていなかったら、さらに問題解決に対する貴兄の情熱と勇気がなかったなら、この陽光に恵まれたパサディナの地から私達が去ることはなかったと存じます。これは私の本当の思いです」と伝えた15。大学運営委委員会は公式の任命を1961年1月12日に発した。生物学の教職員を除いてビードルが何者かを知る者は多くなかった。それでも、ビードルが高名な遺伝学者でノーベル賞受賞者であることを知ると、多くの教職員は彼がシカゴ大学に栄誉をもたらし、優れた人文学者や科学者をキャンパスに引き寄せてくれるだろうと期待した。

 デュブリッジはビードルがシカゴと交渉している事実と彼が移籍に複雑な思いを当初は抱いていたことを知っていた。ビードルは自分が「放心状態にあった」ことを認めながらも、2億5,000万ドルの寄附を手にする一方で3億5,000万ドルの問題を抱えるような挑戦を果敢に引き受けた16。デュブリッジはビードルが去ることがどれほどの損失をカルテックに与えることになるかを理解し、その危険をよく知っていたが、パサディナに残るよう説得しようとはしなかった。デュブリッジは事態を理解していた。その年の初めにビードルはデュブリッジにシカゴ大学の学長を引き受けることを正式に報告し17、その後すぐにロイドとE. L. リーアソンがデュブリッジに決定を通知した18。ニュース報道を伴った公の声明でデュブリッジは以下のように語った。「ビードル博士を失うことはカルテックにとって非常な痛手です。博士はカルテックを合衆国で最高の生物科学研究センターのひとつに致しました。学部長としての新たな立場で教育の一層の発展に向けた様々な取組をまさに始めたところでした」。ところで「レームダック」学部長あるいは議長にはなりたくないと考えたビードルは直ちにカルテックに辞表を提出した19。一週間のうちにビードルはカリフォルニア・クラブでシカゴ大学ロスアンゼルス同窓会に向けて所信を表明した。彼はそこで、最高の教員と学生を引きつけること、大学周辺の環境改善を継続し、新しい建物を建築するための寄付金と教職員の給与の増額などの取り組むべき最優先課題を明確に列挙した。正式な任命を受ける前に既に仕事を始めていたのはビードルらしいやり方だった。

 ビードルがシカゴへの移籍を考慮していることに気がつかなかったカルテックの同僚と学生達はこのニュースに驚いた。多くは困惑し、「何故ビードルはカルテックを去ろうと考えたのか?」と訝った。カルテックに対する不満や何らからの圧力があったとは思えなかったし、このような思い切った行動を説明する根拠を見いだすことはできなかった。半年前には確かにビードルは世界中でカルテック以外の場所は考えられないとデュブリッジに語ったのではなかったか。ビードルは既に多くの時間をシカゴで過ごしていたから、こうした疑問への解答は推測の域を出なかった。15年以上も指導者として務めた比類のない職務遂行の実績から彼はすでに「個人崇拝」の対象になりつつあり、彼の退出が差し迫った今、カルテックはこの先どうなるのだろうという不安が募った。

 指導者不在の状態は避けなければならないと考えたビードルは、辞職が公表された数日後にはレイ・オーウンの生物学部門長引き継ぎと給与の増額をデュブリッジに申し出た20。デュブリッジはオーウェン次期部門長の就任を求める部門の教員からの署名付きの要請書も受けとった。ビードルは再度デュブリッジに書簡を送り、部門の決定と同時にオーウェンにモルガンハウスを住居として提供するよう要請した21。オーウェンは、代理ではなく終身で、さらに少なくとも5年間は研究室を維持できるという条件付きで議長を引き受けた22。ビードルの出発が発表されて2週間が経たないうちに、カルテックの生物学部門には新しい部門長が誕生することになった23

 教職員と学生達は、伝統的なカルテックのやり方で、すなわち重要な研究者達を交えたカルテック専属劇団グループが「何がビードルを去らせたか」と題した「悲喜劇オペレッタ」を演じることで、ビードルに対する彼らの愛情を表現した24。そのユーモラスで感情を強く表現した演技はビードルとミュリエルへの暖かく愛情溢れた彼らの思いを疑う余地なく伝えるものだった。劇は「カルテックの歴史上最も暗黒な日、1962年1月5日」と題した場面で始まった。「その日は」で詠唱が始まり、以下のように続いた。「私達は誰もこの日を、ジョージ・ウェルズ・ビードルがシカゴ大学の学長となる決心を下したこの日を忘れることができない。カルテックに降り掛かったこの悲劇は過酷、無慈悲、不可避で、メディアかメイム叔母さんか、はたまたリア王か、ある男の家族であるかのように皆が熱狂し騒ぎ立てた(注:メディアは古代ギリシャのエウリピデス作の悲劇で、自分を裏切った夫への愛情と復讐の相克劇。メイム叔母さんはパトリック・デニスによる1955年の小説を映画化したコメディーで1958年に初上映された。大胆で熱狂的で自由奔放なメイム叔母さんと甥のパトリックを中心に繰り広げられる喜劇である。リア王はシェークスピアの4大悲劇の一つ。ある男の家族は1932年から1959年まで続いたラジオを媒体とした長編のソープオペラで、1950年代初めには2度テレビ化されて放映された。サンフランシスコに住む株式仲買人のヘンリー・バーバー、妻ファニーと5人の子供達が織りなす家族生活を描いた人気作品だった)。この凄まじいショックを忘れることができようか?その衝撃はマグニチュー9を記録した。教授達は咽び泣き、秘書達は失神し、この3年間陽の光を見ることのなかった真面目な大学院生達は実験室を飛び出て叫び声を上げた。カルテックのあらゆる場所から同じ苦痛に満ちた疑問が沸き起こった。何故?何故なんだ?恐れと贖罪とヒステリーが幾重にも重なったその根底を無慈悲に探ることで、私達の劇は何故ジョージ・ビードルが私達のもとを去るのかを明らかにして見せよう。「何がビードルをそうさせたか」を演じてみせよう」。

 コーラスが、ギルバートとサリヴァンのオペラ風に、時折真面目な台詞をちりばめて、ビードルとミュリエルを去らせた罪を認めた歌「ジョージの思い通りにさせよう」、「我々は何をしたのか」、「ブルージーンズ(遺伝子Genes)」を大声で歌った(注:アーサー・シーモア・サリヴァンは作曲家、ウィリアム・ギルバートは作詞家、劇作家で、二人ともイギリス人。19世紀後半に二人が組んで14の喜歌劇を創作した)。「ビードル一家の自然生息地であるパサディナに住む彼らを研究するために」オックスフォードからやって来たひとりの英国人女性を演じた役者が、自分は大英帝国の命令でミュリエル・ビードルに会いに来たのだと表明した。彼女の任務はミュリエルのベストセラー本「この廃墟に住む」の続編として「ここは廃墟である」を書くことだった。次から次のふざけた劇の後で、ミュリエルが自ら舞台に出て馬鹿騒ぎを辞めるよう要求したうえで、これからビードルが去る本当の理由を明かしましょうと告げた。彼女は「これは生物学的なことなのです。変態(メタモルフォシス)なのです」と言い、続けて「ジョージは最後の重要な羽化段階」に入ったのですと説明した。自分達に非はないと告げられたことに救われて、「ジョージは本当に私達が好きで、私達がへんてこりんな、インテリぶった変わり者だったから去るのではないと言われるのですね」と役者の一人が答えた。ミュリエルが「ジョージはあなた方を世界で一番素晴らしい人間達だと考えていて、あなた方が大好きです」と繰り返すと、ビードルの同僚達がビードルとの別れを諦める最後の歌が続いた。コーラスは次の歌で終わった。「彼と一緒の時間を持った私達は幸せでした。ビードルを喜んで送り出しましょう。泣いてみても、止めてみても無駄なこと。ビードルとそのDNAにさよならしなければなりません。貴方がカルテックになされたご恩に感謝します。貴方がこれからシカゴでなさろうとしていることに敬意を表します」。

 ビードルの重責は1961年3月16日に始まることになっていた。それでも、挑戦的な機会を脇に置いておくことのできない彼は2月にはシカゴへ移って、新しい大学の複雑さに自ら身を置き、任用交渉時の訪問では明らかにならなかった多くの問題を学ぼうと努めた。ビードルは昼食と夕食をとれる大学の職員クラブだった中庭クラブに落ち着いた。慢性の早起きだったビードルは中庭クラブが朝食の提供を始めるよりずっと早く目を覚まし、他の早起き達に混じって朝食をとり朝刊を読むために数ブロック歩いて24時間営業の病院のカフェテリアに通った。彼は決まってオフィスの一番乗りで、いつもの普段着姿から管理人の一人と間違えられることが多かった。ある朝、朝食から戻ったビードルは本部玄関の階段に座って玄関が開くのを待っていた学生に出会った。ビードルはコーヒーを飲もうと彼をオフィスに招き入れ、接見のために用意され部屋に連れて入った。自分を招き入れた人物が管理人の一人ではなく学長だったことを知った学生はどんなに驚いたことだったろう25。現場で過ごしたそうした数週間で、ビードルは大学の学長オフィスがどんなところかを学び、レヴィーが以前に仄めかしていた問題についても多くを学んだ。

 シカゴの新聞記者達との最初のインタビューでビードルは優先事項のひとつは科学と人文学の乖離を解消することだというのは本当かとの質問を記者から受けた。二つは相補的で混ざり合っており全てが人間の文化を構成する部分だと彼は答えた。後の講演でビードルは、新学長は科学者だから人文学ではなく科学に偏った重きを置くのではないかと恐れる学生達に、「科学と人文学を分離するのは誤りである。科学は、文化が科学に対抗するよりは文化に対抗的ではない。知識人は両者のバランスを求める必要がある」と彼のいつもの考えを伝えた26。科学以外の教員達はビードルの公平さを喜び、他部門の繁栄に比べて生物学部門が停滞気味であることを気遣っていた生物学教員の多くはシカゴの生物学をカルテックのレベルにまで押し上げてくれることをビードルに期待した。

 大学の厄介な状況に「慣れる」ためのこの期間に、ビードルはシカゴ大学がカルテックよりかなり複雑な組織であることをよく理解した。シカゴ大学は独自の教員組織をもつ学部生のためのカレッジと自然科学、人文学、社会科学と医学と11の付属病院を含む生物科学領域の4つの大学院部門で構成されていた。その他にも経営学、教育学、法学、神学を含む7つの専門大学院と社会福祉学大学院があった。生物学部門に不可欠な組織として医学部をもつ特徴がシカゴのある種の障害となってきたことに彼はすぐに気がついた。基礎研究と臨床研究を同時に遂行することで大学における分子生物学の発展が遅れる結果をもたらしていると主張する教員もいた。その他にもハーパー記念美術館、大学の中央図書館に付属した17の学科図書館と書店があった。東洋博物館、大学新聞社、障害児童教育センターは独立した経営組織ではあったが、その活動は学部と大学院の学術および研究の必要に奉仕するものだった。さらに大学にはアルゴン国立研究所の管理という責任があったが、この研究所は原子爆弾の開発を支援したマンハッタン計画に関与した冶金学研究所の直接の後継機関で、現在は平和目的の原子炉の開発に携わっていた。明らかにこうした事業全体の経営はビードルがそれまでに経験したどんな仕事よりも決定的に挑戦的で広範なものだった。

 ビードルはシカゴ大学が占める高い学術上の地位を十分に理解していたが、実際シカゴ大学は戦後の幾多の困難に直面していたとはいえ主知主義を標榜する揺るぎない学術の殿堂であった。しかしビードルは戦後に大学が経験した困難について十分に熟知していた訳では恐らくなかった。深刻な財政負担と大学周辺環境の劣化が学部学生と大学院生の劇的な減少を招いていた。優秀な教員を失ったことで大学の高い学術的名声は深刻な崩壊の兆候を見せていた。1950年代にはしかし、こうした衰退状況も部分的に安定し、向上の兆しも見えていた27。新しい指導者を得た今、大学はもう一度大学本来の役割である教育と研究に全力を傾ける時だった。学長職を引き受ける準備があると決めた時からビードルは、今は安定しているが周辺環境の問題には継続した警戒と十分な改善に向けた努力が必要だと理解していた。彼自身の主要課題は大学の経済的安定度と劣悪化しつつある施設や設備を回復することだった。予測困難な直面する問題はベトナム戦争の始まる以前から続く教員と学生達の政治問題化だった。レヴィーの指摘はビードルが直面する困難の大きさを決して誇張してはいなかった。

 学長としての正式な任務に就くまでの期間を長引かせる理由はなかったから、ビードルは新学期の開始を伝統より数ヶ月早い5月4日にするよう評議員達を説得した。彼は自ら担う新しい大学経営という挑戦に早く取り組みたかった。シカゴに来て2ヶ月の内にビードルは物事を速やかに進め、大学の学術と経営に関わる職員との会議を昼間はもちろん夜も開いた。夜間にキャンパス・ポリスの車に同乗してキャンパスを走り回ることで大学共同体の犯罪関連状況をつぶさに観察することができた。始業式までに彼は大学のイメージを高め学術活動を活性化するために何が必要かを明確にしようと努めた。

 新学長の就任式は戴冠式と同様に華麗さとともに将来計画と期待と希望が溢れた大学にとって例外なく権威ある場だった。形式美を伴った行事は伝統を堅持しつつ新しい学長に未来への展望と計画の提示を促す場だった。ビードルは限られた数のエリート達に学長として選ばれたが、就任式はより広い大学共同体が新学長の就任を祝福し歓迎する機会となった。未来の同僚達に加えて、合衆国の300の大学とカレッジの他に50の海外大学からの代表者とビードルの要求によって招かれた300人の学生達が祝いの儀式に参列した。ビードルとミュリエルの沢山の近しい友人達と家族が遠くからやって来た者も含めて列席した1が、残念なことに息子のデビッドの参加はなかった。

 就任式関連の行事が、実際の開始日の前夜に、シカゴのミシガン湖に面した景勝地に立つ全米第一の会議センターのマックコーミック・プレースで始まった。それは地域、シカゴ市、州政府と市民および財界の指導者達が大学の新しい学長と会う最初の機会だった。リチャード・ダリー市長がビードルの家族に歓迎の辞を述べ大学活動への支持を誓った。ビードルは、以前ロックフェラー財団に所属し現在はアルフレッド P スローン財団に務める古い友人のワレン・ウィーバーが参加してくれたことを殊の外喜んだ(注:スローン財団は、1934年にゼネラル・モータースのスローン社長が設立した科学・技術への支援事業を主な目的とした非営利団体)。ウィーバーは30年近く昔にカルテックでビードルに会ったことを思い出し、その後のスタンフォードでビードルが「現代的な生化学遺伝学の洗練された明らかな研究教育体系を打ち立てたこと」に言及した。彼はビードルの発見が生物学の新しい時代を導いたことを理解しており、ビードルとポーリングを同時にカルテックに招聘するのを支援したが、それはカルテックで「分子生物学」が現実のものとなるとの展望があったからだった。彼は思い出して次のように付け加えた。「ある時」ロックフェラー財団の昼食テーブルでの議論で、「私はノーベル賞をすでに得た研究者に研究資金を与えるのは簡単なことだと述べたことがありました。それには世界の人名年鑑に乗ったリストと小切手帳がありさえすればよろしい。しかしこれからきっとノーベル賞を取るであろうと期待できる若い科学者を支援することこそ本当の楽しみで真の満足を与える仕事なのです。私は10年以内にノーベル生理学・医学賞を取ると期待できる2人の若い合衆国研究者の名前を挙げて3対1の歩で賭けることができました。それは大当たりでしたが、2人の名前はヴィンセント・デュ・ヴィニョー[1955年に受賞]とジョージ・ウェルズ・ビードル[1958年に受賞]でした」。ウェーバーはより建設的な意見を述べて、新学長と大学はX研究所を建設しY計画を策定するなど狭い部門を振興するよりは、「教育の統合」を目指すべきだと訴えた28

 ビードルの短いスピーチはシカゴの偉大な建築家ダニエル・バーナムの訓戒にあった「小さな計画を立てるなかれ。そこには人々の心を動かす力はない」を聴衆に思い起こさせた。ビードルはシカゴ大学とシカゴ市にとって価値ある「大きな計画」を約束したのだった29

 「改修されたゴシック調の」記念チャペルが学長就任式に伝統的な素晴らしい場を提供した。記念チャペルは1910年のジョン D. ロックフェラーの1,000万ドルにも及んだ寄付金の一部で1926年から1928年に掛けて建造された建物で、ミッドウェイ・プレサンスに面した中庭を囲む建造物の南東の端に位置していた30(注:ミッドウェイ・プレサンスは、シカゴ大学キャンパス南部に存在する公園。220ヤードの幅で1マイルの長さを持ち、59番街と60番街を経て西側はワシントン公園に東側はジャクソン公園に続く美しい公園である)。チャペルの内部は宗教的なモチーフと紋章を表現した着色タイルの象眼模様で飾られた威圧的にそびえ立つアーチ型の天井が特徴的だった。鉛で枠囲いされた高く狭い窓からステンドグラスを通して入り込む光が内部を微かな灰色、緑色と青色に染めていた。チャペルのパイプオルガンは合衆国の大学で4つの偉大なオルガンと称されるひとつだったが、就任式の進行に相応しい音楽の伴奏を添えた31

 雨の恐れも、結局そうなることはなかったが、大学評議員の行列行進への身支度を躊躇させることはなかった。推定2,500名の参列者が見守るなかを、色彩豊かに輝く伝統的なアカデミック・ドレスに身を包んだ様々な部門の教授達と招待客がチャペルに向かって行進し、ビードルがそれに続いた。自前のガウンを見つけることができなかったビードルは、10年前に学長だったL. A. キップトンが就任式で用いたガウンを借りて身につけた。二人はともにコーネル大学からPh.D.の学位を得た仲だった。ビードルはまず「講演者の席」に着き、評議会議長による新学長への任命の後で、伝統に従って学長オフィスのシンボルである「儀礼机」に移った。間奏曲と就任挨拶に続いてビードルは学長としての最初の公式行動として化学者のロバート B. ウッドワードと生物学者のジェームス D. ワトソンを含む花形研究者達に名誉学位を授与した。

 ビードルの就任演説はシカゴ大学と理想的な仮想大学Xを比較するという古くからの修辞的な特殊表現に則ったものだった32。ビードルは、「X大学の本質的な姿は人類が蓄積してきた文化全体、その歴史、宗教、芸術、音楽、文学、科学と技術を保存し、評価し、理解し、未来の世代へ引き継ぐこと」だとする自身の信念を述べ、研究と研究が生む学識こそが「この蓄積された知識を止むことなく変革し時代に即応したものにする」のだと付け加えた。「個人は、こうした過程に参加することで独創的な発見が与える比類ない喜びを経験する必要がある」と感じていたビードルは、「独創的な発見がもたらす満足を経験したことのない者」にとってはこれを理解するのは難しいことだと付け加えた。学部学生に対するリベラルな一般教育は、それが専門性をもつ大学院教育と共存する環境でのみ可能だと信じたビードルは、研究上の評価を優先して学部学生の教育を蔑ろにするウォーレン・ウィーバーが「知的な無能者」と名付けたトップ研究者達に対して批判的だった。チャールズ P. スノーが「二つの文化」と評した人文学と科学を理解する際の障害はビードルの仮想X大学には存在しなかった(注:スノーはイギリスの物理学者で小説家)。ビードルの目指す大学は、全ての科学者達の訓練が真にリベラルな教育を受けることから始まり、人文学者と社会学者が科学への深い理解と評価を吸収できる場であった。

 ビードルは学術の自由が阻害される脅威への懸念を伝えることに情熱の多くを傾けた。目指すべき大学Xでは、政府の奨学金を受給する学生達が「私は力による合衆国政府の転覆を信じあるいは教唆するいかなる組織も信頼あるいは支持しない」との宣言文に署名を強制されることは決してない。ビードルは連邦政府による学生ローン計画の受入れ中止を決定した評議員達を讃えてそう明言したが、それは政府が奨学金を受給する学生達に宣誓供述書の提出を求めていたからだった。さらにビードルは、「真実の制約なき追求に専念すべき学術機関は、学生達が疑問を表明する権利と彼らの思想を疑い制限するどんな条件も受入れないだろう」と宣言した。同時にビードルは、学生達には「国法を支持しこれに従うよう誓約する」こと、誓約への違反がもたらす結果は甘受すべきであると要求することも忘れなかった。共同体の仲間を含む多くの関係者は学術の自由へのビードルの揺るぎない献身に拍手を送った。しかし、卒業生と地域の軍人の中には、連邦政府の奨学金援助を受ける学生達は力による連邦政府の転覆を目指すどのような行動も取ってはならないとする政府の要求を擁護しようとしないビードルに対して怒りを表明する者もあった。

 ビードルはシカゴの財政状況と物理的基盤は仮想大学Xとは対象的に極めて不十分だと確信していた。これらの不足は大学が求める優秀な研究者を引き止めあるいは引き寄せることを困難にしていた。より豊富な資金とより良い施設設備を整えることがビードルの大学運営の最優先課題であり、もしその目標達成に成功しなければ大学の知的資産は消滅の危機に曝されるだろう。過去10年間に大学が直面して来た困難にビードルは言及せざるを得なかった。一方、仮想大学Xは騒がしい社会の要求から遠く離れた田舎に位置すべきだと当初信じていたビードルも、「シカゴ大学は隔離された状態では魅力を欠き重要な機関であり続けることが難しいだろう」と認めざるを得なかった。「スラムを立て直し改善して市の美しさを取り戻し、主に肌の色が原因でそれまで欠けていた教育と社会的機会を学生達に提供する方法を学ばなければ」、自分達は合衆国の基礎を作った先達に申し訳が立たないとビードルは思った。「課題から逃げたり目を背けたりしては希望の達成は不可能である。偉大な大学が重要な問題を解決するための知識、知恵と力を貯えて利用しないのでは、一体他の誰がそれをするのか?」と彼は訴えた。ビードルのスピーチに対する地域と全米のニュースメディア、それに大学教職員達の反応は極めて好意的だった。ビードルには学長として直面する困難を克服する十分な用意があると皆が感じた。

 ビードルが直面する主要な挑戦課題は、恐らく彼自身と人事調査委員会が認めていたように、シカゴ大学のアカデミックな名声を高めることだった。それは既存の教員の流出を止めることと同時に優秀なトップ研究者と教育者をシカゴに招聘することだった。赴任した数ヶ月後の評議達との最初の会合で彼は大学と教職員組織の強みと弱みに関する最初の評価を語った。それが行動の優先順位を決めるための最初の段階であることを彼は明確に述べた。それに、彼の念頭にあった改革と改善を進めるには、新たな十分量の資金の獲得が必要だった。

 教職員に向けて開かれた評議会主催の例年夕食会での「新学長の抱負」と題した講演でビードルは、弱点を犠牲にしても強みを生かして大学を活性化させる方策の重要性を強調した33。どんな分野であれ5つのトップ学科を強化することだと定義した同僚経済学者のジョージ・スティグラーの基準を引用して、ビードルは大学がもつアカデミックな地位に関する唯一正統な評価は「卓越分野の選択」であると提案した。その評価基準と彼自身の明白な主観的評価尺度に基づいて、ビードルは4分野と7大学からなる42の学術ユニットのうち10ユニットは優れており5ユニットはトップだと評価した。「この状況はかなり良いと評価できるが十分ではない」。大学の目指すゴールは部局を越えた高い名声であり、これを実現するにはより豊富な資金が必要だった。ビードルは求める水準の名声にまで大学の知的、物的資産を高めるには年2億ドルを獲得する必要があること、従って信じ難いほどだが40億ドルの基金が必要であるとの見積もりを述べた。明らかにこれは実現不可能で思いもよらない金額だったが、優先分野を指定し振興するには注意深く慎重な選択とあくまでも最高の水準を求める断固とした姿勢が必要だった。彼の目標は合衆国でトップ水準となる20の学科を作ることだった。ビードルは「選択的卓越基金」と名付けた評議会による特別基金の創設を宣言して講演を締めくくった。特別基金は大学に優れた教員を獲得するとともに既存の優秀な教員を引き止めておくために必要だった。

 学術の再興を目的としてこれだけの実質的資金を調達するのは難題だった。過去10年間、周辺環境の悪化を食い止める事業にほとんど一意専心と言ってよいほどに集中して来たために、シカゴ大学の資金調達基盤はすっかり疲弊してしまっていた。資金調達の努力をより集中し首尾一貫したものとするには学長オフィスがまず実証的な存在とならなければならず、その最初の仕事は大学経営と教職員組織を運営するための「マスタープラン」を確定することだった。しかし資金調達と教員獲得のための効果的な基盤を作る取組はそれまで考えられていたよりよほど野心的であることが分かった。ビードルはまず「高尚」な肩書きであるチャンセラー(総長)の廃止を要求した。ビードルの提案に基づき、以後は大学の最高権力者を以前のプレジデント(学長)の名称で呼ぶことに評議会は同意した。

 ビードルはすぐにシカゴ大学の構成と教職員組織の特異な行動様式が自ら親しんだカルテックのそれよりもずっと複雑であることを理解した。カルテックでの経験は、全教職員数が275名でしかない研究機関の19名の教員が所属する一部門の管理運営に過ぎなかった。彼の学生への関与は生物学を専攻する学部学生とPh.D.を目指す大学院生に限られていた。生物学部門の活動に必要な資金の獲得は、重要な任務ではあったが、圧倒的な関心事ではなかった。カルテックではアカデミッックな提案は学長と学部長が発信し、確立された仕組みを通じて教職員と学生に「降りて来る」のが通例だった。生物学部門の長としてビードルは、やらなければならないと考えることは命令ではなく同意によって行うという親密なやり方で、同僚との関係を作って来た34。対照的にシカゴでは大学全体と部局の主導権は学部教員組織がもっぱら握っていた。

 ビードルがそれぞれ異なる学術上の事業活動に習熟しそれらの調整が可能となるのに必要な時間は、明らかに評議会が必要と考える緊急度とは相容れなかった。ビードルの負担はミュリエルには明瞭だった。「何という一月だったことでしょう。避けようのない仕事の圧力と義務が日ごとに増えて、哀れなビードルはひと文字も書けないほどに疲労困憊して。一刻の休みもない一日を終えた夜に家に帰ると酷い疲れからそのまま眠ってしまうほどでした」35

 ビードルの最初の1年が終わる頃には新しいプロボースト(副学長)が任命され、そのためのオフィスを設置する決定がなされた36。副学長は学長の下に置かれた大学管理の責任者であり大学の予算権限を持った。副学長に任命されたエドワード・レヴィーは、一旦は躊躇したが新たに設けられた職責を担うことに同意した。副学長職を設けることとレヴィーを副学長に任命する指導権を発揮したのは評議会だったかビードルだったかは明らかでない。恐らくレヴィーをよく知り尊敬する評議員の何人かが主要な推薦者だったと思われる。実際にレヴィーは法科大学院の管理者である院長として成功裏に手腕を発揮し、最近では学部生のためのカレッジを創設する委員会の長を務めた他、ビードルをシカゴに招聘する選考委員会の委員でもあった。一方で、レヴィーこそ副学長として理想的な人物だとビードルがカルテックの同僚達に語ったという噂があったことからすると、レヴィーを推薦したのはビードル自身だった可能性もあった37。レヴィーに学長就任を説得された時以来、ビードルは大学の学術、管理と財政活動に関する彼の深く幅広い知識を高く評価し、彼が部局で高い評判を得ていることを熟知していた38。確かにレヴィーは地域から高い評価を受けており、学長候補者として名前が挙げられたことがあったが、シカゴ大学はユダヤ人の学長を受入れる用意がないと信じた彼は、選考開始に当たって、自分は学長候補者として考慮されることを望まないと明言していた39。大学の学術面に責任を負う人物として、レヴィーは大学の資金配分過程の管理者であるとともに学術指導者としての影響力を通じて教職員組織の若返りを図る重要な任務を担うことになった。一方、ビードルの任務は大学の「外向き」事項と資金調達の管理であり、実質的に大学全体の声としてその価値と使命に関する展望を学外に向かって発信することだった。

 新しい2人の協力関係が公表されると、このニュースは大学再興に向けて重要な進展をもたらすとして大いに歓迎された。優秀な教員を新たに呼び寄せるために必要な3億ドルの資金を用意する約束を評議会から取り付けたビードルとレヴィーは即座に戦闘的ともいえる招聘作戦を開始した。教職員の大部分はレヴィーが大学の学術関連事項の指導権を引き受けることにビードルが積極的である事実を評価した。自我を強く主張するのはビードルの弱点ではないことが明白だった 40。それにも増して重要な点は、2人の間に競争や他を出し抜こうとする意図を示す証拠が少しもなかったことだった41。ビードルの学長書簡には2人の間で交わされたメモや文書がほとんど存在しないことから、隣接する執務室で2人は頻繁な会話の時間を維持していたと考えられる42。時折ビードルはレヴィーからの留意事項が書かれたメモにコメントを走り書きしたり、気がかりな課題について話し合いを提案したりした。協力関係は面白いようにうまく運んだが、それはひとつには「レヴィーがビードルを仕事の上で協力し易い人間であると感じていたからであり、2人が互いを尊敬し合うよい仲間で互いに相手を必要としていたから」だった43。二人の良好な協力関係はビードルが学長であった期間を通じて存続し、結果としてレヴィーはビードルの後継者としてシカゴ大学の第8代学長に就任することになる(注:第17章参照)。

 ハイドパークとケンウッド周辺で育ったレヴィーはシカゴ大学のK-12実験学校に入学し、カレッジと法科大学院を共に優秀な成績で卒業した44(注:K-12実験学校は、1896年にジョン・デューイがシカゴ大学に設置した学校が最初で進歩主義教育運動の原点となった)。レヴィーは1938年にイェール大学でスターリング・フェロー奨学生として法理学の博士号を取得した後すぐに法学部の講師としてミッドウェイ・プレサンスに戻った(注:スターリング・フェローシップはイェール大学の卒業生ジョン・スターリングの寄附により1918年に創設された奨学金制度で、イェール大学への1億ドル以上の大口寄附者に与えられる尊称をもつスターリング・フェローの寄付金で賄われている)。優れた教育と学識を評価された彼は12年後には法科大学院の院長になった。彼は院長としてトップの法律専門家をキャンパスに招聘し、経済学者と社会学者を加えることで大学院教員の多様化を促進し、法学カリキュラムを大幅に変えて全米に広めるなど大きな成功を収めた。ビードルはレヴィーの驚異的な説得力と才能がシカゴに優秀な研究者を集めるための探索を始める際に大いに役立つことを信じて疑わなかった。エドワード・レヴィーの妻となったケート・ザルツバーガー・ヘフトは長い間大学に関与した家族のもとで育ち、彼女自身が素晴らしい人格の持ち主だった。ケートの家族的背景が彼女に研ぎすまされた社会的才能を与えていたので、彼女はシカゴのビジネスリーダー達との市民活動や慈善活動もうまくこなすことができた。レヴィーがビードルと組んで大学の管理運営に携わってからは、ケートはミュリエルとしばしば協力して有望な他大学の教授夫人達に多様な魅力があるシカゴ大学へ是非とも来るよう説得に乗り出すこともあった。

 ビードルは、キャンパスでは終日様々な思慮と出来事に曝され続けたが、昼食はいつも中庭クラブで取った。ビードルは物理学、ギリシャ史、哲学や学術政策などどんな議論がそこで進行中であろうと参加するのが常だった。教職員達はビードルのテーブルに立ち止まって雑談したり訪問研究者を紹介したりできる自由を喜んだ。彼は何時でも自分を管理者ではなく教員の一人だと看做していた。その観点から、クラブでは頻繁にビードルのキャンパスでの姿、植物標本やビードルが夏の気晴らし旅行で訪ねた場所などの写真が壁に飾ってあった。同僚達はビードルがそこに自分の写真を飾ってもらうことをとても喜んでいたと述べている。

 ビードルがシカゴ大学に着任する直前あるいは直後だったか、学長邸の近くの駐車場が取り除かれてトウモロコシを育てるための圃場がそこに作られた。生涯を通じて農作業への愛着をもつビードルには、農場の土にまみれて花やトウモロコシなどの植物を育てる環境が是非とも必要であった。友人や通りがかりの同僚達はしばしば圃場に立ち寄ってビードルと話し込み、決まってトウモロコシについて何かを学んでその場を去るのだった。ビードルは実験圃場も手に入れで近隣の人々と一緒にユリ科の多年草ワスレグサを育てて交配もしたが、育てた花のほとんどは友人や同僚にプレゼントした。キャンパスへの始めての訪問者は、つなぎ服を身につけて学長のためのトウモロコシ畑で働いている人物が学長その人であることを知って驚くのだった。肥料を購入するために苗の育成所に出かけた際には、請求書を大学長宛に送るよう申し出た彼の要求が全く信用されず拒否されたことがあったが、それはおそらく彼の身なりから判断されたのだろう45。学長主催の外国人留学生歓迎会でミュリエルは一人のインド人留学生が驚愕の表情を浮かべて長い出迎え者の列から不自然に離れたのを見て心配になった。後にミュリエルは、その留学生は医学部の学生で、毎朝午前7時に病院へ向かう道で学長邸の前を通り過ぎるときに仕事中の庭師に立ち止まって挨拶をするのが常だったことを知った。列に沿って進んだインド人留学生はその庭師が学長だったことを知って完全に気が動転したのだった46。何年も後でビードルの同僚の一人は古いブロードウェイの曲をもじって「田舎から少年を引き離すことはできても、少年から田舎を取り去ることはできない。ビードルは農場ボーイ以外の何者にもなろうと思ったことはないし、いつもネブラスカのワフーから来た気取らない農場ボーイであり続けた」と冗談を言った。ビードルはこの人物評を意に介さず、「それが私です」と言って冗談を受け入れた47

 キャンパスの物的設備と特に古めかしくみすぼらしい環境に対する懸念からビードルはしばしばこの状況を評議員と部局長が集まる夕食会でスピーチの話題としたが、それは自分が実際に苛立っていることを評議員達に知ってもらいたいためだった。学生達が近道をするために芝生を横切って歩き、芝生だけでなく草花も踏み散らすことはよく知られた悪行動のひとつだった。ビードルは彼らを「園芸に対する簒奪者」と呼んだ。キャンパスの中心部はより良い状態でなければならないと信じたビードルは、スプリンクラーを整備し中核的な中庭に芝の種をまいた。彼は「芝委員会」を作り、委員会による「宣言」の発刊を企画し、これをトランペットのファンファーレとともに公表し、同時にコッブホールの正面玄関のドアに張り紙を出した(注:コッブホールは、1892年にサイラス・コッブの寄附によりシカゴ大学で最初に完成した蔦の絡まるゴシック風の講義講堂)。そこには、聖書、チョーサー、シェークスピア、モントゴメリー・ワードなど著名な権威の言葉と植物学科の文章を引用し、「ところが諸君は」で始まるた苦言が続き、最後に「シカゴ大学キャンパスでは、若い芝はアイディアと同じように自由に成長させるべきである」との宣言が書かれていた。この決意文には「芝生に関する学際かつ国際委員会」を代表して学長自らが発信したものであることが明確に示されていた。「恥は法が禁じないことを制限する」というセネカによるラテン語の訓戒や、その他意味不明な格言を引用した無数の表札がキャンパスに毎日のように現れた。誰が標識を立てたかという話題に関して交わされた意見と推測は別にして、このユーモアに富んだ行為はビードルが人々に要点を示す際によく用いた軽妙なやり口を明らかに表現していた48。良質のユーモアは、なさなければならないと考えたことに反対された時にいつもビードルの役に立ってきたが、その軽妙なやり口はその後も繰り返し評価を受けることになる。



1. Max Delbr?ckからGWBへの手紙, October 15, 1958. Delbr?ck collection, box 3.4, CIT archive.
2. GWBからDelbr?ckへの手紙, October 25, 1958. Delbr?ck collection, box 3.4, CIT archive; GWBからDelbr?ckへの手紙, January 11, 1959. Delbr?ck collection, box 3.4, CIT archive.
3. Delbr?ck collection, box 3.4, CIT archive.
4. GWBからDuBridgeへの手紙, March 26, 1959. DuBridge collection, box 1.3, CIT.
5. GWBからDuBridgeへの手紙, April 5, 1959. DuBridge collection, box 1.3, CIT.
6. GWBからDuBridgeへの手紙, July 7, 1960. DuBridge collection, box 1.3, CIT.
7. DuBridgeからGWBへの手紙, July 8, 1960. DuBridge collection, box 1.3, CIT.
8. Los Angeles Times, January 9, 1959, p.12.
9. M. Beadle,Where has all the ivy gone: A memoir of university life. Doubleday, New York, 1972. P. 2および Beadle, シカゴ大学長の就任式,May 4, 1961に先立つ昼食会で.
10. 雑誌タイムの教育記事,January 13, 1961.
11. 調査委員会記録,レヴィー・コレクション,シカゴ大学特別コレクション部門.GWB調査関連ホルダー,レヴィー文書,CHG特別コレクション.
12. M. Beadle, Where has all the ivy gone, pp. 4-6.
13. シカゴ大学出版,Spring 1961; Beadle collection, CHG.
14. LeviからGWBへの手紙, January 6, 1961, CHG.
15. GWBからLeviへの手紙, January 10, 1961, CHG.
16. GWBからDuBridgeへの手紙, December 7, 1960. DuBridge collection, box 1.3, CIT.
17. GWBからDuBridgeへの手紙, January 4, 1961. DuBridge collection, box 1.3, CIT.
18. G. Lloyd and E.L. RyersonからDuBridgeへの手紙, January 8, 1961. DuBridge collection, box 2.1, CIT.
19. GWBからDuBridgeへの手紙, January 6, 1961. DuBridge collection, box 2.11, CIT.
20. GWBからDuBridgeへの手紙, January 9, 1961. DuBridge collection, box 2.11, CIT.
21. GWBからDuBridgeへの手紙, January 9, 1961. DuBridge collection, box 2.11, CIT.
22. Ray OwenからDuBridgeへの手紙, January 9, 1961. DuBridge collection, box 2.11, CIT.
23. DuBridgeから米国国立保健研究所(NIH)への手紙,January 16, 1961. DuBridge collection, box 2.11
24. オペレッタ「何がビードルを去らせたか」はKent Clarkの,歌と叙情詩はElliot Davisの作.オペレッタは1961年 3月21日にカルバートソン講堂で実演された;「何がビードルを去らせたか」のテープと台本はカルテックのRay Owen教授の提供.
25. 学長就任昼食会でのビードルの話し,May 4, 1961. 類似の話しが多くの場面で語られている。
26. シカゴ大学出版,spring 1961; Beadle collection, CHG, 特別コレクション.
27. ハイドパーク・ケンウッド都市再開発の開始から1967年までを要約したミュリエル・ビードルによる包括パンフレット,CHG, 特別コレクション.
28. W. Weaver. 1961. Private universities and the new unity of learning. Weaver collection, APS, Philadelphia, 1961.
29. GWB. 市民センター夕食会でのスピーチ,May 3, 1961. Beadle collection, box 1.3, CHG, 特別コレクション.
30. ミッドウェイは芝生の空間で挟まれた2車線通りで, 1892年のシカゴ万国博覧会のメイン通り。プレサンスと呼ばれる部分は万国博の遊戯ゾーンとして開発された。現在ミッドウェイは学部生の中庭と複数の職業学校を隔てている。
31. イェール,プリンストン、ペンシルベニア大学が残りの3校.
32. GWB. 学長就任スピーチ,May 4, 1961. CHG, box 1.4
33. GWB. January 10, 1962. Thoughts of a new president; 大学評議員と教職員の夕食会スピーチ, Beadle papers, box 1.9, CHG,特別コレクション.
34. R.D. Owen, インタビュー,October 16, 1996.
35. Muriel BeadleからR. Beadleへの手紙, May 3, 1962.
36. 評議会会議議事録,April 12 and June 14, 1962, CHG, 特別コレクション.
37. 中庭クラブで開かれたK. Levi夫人他とのインタビューの参加者(不明),September 18, 1998.
38. M. Beadle. Where has all the ivy gone, pp. 102-103.
39. 調査委員会記録,レヴィー・コレクション,シカゴ大学特別コレクション部門.中庭クラブで開かれたK. Leviとのインタビューで確認, September 18, 1998.
40. D. Gale Johnson,インタビュー, October 12, 2000.
41. L. Bogorad,インタビュー, October 10, 1998.
42. E.H. Levi文書,CHG特別コレクション,2002年末まで未公開.
43. Kate Levi夫人のコメント,中庭クラブでのインタビュー,September 18, 1998.
44. E.H. Levi. シカゴ大学雑誌のプロファイル,November 1967; M. Beadle, Where has all the ivy gone?
45. Janet Rowley, インタビュー, August 14, 1996.
46. M. Beadle, Where has all the ivy gone, pp. 226-227.
47. 中庭クラブで開かれたK. Levi夫人他とのインタビューの参加者(不明),September 18, 1998.
48. M. Beadle, Where has all the ivy gone, pp. 65-67; Redmond Barnett, インタビュー,July 22, 1997.