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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第17章 大学の名声を回復する

 ビードルとレヴィーはチームを組んですぐに大学が誇った過去の知的および学術的な名声を回復する目標に向けた詳細な計画の立案を開始した。ビードルには強化が必要な特定分野が念頭にあったが、それを強引に優先させることはなかった。専門分野や専門知識によらずトップ研究者を招聘することが目的だった。評議会の3億ドルに上る 「選択的卓越基金」 は学部長と学科長に彼らの地位に相応しい権利として与えられたが、その目的は彼らから研究者の積極的な推薦を誘うための 「ニンジン」 だった。基金やその他の資金提供団体に提示すべき財政的な必要性を記した明細書で上位に挙げられた要求は、新しい研究棟と図書館の建設と設備機器の補充に加えて既存の物的設備の改修と拡張事業だった。これらの要求は大学がトップ教員の招聘を押し進めている事実を際立たせるために彼らが考えた目標に沿ったものだった。

 ビードルが資金集めと人材集めに没頭していた間にも他の厄介な問題が持ち上がった。1960年代初頭に、市民的不服従が合衆国における黒人への市民権付与の否定に対する抵抗運動の強力な手段として表面化した。差別的な慣習と法律に反対する学生達はしばしば地域および州警察との衝突の最前線に立った。人種的不公正に対する反対運動の成功に勇気づけられた彼らは、権威に対する反感に加えて教授と管理者達に責任があると彼らがみなす不正に対する闘いをキャンパスに持ち込んだ。ハイドパーク周辺の腐敗への対処に努めて来た大学執行部の行動が恐らくその理由だったが、シカゴ大学はそうした衝突を最初に経験した大学のひとつだった。学生の反対行動を誘発したのは、大学が主導した周辺環境の復旧のための資産接収と改装後のアパートを教員、学生、職員を除く借り主のみに貸し出したこと、わけても貸し出しの際に黒人よりも白人を優先した決定だった。ビードルは、黒人の人口が大多数を占めるその地域への白人の入居を促進するとした約束を根拠に、差別政策を採用しそれを支持した。差別のない環境を作り地域の安定化を諮る意図からでた差別行動だったが、これは一時しのぎの決定でもあった。どのような理由であろうと大学の住宅供給に差別があることは運動への学生参加者と人種平等会議(CORE)の支持者の怒りを誘うに十分だった。ビードルの実利主義と学生の理想主義の止むことのない闘いが続いた後で、30人ほどの学生が学長室に続く接見用の小部屋を占拠し、住居の賃貸借と管理および大学が所有または管理する資産の売却で一切の差別を排すると大学が公に宣言するまでは退去しないと主張した。だが、数年後に一般的となった座り込みの基準からすれば、学生達の行動は比較的抑制が利いたものだった。彼らはそこで食べ、歌い、語った。驚くには当たらないが、地元の新聞は大学のイメージを犠牲にして学生達の行動を報道した。どうすべきか?最も肝心なビードルの決定は学生達を管理棟から強制的に排除はしないこと、大学が反対運動の鎮圧を主導しているとマスコミにみなされて報道されるリスクを回避することだった。ビードルは何もしないやり方を選んだが、学生達には彼らが反対している賃貸政策を変えることはないという大学の意志を明確に伝えた。事実上、彼は間違いなく学生達がそのうち反対運動に疲れてしまうだけでなく彼らの立場へ寄せられた当初の同情も時間とともに失われると確信していた。二週間後には、占拠を続ける学生諸君は懲戒処分を受けることになるだろうとビードルが警告したこともあって、学生達はその場を退去した。不法な行動で混乱を招きはしたが、1962年の座り込みは大学に大きな傷を残すことなく終わった。

 その後の評議会で座り込みを招いた出来事の経緯とその解決策についてビードルが報告すると、議長のロイドは 「シカゴの学生座り込みが功を奏した」 と報告したニューヨーク・タイムスの発表についてビードルを激しく詰問した。ロイドの質問は 「大学の住居政策について学生達との交渉に学長が同意したというのは本当か?」 だった。ビードルはそうした同意を否定しただけでなく、タイムスの発表にあったような、学長が大学の敷地外にあるアパート群の統合を促進するために人種平等会議とシカゴ都市同盟に加えて宗教および政治に関連する公職者の代表を含む交渉委員会の設置に同意した事実はなかったと明言した(注:シカゴ都市同盟は、1916年に創設された都市同盟のひとつで、都市の開発計画や都市間の協力を促進する全米都市同盟に所属する)。ビードルは住居問題について彼に助言する委員として何人かの学部代表者を任命したことを評議員達に伝えた。ロイド議長の鋭い質問により、学生の不満への自由主義的で融和的なビードルの対処姿勢が何人かの評議員の見方とは相容れないものであったことが明らかになった。1962年の学生の座り込みはその後に起こる事態の先触れだったが、この厳しい試練の間に打ち立てられた慣例がその後の事態への大学の対処に役立つことになった。カリフォルニア大学バークレー校で起こった爆発的な 「自由演説」 による論争に続いて、政府と大学のベトナム戦争への関与に反対する学生主導の過激な反戦運動が始まったが、それはその後に続く混乱の前兆であった(注:自由演説は宗教の自由、報道の自由、平和的集会の自由、政府への請願の自由とともに犯してはならない権利として合衆国憲法修正条項第1条で保証されている)。

 ノーベル賞受賞者で一流大学の学長であるビードルには様々な世界的課題に関するコメントが求められた。講演でビードルは遺伝学の革新とその社会的意味、あるいは複雑度を増す社会における研究と教育の重要性について多くを語った。自分にはこれらの問題について語る義務があると信じていた彼は公の場への招待を滅多に断ることはなかった。シカゴに赴任してすぐに彼はシカゴ・サンデー・イブニング・クラブで科学と宗教の関連について個人的な信条を述べたことがあった。形式的な宗教を偽善だと断じていた父親CEの強い偏向の反映だった可能性があるが、若い頃に神への信仰を拒否したことがあったビードルにとってこの話題は難題だった。 「私が信じるもの」 と題した講演に出席した記者は、この講演は遺伝学に関する講演よりは数段大きな興味を聴衆から引き起こしたとのコメントを残している

 ビードルは、人々に広く受入れられている見解、すなわち 「人は科学上の発見を受入れると同時に神の存在への信仰を持ち続けることはできない」 という考え方に反対だった。ビードルは聴衆に向かって進化に関する科学者の見解を語ることから始め、水素原子とそれから形成された諸要素の持つ性質を前提とすれば、生命の出現はあらゆる可能な顕示を通じて起こった必然の結果だったと主張した。この 「感動的で畏敬の念を呼び覚ます」 生命の起源についての見解を受入れるのならば、私は 「宇宙の全ては私達が神と呼ぶ至高の知的な導きによって創造された」 とする信仰に基づく見解を受入れることはできないと認めざるを得ないと自らの思いを吐露した。ビードルは 「人類にまで進化する包容力を備えた水素原子から創造された宇宙を想像することが、人間は初めから人間として創造されたとする見解を受入れるより畏敬の念を呼び覚ます度合いが小さいと果たして言えるでしょうか?」 と聴衆に問いかけた。 「科学者は聖職者ほどには神の救いを求めて祈りはしない」 との思いを抱きながらも、ビードルは自分も同じように信仰を求めていると力を込めて語った。 「究極的な創造は科学と宗教にとって根本的には同一の問題です」 。この時のビードルの見解は、デビッドが父を 「強烈な無神論者」 と評したことと、若い時代には 「宗教やあらゆる迷信に悲寛容」 だったことと比べると幾分穏やかな内容だった。ビードルは文字通りの宗教家ではなかったが、デビッドは父を極めてモラルの高い人間で、既定の信仰よりは理性による認知を大切にする人だと見ていた

 ビードルとレヴィーの初期の改善策は教員の辞職を減らすために彼らの給与を増額することと一級の候補者を招聘する力を増すことだった。1963年の中頃までには、前年の評価表を用いた調査の結果、いくつかの分野は卓越度に関するスティグラーの基準に達しており、それより多くの分野がトップレベルに達しているとビードルは判断を下した。厳重な学部調査に当たってビードルはカルテックの同僚達にも助言を求めて、調査対象となった複数の学部の業績と地位を精査してもらった。現実主義者の彼は 「私達の選択が正しかったと言えるまでには25年が必要だ」 と認めていた

 より広いキャンパスとより良い設備への緊急な必要性が議題になった1963年の大学の現状紹介の会合では、ビードルは実施中または計画中の事業についてのみ方針を説明した。最も注目に値したのは、エンリコ・フェルミと同僚達が最初の継続的な核反応実験を開始した場所に1,500万ドルを投じて 「最もポストモダンな図書館」 を建設する計画に賛同が得られたという報告だった。ビードルは評議会の議長を退職するグレン・ロイドが優秀な教員の招聘事業を下支えした基金の創設に際して発揮した知恵に対して特別の賛辞を捧げた。長く評議員を務め新しい議長となったフェアーファックス・コーンは、ビードルとレヴィーの大学改革に向けた努力を支持すると請け合った。

 ビードルが優秀な教員の獲得、資金集めに加えて学生暴動への対処と土地建物の管理に携わっていた間、ミュリエルも種々の活動に追われていた。教員夫人達との週一度の茶会、評議員達の夕食への接待、学術分野の権威者や高名な政治家達の訪問の他に皇族・王族方(例えば、イラン国王、ノルウェー王と日本の皇太子)に対する儀礼的な同伴旅行などの学長夫人としての慣例の活動があった。数えてみるとシカゴで過ごした初めの3年間で、およそ7,100人の客に食事と飲み物をサービスし、あるときは一月で850人以上の訪問客をもてなすこともあった。若い教員達は学長邸で開かれる夕食会への出席を喜び、特にビードルがスターテバントやエフルッシなどの古い学友を歓待する様子を見るのが好きだったと回顧した。こうした社交的な場に参加した教職員の多くは、ビードルの取り仕切りは別にして、ミュリエルの魅力と熱心なもてなし振りを賞賛した。苦労の多い詳細な出費記録を付けるなど時に苛立たしく思うこともあったが、ミュリエルは学長夫人としての仕事が好きだった。彼女は同じ趣味を持つ市民活動家との交わりを、なかでも大学周辺の環境改善努力を助け、そうした活動に参加することに熱心な人々との交わりを楽しんだ。シカゴに移った数年後に、彼女はハイドパーク・ケンウッドの新しい年代記 「奇跡」 の非公式な執筆記者を務めた。彼女はまた教職員夫人達が組織するミュージカル・コメディーの制作で主要な役割を果たし、寸劇や 「歌」 を多く書いた。彼女が 「ヒップ、フープ、フレー」 で果たした気力に満ちた役割から、ミュリエルはハイドパークの仲間達の間で間違いなく有名人であった(注:ヒップ、フープ、フレーは応援のエールで腰を回して頑張れの意味)。

 こうした重責から来る負担に加えて、ビードルとミュリエルは安定した生活を営む能力のないデビッドに悩まされ続けた。これは幼い頃からずっとデビッドについて回る悩ましい問題だった。ルース・アックステルとの早すぎた結婚が破綻するとすぐにデビッドはジョイス・スミスと再婚し、ビードルの最初の孫息子ジョン・ビンセントが生まれた。しかしジョイスとの結婚もデビッドがジェーン・マックキャンドルと懇ろになってヨーロッパへ移った直後の1957年には終焉を迎えた。何年もの間デビッドは息子への経済的支援を怠り、ついには裁判沙汰になったが、ビードルは孫が自活できるまで定期的に小切手を送り続ける責任を取った。ヨーロッパを放浪中にデビッドとジェーンには2人の息子、ジョージ・プレス(1959年生まれ)とイアン・クリストファー(1961年生まれ)が生まれた。デビッドとジェーンが2人の息子の世話を放棄して家政婦に任せきりにしたあげく、家政婦が子供達のための養育費を持ち去るなど、4,000ドルの借金を残したという知らせをイタリア旅行中にフローレンスのアメリカ大使館から受けとったビードルとムリエルは驚愕した。一刻の猶予もなくビードルは、それまでに何度も繰り返したことだったが、デビッドの借金を返済した。ミュリエルの計算では、デビッドにその月既に送信済みの金額はビードルが家に持ち帰る収入を超えていた10

 経済的に無責任な行動だけでは不十分だとでもいうように、デビッドの3度目の結婚から生まれた2人の子供が実は出生届けなしの非合法な子供のままの状態に置かれていたと知ったビードルの心はひどく掻き乱された。彼らしくもなくビードルは打ちのめされ男泣きした。中西部で育った人間としてもつ礼節への感覚から、ビードルは子供が私生児と呼ばれることにどう対処していいか分からなかった11。ビードルよりは世間的なミュリエルは?をつかれていたことに腹を立て、女性と浮気するだけでは満足できなかったのかとデビッドを責めた。それでもデビッドには経済的な力がなかったから、ビードルは子供達への支援をそれまで通り続けた12。そうするうちにデビッドはイングランドに落ち着き、もう一度結婚したが、今度は国際雑誌エコノミストの調査部門でともに働いていた縁で知り合ったジャクリーン・イシットが相手だった。彼女の個性と比較的安定した結婚生活が新しい孫の誕生の知らせと重なって、デビッドの問題は解決するという希望をビードル家に与えた。シカゴでも嬉しい知らせがあったが、それは分子遺伝学を専門外の読者向けに解説したミュリエルとの共著本が完成したことだった13。二人はさらに、息子のレドモンドがハーバードを首席で卒業し、歴史学の博士号取得に向けた5年間の大学院奨学金を得たことを大いに喜び誇りに思った14

 大学の夏はいつもの年度末の諸行事から開放される休養と回復の時である。ビードル達にとって夏は他大学の学長とその夫人達とともに学会参加のために旅行することの多い季節でもあった。ある機会を利用してビードルはカナダ・ラブラドール州の北の外れのハッピー・バレー・グース湾にあって、5分以内のスクランブルが可能な爆撃機と戦闘機を搭載した艦隊が停泊するカナダ空軍の 「クール・スクール」 への一人旅に出かけた(注:クール・スクールは、アラスカのイールソン空軍基地と同様に陸軍の兵士達が寒冷地訓練を受ける教習校)。そこでビードルは、艦載機が通常の空路を外れてドネルック山の上を旋回し、何年も前に自分達が頂に残したカルテックの旗がまだそこにあることを発見してくれるのではと、ふと思ったりした15

 ビードルと評議員達は生物学部門に所属する病院と医学院は合衆国でトップにランクされていると確信していた16。しかし、生化学を除く部門の基礎生物学系の学科はどれも臨床事業ほどの卓越した地位には達していなかった。これは今までずっとそうだったという訳ではなかった。大学の創立時とその後の30年間、特に動物学科は発生学への重要な貢献で名の知られた存在だった17。しかし教員の一部が胚発生では遺伝の効果よりは細胞質と環境の影響が大きいと主張したことで動物学科はその影響力と評判を落としていた18。 「モルガン主義」 への拒否は続いたが、シューアル・ライトを教員に迎えると、学科にはメンデリズムに従った遺伝子の生理作用に関する啓発的な見解が広がった(注:シューアル・ライトは、ロナルド・フィッシャー、ジョン B. S.ホールデンとともに集団遺伝学の数理的理論を打ち立てた遺伝学者で、1926年にシカゴ大学教授になった)。それでも動物学科は遺伝学の重要性を学科全体の見解として認めることができず、発生学における学科の地位は衰退した。そんな中で学科が目指した個人ではなく人種に関する社会的問題の研究を目的とする遺伝生物学研究所の創設を意図したロックフェラー財団一般教育会議への資金申請にも支持を得ることができなかった。ロックフェラー財団の自然科学部門長だったウォーレン・ウィーバーは自身が分子生物学と呼んだ新しく勃興しつつあった分野に既に関心を傾注しており、シカゴ大学にはその分野の限られた専門知識しかないと確信していた。ロックフェラー財団からの資金を全く得られなかったことで、かつては動物学科における研究面で頼みの綱だった生態学は衰退し、以前の名声を再び回復することはなかった19。恐らく1950年代を通じて大学が周辺問題に没頭していた間、生物学の急速な変容を過小評価し、分子生物学と分子遺伝における伸び盛りの研究者の維持と招聘を怠ったことが動物学科衰退の原因だった。

 医学部と病院の大学への合併に続いて生物学部門が設立されて以来、生物学者達の主要な関心事は部門の管理組織に根ざした事柄だった20。ビードルが学長に就任するしばらく前に、大学は内科医で電子顕微鏡分野の専門家として高い評価を得ていたH. スタンレー・ベネットを生物学部門長に任命していた。彼が担った主要な責任は病院、臨床教員と医学生の教育訓練だった。その結果、植物学、動物学など臨床以外の学科は、内科および外科と資源配分と注目度の点で競合しなければならなくなった。カルテックでのビードルの功績をよく知っていた生物学系教員の多くは、彼が赴任すれば自分達と学科の国内における地位が回復すると期待した。しかしベネットが最初に学部に招聘した教員は同様に顕微鏡学者だったフンベルト・フェルナンディス・モランで、この選択はベネットの指導力に対する教職員の信頼を勝ち得ることができず、生物学系教員のほとんどにとって彼らの必要と興味に貢献することも、それを補強することにもならなかった21。優れた同僚の何人かが去って行ったのは、間違いなく古びた施設と十分な研究スペースの欠如が原因だったと多くの生物学系教員は感じていた。さらに彼らは誰もが、新しく生まれつつある生物学分野に新規の教員を招聘して大学院教育を拡大するためには、新しい研究棟が不可欠であることを知っていた。ベネットの要請に応えて古参教員で構成された委員会は、図書館と化学科のためのスペースを含む新しい生物科学複合施設の建設という野心的でかなり明確な計画を提案した。そうした事業計画を実施するための資金は手に入っていたが、ベネットの5年間の任期が終了してなお長い期間、この計画の実施に向けて実質的に事業が進展することはほとんどなかった。

 1960年代にシカゴ大学で勤務した生物学系教員の多くはベネットが学部長を務めた5年間は非効率で反生産的で逆効果を招いたと考えていた。生物学を分子化学に変革する力を評価できなかった彼は、変革を要求する人々の推薦と忠告に耳を傾けようとしなかった。いくつかの例外はあったが、新規学部教員の任命はビードルが目指したような卓越した水準の学部を改善する役には立たず、学部を去って行った教員に匹敵する優秀な新規教員の補充もなかった。奇妙なことだったが、生物学部門には、他学部と同様に評議会からの資金提供という厚遇を受けて名声を高める機会が与えられなかった22

 ビードルとレヴィーが生物科学分野の衰退を許したのは何故だったのだろう?彼ら2人が共同で務めた任期の初めの数年間は全ての学部、専門職スクールとカレッジを通じた大学全体の強化が第一目標で、基礎生物学関連学科の苦境の解決は二の次だった可能性が考えられる。しかし本当の原因は、学事に関する事項のうち特に教員選考における特異と言ってよいほどの学部特権によって、二人の努力が妨げられた事実だったのだろう。学部の自己防衛は厳重で、学部の既得権限への学長、副学長の干渉は強い反対を喚起しないまでも無視されるのが常だった23。ビードルは学部の立場に立って学部独立への深い思い入れを理解し評価もしていた。彼はある機会を利用して、 「私達は学部長、学科長、様々な学術組織と管理組織の長と全ての教職員が、法令によって彼らに付与されている権利とともにそれと同等の責任を負うこと、さらにその責任と義務を実行することを望む」 と述べたことがあった。これによって 「自由に能力を発揮できる学究達の理想的な共同体」 が生まれることになるとビードルは期待した。シカゴ大学には限られた数の法と規則しか存在せず、ケンブリッジやオックスフォードは例外として、 「法と規則にこれほどまでに無関心」 な大学をビードルは他に知らなかった24。大学が持つそのような特徴的基盤と伝統のもとで、ビードルには新しい学部に向けた改革を無理強いすることができなかった。

 ビードルは自分とレヴィーの第一の使命は大学の全学部と専門職業スクールを 「スティグラーの卓越」 に向けて前進させることだと繰り返し主張した。新しい教員の招聘こそがその目標に向かう道であると2人は強く主張したが、大学に既にある若い才能を育てる事が先決だと主張する者もあった。長く生化学の学科長を務めたアール A. エバンスからの次のメモを読んだビードルは、 「スティグラーの卓越」 の積極的な推進に大学が失敗していたと認めざるを得なかった25。メモには、コンラッド・ブロッホが生化学科を去ってハーバードに移った直後にノーベル生理学賞・医学賞を受賞した事実が書かれてあった(注:ブロッホはドイツ出身のユダヤ系の生化学者で、コレステロール、脂肪酸の代謝と調節の機構に関する業績で1964年にノーベル賞を受賞した)。ブロッホと何人かのノーベル賞候補者の 「退去」 を許したビードルの管理責任には免罪を与えながらも、エバンスは 「シカゴ大学は生物科学者達の力量と潜在的な能力を昔も今も理解したことがない。シカゴ大学は‘ビッグ・リーグ’の訓練所の役割を果たすべきではない」 と大学を強く非難した。生化学科の施設面積が酷く狭い事実を嘆いた後でエバンスは、 「私の言葉が不節操だとしても、私達は基礎生物学をシカゴで群を抜いた存在にする黄金の機会を失いつつあると考え、敢えて申し上げるのです」 と付け加えた。一週間後にビードルは、 「私は着任以来ずっと医療を除く生物学分野が心配の種でした。エドワードと私は現状について何度も議論を重ね、どうすべきか考えて来ました。設備用の資金はあっても、どうすべきかについて生物学部からは計画の提示がありませんでした」 と答える他なかった26。一年後にエバンスはビードルにコンラッド・ブロッホの呼び戻しを図るよう求めたが、ビードルの奨励と支持によってもそれが実現される可能性はなかった。

 エバンスの懸念は生物学の基礎科学部門の悲しむべき現状からビードルが受けた最初の警告ではなかった。生物学と医学の教授で医学部医学科とアルゴーン癌病院長だったレオン A. ジェーコブソンからの 「オフレコ」 メモは現状への明確で痛烈な警告だった27。ジェーコブソンは部門統合の強力な唱道者だったが、基礎生物学系学科の絶望的な状況への失望をビードルに訴えた。彼が見るところ、ベネットは医療事業の管理と監督業務に専念するばかりで、伝統的な基礎科学と勃興する基礎科学の両方の必要性に注意を払うことができなかった。ジェーコブソンは、生物学部門は既に 「一人の力で管理できる限界を越える」 地点にまで達してしまったと結論した。その上で、 「医療と基礎科学の活動のどちらにも固有の必要性があり、それぞれ持てる時間の全てを改革に向けた思考と活動に費やさなければならない」 と主張した。ジェーコブソンは無遠慮に、 「彼はOKだが、閉口させられるし、適性がない」 とまでベネットを酷評した。生物学部門への資金増額が宣言され部門の統合は医学部にとっても利益だと繰り返し宣伝されたが、実際に両者の交流は弱く稀だった。一部門に基礎と臨床を維持することはもはや科学的にも計画上あるいは管理上でも意味を持たなかった。ベネットの指導力に対する批判を和らげるつもりでジェーコブソンは、シカゴの生物学の名声は1927年に医療学科が加わり、続いて医学部が大学の一部になった時から下降を始めていたのだと考えようと努めた。しかも多くの教職員は 「生物学部門には医療分野への配慮に悩まされない強いリーダーシップが必要だが、その逆もまた真で、医療分野の決断も必要だ」 と考えていた。ジェーコブソンの解決法は、基礎生物学系の利益のためにそれまで用いられて来た非医療分野という呼称を捨て、経営管理も伝統的な医学科から分離することだった。そのような解決策は破壊的でありえることを承知の上で、彼はベネットの学部長としての再任審査が行われる時にはこの問題を議論すべきだと主張した。

 ビードルはレヴィーにジェーコブソンのメモを見せたうえで、 「議論が必要です。でも現に問題があると分かってはいても、何が有効な解決策か私には確信が持てないのです」 と弱音を吐いた28。キャンパスでの生物科学の現状に関する更なる懸念が大学院学生の入学に関する報告の形でもたらされた。人文学、物理科学と社会科学部門への大学院生の入学が1963〜1964年度と1964〜1965年度の学年期で約30%も増加した一方で、生物科学系部門への入学は10%の減少だった29。この事実を知ったビードルはベネットに書簡を送り、 「生物学の領域に優れた教員を招聘し大学院生にとって部門をもっと魅力的な場にするために何もしないでよいものでしょうか?」 と檄を飛ばした30

 部門の教職員の多くがベネットの管理運営についてジェーコブソンの懸念を共有していた。当然ながらベネットは学部教職員達の不満に気づいており、学部長としてさらに5年間任用されることはないと予期したか、あるいは既に解任の通知を受けていたのだろう。こうした状況のもとでベネットは研究活動を再開したいので学部長としての主要な管理の重責から開放して欲しいと申し出た。1965年に評議会は、ベネットの学部長としての貢献に大学の 「恩義」 を表明するために、彼を新しく創設される部門の教授に任命し、さらに新しい細胞生物学研究室の責任者を命じた31。ベネットの代わりに学部長に任命されたのはジェーコブソンだった。

 生物学部門から基礎科学系学科群を完全に切り離すのは余りにも過激な解決策だと決断したジェーコブソンはより実際的な方策を採用した。彼は数年前にロチェスターから移って来ていた革新的な遺伝学者のリチャード C. レウォンティンを基礎科学系の副学部長に任命した。レウォンティンには学部の教員任命と承認の審査権に加えて重要な 「付属部門」 を管理するために部門の 「財務」 に関与する権限が与えられた。レウォンティンが起こした最初の行動のひとつは植物学科と彼自身が所属する動物学科を統合して新しい生物学科を創ることだった32。生物学部門は名目上そのまま存続したが、基礎科学系はもはや 「惨めな従弟」 ではなく、一流の科学者であるジェーコブソンの完全な支援、厳しい監視と管理のもとにおかれることになった。

 こうした新しい組織構造はシカゴの生物学に再生をもたらしただろうか?キャンパスの生物学者達とレウォンティンの答えはどちらもノーだった。1966年になっても基礎科学系学科は 「むしろ平凡」 で、レウォンティンは 「若し学長と副学長が部門は凡庸なままだろうと初めから見越して必要な手だてを取らなかったのだとしたら、彼らの責任は深刻だ」 と自分の思いを打ち明けた。部門が選択した最高の人材の招聘に向けて払ったレウォンティンの努力は部分的な成功を収めただけだったが、明らかに経営陣からの支援が不十分だったことが主要な理由のひとつだった。ついに彼は厳しい未来を予測して、 「それぞれの学科に3人の新たな教員が補充されなければ」 、85人の常勤教員、58人の終身在職教員と5年以内の退職者からなるこの部門が目立った特徴を発揮するチャンスは全くないだろうと主張した33。しかしレウォンティンの懸念と懇願が聞き入れられることはなく、彼はその後すぐにハーバードへ移籍した。

 ビードルとレヴィーは、当初から彼らが期待する発展に必要な財源を確保するためには、強力なキャンペーンを実施する必要があると考えていた。二人は今後10年間に大学が必要とする資金は3億6,000万ドルと予想したが、最終方針では目標の達成には2段階が必要だとされた。第一段階では3年間の目標額として1億6000万ドルが提示されたが、それは毎週100万ドルにも及ぶ資金調達を3年間続けなければ達成できないほどの目標で、シカゴ大学のキャンペーンを通じて過去最大の資金調達計画だった34。ビードルとレヴィーはフォード財団に対してシカゴ大学には財団によるキャンペーンの支援を正当化するだけの十分な必要性と力があると粘り強い説得を3年間続けた35。フォード財団は、大学が独自に非政府団体から7,500万ドルの資金を獲得するという条件付きで、2,500万ドルの提供を約束したので、目標達成には残り6,000万ドルが必要だった。大学経営組織と主だった教員がこの野心的な目標の達成に駆り出された。

 大学は 「シカゴ・キャンペーン」 を1965年10月に公式に開始し、ダーレー市長を含む市の最も重要な人物達に呼びかけた。フェアーファックス・コーンが評議会を代表して最初の実務的な会合を開始し、その場で 「私達が資金を調達できない事態は考えられません」 と断言した36。大学がシカゴの一般市民と大学同窓生から高い評価を得ていることを熟知していたコーンには資金は集まるとの確信があった。しかしこの遠大な目標を3年間という短い期間で達成するには、資金徴収のためのあらゆる手段をフル活動する必要があった。ビードルは財団、法人と同窓クラブへの頻繁な訪問で大学への献金は未来に向けた価値ある投資であると売り込むことになるだろうと予想した。ビードルには過去に大学の学術事業に寄附を寄せた経験のある裕福な個人が積極的に応じてくれるだろうとの期待もあった。

 献金を求めるには自らの生来の謙虚さに打ち勝ち積極的に説得する必要があること、目的が鮮明でなければ誰も進んで献金に応じる者はないことにビードルが気づくのに時間は掛からなかった。面談の約束の前には多くの準備が必要で、ビードルが献金依頼の目的を明確に説明し積極的な反応を強く期待していることが見込みのある寄付者から十分理解されていなければならなかった。しかし十分な根回しをしたにも関わらず、申し出を受入れてもらえないことも多くあって、そうした 「失敗」 の度にビードルは心を痛め疲労感をいよいよ募らせた37。それでも首尾よくことが運んだ時には、面談時の個人的な思い出を書いた挿話を添えた手書きの文章を寄付者に送り、寄附行為とその約束に対して感謝を捧げるのが彼の習慣で喜びだった。レヴィーも同様に資金集めに参加したが、特に学内での募金運動を指導し学部教職員に向かってキャンペーンに貢献する責任とその象徴的な重要性を訴え続けた。

 評議員達はキャンペーンに総額1,200万ドルの資金提供を約束することで彼らの役割分担を果たしたが、富裕な友人達や共同事業者達への幅広い交渉こそが彼らのより重要な任務だった。キャンペーン開始から2年後の1967年10月までに1億400万ドル以上の寄付金が集まっていたが、そこにはフォード財団から提供された約束の金額の約半分が含まれていた。ビードルは教職員に向けて残りの5,600万ドルは3年の期限以内に集金可能だと希望を伝えた38。しかし心の奥では、65才で学長を退職するまでに目標金額に到達することはないだろうと考えていた。

 そうした中で、キャンペーンの盛り上がりに水を差す事態が生じた。1960年代の中頃までは、兵役審査委員会の政策として、学業成績の優れた学生には徴兵義務の執行猶予が認められていたが、1966年春に徴兵延期の審査基準が変わり学生の学業成績の内容が軍務につく者と勉学を続ける者を決定する際の判定基準とされることになった。実際面では、徴兵委員会は学生を軍隊に送る優先順位を決める際に大学での成績順位を用いるよう通達を受けた。シカゴ大学の多くの学生と教職員には、ランキング制度によって一定割合の学生が、より低位にある大学のトップクラスの学生よりも恐らく優秀であるにも関わらず、不可避的に底辺にランクされることが分かっていた。さらに学業成績では男子学生より女子学生が高い評価を得るのが一般だったから、ランキングだけでは男子学生の徴兵猶予が認められない確率が高まると予想された。セメスターが終わるまでの2ヶ月間、学生達は新制度を実施する合法性に疑問を投げ掛けた。大学が兵役審査制度の実施機関となってランキング・データを提供し、それによって学生達がモラルに反すると考えるベトナム戦争を支持することに大学が暗黙のうちに同意した事実に学生の多くが反発した。一方で、管理者と教職員のほとんどは、成績提供は学生の学業成績を就職先の雇用者や大学院と専門職大学院などへ提供することと同様の行為だとして、大学の行為は正統だと認めていた。しかしこうした見方は、非人道的な戦争に従事させる目的で行う学生の順位付けは彼らのキャリアー支援を目的とした順位付けと同等の行為ではないとする意見の前に無力だった。

 比較的に穏当ではあったが5月初めに過熱した議論は、全学教授会がランキングの実施と徴兵委員会への情報提供の撤回に対する学生の要求を拒否するとさらに戦闘化した39。教授会は、この問題を一時棚上げしてより穏やかな議論を夏の間に行おうと提案したが、無視された。自分達の要求が聞き入れられないと理解した学生達は、5月中旬になると、‘民主的社会を求める学生運動’に所属する経験豊かな活動家メンバーを含む350人から400人が管理棟に侵入し学長室を占拠した40。それまで議論に加わることがほとんどなかったビードルも事態の解決に急遽乗り出すことになった。熱狂して叫び声を上げる学生達を多くの警察官が建物から引っ張りだすことになると予想されるような事態は何としても避けなければならないと考えたビードルは、以前の座り込みへの対処と同様に警察の介入を求めなかった。ビードルは学生達の土俵には登らないと決めた。

 ビードルは、座り込みは集団による威圧だと強く非難し、管理棟から退去するまでは学生の要求について議論することを拒んだ。彼とレヴィーは他の主導的管理者達とともに先の座り込みで功を奏した同じ戦略をとる道を選択し、長引く議論を回避するために学生達に近づかないことにした。彼らは家やキャンパスの分散した場所で仕事を続けた。警察官が管理棟へ入るよう要請はしたが、それは徹底的な建物破壊、学生内部での闘争や手に負えなくなる危険な行動を警戒するためだった。学生達との定期的な会合が開かれたが、座り込みの目的が衝突をもたらした当初の問題よりは大学の意思決定への力による介入を求めるものに変質していると判断したビードルとレヴィーは、彼らの反抗を終わらせようと努めた。学生達の戦略が、自分達の行動への世間の同情を引き出して大学管理者達を戸惑わせ、大学が要求を受認せざるを得なくなるまで威圧を加えることであるのは明白だった。

 しかし、活動を 「精神的な高揚」 と見る学生と教職員の連携関係に変化が生じた。多くの学生達は何が起こっているのか全く気づいてはいなかった。4日後に大半の学生は 「砦を確保」 するために少人数を残して建物を離れたが、彼らは残留者の逮捕を目的として警察官の侵入を許せば再び占拠すると宣告した。ビードルとレヴィーは全ての学生が退去するまでは警察官が管理棟に入ることはないと確約した。するとその日のうちに管理棟を占拠していた少数の学生達は退去し、アカデミックな環境の回復に向けた動きが始まった。ビードルとレヴィーは全教職員に状況を周知徹底し、それによって大学執行部の決定と行動への彼らの忠誠を確保した。

 学生自治会の支持を得て実施された学生による投票(レファレンダム)では、圧倒的多数が大学の立場を支持していることが明らかになった。将来の座り込みを未然に防ぐためにビードルとレヴィーは全学教授会に対して、座り込みを含む破壊的な行為の禁止とそのような行動への参加は退学に至る処罰を招くことになるとした解決策に対する見解を求めた。この例外的な会合に出席したのは教授の半数のみで、出席教授の約30%の棄権があったが、提案は多数で可決した。全学教授会の決定への支持を拒んだ教授の多くは、学生達の真剣さは彼らの行動を正当化すると感じていた。しかしビードルにとっては、学生達の 「真剣さ」 は彼らの破壊的な行動を十分に正当化していると主張した教授たちは論争を解決する手段として論理的な会話を促す責任を放棄したに等しかった。ビードルは学生達の親、同窓生、有望な寄付者とマスコミからの 「月曜の朝の攻撃」 の矛先となることに耐えなければならなかった(注:月曜の朝の攻撃は、週末にあったアメリカンフットボーフの試合結果に対して月曜日にあれこれ文句を付けることからきた比喩)。ある訪問者は強権を発動して 「怠け者達」 を追い払わなかったビードルを暗に臆病者だと詰った。それに応じてビードルは、同窓生と寄付者宛に手紙を書いて、座り込みの発端とそれがどう処理されたか丁寧に説明した41。一方、評議会はビードル達大学当局による危機への対処を完全に支持した。ビードルの何時に変わらない穏やかな物腰からは彼の胸中の苦悩を窺うことはできなかったが、実際、この試練で彼は15ポンド(注:6.8kg)も体重を減らした42

  「成績ランキングに反対する学生」 運動を引き起こした問題が、全学教授会がランキング表作成の継続に賛成した後の1967年初めに再び表面化した。教授会の決定は全てのランキングを徴兵委員会に提供することはないだったが、実は徴兵に関する法律が改正されてランキングは無意味となり教授会決定は実際的な価値を失っていた。それでも、どのようなランキングも侮辱だと主張する学生活動家達は裏切られたと感じ、今度は 「勉学のための座り込み」 と称して管理棟奪取計画を呼びかけた。目的が何であろうと座り込みは違法だとする事前の警告に従って、計画に参加した学生達の多くは停学処分を受けた。しかしこの措置は大学全体の雰囲気をさらに悪化させ、学期の終わりが近づくにつれて、キャンパスから礼節が失われて行った。学長邸で開かれる定例のオープンハウスへ招かれた500人の招待学生の内で集まったのは150人だけだった。さらに多くの学生達は卒業式に白い腕章を付けたうえで、卒業証明書が授与される際に学長との握手を拒否することで儀式の尊厳を損なった。学生の行動はビードルと家族を傷つけ落胆させたが、最後の年までには状況が改善するとの希望を奪うことはなかった43。計画中のその夏の旅行も苦痛を癒す休息となるだろうと彼らは期待した。

 座り込みの後遺症として憂鬱な時が続いたが、ビードルは一方で意味のある勝利感も味わうことができた。ビードルはいつも、ある研究機関からそこで広く尊敬を集めている学究を引き抜くには給与が魅力的なだけでは不十分だと主張してきた。実験系の科学は別にして、専門分野によっては図書館の優れた蔵書や設備が最も重要な条件だった。古く分散した図書館群で何年も我慢してきたシカゴの教職員は現状に不満だったし、不十分な施設では人材を引きつけることはできないのは自明だった。ビードルは新しい図書館の建設が、 「間違いなく大学にとって最大の必須課題のひとつである」 ことをよく認識していた。1965年末までには、自然科学を除く全ての大学院図書館を統合した精巧な構造の総合図書館の建築計画が完成していたが、1,800万ドルの資金不足によって建築開始が遅れていた。新しい大学院図書館の建築場所はスタッグ・フィールドに決まったが、そこは大学対抗フットボールの最強チームのひとつだったシカゴ大学のフットボールスタジアムだった。

 医療センターにとっては、治療に満足した裕福な患者達から注意深い治療によって病を治した医師に提供される謝礼金が安定した資金源のひとつだった。レオン・ジェーコブソンが主治医を務めたジョセフ・レーゲンシュタインはそうした 「恩顧者」 の一人だった。ビードルはレーゲンシュタインに会って図書館への寄附を申し出る機会を作るようジェーコブソンに懇願した。レーゲンシュタインの最初の寄附は控えめだったが、彼の死後には未亡人が1,000万ドルの寄付を約束した。こうした資金は他財団からの支援金とあせて大学院図書館の建設を開始するに足る十分な額だった。1967年10月22日の鍬入れ式を学長として迎えたビードルは、これほど心温まる重要な寄附を、しかもタイムリーに誕生祝いとして受けとることのできた学長はシカゴ大学の歴史上自分より他にはいなかっただろうと感謝を込めて祝辞を締めくくった44。今日ではレーゲンシュタイン大学院図書館はシカゴ大学の知的生活のハブとして確固たる地位を占めている。

 ビードルが学長を務めた任期中、評議会は進行中のハイドパーク・ケンウッド地区の環境改善事業に専念し続けたが、ビードル自身はその事業には僅かに関与する程度だった。継続中の監督・管理業務は主に南東シカゴ委員会とより広域な共同体連合に関する仕事だった。ミュリエルもハーパーコートの開発改修事業に彼女らしい役割を果たしていた45。彼女と近隣の退役軍人からなる小さなグループが最も熱心に改修事業と取り組んだが、彼らは住居改善への集中的な努力の結果として却って共同体の商人達の運命が蔑ろにされているのではと危惧していた。ハイドパーク・ケンウッド地域共同体計画委員会の何人かの委員からの励ましとビードルの賛同を得たミュリエルは、大きな不安を乗り越えて、芸術家と工芸家の作品に限定したショッピングセンターの建設に向けた奮闘の先頭に立った。建設計画と資金集めを開始するに当たってミュリエルは、借金の返済責任を負う可能性があるかも知れないと懸念をビードルに予め伝えた。ビードルは、もし事業が失敗するとしても株価が上昇中の失敗なら恐れる必要はないと冗談を言って彼女を安心させた。こうして会社設立許可書に 「文化的で地域共同体に特別の意義をもつ小規模な事業の継続」 の促進を掲げたハーパーコート財団が発足した46。ハーパーコート・ショッピングセンターの営業は実際にその後うまく行き、大学共同体とその近隣に良質のサービスを提供し続けた。大学は、大学貢献に費やしたミュリエルの努力に敬意を表して、1969年3月21日に彼女に名誉学位を授与した。

 ビードルが65才の誕生日を迎える翌年の10月22日頃に退職することが、キャンパスが騒動のまっただ中にあった1967年6月27日に公表されると、同僚と学生を含む大学全体が驚きに包まれた。ビードルの退職日は7年前に学長職を引き受けて以来評議会で議論されていた。評議会を代表した声明で、フェアーファックス・コーン議長は大学の教職員組織と物理的環境をアメリカの大学のトップランクにまで回復させたビードルの貢献を褒め讃えた。コーンのビードルに対する賛辞は 「ビードル学長は、一言で評すなら、ひとつの偉大な大学を世界中で最も偉大な大学に作り変えたこの世でもっとも明快な最高のナイスガイである」 だった47。新聞には賞賛の記事が溢れたが、そこには次のような賛辞もあった。 「ビードル博士の在職中の最も偉大な業績は最小の学内論争で最大の前進を実現したことである」 、 「ビードルは大学の知的シンボルとして重要だった。ノーベル賞受賞者を学長に頂く大学がいくつあるだろうか?」 、 「ビードルの主要な功績は彼が開放主義を貫いたことだった。率直で誰とも形式張らずに接する魅力的な彼は常に他人の提案に耳を傾けた」 48

 教職員達から次々に届いた個人的な手紙はどれも同じ感情を吐露したものだった。そのうちのひとつは大学図書館長からの手紙で、そこにはビードルの貢献に対して次のような特別の賛辞が綴られていた。 「大学の歴史を通じて図書館は他のどんな時代よりも貴殿の大学経営のもとで確実で永続的な前進を遂げることができました」 。賛辞はさらに続いた。 「何人かの優れた人物、特にエドワードを大学管理者とされた貴殿の優れた人物眼、芝生を含む諸々の物的設備の重要性に対する認識、学生達とのより開かれた会話チャンネルの維持と公平無私で誠実な態度に加えてご夫人が大学と地域共同体の関連課題に注がれた献身など、貴殿が着任する前と比べてシカゴをずっと強力な大学になされた多くのご努力とその的確さは称賛に値します」 49。 「ビードルが着任したその日から大学精神の変革が始まったのです。キャンパスの芝生はその緑を増し、大学は去り難い場所になりました」 と率直に思いを述べた手紙もあった50

 ビードル自身の思いは、彼に対する同僚達からのこうした賞賛の声とは対照的だった51。憂鬱な日々に彼は時折、 「ここで自分がしたことはただひとつ、良い緑の芝生が育つようにしたことだけだった。でもこれは素晴らしい記録ではないだろうか?芝生に神経質な学長だったと記憶してもらえればありがたい」 などと考えたことだったろう。実際に1億6,000万ドルもの資金を集めたことを思い出した後で、それでもビードルはその思いに反証した。 「つまり私は自分で何かを成し遂げることができただろうか?考えて見れば、私は生物学部門でデントコーンを作ることさえ出来なった(注:デントコーンは家畜の飼料、コーンスターチ、コーン油やバイオエタノールの原料となる粒の大きなトウモロコシで馬歯トウモロコシとも呼ばれる)。生物学部門では教職員達が依然として建物デザインの完成計画を持て余しているし、コースワークは可能な筈の水準に全く達していないではないか」 。ビードルは、 「自分の名前と個性に長く結びつくどんな特別なプログラムも大学組織も残さなかった」 ことを正直に認めた。それでも彼はシカゴ大学の学長であったことに感謝し、恐らくノーベル賞を受賞したことより学長であった年月を覚えてもらうことを喜んでいたのだろう52

 学生新聞のシカゴマルーンのビードルに対する見方は複雑で、 「シカゴ大学の後半世紀の決定的な歴史が記載される際には、ジョージ・ビードル自身よりはビードルの時代により多くのスペースが費やされることになるだろう」 と感想を述べた。学生にとってビードルは、キャンパスを歩きながら自分達に笑顔を向けるだけの、自分達とは直接に関わることのない遠い存在だった。ビードルはそれでも 「大学の現状説明会」 で学生団体に直接話しかけた最初の学長だった。学生達は 「遠慮のない強力な既得権をもつ学部と限られた予算それに巨大で解決困難な大学の問題と格闘するなかで、学長は間違いなく最善を尽くしたと言うべきだ」 と肯定した上で、さらに次のコメント付け加えた。 「ビードル学長が最善を尽くした7年間で大学はずっと良くなった。同じ評価を受けるほどの後継者を見いだすことができるならシカゴ大学は幸運である」 53

 しかしビードルにとっては、学長としての実績に対する賞賛も批判も、予定の退職時までにシカゴ・キャンペーンが3年間の目標とした1億6,000万ドルの資金調達を達成するのは難しいのではとの懸念を和らげてはくれなかった。目標は達成されるべきだと決意を新たにしたビードルは、期待される寄付額がどれほどであろうと、1967年の夏の大半を寄付者への訪問の旅に費やした。1968年度が始まった直後の評議会と全学教授会の合同夕食会では、語るに足る大学の卓越性と必要性を助長する好ましい状況を教職員に与えるために、一流企業の重役達や同窓会グループへの資金集めの売り込みを自ら文字通り行動で示すことを約束した。こうした行動によって期待以上の額の献金を入手できたこともあったが、失望と落胆を味わうことのほうがずっと多かった。1968年の初めまでに、キャンペーンの全領収額は1億1,200万ドルに達していたので、残りの10ヶ月でおよそ4,800万ドルを集める難事業がまだ残っていた54

 シカゴの卒業生でノーベル賞受賞の対象となったDNA二重らせんの発見者だったジェームス D. ワトソンは、ビードルの古くからの同僚でビードルの寄附集めの標的の一人となった。ワトソンが自分の目的を十分に直接受け止めてくれる人間であることを知っていたビードルは、大評判を得た彼の著書の‘二重らせん’を引き合いに出して、 「ところで貴兄はベストセラーの著者で、従って金銭的に豊かでありますから、シカゴの生物科学領域の有力者と同窓会は貴兄がシカゴ・キャンペーンのための小口寄付者のリストから1万ドル以上の主要な大口寄附者のリストに上がった事実を私に知らせてきましたので、このとおりお伝え致します。」 と書いたうえで、さらに 「貴兄は新しい生物学棟の建設をお望みでしょうか、あるいは教授職かまたは1万ドル相当の何かをシカゴに寄贈して頂けませんでしょうか?」 と続けた55。この 「投げかけ」 がどんな成功を収めたかについては残念ながら記録がない。しかし、明らかにキャンペーン目標への最後の梃入れは成功し、評議会は1968年11月の初めに1億6,000万ドルの目標額の達成を宣言し、ビードルは胸をなで下ろすことができた。

 ビードルの退職が公表されると後継者を決めて招聘するために評議員と教職員代表者からなる人事選考委員会が発足した56。人事選考委員会にはエドワード・レヴィーが学長後継者として最適任であることは明らかだったから、選考調査に時間は不要で、9月にはレヴィーが 「私は多くの点で私の人生そのものだと言っていいこの大学に奉仕する機会が与えられることを嬉しく思います。私は愛するこの大学に私の最善を尽くします」 と述べて、新学長が決まった57。ビードルは評議会の選考に満足し、評議会はレヴィーを第8代シカゴ大学長に選ぶことでもう一度彼らの 「献身と知恵と裁量」 を証明したのだとコメントした。ビードルは、 「レヴィーが学長職に就く道筋を付けることができたことは私の高等教育への最大の貢献で、7,000万ドルの価値をもつ新しい建物を大学に建設し、250人の新しい教員を招聘する以上に価値あることだ」 とまで言い切った58。ミュリエルはケート・レヴィーを歓迎して学長邸をレヴィーの家族の趣味と必要に会うようにするための改修の開始を手伝った。

 レヴィーの学長就任は1968年11月14日で、その時点でビードルの退職が公式になった。就任式の直後にレヴィーは手紙を書いてビードルに美しい植物を贈ってくれたことへの感謝を述べ、続けて、 「若し私に幸運があったとすれば、最たる幸運は貴方という仕事の精通者を最も身近で見ることができたことです。私は貴方に倣い、貴方を継承しようと思いますが、そうする上で遥かに至らない自分に失望することになるかも知れない不安を拭うことができません。互いの恩恵と思いやりに報いることを願って!」 と謙虚に感謝の思いを告げた59。学長室での連日の責任から自由になったビードルは、今や寛いだ生活と研究への復帰が可能になるのだとの予感を楽しむことができた。



1. 評議会会議議事録,February 8, 1962, CHG, 特別コレクション.
2. GWB. 1962. Science and religion. Christian Century, pp. 71-72.
3. David Beadle, インタビュー,July 27, 1997.
4. GWBからN. Horowitzへの手紙,October 7, 1962, Horowitz collection, CIT.
5. GWB,教員評議会への学長演説,November 5, 1963. Beadle collection, box 4.7, CHG, 特別コレクション.
6. D. Gale Johnson, インタビュー,October 12, 2000.
7. Redmond Barnett, インタビュー,July 22,1997.
8. ハイドパーク・ケンウッド都市再開発の開始から1967年までを要約したミュリエル・ビードルによる包括パンフレット,CHG, 特別コレクション.
9. M. Beadle. Where has all the ivy gone: A memoir of university life. Doubleday, New York, 1972. P. 63.
10. M. BeadleからR. Beadleへの手紙,May 3, 1962.
11. D. Beadle, インタビュー.
12. M. BeadleからR. Beadleへの手紙,August 8, 1963.
13. G. and M. Beadle. The language of life: An introduction to the science of genetics. Doubleday, New York, 1966.
14. M. BeadleからR. Beadleへの手紙,May 23, 1965.
15. GWBからR. Beadleへの手紙,August 8, 1963.
16. 評議会会議議事録、September 8, 1960 and April 13, 1961. CHG, 特別コレクション.
17. G. Mitman. The state of nature. Ecology, community, and American social thought, 1900-1950. University of Chicago Press, 1992.
18. 同上, pp. 29-30; p.101.
19. 同上,pp. 105-109.
20. Robert Yuretz, インタビュー, August 15, 1986; Eugene Goldwasser, インタビュー, May 19, 1998; Hewson Swift, インタビュー, May 19, 1998.
21. 同上,その他.
22. D. Gale Johnson, インタビュー, October 12, 2000.
23. Bernard Strauss, インタビュー, August 14, 1996; Stuart Rice, インタビュー, September 18, 1998; Lloyd Kozloff, インタビュー, June 26, 1998; Robert Haselkorn, インタビュー, September 19, 1998.
24. GWB, 大学評議会への学長演説、 November 10, 1964.
25. E.A. EvansからGWBへの手紙,October 15, 1964, CHG, 特別コレクション.
26. GWBからEvansへの手紙,October 21, 1964, Administration files, box 13.5, CHG, 特別コレクション.
27. L.A. JacobsonからGWBへの手紙, June 1, 1964. Beadle collection, box 13.7, CHG, 特別コレクション.
28. 同上.
29. W.A. WickからGWBとLeviへの手紙, July 16, 1964; 同上.
30. GWBからH.S. Bennettへのメモ, July 17, 1964; 同上.
31. シカゴ大学広報室報告,June 22, 1965.
32. Richard C. Lewontin, インタビュー, October 20, 1998.
33. LewontinからGWBとLeviへの手紙, June 23, 1966. 学長書類,box 13.7, CHG, 特別コレクション.
34. GWB, キャンペーンについて評議員への意見表明, October 20, 1965および学長演説, November 9, 1965, CHG, Beadle collection, box 7.1.
35. M. Beadle, Where has all the ivy gone, p. 240.
36. 同上.
37. GWB, 学長演説, November 7, 1967, CHG, Beadle collection, box 7.1.
38. 同上.
39. 学生蜂起に関する再説明, M. Beadle, Where has all the ivy gone, pp. 265-281. 参照.
40. San Francisco Chronicle, May 14, 1966およびTime雑誌,May 20, 1966, p. 72.
41. GWB学長書類,box 2.4, CHG.
42. M. Beadle, Where has all the ivy gone, pp. 279.
43. 同上., p. 280.
44. GBW, レーゲンシュタイン図書館鍬入れ式での学長スピーチ, 0ctober 23, 1967. CHG, 学長書類,box 6.8.
45. M. Beadle, Where has all the ivy gone, pp. 356.
46. 同上,pp. 125-140; pp. 194-195; pp. 213-215.
47. Chicago Daily News, June 28, 1967.
48. Chicago tribune, June 28, 1967.
49. レーゲンシュタイン図書館長から(氏名は読み取り不能だが検索の可能性あり)GWBへの手紙, July 8, 1968. 学長書類,box 1.4, CHG, 特別コレクション.
50. John M. Shlienからの手紙, June 29, 1967.
51. M. Beadle, Where has all the ivy gone, pp. 356.
52. D. Beadle, インタビュー, June 27, 1997.
53. The Chicago Maroon, June 30, 1967.
54. GWB, 大学評議員と教職員の夕食会スピーチ, January 10, 1968, CHG, Beadlecollection, box7.5.
55. GWBからJames D. Watsonへの手紙, June 12, 1968 (Watson提供).
56. Los Angeles Times, July 5, 1967, 学長書類,box 1.4, CHG, 特別コレクション.
57. プロフィール,シカゴ大学雑誌,November, 1967, pp. 30-32.
58. GWBからDelbr?ckへの手紙, November 11, 1968.
59. LeviからGWBへの日付なしのノート,Box31.5, 大学管理書類,CHG, 特別コレクション.