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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第2章 リンカーンの農学部

 ネブラスカ州の過疎地の農場に住む子供のほとんどは、1967年になってさえ、一人の先生が全学年を教える1教室しかない学校へ通っていた。それでも初期のネブラスカ移住者にとってさえ教育は重要で、地域では無料の公教育が既に1855年には始まっていた。ネブラスカ大学は1871年にリンカーンで開学したが、それはこの地が州となった4年後で学校教育が義務化される20年も前のことだった。ビードルがネブラスカ大学に入った1922年には、リンカーンは活気に溢れた州都だった。どこも建築ラッシュで、商業には活気が溢れ、公園やゴルフ場などの遊興施設が続々と作られていた。空港建設の計画が進行中で、その春にはチャールズ・リンドバーグが地域の航空学校で飛行技術を学んでいた(注:リンドバーグは1927年にスピリッツ・オブ・セントルイスでニューヨークとパリ間の初めての大西洋横断飛行に成功する)。1926年にはコーンハスカー(トウモロコシの皮むき農夫)という名の上品なたたずまいのホテルが建てられた。人口が30年間は55,000で滞っていた市にとっては、発展こそが新たな人々を引き寄せてくれるという大きな期待があった。「新しい高層建築が毎朝見えるシティー」が商工会議所のスローガンだった。市の発展のシンボルは、1922年に建てられた州議会議事堂だった。建築後、この白い簡素な「平原のタワー」はどんな遠くからでも見ることができた。中央の巨大な緑の中庭を囲む美しい石と煉瓦の建物群が配置された大学のメインキャンパスも市のイメージを高める期待の存在だった

 だが、ビードルが入学した直後には、ベス・マクドナルドが教えてくれた大学の授業料無徴収制度は過去の遺物になってしまった。第一次世界大戦後の農場生産物の価格暴落で深刻な経済問題が州を襲った。1920年と1921年の間にトウモロコシの値段は65%以上も暴落した。州知事と州の立法府は大学を予算削減の標的にした。1915年から1917年までリンカーン市長を務め、大学が市の経済発展にとって如何に重要かを理解していたはずのチャールズ・W・ブライアンも、1920年代のはじめに州知事になると大学への同情を捨て、補助金削減を明言した。ビードルが入学した1922年に1単位2ドルだった授業料を少しだけ値上げすれば大学の経済状況は多少でも良くなった筈だったが、学生達の反対を恐れた大学の評議員達は州議会議事堂から歩いてすぐの場所に展開しつつあった大学のアカデミックな発展には背を向けて州政府の授業料値上げ要求を受入れなかった

 大学の存在自体が疎まれたわけではなかったにしろ、評議員達の興味は学術ではなくむしろフットボールに向かっていた。リンカーンのメインキャンパスはオマハのキャンパスと新しいフットバール・スタジアムの建設予定地を巡った争いの渦中にあり、新しいスタジアムと体育館を建設するのに必要な75万ドルを予算化するためのキャンペーンが始まってアカデミックな予算が標的にされていた。このキャンペーンでリンカーンキャンパスが勝利し、ビードルが1年生の春には新しいスポーツ施設建設のために地面の掘り返えし工事が始まった。偉大な大学の建設に教員としての人生を捧げてきた人々は、スポーツと大学生活の社交的な面だけが花開くのを見て、自分たちの夢が霧散してしまったと感じた。フラタニティーとソロリティーの関心も勉学より学生生活にあった(注:フラタニティーは男子学生の、ソロリティーは女子学生の友愛会)。1929年に、ヘンリー L. メンケンは「大学に行くことは今やある種の社会的な必要となった。家に風呂を持つことや車をもつことと同じである」と書いた(注:メンケンはアメリカ人の生活や文化について多くの批判的な評論を発表したジャーナリスト)。真面目な教師達の目にもっと悪いと見えたことは、ネブラスカでも他州と同じように、一般教育よりは職業教育に高い感心が集まったことだった。ネブラスカ大学の卒業生だったウィラ・キャザーは「古典や人文学にとっては暗黒の日々、冬の時代だった。審美眼を育て人間性を豊かにする学問は奨励されなかった」と1923年に書いている。経営学部や教育学部は、彼女の特別で仮借のない批判の的となった。彼女の農学部に対する見解は記録に残っていない。ネブラスカ大学では「牛学部」と呼ばれていた農学部は、この分野では合衆国で群を抜いた高い評価を得ていたが、中央キャンパスの学部間では恐らく欄外の学部と考えられていたことだろう。

 農学部は、当時も現在もメインキャンパスの北東2マイルにあった。一般的な経済の不振と特にトウモロコシ農家の窮乏が、農学部入学者数が1920年の470人から1926年の120人に減った主な原因だった。もう一つの要因は4年生高校ができたことだったかも知れない。学生数の減少は農学部の質が問題だったのでは決してなかった。農学部は群を抜いていたし、そこはビードルにとっては堅実で魅力的な農学、植物学と遺伝学の教育を受けることのできる適切な場所だった。その時代の農学部の学生には後に著名な植物科学者になった者がビードル以外にも何人かいた。1934年に国家による大学学科の外部評価があったとき、ネブラスカ大学で6学科がPh.D.の学位を出すに相応しいと評価されたが、そのうち3つが農学部の植物科学関連学科だった

 農学部はチャールズ・エドウィン・ベッセイの努力で1909年に設立されたが、ベッセイは農学部の優秀な伝統を打ち立てた人物だった。その時すでにリンカーンで4分の1世紀も教職に従事していたベッセイは有力な教授で、中西部の平原のイネ科植物を専門とする広く尊敬を集めた植物学者、生態学者だった。ヨーロッパに留学して教育を受けるのが一般だった19世紀の多くのアメリカ人科学者とは違って、彼はずっと合衆国内で教育を受けた。生態学に重点を置いた植物学科をまず始めにリンカーンで設立したが、これは後に先導的な学科となった。ベッセイの先見的な着想のひとつは、分類学への偏りを改めて顕微鏡学を含む厳密な実験科学として植物学を強化することだった。彼はまた、学生は教室の外へ出て野外で学習すべきだ信じ、この目的で「植物学セミナー」を創設して学生達を最新の研究に従事させ、科学を語る方法を学ばせた。精力的な人物であったベッセイは1887年のハッチ法の草案作りに尽力し、この法案によって政府が国中に農業試験場を設立して資金援助を与えることが可能となった。農業試験場は、そこでの研究を通じて、ネブラスカはもとより合衆国農業の生産性の向上に決定的な役割を果たし、それは今も続いている(注:合衆国の州立大学では農務省USDAの農業研究所ARSがキャンパスの隣接地に併設され、研究者が大学の兼任教授として講義や大学院生の研究指導に関与するなど大学と連携して研究・教育を推進し地域の農業研究を支援する体制が整っている)。

 ベッセイの優れた学生の一人は1897年に学士を得たロリンズ・アダムス・エマーソンだった。エマーソンは1873年にニューヨーク州北部で生まれ、よりよい土地を求めて西へ移動した家族が定住したネブラスカ州キアニー郡で7才の時から農家の子供として育った。ネブラスカ大学を卒業した年に発表された彼の最初の科学論文は、樹幹内の温度に関するものだった。何十年も後輩のビードルと同じように、エマーソンには大学卒業後も農場に戻ろうとしなかった。ベッセイのコネがあったと思われるが、エマーソンはワシントンD.C.の合衆国農務省農業試験事務所の園芸部門で抄録事務に関する副編集員としての仕事を得た。しかし、その仕事に長く留まることはなかった。ひとつには農業から離れたかったこと、一方で机にしがみつく仕事は魅力的な選択肢ではなかったからである。1899年にはネブラスカに戻り、ネブラスカ大学園芸学科の助教授・学科長およびネブラスカ農業試験研究所の園芸員という2つの職業に就いた。彼はすぐに研究を開始し、インゲン豆(Phaseolus vulgaris)を材料に用いて育種の実験を行った。エマーソンの目標は、アメリカの他の植物学者、育種学者と同様に、育種によって望みの性質を持った作物を作る法則を明らかにすることだった。実際、そうした研究を始めるには丁度いい幸運な時代だった。

 その頃は丁度、モラビアの司祭グレゴール・ヨハン・メンデルが35年前に発表した仕事が再発見されて復活したばかりのときだった。メンデルはエンドウマメ(Pisum sativum)の実験データとその解釈をヨーロッパ中で読まれていた科学雑誌に発表したが、多くの研究者は彼の論文を無視するかその意義をまったく理解しなかった10。自然科学に興味を持っていたブルノの修道士達からなる地域社会の外の科学界ではメンデルはまったく無名の存在だった。アウグスティニアンの信仰社会は独立心が強く、政治的あるいは論理的な面で偶像破壊的な活動に誇りを持っており、独創的な修道士はメンデル一人ではなかった11。1900年のメンデル法則再発見後には、現代的な通信手段こそなかったが、メンデルの確立したアイディアは急速にヨーロッパからアメリカ合衆国全土に広がった。合衆国では、人為的な選抜と雑種育成への興味に突き動かされた植物学者や育種学者はこの新しいニュースを即座に広め、農務省も農学部と農業試験研究所を支援してメンデルの方法論を推奨した12

 エマーソンは大学の語学要件をパスするために科学ドイツ語の勉強をしていた1896年にメンデルの論文を読んだ。しかし彼のドイツ語能力は不十分で、当時の他の誰もがそうであったように、最初にこれを読んだときにはその仕事の意義をまったく理解できなかった13。この状況が変わったのは、1902年に彼がメンデルのアイディアを取り入れインゲンマメを使ってメンデルの実験の幾つかを再現した予備的論文を書いたときだった14。彼は指導者だったベッセイやその他の科学者がまだメンデルに懐疑的であったときにいち早くメンデルの信奉者となったアメリカ人科学者の一人だった15

 遺伝学は、今日でさえ、多くの学生を困惑させる科目の一つで、連続した世代で現れるエンドウマメの種子の色、大きさ、種子表面の肌理などの一見複雑で抽象的な関係を扱う遺伝学に辟易した学生達は講義対象が他の分野へ移るとほっとするのが常である。しかしメンデルの実験は実は単純で、その結論の正しさは150年の実証試験を経た現在でも揺ることがない。メンデル自身もトウモロコシを含む他の植物に自らの発見を敷衍しようと試みた16。修道院の小さな庭で続いた12年に及ぶ仕事を通じて、メンデルは植物や動物にも適応可能で遺伝子の化学構造と遺伝子が生物の性質を決める仕組みに関する現代的な概念と驚くほど合致した論理的な枠組みを一人で確立したのだった17

 メンデルは、植物がある性質をある世代から次の世代へ伝える方法を明らかにするには、研究対象となる性質について純系の個体を用いて実験を始める必要があることを正確に理解した。メンデルは優れた園芸家で、通常は自家受粉を行う園芸用のエンドウマメを何世代もの間、自家受粉させる仕事から始めた。これにより種子の色や肌理、植物体の大きさなどの互いに異なる明瞭な性質が変化せず子孫に伝わることが確認できた。次に、メンデルはこれらの純系どうしを交配して雑種種子と植物体を得た。彼は、例えば黄色の種子をつけるエンドウマメと緑色の種子をつけるエンドウマメを、あるいは表面が滑らかな種子をつけるエンドウマメとシワ種子をつけるエンドウマメを交配した。このために、彼は注意深く、例えば黄色種子をつけるエンドウマメの小さな花から自家受粉を避けるために花粉を作る未熟な葯を取り除いた。次に、緑色種子をつけるエンドウマメの成熟した花粉を、雌性花器官の柱頭に振りかけた。彼は雌雄を逆にした交配も行った。うるさい虫が植物から植物へ這い回ったり飛び回ったりして偶然の受精が起こらないよう注意することも忘れなかった。さらに重要な点は、メンデルがそれまでの育種家とは違って次の世代で生じる異なる色や肌理を持つ種子の数を注意深く数えて記録し解析するという厳密で科学的な方法論を導入したことだった。

 その他の実験結果も加えて、メンデルは幾つかの結論を導きだしたが、そのひとつはエンドウマメのどんな特徴も対照的な現れ方を見せるというものだった。彼は、例えば種子が黄色か緑色か、シワか滑らかか、あるいは花が白色か紫色かなどの対となる形質のどちらが雑種で現れるかはある未知の因子が決めると推論した。また、黄色の雑種種子から育てた植物の自家受粉で緑色の種子が生じることがあることから、緑色の種子を決める因子が黄色種子のうちにも存在していたに違いないと考えた。逆に言えば、黄色の種子を付ける植物体が種子の色を緑色にする因子を持つことから、メンデルは黄色因子が優性であること、同様の推論から滑らかな種子がシワ種子に対して優性であると推論した。異なる因子(例えば黄色種子と緑色種子を決める因子)は、例えば薄い緑色や濃い黄色のような混ざり合った種子色を生じることがなかったのだから、個別の因子でなければならない。メンデルはまた、個々の雑種植物は対象となる性質のそれぞれについて2つの因子を持つこと、2つの因子は問題とする性質に関して同じあるいは異なる存在様式のうちいずれかをとると理解した。種子の色について見れば、2因子がともに黄色(黄/黄)か緑色(緑/緑)か、あるいは雑種がひとつずつ両方を持つ(黄/緑)かである。さらにメンデルは、子孫の種子と植物はそれぞれの両親から、すなわち父親の花粉と母親の卵からそれぞれ1因子ずつ受け取ると推測した。

メンデルは自分の推論が誤りではないことを証明するために様々な実験を行った。そうして、特定の性質を支配する2つの因子が卵細胞と花粉の形成時にそれぞれ独立して別れる(遺伝学の論文ではこれを分離すると表現する)という遺伝の最初の重要な原理を練り上げた(注:これをメンデルの第一法則あるいは分離の法則と呼ぶ)。さらに、特定の形質に関わる存在形態の異なる2つの因子はそれらの効果が同一ではなく、両者が同一個体に存在するときには通常は一方が他方に対して優性であることも明らかにした(注:これをメンデルの第三法則あるいは優性の法則と呼ぶ)。

 メンデルは、植物体や種子の外観を見るだけでは、それらが二つのうちのどちらの因子を持つのか、すなわち黄色種子の植物は黄/黄または黄/緑のどちらであるかを決めることができないことを明確に理解した。両者が区別できるとする考え方は、1909年にデンマークの植物学者ウィルヘルム・ヨハンセンが、遺伝因子はそれが決定する遺伝形質とは区別する必要があることを提案して以降に一般的な知識となった(注:メンデルは、雑種が黄/黄または黄/緑のどちらであるかを決めるには、緑/緑の劣性親をもう一度交配し子孫の表現型を調べれば良いことを実験で示した。メンデルが考案したこの交配方法によれば、黄/緑の雑種からは黄色種子と緑色種子が同じ割合で生じる、すなわち形質の分離が因子の分離と同じになることから、この交配様式は一般に検定交配と呼ばれ、劣性ホモ型の交配親はテスターと呼ばれる)。メンデル学説の情熱的で影響力のある初期の支持者だったイギリス人動物学者のウィリアム・ベートソンが、すでに新しい遺伝に関する学問を遺伝学と呼ぶよう提唱していたので、ヨハンセンはそれまでの因子に代わって遺伝子という学術用語を考案した。ヨハンセンはまた、生物の遺伝的構成すなわち因子(遺伝子)の存在形態(例えば、黄/緑あるいは緑/緑)を意味する術語として遺伝子型を提案し、さらに遺伝子型によって決まる観察可能な性質(例えば、黄色あるいは緑色の種子)を表現型と呼んだ18。ベートソンは、さらに緑色か黄色かあるいは滑らかな種子かシワ種子かなど対となる遺伝子を記述する単語としてアリロモルフ、一般には省略してアリル(対立遺伝子)と呼ばれる学術用語を導入した。これらの学術用語は今日でも遺伝学で一般的に用いられており、以後はこの本でもそれらを採用する。

 さらにメンデルは、それぞれ1対のアリルを持つ2つの異なる遺伝子が花粉と卵細胞の形成時に互いに独立に分離するか否かを知りたいと考えた。彼は種子の色と種子の肌理を決める遺伝子を選び、それらが純系であると確認できるまで自家受精を繰り返した(注:メンデルが調べた種子の色と種子の肌理という形質は雑種当代で調査が可能で雑種を植えて次代を得る必要がないので便利だった)。このとき彼はまず、2種類の植物の一方は常に黄色で丸い種子をつけ、一方は緑色でシワの種子をつけることを確認するための予備的な実験を行った。前者の遺伝子型は黄/黄で丸/丸であり、後者のそれは緑/緑でシワ/シワであると推論できる。次に前と同じ方法で、これら2種類の植物を交配して得た子孫の表現型を記録した。メンデルは既に黄色が緑に対して優性であるように丸がシワに対して優性であることを知っていたから、雑種の種子がすべて黄色で丸だったことに驚きはしなかった。だが、種子の色と肌理は次代に同時に伝わるだろうか。これを決めるためにメンデルは雑種種子から育てた植物を自家受精させた。もし、種子の色と種子の肌理を決める遺伝子に何の関係もなければ、雑種植物で作られる花粉と卵細胞は同一の確率で黄色か緑色のアリルおよび丸かシワのアリルを持つことになるだろう。メンデルが種子の表現型を数えてみると、黄色で丸、黄色でシワ、緑色で丸と緑色でシワの種子が2対のアリルの無差別な分離から期待される割合で出現していた。これらのデータから、異なる2つの遺伝子は独立に分離して卵細胞と花粉(すなわち生殖細胞あるいは配偶子)に分配され子孫に伝わるとするメンデルの遺伝の第二法則が生まれた。

 エマーソンのインゲンマメの実験結果はメンデルや他の研究者の結果と完全に一致したが、純系を用いた十分な数の交配結果ではなかったから、1902年の論文では統計的に有意な結果を報告することはできなかった。しかし、重要な点はエマーソンの実験にはメンデル法則からの期待とは異なる事実があったことだった。種子の色に関して異なるアリルを持つ純系のインゲンマメを交配すると、雑種は純粋な優性または劣性形質ではなく異なる色の背景に紫色の斑点を持つものが時折出現した。エマーソンは1904年に改めて完全な論文を報告し、莢の位置、種子の色、莢にある筋の数など種々の形質に関する実験結果を記述した。そこでも、彼は時折の「中間型」を記録し、「混ざった」という単語を用いて、これらメンデルの期待に反する性質を記述した19

 インゲンマメに関する最初の論文を発表したとき、エマーソンは既にトウモロコシを対象に研究を始めていた。トウモロコシの学術名称はZea maysで、科学の文献と合衆国以外の英語圏では通常メイズ‘maize’と呼ばれる。メンデル自身も、エンドウマメの実験が終わった後では、トウモロコシに目を向けた。メンデルは、カール・フォン・ネーゲリーに送った1867年の手紙で、濃い赤色の種子をつけるトウモロコシと白色あるいは黄色の種子をつけるトウモロコシを交配したことを報告し、3年後の手紙では結果がエンドウマメで得たものと同じだったことを伝えている20

 トウモロコシは合衆国とネブラスカの農業にとってますます重要になるだろうという明確な予測から、エマーソンにとって魅力的な研究対象だった。それにトウモロコシには科学上の有利さもあった。トウモロコシの穂軸につく数百の種子はそれぞれが個別の受精の結果であり、従って人為的な一度の交配によって多くの独立な受精に由来する多数の子孫を得ることができるから、観察結果の統計的な有意性の向上が期待された。加えて、種子(穀粒)は穂軸に残るので収穫前に散逸することがない。植物体の頂上につく雄花穂(タッセル)中の雄花と茎の下部につく雌花が別れており、花粉が雌花の網状柱頭(シルク)に落ちて受精が起こることもトウモロコシのもう一つの便利な点である。圃場では、花粉は風によって運ばれ、植物体は自家受粉するか近くの植物と交雑受粉する(注:雌雄異花で風媒繁殖を行うトウモロコシでは雄花と雌花の開花期がずれるので、通常は他家受粉である)。しかし、実験に際しては、タッセルとシルクに袋を掛けて、選んだ父親植物の花粉を異個体の雌側シルクに振りかける単純だが手間が掛かる作業で無差別な受粉を避けることが出来る。

 トウモロコシには、それが遺伝学研究の便利な材料となるための受精に関するもう一つの特徴がある。種子の胚をとり囲み成熟中の胚に栄養を与える多量の物質(胚乳)の形質(表現型)が、穂軸を形成する成熟した親植物体の遺伝構成(遺伝子型)ではなく新しくできる種子胚の遺伝子型を持つことである(注:胚乳は花粉が提供する一つの精核が胚嚢中の二つの極核と融合することで生じる3倍体であるから、厳密に言うと胚乳の遺伝子型は種子胚の遺伝子型とは異なる。なお、精核による受精が卵核と極核の2カ所で同時に起こる被子植物のこうした受精様式は重複受精と呼ばれる)。もし研究対象の遺伝子が穀粒の形質に影響を与えるとすれば、交配実験の結果を穀粒で直接見ることができる(注:花粉に由来する精核の形質が胚乳の形質を支配するこの現象は特にキセニアと呼ばれるが、メンデルの法則に従う遺伝現象である)。実験結果を得る前に種子を播いて植物体を育てる必要がないことは、遺伝学者にとって大いに時間の節約となるうえ、もちろん種子は問題とする遺伝子の研究を続けるために使うことができる。エンドウマメも遺伝学の便利な材料ではあるが、その理由はトウモロコシとは異なる。エンドウマメの種子の内部にある胚は子葉と呼ばれる肉厚の2枚の葉で包まれている。二枚の子葉の色と肌理は、種子がつく親植物体の遺伝構成ではなく新しい植物体のそれを反映する(注:トウモロコシは子葉が一枚の単子葉植物、エンドウマメは子葉が2枚の双子葉植物である。両者では食用となる主要部分が異なり、トウモロコシでは3倍体の胚乳であるのに対してエンドウマメでは2倍体の子葉が可食部である)。

 エマーソンが遺伝学研究の材料にトウモロコシを選んだ理由は、こうした有利さからだけではなかった。むしろ、20世紀の初めにネブラスカ大学の教室で学生達に与えた実験から得られた彼を困惑させ悩ませた結果が彼をトウモロコシの研究に向かわせた理由だった。メンデル学説の実演のために彼が育てたトウモロコシの穂が学生達に与えられた。彼は、それぞれスターチー(デンプン性)とシュガリー(糖性)と呼ばれる形質について純系の2品種を交雑しておいた。雑種子孫の種子を植えて育てた後で自家受精を行い成熟した穂(耳)を作らせた。学生達は種子を調べて、スターチーが幾つあってシュガリーが幾つあるか数えさせられた。シュガリー種子は崩壊してシワになり、他方でスターチー種子は丸く詰まっているから、学生達でも間違いなく判定できるはずだった。しかし学生達が持ってきた結果はエマーソンが期待したものとは違っていた。二つの表現型は、エマーソンがそうあるべきだと考えたような、ひとつの遺伝子の異なる2つのアリルを反映した結果とすれば起こるべきシュガリーとスターチーのメンデル分離比ではなかった。エマーソンの最初の反応は次のとおりだった。「ちぇ、学生は数えることさえできないのか」21。しかし、自分で数えて見ると学生達が正しいことが分かった。この不一致の原因を発見するには何年もかかったが、その間もエマーソンは遺伝学研究の実験系としてのトウモロコシに熱中した。エマーソンのような偉大な科学者にとっては困惑させる結果はいつでも最も興味深い結果だったからである。実は、花粉管の形成を支配する第2の遺伝子がシュガリー形質を決める遺伝子の座乗する第4染色体上で連鎖していることが後に分かった。シュガリー突然変異体では第2の遺伝子も変異しており、期待より少ない数のシュガリー種子が結実することで、シュガリーのスターチーに対する比率を下げたのだった。この事実は1921年に明らかとなったが、1900年にはひとつの染色体上に複数の遺伝子が連鎖して存在する事実はまだ知られていなかった(注:メンデルは連鎖の事実を認識していなかった。第2法則である独立の法則は異なる染色体(連鎖群)上にある遺伝子群についてのみ当てはまる)。

 続く数十年の間、エマーソンはトウモロコシを用いた多くの遺伝実験の他に果樹、野菜、樹木や観賞植物を対象にした園芸実験を行った。彼はネブラスカ農業ショーの「変わりもの」展示で興味深いトウモロコシの突然変異体をいつも披露したが、顔中に髭を蓄えて背丈が6フィート以上もある頑強な体躯に加えて彼の具体的で的確な農業知識はいつも人々の注目の的だった。彼は指導的で影響力のある科学者としての立場を確立し、1905年には正教授に任命された。彼は特に、一群の人々がメンデルの法則に疑いを持ったひとつの現象、すなわち彼が初期の実験で観察したインゲンマメの紫の斑入りのような「混合」形質の遺伝を正面切って主張した。既に1902年には、すべての表現型は例えばエンドウマメの種子の色(黄色か緑色か)のように単純で明らかな遺伝子型の反映ではないことに彼は気づいていた。エマーソンは、表現型には2つあるいはそれ以上の異なる遺伝子およびそれらのアリルの存在を反映し、かつ調査対象とは異なる遺伝子のどのアリルが存在するかによって量的に変動するものがあると結論していた。遺伝子は独立な要素ではあるが、互いに影響しあって複数の遺伝子の混合であるかのように見える表現型を与えることがある。

 エマーソンのデータは彼が頑強に主張した混合形質あるいは量的形質を支持していたが、多くの研究者を納得させることはできなかった。メンデリズムに傾倒した研究者は、エマーソンは確立された遺伝の概念に影を投げていると考えた。一方でメンデリズムに依然として疑いを抱いていた例えばネブラスカ大学のベッセイのような研究者は、エマーソンのデータを新しい科学としての遺伝学の欠陥を証明するものだと受け取った。トーマス・ハント・モルガンは20世紀の最も偉大な遺伝学者の一人になった人物であるが、当時はメンデリズムの強烈な懐疑者の一人だった。ビードルは1908年のアメリカ育種家協会のミーティングでの物語を語るのが大好きだったが、そのときの様子を次の様に語っている。モルガンは、そもそも結果を説明するために理屈が考案されているのだから、結果がしばしば驚くほど見事に「説明」できるのも驚くには当たらないと述べた上で、メンデリズムは我々の眼をくらます「欺瞞」だと嘲ったというのだった22。モルガンは以下の例をあげて説明した。「もしあるひとつの因子が(その当時は依然として遺伝子ではなく因子という術語が用いられていた)事実を説明できなければ、第2の因子を引き合いに出す、もし2因子で駄目なら3因子で説明できる場合がある」。プログラム上でエマーソンの発表はモルガンの後に続いたが、それはモルガンの不満を例証して見せた発表だったから、聴衆を喜ばせた。実験はインゲンマメの混合あるいは量的形質のひとつである種子のまだらな外皮色に関するもので、エマーソンはこの事実を、2つの独立な遺伝子とそれらの選択可能なアリルの統合効果を想定したメンデリズムで解釈した。ミーティングにいた多くの人々はモルガンが議論に勝ったと考えたが、後に分かったことだが正しかったのはエマーソンだった23

 ハーバードの植物遺伝学者エドワード M. イーストはメンデリズムの懐疑者ではなかった。彼自身のデータと解釈は、多くの植物のいわゆる「量的形質」は効果が互いに影響しあう複数の遺伝子とそれらのアリルの正確にメンデルの法則に基づいた独立遺伝から生じる結果であるというエマーソンの提案に合致していた。エマーソンは1910年から1911年までの1年間をハーバードのイーストの研究室で過ごし、イーストを正式の指導教授として行った量的形質に関する仕事で1913年に博士の学位を得た(エマーソンは既に40才だった)。その年に、エマーソンとイーストはトウモロコシの様々な量的形質に関するデータを集めた重厚な概要を公表したので、最高水準の内容を備えたこの論文によって懐疑者の多くもついに納得した24

 Ph. D.論文の仕事を通じてエマーソンは、州の農業発展を強調しそれに焦点を当てるネブラスカ農学部の実務的目標よりは科学としての遺伝学に自分はより大きな興味を持っていると確信した。エマーソンの評判は日に日に高くなり、1914年には農学部植物遺伝学科長としてコーネル大学の教授陣に加わるよう勧誘を受けた。基礎研究により寛容な環境に移ることができる機会を嬉しく思った彼はこれを受け入れた25。彼は2人の大学院学生だったエルンスト・グスタフ・アンダーソンとユージーン・W.リンドストロームとともにイサカへ移ったが、これは後にビードルも含めて「リンカーンからイサカへ」進学する学生達の伝統になった。エマーソンのコーネルへの移動は、トウモロコシ遺伝学のための並はずれた影響力を持つことになる先導的な科学者共同体の中心地が生まれる前兆だった。エマーソンはキャンパスを去ったが、ベッセイの卓越さと厳密な実験主義の伝統にこだわりこれを推進したエマーソンの影響はその後何十年にもわたってネブラスカ大学農学部の骨格を作る力だった。

 ベッセイとエマーソンのこうした伝統はビードルのような知的で勤勉な若者に恵まれたチャンスを与え、彼らはその多くを実際に生かすことができた。1922年9月8日に始まった最初のセメスターで、ビードルは高校で学んでいた化学を取り直し、植物学、園芸学、酪農と養鶏を学び始めた。次のセメスターにも大きな変化はなかったが、農業工学と地域経済学が新たに加わった26。成績優秀な彼は農学名誉協会アルファー・ゼータが最高の成績を収めた1年生に与えるフレッシュマンメダルを勝ち取った。メダルを獲得したことで大学内での評価が高まり、彼はすぐに農学部の学生に限って認められていた男子学生社交クラブ(フラタニティー)のファーム・ハウスに入居できた27。ビードルとクラブの学生達のジャケットとネクタイで正装した姿を映した集合写真からは彼らが育った農場を想像することはできないだろう。1924-1925学年期の写真には、当時は大学院生で後にビードルと同じようにリンカーンからイサカへの伝統に加わり指導的な遺伝学者になる運命にあったジョージ・フレッド・スプローグが写っている。学部学生時代に既にスプローグはビードルに与えられたと同じ多くの名誉を得ていた。フラタニティー・ハウスでの生活は快適だったし、ビードルはすぐにインターフラタニティー運動会の陸上競技部などファーム・ハウスの行事に活発に参加するようになった。3年生の第1セメスター(1924年秋)では年代記編者に、第2セメスター(1925年春)には編集委員長に選ばれた。

 ファーム・ハウスの出版物に時折見られるユーモアは未熟なものだったが、記事の多くは主として勉学と大学に対する真面目な取り組みを反映していた。しかし、フラタニティー・ハウスでの集団生活はビードルの性分には合わなかった。部屋代、食事代、洗濯代、清掃代とフラタニティー会費からなる月45ドルの出費は学生の一部には高額すぎたが、幸いビードルには問題ではなかった28。祖母アルブロの遺産と父の援助がビードルにある程度の経済的な独立を可能にしていた。それでも種々の喧噪を嫌ったビードルはフラタニティーを去った。しばらく彼は指導教授だったフランクリン D.カイムの家に同居させてもらった。カイムの家族はビードルを、朝早く起きてストッキングキャップ(注:先端に飾りの房のついた毛糸の円錐形の帽子)をかぶり、他の誰もが目を覚ますより早く家を離れて誰もが寝てしまった後に戻ってくる田舎青年だが好ましい人物だったと記憶している29。彼はその後もファーム・ハウスの社交的な生活、陸上競技やネブラスカの主要行事だった大農場祭やトウモロコシ祭りへの参加を楽しんだ。農学部学生の出版物「コーンハスカー・カントリーマン」への投稿を含むキャンパス活動にもエネルギーの一部を費やした。彼は1924-1925学年期の終了時にはアルファー・ゼータに選ばれていただけでなく名誉グループの最高幹部である委員長も務めた(注:アルファー・ゼータは1897年にオハイオ州立大学が創立した農業分野の名誉ある専門職業人の社交組織で、男女ともに会員となれる)。翌年には、4年生として国家名誉科学協会シグマ・カイと、国家名誉農学協会ガンマ・シグマ・デルタの会員に選ばれた。学部学生としてすべてのセメスターで成績は平均して90点以上だったから、彼にとってこの名誉は当然だった30。学部学生時代のこうしたすべての名誉と活動によって、リンカーンでの学業修了時には、恥ずかしがり屋の田舎青年だったビードルはある欲望を抱くようになっていたに違いなかった。

 カイムはエマーソンが遺したネブラスカ大学への遺産ともいえる人物の一人だった。カイムはビードルより17才年上で養育する子供もあったが、教授と学生の教育上の地位に分け隔てを設けなかった。カンサスとの州境のネブラスカ州ハーディーで1886年に生まれ、その地で育った彼は州立ペル教育大学を卒業してネブラスカ大学へ移るまでは学校の教師を務めた。彼はエマーソンがネブラスカを離れた1914年に卒業し、すぐに助手として大学の教員組織に加わった。4年後に修士の学位を得て農学の教授に昇任したが、この地位を彼は1956年の退職まで維持した31。大学は建物のひとつに彼の名前をつけてその群を抜いた貢献に栄誉を与えた。何年もの間、有名なメソディスト日曜教会学校で教え、実直な慣習を重んじたカイムは、疲れを知らない影響力のある創設者としてネブラスカ農業の振興を目的に農学科の建設に力を集中した。彼が農学科長を務めた1932年から1952年の間に、農学科は大学の筆頭学科で世界でも注目される農学科のひとつになった32。標的のひとつは州議会で、彼はそこで議員を相手に作物試験、土壌試験や雑草管理などの農家支援を目的とした資金集めの運動を進めた。しかし彼の最も大きな実績は教師としてのそれだった。ずっと後になってもカイムが「霊感を与える」教師だったことを覚えていたビードルは次のように語っている。「カイム教授には教科書の問題を解くのにいつも学生に助けを求める習慣がありました。私はその完全な正直さとうぬぼれのなさから受けた強い印象を忘れることができません」33。ビードルには、こうしたやり方がカイムの巧みな教育法だったのか、問題を解くのが苦手だったことの正直な表明だったのか分からなかった。どちらにしても、学生達は教授を困らせた問題が自分達に解決できたと感じることを嬉しく思ったに違いない。ビードルはカイムを、「重厚な研究者でも通常の意味で優秀な教師でもなかったが、感染力のある情熱と学生に対する信じられないほどの共感と配慮を豊かに持った教師だったと理解していた34

 ビードルが学部学生だった間、カイムは教えるだけでなくコーネル大学植物育種学科のハリー H.ラブ教授の下で彼自身の学位にむけた研究を続けていた。カイムは研究のほとんどをネブラスカで行ったが、1923年には家族とともにイサカで過ごし、その地で息子のウェインが生まれた(注:ウェイン・カイムは牧草とマメ科植物の遺伝学・育種学研究者で、1975-1985年にコロラド州立大学農学科長を務めた。訳者は1974年から1979年まで大学院生としてそこで学んだ)。リンカーンに戻ったカイムには、エマーソンとの接触や活気があって刺激的なコーネルの環境、特に遺伝学者達のシナプシス・クラブが忘れられなかった。ネブラスカでの研究はうまく運ばなかったし、授業と家族への様々な責任の間で時間をやりくりしなければならなかったから、彼はいつも指導を受けることができたコーネルが懐かしくてならなかった。しかし残念なことに、ラブ教授がカイムの指導要求を無視したことで彼の生活はより困難なものになった。1924-1925年の学年度末までに学位論文を完成しようと懸命に頑張っていたカイムが、研究にとって死活的に重要だった問題の多いコムギ系統の系譜をラブに尋ねたことがあった35。数ヶ月後に、絶望的な思いでカイムは再び手紙を書いて系譜の提供を求めた36。しかしラブからの手紙がイサカのカイムのもとに届いたのは、ラブがカイムの論文の処理と提出に何の手続きもしないままに中国への長い旅に出発してしまった2日後のことだった37。それから9ヶ月を経た1926年初めになってカイムはコーネルに戻ったラブに丁重な帰国祝いの手紙を送った。長い努力がついに報われて、カイムは1927年にコーネル大学からPh. D.の学位を取得した(注:この時カイムは既に41才だった)。

 ビードル自身の回想録によれば、大学の講義には鼓舞されたし「学生生活は極めて刺激的な経験だった」38。ビードルは人文科学や古典に多くの時間を過ごすことはなかったが、英語を専攻したいと思った時期があったことを思い出している39。続いて彼は、自身の言葉によれば、「昆虫学にのめり込み、2年生の時にはネブラスカのアリの一覧表の作成に加わった。それは無茶な試みだった」。植物生態学の情熱的な教授の講義を聴いた時には、迷いの渦中にあった彼は「生態学こそ自分の目指す学問だと思った」40。しかし後に知った遺伝学が間違いなく最も深い印象を彼に与えた。遺伝学への最初の手がかりは1923年の2年時の秋に聴いたホーマー T. グッディング教授の「飼料作物学」という農学科の講義で与えられた。他の教授と同様に読むべき研究論文を与えて学生の興味に応えていたグッディングは、ビードルを見てすぐに彼が有望な学生であることを認識したに違いなかった。グッディングがファーム・ハウスのメンバーだったこともあって、若いビードルは教授が関心を示してくれたことに感激した。

 春のセメスターのためにコーネルからリンカーンへ戻ったカイムはビードルを雇ってスペルタコムギとクラブコムギの雑種子孫のデータを集めさせたが、ビードルにはこれが遺伝学研究との最初の出会いとなった。この仕事はカイムのPh. D.論文に貢献し、カイムはデータ集めと計算に関してビードルとジョージ・フレッド・スプローグの助力に謝辞を捧げた41。ビードルは、雑種の種子の色、大きさ、草丈、その他の性質を記録する仕事で1時間に30セントを得た。自分のやっていることを理解するために、ビードルは暇な時間を見つけて遺伝学を学んだ42。3年次の最初のセメスターでは「市キャンパス」で動物学の講義をとった。講義名は「進化と遺伝学」で、講師はコロンビア大学のトーマス・ハント・モルガンのもとで学んだデービッド・ウィットニー教授だった。ウィットニーはビードルにとって忘れられない教授となった。遺伝学についてもっと知りたくなったビードルは、1925年春に農学科でカイムの遺伝学の講義を受けた43。カイムはウィットニーほどいい講師ではなかったが、研究をさせながら最新の論文に注意を向けることが才能ある学生を勉学に没頭させる最善の方法であることを知っていた。その年の秋には、ビードルは登録した週1回のセミナーコースでカイムと他の学生と一緒に最新の研究論文を読み漁った44

 ビードルは遺伝学という餌に「釣られた」が、ネブラスカを修了して先に進むまではそのことを十分には理解していなかった。次の第3章で説明する理由から、指導者カイムは自分の最も優れた学生は生態学に興味があると考えていたし、まだ感じやすい学部学生だったビードルは指導者の意見に従ったのだった。



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