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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第3章 20世紀はじめの遺伝学

 ビードルが遺伝学を学び始めた1920年代には、遺伝法則の理解はメンデルの発見当時よりもずっと進んでおり、教科書には有力な最新の研究情報が載っていた。そうした教科書のひとつは、コロンビア大学のショウジョウバエの遺伝学者ウィリアム E.カッスルの「遺伝学と優生学」だった。ビードルは、ハーバート E.ウォルターの教科書「遺伝学:遺伝研究への導入が分かりやすく、私にはちょうどいいレベルで、私は魅了された」と回想している。これらの教科書が最初に出版されたのは、メンデル法則の再発見から漸く10年あまりが過ぎ、遺伝の染色体説が確立された後の頃だった。教科書からメンデル遺伝学を学ぶのとは別に、ビードルは異なる性質を示す植物間の実験的交配(遺伝交配)のやり方も学んだ。彼は子孫で期待される表現型と遺伝子型を予想するやり方と、どちらのアリルが優性でどちらが劣性かを決定するやり方を理解した。

 ビードルは遺伝子と染色体の関係も学んだ。19世紀の後半に様々な植物や動物を材料に研究していた顕微鏡学者達は、すべての細胞核には色素で鮮やかに染まることから彼らが染色体と名付けた小さな物体が存在することを発見していた。体を構成する細胞に存在する染色体の数は種に特異的であった。例えばトウモロコシは20本の染色体を持ち、ヒトは、1950年代になって漸く分かったことだったが、46本の染色体を持つ(注:人の染色体数が46であることを確定したのはジョー・チーオーとアルバート・レバンで1956年のことだった)。しかしながら、染色体の数は卵子と精子(ともに生殖細胞)が形成されるときに半減する。トウモロコシとヒトの生殖細胞はそれぞれ10本、23本の染色体を持つ。続いて卵子と精子が受精で結合することで完全な染色体数が回復する。

 1902年に、コロンビア大学の偉大な生物学者エドムンド B.ウィルソンの大学院生だったウォルター S.サットンは、それ以前に他の研究者が暗示しウィルソンが支持していた概念を確立することで遺伝学を前進させた。バッタを研究していたサットンや他の研究者達は、各生物の染色体は同じような形態(核型)を持つグループに分けることができること、それぞれ1対の一方は母から他方は父から由来することを明らかにした。以前の研究から、サットンは生殖細胞の形成時に減数分裂と呼ばれる過程を経て染色体数が半減することを理解していた。

 サットンは、減数分裂の1段階(シナプシス:対合段階)ではよく似た染色体対(相同染色体)が2つの平行線のように細胞版に並ぶことを確認した。成熟分裂の次の段階では、対になった2つの相同染色体が分離し細胞中で互いに反対方向に離れる。すなわち、右側の染色体は細胞の右に左側の染色体は左に動く。次に2つの相同染色体対がそれぞれ中間線から2つに別れ、新しくできた4つの生殖細胞のそれぞれは、もとの対のひとつを受け取るので、もとの染色体数の半分を持つことになる。サットンは、もし遺伝子が染色体上にあるとするなら、相同染色体はそれぞれ同一遺伝子の2つのアリルのうちのひとつを持つという仮説を立てた。

 およそ1年後の1902年にサットンは考察をより完全なものとして、減数分裂の1段階で分かれてそれぞれの極側に並んだ染色体セットは母親あるいは父親からの染色体の混合であることを明確にした。極めて重要な点であるが、彼は母方と父方の染色体の両極への分布は完全に無差別であることを認識した。このことは、染色体対が細胞分裂に際して2つに分離するとき、新しい細胞のそれぞれは2つの染色体のひとつずつを受け取るが、それが母からか父からかは無差別な選択によることを意味する。こうして、それぞれの新しい生殖細胞は生殖細胞を作る個体の両親から受け継いだ染色体が混ざった状態になる。サットンの並外れた洞察は、もし染色体が遺伝子を運ぶとしたなら、メンデルの結論は減数分裂における染色体の行動と合致することだった。生殖細胞が形成される時の染色体の行動は、もともと母あるいは父から由来し一つの遺伝子のそれ自身は変化しない2つのアリルを分離し生殖細胞に分け与える物理的な仕組みである。さらに、異なる遺伝子が異なる(相同でない)染色体上にあれば、例えば種子の色や肌理などの異なる性質が独立に遺伝するというメンデルの観察が期待できるだろう。サットンの仕事が発表された10年後に、次代の生殖細胞が形成されるとき母由来と父由来の染色体が正しく無差別に分離することが他の研究者たちによって証明された。

 ビードルのような鋭敏な学生は重要な論文を読むことで、19世紀から20世紀初めの遺伝学者達が行った植物、バッタやウニなどの無脊椎動物やモルモット(テンジクネズム属の一種)、ウサギなどの脊椎動物を含む様々な生物を対象にした実験を理解しただろう。サットンと共同研究者達は観察する生物が違っても染色体の行動が同じであることを暗黙のうちにしかも正しく推察していたと思われる。彼らが考えた仕組みは細部に違いはあってもどんな生物でも全体としては同じだった。1世紀後の今日、我達が知っている限り、彼らの直感が正しかったことが確認できる。ビードルは、自分の将来の遺伝学研究では、顕著なやり方で異なる生物を扱うことになるだろう。

 サットンの仕事が世に出た頃、遺伝学者はメンデルの第二法則と合わない実験結果を観察し始めていた。幾つかの遺伝子は独立遺伝のようには振る舞わなかった。事実、あるアリルは、それらが癒着しているかのように、常に一緒に次世代へ遺伝した。加えて、より多くの遺伝子が発見されるにつれて、それぞれの生物には染色体数よりも多い数の遺伝子があることが自明となった。サットンが提案したように、もし染色体が遺伝子を運ぶ媒体であるのなら、これらの観察はどう説明できるだろうか。ビードルが学んだように、この難問は1911年にトーマス・ハント・モルガンと共同研究者達が染色体はそれぞれが多くの性質を支配する多くの遺伝子を持つことを認識することで解決された。僅か数年前にはメンデル遺伝学の痛烈な批判者だったモルガンは(2章、参照)、別の目的で計画した彼自身の実験がメンデルの観察の正しさを確認するものだったことに驚き、1911年までにはメンデルの確信的な信奉者になっていた。モルガンにとって遺伝学は、その後の彼の情熱と生涯にわたる研究の対象領域となった。

 トーマス・モルガンは何度も、自分はメンデルが独創的な大発見を発表した年1866年に生まれたと語ったものだった(注:モルガンは1866年9月25日生まれだった)。モルガンの両親は合衆国南部の豊かで尊敬される家族の出身だった。アメリカにおけるモルガン家の系譜は1636年に始まり、そこには有名な銀行家ジョン・ピエモント・モルガンがいたし、トーマス・モルガンの父チャールトンは武勇の誉れ高い「モルガン襲撃隊」のリーダーだった兄ジョンの指揮下で南部同盟陸軍とともに南北戦争を戦った戦士だった。戦争が終わると、チャールトンはフランシス・スコット・ケイの孫娘のエレン・ケイ・ハワードと結婚し、2人はケンタッキー・レキシントンに住んだが、そこで息子のトーマスが生まれ育った

 モルガンの自然に対する情熱は若年時代に育まれていたが、生物学への興味が花開いたのはケンタッキー州立大学に入ってからだった。生物学の魅力を追い求めた彼はケンタッキー州立大学を卒業後は、10年前に設立されたばかりだったが既に国際的な評判を得ていたジョンズ・ホプキンス大学動物学科の大学院へ進学した。彼のPh. D.論文(1889年)は、無脊椎動物ウミグモの発生と系統進化の形態的側面を主に扱ったものだった。1891年秋にモルガンは、カリフォルニア大学へ移ったE. B.ウィルソンの後を継いでブライン・マール大学の助教授になった。授業の負担は大きかったが、モルガンはその時すでに海生生物の発生学に実験的手法を導入することに成功していた。彼は特に、単一細胞の受精卵が、胚が発達して成体になる間に異なる形と機能をもった一連の細胞に分化する仕組みに興味を持った。ブライン・マールにおけるモルガンの同僚の一人だったリリアン・サンプソンが1904年に妻となり、その年に彼はウィルソンの招聘を受けて実験動物学の教授としてコロンビア大学へ赴任した。

 発生学者としてモルガンは、遺伝情報が世代から世代へ伝達する仕組みよりは、遺伝情報がどのようにして実際の性質を表現するかに興味を持っていた。彼は遺伝学者のやり方を踏襲したが、それを好きになれなかった。彼のメンデル学説に対する執拗な反対は、根拠のない推論への極端な嫌悪からきていた。彼にとっては実験と観察のみが意味を持つものだった。ほんのわずかしか理解されていない過程を説明するためにメンデルとその他の研究者が考案した「粒子あるいは因子」という概念が全く愚かなものだと彼には思われた。彼は同じようにチャールズ・ダーウィンの種の起源に関する推論、特に新しい種が選択の過程を経て僅かに変異した個体からさえ生じるという見方に疑いを抱いていた。彼は、祖先との交雑が不可能になるほどの十分に本質的な変化を生物の表現型に与える「突然変異」によって新しい種が生まれるとしたフーゴ・ド・フリースに傾倒していた。ド・フリースの説を支持する証拠を得るために、モルガンは実験材料としてショウジョウバエを用いる決心をした。それによって、今もそうであるが、実験生物の選択が生物学で新しいパラダイムを開拓するために極めて重要であることが証明された。

 ハーバードの若い科学者だったウィリアム・カッスル(ビードルが学んだ教科書の著者)は、ショウジョウバエが速やかに増殖することを一人の大学院生から学び、1901年から1905年までにショウジョウバエを実験材料にして多くの同胞交配を行って、近親交配がハエの稔性(子孫を残す能力)に大きく影響することはない事実を明らかにした10(注:同胞交配は同腹の雌雄の子の間の交配)。現在最も広く研究されている双翅目昆虫の一種であるショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)は、種を構成する多くの系統が世界中で見つかるが、おそらくは東南アジアで起源したと考えられている。ショウジョウハエは2-3mmの長さで、きまって腐りかけの(発酵中の)果物や野菜の周りに集まり、そうした植物の表面で増殖するイースト菌を食べて生きるから手に入れ易く、適当ではないがそうした理由から一般に果物バエと呼ばれる。実験室では、ハエの生殖サイクルは短く(およそ10日)、短時間に多くの子孫を生む(交尾当たり100-400匹の子供)。食料(コーンミールと糖蜜を含む半固型飼料中で育つイースト)を入れガーゼで栓をした首の細い瓶を用意すれば実験室でたくさんのハエを飼育するのに十分である。

 ショウジョウバエの雄と雌は、体の大きさ(雌は雄より大きい)、尾部にある明瞭な横縞模様と胸部の剛毛のパターンで容易に区別できる。実際には、まだ雄に曝されていない5-10匹の適当な未交尾の雌を目的の遺伝子型を持つ20-30匹の雄を含む瓶に入れて交尾させる。およそ2日後に雌は卵を産み始め、1日後には新しく孵化した幼虫(長さ0.5mm)がゼラチン状の餌の表面を這い回ってこれを食べる。それから幼虫は十分な大きさになり、必要な何回かの脱皮を経て、静止して殻の内部に閉じこめられた蛹と呼ばれる状態に変態する。4日のうちに幼虫組織の多くは破壊され、幼虫の内部に納められた胚性細胞の芽に由来する新しい組織や器官で置き換わる。これらの芽は成虫原基と呼ばれる。個々の成虫原基は眼の原器や翅の原器など異なる特異な成虫組織を形成する細胞を含む。4日後には成虫が蛹から羽化し、その後半日以内で羽化成虫は交尾可能となる。ハエは、通常、二酸化炭素ガスに曝して短時間だけ麻酔で眠らせた後に双眼顕微鏡で観察できるから便利な材料である。

 モルガンはショウジョウバエの飼育の容易さが気に入った。しかし彼は、適当な選抜条件で新しい種を生むド・フリースが提唱したような類の突然変異形質を示すハエを探して1年以上も無効で失敗ばかりの試みを繰り返すことになる。しかし1910年、ついに彼はその後の遺伝学の流れを変えた大幸運を得た。正常な赤褐色の眼の代わりに白い眼(以後は白眼と呼ぶ)を持った雄のハエを一匹見つけたのだった。白眼のハエと野生型の赤褐色の眼(以後は赤眼と呼ぶ)を持つハエの交配を繰り返したが、子孫はすべて赤眼か白眼で、中間の眼色を持つハエはなかった11。モルガンは、渋々ながら、白眼の性質は単一の劣性突然変異(white, w)の結果だと結論せざるを得なかった(注:突然変異形質を与える突然変異遺伝子はイタリックで表示される)。この突然変異は単一の形質のみを変化させるもので、ド・フリースの言うような新しい種を生むことがないのは明らかだった。

 しかしモルガンは、白眼形質の伝達がメンデルの法則に従わないように見えること、すなわち野生型との交配では孫の雄だけに白眼形質が遺伝することに気がついた。モルガンの同僚だったブライン・マール大学のネッティー・スティーブンスとコロンビア大学のE. B.ウィルソンのそれまでの研究結果が、白眼形質を「限性遺伝」として説明できることを暗示していた12。彼らは、双翅目昆虫の染色体の顕微鏡観察から、雌はXと呼ばれる1対2本の性染色体を持つが雄はこれを1本しか持たない事実を観察していた。そこでモルガンは、もし白眼の突然変異がX染色体上で起こったとして、この1個の白眼突然変異アリルではX染色体を2本持つ雌では正常な眼色を白色に変えるには不十分であると仮定したなら、白眼アリルをX染色体の1本に持ち正常なアリルをもう一本に持つ雌は正常な赤眼になるだろうと推論した。両方のX染色体に欠損のある白眼アリルを持つ希な雌だけが白眼を示すだろう。対照的に、もしY染色体が眼色の決定因子を持たないならば、母親から変異したX染色体を受け継いだ時にだけ雄は白眼となるとモルガンは推論した13。こうして白眼(White)は特定の染色体に割り当てられた最初の遺伝子になった(注:遺伝子が特定の性染色体上に乗っているという概念が確立する以前は限性という術語が用いられたが、限性遺伝は例えばヒトの血友病のような一方の性(ほとんど男性)にのみ遺伝する現象に限定して使用される用語で、白眼形質の様に性染色体に支配される遺伝様式は一般に伴性遺伝と呼ばれる)。

 その数年後にモルガンは様々な性質に影響する他の突然変異を発見した。そのうちのいくつかはwhite同様に性限定的だった。他は両方の性に同じ頻度で影響を与えたから、ショウジョウバエの他の3対の染色体に関係すると推定された。モルガンは続いてメンデルの法則からは予想できない観察結果を得た。異なる染色体と関連した突然変異アリル(例えば、X染色体と他の染色体上の遺伝子)は子孫で互いに分離したが、X染色体と関連すると推定された幾つかの異なる性限定的形質の突然変異アリルはすべて高頻度で同時に遺伝した。最も高頻度で同時に遺伝する形質は「連鎖」しており、互いに独立に遺伝するものは「連鎖していない」と考えられた。この見方から遺伝子は「連鎖群」に分けられた。モルガンは連鎖群と染色体はひとつで同じもの、すなわち子孫にともに伝達される遺伝子は同じ染色体上にあって連鎖している、逆に言えば互いに独立して子孫に伝わる遺伝子はおそらく別の染色体上にあるという知的な飛躍を得た14。これによって、メンデルの分離の法則に矛盾することなく染色体数より多くの遺伝子を生物が持ちうる理由が説明できた。

 相同染色体が物理的に似ているのは、それらがしばしば別のアリルではあっても同じ遺伝子を同じ順序で持つという事実の反映である。それはちょうど百科事典のようなもので、それぞれの巻が特定の1セットの項目を持つのは、それぞれの染色体が特定の1セットの遺伝子を持つのと同じである。例えば、巻1のコピーはすべて同じ版である限り、同じ1セットの項目を同じ並びで持つ。同じ項目のセットが別の版にも含まれるだろう。ある項目は、両方の版で同じアリルをもつだろう。他の項目は校正者によって変化させられているかも知れないが、それは特定の遺伝子について別のアリルがあるのと同様である。メンデルは幸運だった。彼が研究したエンドウマメの7つの形質を支配する7つの遺伝子は、たまたま別々の7つの染色体に乗っていたのだった。もし、どれか2つが同一の染色体上で連鎖していたら、メンデルには何が起こっているかを明らかにするのが難しかっただろう。(注:現在では、メンデルの7つの形質を支配する7つの遺伝子が実はエンドウマメの5つの染色体上に乗っていること、第3染色体と第5染色体では遺伝子が二つずつ連鎖していることが分かっている。なお、メンデルは7つの形質のうち解析が容易な雑種当代の着粒種子の形と子葉の色の組み合わせからなる二因子交配と、これに種皮の色を組み合わせた3因子交配の結果から独立分離の法則を導いている。他の3因子交配については実験個体数が少ないが同様の結果を得ている、あるいは実験が継続中であると論文中で述べているが、検定が終了した3つがそれぞれ別の染色体に存在する遺伝子だったのは、メンデルにとってラッキーなことだった)。

 ビードルが教科書や講義から学んだ事実、すなわちショウジョウバエの実験からメンデルの予想とは異なる結果が得られる場合があるという事実にモルガンの研究グループが気づくにはそんなに長い時間が必要ではなかった。同一染色体上で連鎖していることが既知の異なる遺伝子の2つのアリルが稀にではあるが同時には遺伝しないことがあったし、それらが分離する頻度は調査対象の遺伝子対によって異なっていた。遺伝学者は当時すでに、染色体は一つの糸に沿って繋がったビーズ玉のように異なった多くの遺伝子が直線的に配置されたひもであると考えていた。2つの相同な染色体は、アリルが野生型か変異型かによらず、同じ遺伝子を同じ順序でもつと考えられた。モルガンは、卵細胞を作る減数分裂の過程では、頻度は低いが相同染色体間でアリルの交換があると推論した。モルガンの考えは、もともとはひとつの染色体上にあった2つあるいはそれ以上の遺伝子のアリルが分離し、あるものはもとの染色体に残り別のあるものは対となるもう一方の染色体に移ると予測するものだった。

 モルガンは、減数分裂の際に相同染色体の対が相対して並び、相同染色体を構成する2つの染色体のそれぞれが例えば2つの遺伝子の間のある共通の部分で切断されて、部分の交換が起こると予想した。2つの染色体は相同染色体のままではあるが、それらはもとの染色体の一方から選択されたアリル群ともう一方から選択されたアリル群を持つことになるだろう。もしひとつの染色体上のアリルがABCDEFGと表され、一方その相同染色体上の対応する異なるアリルがabcdefgなら、切断と融合により例えばABCdefgとabcDEFGが生じるだろう。

 しかし、この切断と交換はどのように起こるのだろうか?モルガンはベルギーの細胞学者フラン・アルフォン・ジャンセンスの仕事、すなわち減数分裂時に対合した相同染色体間で物理的な絡み合いが起こるという観察に注目した15。モルガンは、ジャンセンスが見た絡み合った染色体対が形成されている間あるいはその後に、それらの間で染色体部分の物理的交換があると推論した。この過程は現在では「交叉」または「組換え」と呼ばれる。モルガンはさらにもう一つの霊感とも言える推察を得た。すなわち、2つの遺伝子が染色体上で離れているほど、交換の過程でそれらが分離する可能性が高くなるだろう、逆にいえば、近くに配置されたアリルほど交叉の過程で分離する確率が低いだろうと考えた16。何年も後に、モルガンのもとで研究を続けたハーマン・J.ミュラーは、「交叉の証拠とより離れた遺伝子がより頻繁に交叉を起こすというモルガンの提案は、メンデルの発見にも比すべきまさに雷鳴のように現代遺伝学のすべてに発展の恵みを与えた嵐の先駆けとなった」17、と書いてモルガンの天才を賞賛した。

 モルガン研究室の学部学生だったアルフレッド・スターテバントは、交叉に関する教授のアイディア、特に遺伝子間の距離が増すにつれて交叉が起こり易くなるというアイディアに興味をそそられた。ある夜、スターテバントは、自分のいつもの宿題は放っておいて、連鎖したアリルが新しい世代で分離する頻度に関するモルガンのデータを調べた。彼は、交叉の頻度が様々であることは線状の染色体に沿った遺伝子の並びを決定する手段となる可能性を提供する事実だと理解した。切断と交換が染色体上のどの位置でも同じ確率で起こると仮定すれば、遠く離れた2つの遺伝子の連鎖は近くにある2つの遺伝子のそれよりも破れやすい。従って、上の例では、FとGの連鎖の残り易さは大きく、一方でAとGは離れやすい。その理由は、AとGの連鎖は可能な5カ所の切断でも維持されるがFとGを別ける切断はただひとつFとGの間だけだからである。スターテバントはその晩にX性染色体上の5つの遺伝子の順序とそれらを隔てる相対的な距離を示す直線状の「地図」を作成し、翌朝モルガンに示すことができた18。これは注目すべき重大な意義をもつ演繹的結論だったが、成し遂げたのは学部の学生だった19

 ビードルとスターテバントは、何年も後に2人が書いた1939年の教科書で、説明のために有益な比喩を考え出した20。ニューヨークを発つ列車の時間とフィラデルフィアとバルティモアにそれぞれ到着する時間が分かれば、どちらの市がニューヨークに近いかを推論するのはいとも容易である。その上、二つの駅の可能な組み合わせで、例えばニューヨークとバルティモア、ニューヨークとフィラデルフィア、バルティモアとフィラデルフィアで要する時間が分かれば、南北の地図上に市の並びとその間の距離を正確に測定することが可能である。この地図全体の長さは、最も長い距離、すなわちニューヨークとバルティモア間の距離である。もし、バルティモアからワシントンDCへいく時間がデータに加われば、地図全体の大きさはバルティモアからワシントンDCまでの距離だけ増加する。これを続ければ、北ではメイン州のバンゴール、南ではフロリダ州のマイアミより先に鉄道が続く市が見つからなくなったところで地図の両端が確定するだろう。

 ビードルがこれらすべてを学んだ時には、組換え頻度の解析に基づく遺伝地図の作製は動物と植物の遺伝学者が使う標準的などのテキストにも掲載されていた。それでも、遺伝的組換えと染色体間の物理的交換の関係に厳密な実験的証明が与えられるまでにはさらに年月が必要だった。

 ハーバート・ウォルターの教科書は、遺伝について分かっていることを記述するだけでなく、生物学者が議論していた対象で次の30年間の研究項目に関するまだ回答のない疑問と推論のいくつかをビードルに教えてくれた。ウォルターは当時の論争の的だった問題に対して最新の見解を示していた。彼は突然変異の研究が遺伝学で中心的な役割を占めると固く信じており、モルガンの遺伝の染色体理論を明確に受入れていたが、必ずしも誰もがこれらを確信している訳ではないことも指摘していた。彼は、生物間の多様性の原因は、獲得形質の遺伝に関するラマルク進化論者の仮説が主張するような環境要因ではなく、突然変異と生まれつき備わった要因が原因であると主張した。ウォルターの理解では、20世紀半ばまで未解決のまま残るであろうと考えられる重大な疑問は「遺伝する形質を決定するものは何か」だった。彼は、「正しい答えが何であろうと、遺伝を決定するのは最終的な形質とはまるで似ていない何かの完成形であることが少なくとも明確になるだろう」というコメントを残している。今日の言葉で言い換えれば、「遺伝子は観察される表現型を決める化学物質とは化学的に全く似ていない完全な何かである」と彼は主張したのだった。更に彼は、「この問題を解く鍵は生化学者がもたらすこと、最終的な解析で遺伝の運搬体は化学的物質であって形態的性質を持つ何かではないことが分かったとしても何の不思議もない」と付け加えた。「遺伝の酵素説」という項でウォルターは、「遺伝現象は細胞質で起こる連続的な化学結合を種々の酵素がどのように開始し、停止し、あるいは加速するかに依存した一連の化学反応におそらく還元されるだろう」とする意見を述べている。当時、生物学者の多くは酵素と遺伝子には未解明の重要な関係があるだろうと考えていたが、生物学上の問題への解答を与えるのは生化学だと信じる研究者はほとんどいなかった。酵素の化学的性質自体が未解決な課題だったうえ、酵素とタンパク質の関係も依然として推定の域を出ていなかった21。それでも、酵素こそが鍵となる情報物質、すなわち遺伝子であるとする考えが当時は一般的で、ビードルも多くの研究者と同様に、その後何年もそれを信じ続けていた。学部学生の間に学んだウォルターの教科書がビードルの意識に植え付けた未解決の疑問こそが遺伝学を理解する鍵だったが、それが15年後に酵素と遺伝子の関係に関する疑問を取り上げたときのビードルの中心的な研究課題となったのだった。

 ウォルターとカッスルの教科書はどちらも優生学を論じていたが、それは当時の合衆国とヨーロッパの一群の遺伝学者間の真剣な“科学的”努力であったと同時に社会政策の要素としても喧伝されていた。教科書の初めの部分でウォルターは、フランシス・ガルトンの「生物測定学(生物統計学)」の育種実験分析の方法と種内の個体間で観察される形質に関する表現型変異にかなりの部分を費やした22。メンデルとほぼ同時期でメンデルの発見がまだ世に出ていない時代の仕事だったが、ガルトンも同様にマメを対象に研究を始めた。しかしガルトンはすぐに人間の、特に犯罪行動や知能の遺伝などの問題に集中し研究を続けたので、メンデルが成し遂げたような洞察には至らなかった。ウォルターの教科書の最後の章は、今では偽科学と呼ばれる優生学で当時使われた生物測定学とメンデル的な研究手法が要約されている。この論争に関するウォルターの結論、すなわち「不適合者が直面している条件を緩和する方向に向けられている博愛的な試みのうち一部でも適合者の機会を増加する方向に向けられていれば(すなわち適合者にもっと多くの機会が与えられれば)、今よりもっと大きな社会的善が得られるだろう」という主張は曖昧な点を残していた。カッスルはより率直で、優性学的な概念を合理的なやり方で批判した。トーマス・ハント・モルガンは優生学に対する批判を個人としては控えていたが、結局、優生学を科学と見なすことに寛容な全米育種家協会を退会し、1925年の著書「遺伝学と進化」で優生学に対する明確な反対意見を表明した。だが、いずれにしても「優生学」に関するこれらの議論は学術的ではなかった。ビードルがこれらの著書を読む以前の1924年に、移民を制限する移民法がすでに議会を通過し大統領がこれに署名していたが、これは一群の遺伝学者達の優生学的信念と活発なロビー活動に基づくものだった23。ビードルは、まだ若い学生ではあったが、遺伝学が社会的、政治的な問題を提起できること、公共の利益に対する科学的な判定を下す場に遺伝学者は呼び出される可能性があることをこの論争から学んだ。ビードルは、科学者としてそれを実行する多くの機会を実際にもつことになる(注:第14章参照)。

 正規の遺伝学を学ぶ間にビードルは研究に必要な技能と経験を修得しただけでなく、グッディング教授とカイム教授のお蔭である程度の収入を得ることができた。彼は農業高校の農学研究クラブで一年間教える機会と、農学科で雑草種子の収集と植物の栽培を管理する仕事も手に入れた24。何よりも重要だったのは、二人の教授がともに学生に自分達は同僚であると思わせるような人物であったことだった25。何年も後に、なぜネブラスカ大学のような小さな学校が「これほど多くの才能豊かな科学者」を輩出したのかと聞かれたビードルは、「私の考えでは、ネブラスカには学生との知的な交流を促進した優秀な教員がおり、学生にとって教授とそうした関係をもつことはとても刺激的でした」と述べている26。才能ある若者を見いだす術を心得ていたカイムは彼らを研究浸けにした。ビードルに生態学を教えたジョン E. ウィーバー教授もビードルの才能を見いだし、生態学への興味を助長した。だがカイムとウィーバーは競争相手で、カイムは自分の最高の学部生をウィーバーに与えようとはしなかった。カイムはビードルを農学科でも中央キャンパスのウィーバーの学科と同じように生態学を学ぶことはできると説得した。彼は自分の言ったことを補強するために、ビードルに生態学研究のための夏の仕事に興味を持つよう働きかけたうえ経済的な支援も与えた27

 1925年と1926年の夏にビードルが行った仕事はネブラスカの牧草に関するカイムとの共著になる正式な報告書として公表された28。牧草の市場価格は、牧草集積場で見つかる牧草種の混合状態で判定するとした連邦政府基準で決められるのが常だった。合衆国農務省(USDA)とネブラスカの公式農業統計によれば、牧草は耕作面積では3番目を占め(1924年から1935年では平均280万エーカー)、経済価値では5番目を占める(1914年から1925年では年平均2,590万ドル)重要作物だったから、その市場価格はネブラスカに重大な結果をもたらした。ビードルはワフーで牧草とともに育った。牧草は父の農場の重要作物の一つだったし、1908年のUSDA報告では特別に賞賛された作物だった29。カイムとビードルは、等級基準に反対を唱える農家がある一方で、多くの「より先進的な農家は合衆国等級の熱心な支持者である」ことに気づいていた。彼らのデータは、少なくとも土壌がその他の作物には適さないことから牧草が主要な作物であったワフーの約20マイル東にあるプラッテ川に近いエルクホーン渓谷地域から収集したものだった。エルクホーン渓谷で見つかった固有種と栽培種を目録化した報告書では、地域が生態学的に成熟するに従って平原の固有種が現在の牧草に太刀打ちできるほど優勢になると結論づけられていた。この仕事の間、カイムはビードルに背景となる資料の再調査と図や写真を添えた独自データを注意深く報告にまとめ科学論文を書くやり方を指導した。

 1925-1926学年度の最初のセメスターが終了するまでには十分な必要単位の修得を終えていたビードルは1926年1月29日に農学士の学位を得た30。ウィラ・キャザーがビードルを知っていたら、きっと自分のネブラスカへの関心を表現する格好な若者の例としてビードルについて書き記していたであろう。社会学と歴史学の履修免除を申請し許可を得たビードルは、代わりに地域経済学、昆虫学、農学と園芸学を履修した。卒業前には勉学の継続を決めており、すぐに修士学位を目指してコーネルの大学院に登録した。1926年春のセメスターでは、数学とともに当時は科学者を目指す者に必須で負担を要したドイツ語を含むいくつかの初めての外国語コースも履修した。特に前年の夏にカイムとともに始めていた研究の継続が主な活動だった。1926年秋には遠く離れたニューヨークのイサカで大学院の研究を始めるが、1926年と1927年の夏学期にはネブラスカの研究生としての登録もした。コーネルで修士論文を書き終えたビードルは、彼にとってコーネルでの最初の教授で原稿に最初のコメントを与えてくれたH.P.クーパ?への謝辞を修士論文の最後に書いた。修士学位は1927年7月15日に授与された。

 修士論文の課題はカイムとともに発表した報告から発展した内容だった。エルクホーン渓谷での研究には集団計測のために牧草種の同定が必要だった。ところが、最も簡単で信頼のおける種同定の手段は花で、多くの牧草は収穫前に開花したからこれは厄介な仕事だった。成育中の緑の植物体の栄養組織が示す特徴に基づく信頼できる野外での同定法が必要だった。当時、使われていた標準的な方法は何十年も前の古いUSDAの書籍に書かれたものだった。そこでビードルは、中空の茎、有毛の付属葉やいくつかの構造の着色状態など栄養組織の一連の特徴を明らかにした上で、図と写真を使って様々な種の特徴を記述した。全体としておよそ25種が調査の対象となった31。この仕事は博士の学位論文としても十分な内容だったが、仕事が完成するにはまだ何年もの時間が必要だった。カイムともう一人の学生A. L. フローリックが追加データを集め、ビードルがコーネル大学で博士の学位を取得した何年も後の1932年になって、ついに3人はこの課題に関する二つの論文を発表した32

 ファーム・ハウスでの活動、テニスとガールフレンドのレオナ・デービスのため以外にビードルには休暇を取ることがほとんどなかった33。1925年のネブラスカとノートルダムのフットボール試合で学生に切符を購入するよう大学から圧力がかからなかったなら、ビードルが新しいフットボールスタジウムに入ることはなかったであろう。切符を買ってしまったのだから使う必要があったビードルは34レオナとともにネブラスカの決定的な勝利を目撃できたが、この勝利によってヌート・ロックネは両校の間の以後の試合をすべてキャンセルしてしまった(注:ロックネはノートルダムの有名なフットボール選手で、その後コーチを務めた。全米大学フットボールのベストコーチとして知られる)。ときどきビードルはキャンパスの金属加工ショップで働き、父から学んだ技術を実際に役立てた。彼は、「牛キャンパス」で開かれる大農業祭には毎年参加しないではいられなかったし、農業祭の巨大な看板作りに一役買ったことを誇りとともに何度も思い出した。しかし大学では、父から受け継ぎ身に付いた労働習慣から、勉学と研究に大半の時間を費やすのが常だった。レオナと婚約した彼の人生は希望に満ちた道のりにあると思われた35

 リンカーンでの最後の年の間、妹のルースがやってきて彼女自身の大学生活を始めた。兄と同様にルースは喜んでワフーと農場を後にしたのだった。ビードルは、生涯の習慣だった妹の世話を始め、妹がうまくやれるようにいろいろと手配し、彼女の方向を決める助けになろうとした。ビードルはルースがレオナの家族と一緒に住むように勧めたが、それが気に入らないルースは他の場所へ移って祖母アルブロの遺産の持ち分で自分の生活を賄った。

 カイムは研究の喜びを学生に味わわせることで彼らを鼓舞しただけでなく、彼らの未来の準備にも手を尽くした。ビードルの言葉によれば、カイムは「人を大きく育てる驚くべき才能を持った人物、誰が教授に、誰が農民にあるいは郡の役人になるべきかを知った人物」だった36。彼の鋭い嗅覚のお蔭で、最も有望なネブラスカの若者が大学院で研究するためにリンカーンからイサカへ続く道に送り出された。彼は自分の講義内容と優秀な学生に関するエマーソンへの情報連絡を欠かさず、リンカーンでの講演のためにエマーソンを招くなど、優秀な学生がコーネルへの進学を許されるよう必要な基礎固めをした(注:エマーソンは1914年にネブラスカからイサカへ移りコーネル大学を退職する1942年まで育種学科長を務めた)。ジョージ F.スプローグは模範的な研究力、個性と性格に加えて、技術的な面でも皆から「小さなアンディー」と呼ばれたアーネスト・グスタフ・アンダーソンに並ぶ能力を備えた優秀な学生としてカイムから最も強い推薦を受けていた(注:アンダーソンはエマーソンとともにコーネルへ移った優秀な二人の学生のうちの一人、第4章参照)。1926年の秋に、スプローグがビードルと同様にイサカへ進学したときには彼を学生として採用するようエマーソンに強要した。対照的に、ビードルはカイムの推薦書では合格点をもらっただけだった。推薦書には、ビードルが優れた学生で、頭の回転がよく、仕事への情熱をもつことが書かれてはいたが、同じ秋にイサカへ移るビードルをエマーソンの学生として薦める言葉はそこにはなかった37。カイムの念頭にはビードルのための研究計画に遺伝学は入っていなかった。牧草に関するビードルの仕事に感心していた点と自分自身の興味からくる偏りから、ビードルは遺伝学より生態学に興味があると信じたカイムは生態学を学ばせるためにビードルをコーネルに送ったのだった。



1. W.E. Castle. Genetics and eugenics, 3rd edition. Harvard University Press, 1924.キャスルはハーバードの動物学教授だった。ビードルの署名、住所2545 O StreetとFarm HouseのイニシャルF.H.のついた本書のコピーはネブラスカ大学図書館ビードルセンターに所蔵..
2. GWB. 1966. Biochemical genetics: Some recollections. Phage and the origins of molecular biology (ed. J. Cairns, G.S. Stent, and J.D. Watson),Cold Spring harbor Laboratory of Quantitative Biology, Cold Spring Harbor, New York pp. 23-32掲載..
3. H.E.Walter. Genetics: An introduction to the study of heredity. Macmillan, New York, 1914ウォルターはブラウン大学教授。 ‘はじめに’で本書はブラウン大学での1911-12学年期の講義と1912年夏のコールド・スプリング・ハーバー研究所サマースクールでの講義に基ずくと記されている..
4. W.E. Castle. 1951. The beginning of Mendelism in America. Genetics in the 20th century (ed. L.C.Dunn). Macmillan, New York, p.63掲載..
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