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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第5章 ハエ・グループ

 ビードルがカルテックに着いた時には地方の小さな実業学校を前身とするこの研究所は設立以来まだ15年しか経っていなかった。カルテックは西部のMIT(マサチューセッツ工科大学)になるという野望を抱いた天体物理学者ジョージ・エラリー・ヘイルが大学改革の立役者だった。ヘイルは小事に関心がなかった。彼は1904年にシカゴからパサディナへ移り、近くのマウント・ウィルソンにワシントン・カーネギー研究所のためのウィルソン山天文台を創設し、1918年に二はつの世界最大の望遠鏡の建設を完成させていた。ノーベル賞を受賞した物理学者のロバート・ミリカンをシカゴ大学から、著名な化学者でMITの学長代理を務めたアーサー・エイモス・ノイエスをMITから呼び寄せてカルテックの改革への協力を取り付けることができたのはヘイルの人格のお蔭だった。ミリカンが役員会の議長(カルテックでは学長に近い職務)をノイエスが化学部長を務めることで、物理学、化学と工学が初期のカルテックの主要な研究教育分野となった。ヘイルの夢の実現には偉大な大学を囲む美しい都市が必要だったから、彼はマウント・ウィルソンとカルテックに注いだと同じ情熱でパサディナが都市として発展することを望んだ。ヘイルの計画をすべて実行するには巨額の資金が必要だったが、彼は天文学者としてそうであったと同じくらいに抜け目がなく疲れを知らない勢力家で、しかもやれば必ず成功する資金集めの達人としてこの難事業をすべてうまくやり遂げた。カルテックは創立10年以内に第一級の研究成果生み出し始め、その小さな学部と大学院が世に送り出した卒業生達は研究機関と発展の途上にあった南カリフォルニアの工業分野で引っ張り凧の存在になった。

 カルテックは中西部や東部の大学の基準からすれば新しい大学だったが、ましてや生物学部門はこの領域でまったくの新参者だった。ノエイスは、彼自身の内で湧き上がりつつあった生化学への興味とそれがカリフォルニア農産業の発展に果たす役割への期待から、生化学の教育プログラムが重要である事を理解していた。当時は数少なかった研究支援組織のひとつだったロックフェラー財団からカルテックに医学部の開設希望に関する問い合わせがあったが、医学部開設の経済的負担を恐れたヘイルにはむしろノイエスの主張する生化学に重点を置いた生物学プログラムがより魅力的だった。ミリカンも生物学研究プログラムはカルテックの役割を高めるだろうとヘイルに賛成した。しかし、そのようなプログラムを先頭で引っ張るには、少なくとも自分達と同程度の科学的名声をもち、研究所の未来に関する確たる展望を自分たちと共有できる人物を招聘する必要があった。トーマス・ハント・モルガンは明らかに最良の候補者だった。そこでミリカンがモルガンを説得してコロンビアからパサディナへ呼び込む難しいがやり甲斐のある仕事を引き受けることになった。

 モルガンが伝説的な科学者で世に名の知られた卓越した遺伝学者だったことをビードルは学部学生として既に学んでいた。何年にもわたってモルガンは教科書と講演で生物学、物理学、化学を統合する必要性を強調していたが、それはカルテックの展望と完全に一致していた。モルガンは教科書 「実験発生学」 で次のように述べている。 「私の作業仮説だが、ある複雑な状況の一面を説明しようと考えるなら化学的あるいは物理的な既知の原理にその答えを見いだそうと試みるのがよい。このやり方は物理学や化学では一般に認められていることで、そうした原理に基づく多くの試みが生物学においてさえ採用されその正当性が保証されている。カルテックでは 「考える人(thinker)、臭う人(stinker)、修理する人(tinker)」 とそれぞれ呼ばれていたヘイル、ノイエス、ミリカンのトリオは、科学者組織の会員として、別けても米国科学アカデミーの会員としてモルガンをよく知っていた。コロンビア大学の教授モルガンは1927年に米国科学アカデミーの会長に選出されていた。初めのうちモルガンはパサディナに移るという構想には無関心だった。彼は規則上の退職年齢である65才まであと数年を残すだけだったし、研究をむしろ継続したかったから、主要な管理責任を負うことに慎重だった。それでも、モルガンにとって物理学、化学と数学の原理に基礎を置いた新しい類の生物学者を育てる夢を実現する機会は魅力的だった。当初の躊躇に打ち勝って、1927年に彼はカルテックの申し出を受入れた。彼は1928年夏に正式に生物学部門の部門長(チェアマン)として着任したが、この名称は彼自身で付けたものだった。自分は部門の職員の研究を方向付ける管理者ではないことを強調するために、ディレクターという名称を避けてチェアマンの名称を採用したのだった。むしろ彼の希望は人々の交流を大切にするような教育研究環境を進んで生み出す独立した科学者達を部門に招聘することだった。

 カルテックへ赴任したモルガンは早速に教員の招集計画と設備計画を立案した。彼はヨーロッパ中を回ってヨーロッパの生物学者との知己を新たにし、カルテックの教員として任命可能な科学者を捜した。彼のしばしば大西洋を股にかけた広範な交渉と特に実験スペースに関するミリカンとの交渉は、生物学部門の拠点となる予定の建物であるウィリアム・G.ケルホッフの建築に必要な資金の貸与を二人のカリフォルニアの実業家とロックフェラー財団が約束してくれたお蔭でずっと楽になった。新たな試みの成功を約束してくれる科学者を捜すのはもっと複雑な仕事だった。モルガンは、以前は自分の学生で当時コロンビアの上級研究員だったふたり、アルフレッド H.スターテバントとカルビン B. ブリッジスをカルテックニへ移るよう説得した。この二人を獲得したことに加えて特にコロンビア・グループの3人の大学院生、アルバート・テイラー、カール C. リンドグレンとジャック・シュルツも一緒にカルテックへやってくることが決まっていたから、ショウジョウバエの遺伝学が新しい生物学部門の主要な研究分野になることが間違いなく約束されていた。新しい部門に進化研究を加えたかったモルガンは、もう一人のコロンビアの研究者テオドシウス・ドブジャンスキーを招聘してこの分野を担当させた。

 もうひとつの重要な才能の供給源はもちろんロリンス A. エマーソンの学生達だった。モルガンはミシガン大学から、E. G. アンダーソンとエマーソンの息子で遺伝学でPhDを取得したばかりだったスターリング H エマーソンを招聘した。モルガンは、エマーソンからアンダーソンが難しい人物だと聞いていたに違いなかったが、植物生理学と生化学のプログラムの開発をアンダーソンに任せたいと考えた。エマーソンはアンダーソンが任命されたことを息子のスターリングが招聘されたのと同じように喜んだ

 モルガンがカルテックに持ち込んだのはコロンビアで彼の指導の下で培われた相互的で協同的な研究スタイルだったが、それは招聘した人材に劣らず成功のための重要な要因だった。そのスタイルはビードルがコーネルで慣れ親しんだ密接な人間関係にいくぶん似たものだったが、ハエ・グループの社会は独特だった。そのスタイルは親しみを込めて 「ハエ部屋」 という名で広く知られる小さく混雑したコロンビアの実験室で展開された。モルガンの奨励と時折の叱責のお蔭で、若い学生や研究者達は他の研究室では真似のできないスピードで研究を進めることができた。1910年から1920年の間に、彼らはショウジョウバエを遺伝学研究の望ましいモデル生物の代表にまでもり立てた。1915年以降、コロンビアのハエ・グループは芽を出しつつある遺伝学者が集まるメッカだった。

 ハエ・グループの成功は、モルガンが早い時期に認識したショウジョウバエのもつ遺伝解析の対象材料としての便利な特徴に負うところが大きかった。このハエが遺伝学者の対象リストに入った時には、減数分裂時の交叉が雌だけで生じる事実、すなわち交配結果の単純化に大きく役立つ事実を誰も知らなかった。加えて、遺伝子を染色体上の特定の位置にマッピングするのを大いに容易にした事実、すなわちハエのもつ完全な遺伝要素が4つの染色体上に存在する事実は当時まだ疑う余地のない事実ではなかった。遺伝学研究で使われる生物の中で2番目に重要でビードルが最もよく知っていた10対の染色体をもつトウモロコシでは、交叉は雌雄どちらの減数分裂でも起こる。その上、トウモロコシは大量の子孫を残すが(トウモロコシのひとつの穂軸には数百の種子が着く)、次世代は1年に一度しか得る事ができない。さらに、遺伝学研究の目的でショウジョウバエを飼育するのはトウモロコシを育てたりマウスなどの動物集団を維持したりするよりはずっと容易で安価でもあった。

 モルガンはすべての実験を自分の手で行ったとしばしば自慢したが、彼は早くからハエの仕事を発展させるには人的な力の補強が必要なことに気づいていた。ハエ・グループが実現した急速な発展にとってショウジョウバエが重要であったのと同じように、スターテバント、ブリッジスとハーマン J. マラーを選んで彼らの協力をうまく手に入れたのは極めて重要な成功の鍵だった。この並外れた学生達は3人が3人ともエドムンド・ビーチャー・ウィルソンの実験動物学の講義で既に魅力的な発生学の展望と遺伝学の未来について学び理解していた。それぞれモルガンの講義にも出席した彼らは、モルガンの講義は特に刺激的ではなかったし自らの最近の発見にほとんど触れることもなかったけれど、新たに生まれつつあった分野で仕事ができる機会とモルガンの控えめな態度には惹かれるものがあったと後に語っている。

 スターテバントは1910年に白眼のハエが発見された約4ヶ月後にアシスタントとしてモルガン研究室に加わった。彼は6人兄弟の末っ子として1891年にイリノイで生まれアラバマの農場で育った。バーナード・カレッジでラテン語とギリシャ語を教えていた兄エドガーはスターテバントを説得して、高校を卒業後はコロンビアへ進学するように勧めた。彼は入学試験で優秀な成績を得て1908年に動物学専攻でコロンビアに入学できた。子供の頃からずっと自分の家の馬の系譜に強い興味をもっていた彼は兄の薦めで遺伝学について学び始めていた。モルガンの講義を聴いた彼は自分で作成した馬の系譜がメンデルの仮説でうまく説明できる可能性を見てとった。エドガーは弟を勇気づけて、その推論を記述した草稿をモルガンに見せて意見を聞くように勧めた。当時、モルガンはまだメンデルの主張に懐疑的だったが、スターテバントにこの発見を公表するように促したうえ研究アシスタントに採用してくれた。学部学生時代にすでにスターテバントは遺伝学上で初めての染色体地図の作製に成功するが(第3章参照)、この事実を見れば明らかなように彼はショウジョウバエの秘密に対する早熟な直感力と優れた洞察力の持ち主だった。1912年に学部を修了した後も彼はモルガン研究室に大学院生として留まり、1914年にPh.D.を取得した。引き続く数年で彼はモルガンチームに不可欠な頼みの綱となり、カルテックでの新しい事業の建設に際して真っ先に招聘されたのだった

 スターテバントはカルテックでその後の数十年間の仕事となる染色体の最も本質的な側面の幾つかに関する広範な研究を開始した。彼が最も影響力の大きな力を注いだひとつはハエの眼を小さくする効果をもつバー(棒眼)突然変異だった。この突然変異は不安定で、正常な大きさの眼に復帰することもできたし、さらに突然変異を起こしてバー自身よりさらに小さな眼を形成することもあった(注:双翅目昆虫のショウジョウバエの正常な眼は700から800の個眼から構成される複眼だが、バー突然変異体の雄では個眼の数が約90、突然変異アリルをふたつもつホモ接合の雌では約70、ひとつもつヘテロ接合の雌では約360というように突然変異体では形成された複眼が棒状に細くなる。第7章参照)。スターテバントは、野生型への復帰は突然変異を失ったことに起因し、一方で増幅効果は突然変異遺伝子の重複に起因するだろう、さらにどちらの現象も彼が名付けた 「不等交叉」 というまれな組換え事象に起因するだろうと予想した。後に詳細なショウジョウバエの染色体観察が可能になると、マラーとブリッジスがスターテバントの直感が正しかったことを確認した(注:これはブリッジスが開発した唾液腺染色体の物理地図のお蔭だった。ブリッジスに関する以下の項参照)。今では、不等交叉はすべての生物で見られる現象で染色体の構成と進化に重大な結果をもたらすことが明らかになっている。スターテバントが発見した染色体に関するもうひとつの普遍的な遺伝的特徴は、遺伝子が染色体上で占める位置が遺伝子の活動に効果を与える位置効果と呼ばれる事実であった。実験室の仕事にほとんどの時間を費やしたが、スターテバントは何時でも野外の生物観察と博物学のための時間を取っておき、そうすることでいつも進化の過程と進化に果たす遺伝子の役割について関心を持ち続けた。様々なショウジョウバエ系統の分類に対する彼の興味は、例えば、染色体断片の逆位が起こる事実の確証に役立った(注:逆位は染色体のある領域が逆向きに配置する染色体異常で、その結果、領域内の遺伝子の並びが逆になる。逆位を一方の染色体にもち他方は正常な染色体をもつヘテロ個体では、特徴的な染色体異常と稔性の低下が認められる)。

 学部学生3人組の2番手カルビン・ブリッジスは1889年にニューヨーク州北部で生まれ、幼少時に孤児となった。彼はずっと自活の道にこだわったので高校を卒業したのは20才の時だったが、学業成績が優秀だったことからコロンビア大学の奨学金を得てスターテバントより1年遅れて入学した。ブリッジスとスターテバントは同じ動物学専攻となり、モルガンの人格に惹き付けられた2人は遺伝学の未来について聞いた話しに興奮を覚えた。ブリッジスはモルガンに研究室で働く場を与えてくれるよう願い出て、ハエの飼育瓶洗いの仕事を与えられた。他の学生では顕微鏡を使っても見つけるのが難しい異常な眼色のハエをブリッジスが分厚い飼育瓶のガラス越しに見つけたとき、彼はすぐに研究室のアシスタントに昇格した。ブリッジスは膨大な数の野生型の同胞のなかから何度も新しい突然変異形質を示すハエを見つける希有な才能を見せた。1925年にモルガン・コレクションに記載された365種類のショウジョウバエ突然変異のうち実に240種類はブリッジスが発見したものだった

 1912年に学部過程を修了したブリッジスはショウジョウバエの染色体に関する一連の細胞学的観察を開始し、遺伝の染色体説に詳細で確証的な証拠を与える多くの結果を得た。この研究を通じて彼はY染色体がそれよりずっと大きなX染色体から明確に区別できることを明らかにし、X染色体とY染色体は形態的に識別できないとそれまで信じられてきた見解を覆した。これによって彼はモルガンの初期の変則的な観察のいくつかを細胞遺伝学的に見事に説明することができた。白眼の雌と野生型の赤眼をもつ雄の交配からは、期待されるとおり、子の雄は突然変異型のX染色体を母からひとつと正常なY染色体を父からひとつ(Y染色体は眼色に関する遺伝子を欠いている)受けとるが、一方で雌は正常なX染色体を父からひとつと突然変異型のX染色体ひとつを母から受け継ぐので、白眼の雄と正常な赤眼の雌が生まれる。驚くべきことに、正常な赤眼の雄と白眼の雌が時折だが生まれることがあった。だが、ブリッジスはこの謎を、卵細胞を生じる減数分裂で二つのX染色体が稀に分離に失敗し、そのため二つのX染色体をもつ卵細胞とX染色体をひとつももたない同数の卵細胞が稀にできると推測することで説明した。X染色体を欠いた卵細胞はY染色体をもつ精子と受精すると発育できないが、X染色体をもつ精子との受精では雄が生まれる。このような雄をX0雄と呼ぶ。(注:ショウジョウバエの性は、性染色体Xとそれ以外の常染色体の量比によって決定され、この比が1以上であれば雌、1/2ならば雄となる。一方、人の性はY染色体の存否で決まり、Y染色体をもつ個体が雄となる。従って人間ではXO型は女性で、この型の女性はターナー症候群と呼ばれる発育不良を示す)。ブリッジスは、二つの突然変異型X染色体をもつ卵細胞が正常なX染色体をもつ精子と受精すれば二つの突然変異型X染色体とひとつの正常X染色体をもつ雌が生まれ、その眼の色は正常な赤であると推測した(注:実際は、XXX雌はスーパー雌と呼ばれ、致死である)。しかし、二つの突然変異型X染色体がY染色体をもつ精子と受精すれば二つの突然変異型X染色体とひとつのY染色体をもち白眼の雌が生じるだろう。X染色体を欠いた卵細胞が父方の正常なX染色体をもつ精子と受精すればブリッジスがX0雄と名付けた正常な赤眼の雄が生まれると期待される。X染色体を欠いた卵細胞がY染色体をもつ精子と受精すると生存可能な子は生まれないが、これはX染色体が生存に必要な多くの遺伝子をもつからである。

 ブリッジスは次に、詳細な顕微鏡観察で、減数分裂が稀に予想通りの変則的な振る舞いを見せる事実を確かめた。彼は減数分裂で一対の相同染色体が正常に別れる現象を 「分離」 と呼んだ。 「不分離」 は一対の相同染色体が同時に二つの配偶子のどちらか一方にのみ伝達される稀な事象で、それによって生じる不均衡な染色体の分離に対して使われる術語である10。ブリジッスの細胞学的観察はモルガンが発見した変則的な現象を説明しただけでなく、X染色体が伴性遺伝形質を支配する遺伝子を担っている事実に対する当時としては最も決定的な証拠を提示したことになる。さらに言えば、この結果はメンデル遺伝の染色体基礎に関して当時残っていた疑いを完全に払拭したのだった。

 ブリッジスは、ショウジョウバエの4つの染色体に見られる様々なバンド(縞模様)の位置を示す一連の精密な手書きの線画(アイコン)を残したが、それらは今もなお染色体地図の参照標準であり、彼を思い出させる重要な遺産である。これらの地図は染色体の様々な構造変化がもたらす突然変異をそれが生じた染色体の特定の縞模様に位置付ける直接的な方法を提供した。こうした地図の作成は、ショウジョウバエの唾液腺細胞がもつ特徴(いくつかのその他の細胞も)、すなわち染色体が通常よりずっと大きく静止期の細胞を通常の拡大倍率で観察することで容易に見ることができる事実から可能だった11。 「多糸性染色体」 と名付けられた唾液腺染色体は、通常とは異なり、細胞分裂を介さない連続した染色体倍加の結果として生じる。そのため各染色体でより多くのコピーが集まって巨大な束となり、低倍率の顕微鏡による観察でも特徴的で再現性のある縞模様が見えることになる(注:例えば10回の連続した染色体倍加で染色体量は1,024倍に増える)。ブリッジスとテオフィルス S. ペインターは多糸性染色体の縞模様の染色法を開発したが、それによって細胞学的観察と遺伝情報を結びつける事が可能となった。当時はもちろん今もなお、多糸性染色体の地図はショウジョウバエの遺伝解析で欠くことのできない基礎を与えている。例えば、モルガン、スターテバントとマラーは、早くから欠失、逆位や不等交叉などの染色体異常の存在を示唆していたが、ブリッジスの縞模様を用いることで遺伝のデータをそれぞれの多糸性染色体の可視的な構造変化と関連づけることが可能となった。染色体が遺伝子の運搬体であることにもはや疑いを差し挟む余地は全くなかった。

 自分の研究の他にもブリッジスは注目すべき技術を開発したが、その多くが新規な実験研究を可能とするような珍しい遺伝子型を持つハエの作成を目指した研究室の努力に大いに貢献した。ブリッジスの注目すべき仕事は彼の1916年に提出されたPh.D.学位論文の基礎となった。何年か後でスターテバントは、ブリッジスほどの業績をあげるには偉大な忍耐力と、正確な観察力、優れた技術的才能、創意と重要なことを理解する能力が必要であると述べた12。だが、ブリッジスはずっと第一級の実験家ではあったが、生物学への興味についてはモルガンやスターテバントよりは限定的だった。彼はよく知られた鋭い観察眼で対象に焦点を当て、他の皆を悩ませた操作をうまく実行した。コロンビアとカルテックのハエ・グループの研究の多くは突然変異体コレクションの作成に注がれたブリッジスの献身的で細部に気を配った仕事がなければ成功しなかっただろう。ドブジャンシキーはブリッジスを評した次のような文章をロシア語とドイツ語で残している(英語の論評はない)。 「ブリッジスは神のひらめきを持った人物である13。彼は時々天から降ってくるインスピレーションを得て2ヶ月もあれば天才的な仕事をこなすだろう。そうしていつもの小道具作りに戻って行くだろう。その他の点では、彼は天真爛漫な男だった」 。何年も後で、マックス・デルブリュックはヨーロッパではブリッジスほど無頓着な人間と出会ったことがなかったと語った。デルブリュックは、とりわけブリッジスの非正統的でまったく偉ぶらない生き方に、感心したのだった14

 ブリッジスのほとんど破廉恥とも言える生活スタイルは彼の仲間内や外部の者さえも面白がらせた。彼は政治的左翼の頑固な支持者で、当時はとくに左翼的であることは一般には受入れられなかったが、反対者に対しては彼らを強く弁護した。彼はまた自由恋愛主義者を自称し、自らも語ったように、それを実行してモルガンとスターテバントを驚かせた。ブリッジスは結婚して3人の子供の父だったが、彼の傍に寄ってきた女性達との無茶をやめようとはしなかった。彼は出会った女性のすべてを、ドブジャンスキーの妻さえも口説いたが、すげなく 「ノー」 と言われればすぐに引き下がった。コールド・スプリング・ハーバーへ行く計画が持ちあがった時には、研究所では若い女性には近づかないように所長のデメレックから忠告を受けた。しかし、他人の忠告を受け入れない習慣、外向きの性格、女性を魅了する美貌から、彼の生活スタイルが変わるには長い時間が必要だった。

 ブリッジスは人生を最大限に満喫していたから、教員の一人としてカルテックに招かれなかったこともそれほど気にはならなかった。彼はコールド・スプリング・ハーバーでの会合に出席していた1938年12月に心臓発作で倒れるまでずっと、ワシントン・カーネギー研究所の研究員であり続けた。ビードルは、ずっと後になって、ブリッジスの死には自分に責任の一端があるのではという思いに悩まされ続けたと述懐している。ビードルは思い出して次のように語った。 「どうして自分は、パロ・アルトの寒い夜に、覆いを畳んだA型ロードスターを彼に貸してスタンフォードの丘にキティーと二人だけのドライブに行かせてしまったのか(注:パロ・アルトはスタンフォード大学に近くシリコンバレーの北端にある街)。帰って来たブリッジスは冷えきっていて、それから間もなく彼は死んでしまった」 15。彼を知っていた誰もが、モルガンは特に、途方もない科学者、この上ない同僚、自由な精神が失われてしまったことを改めて実感した16。ブリッジスの死後、モルガンはブリッジスが残した彼の 「女性達」 とのデートの記録を記したカタログを発見したが、すぐにそれらを廃棄した。

 ヘルマン・ジョーゼフ・マラーは、異論はあってもほぼ間違いなくモルガンの初期の学生のうちで最も優秀だったが、同時に最も論争好きで気まぐれな人物だった。1890年にニューヨークに生まれた彼は生涯を通じて左翼の政治信条をもち続け、しばしば自分はスターリンと同じ誕生日を共有しているのだと周囲に吹聴した(注:実際は、スターリンは1878年12月18日生まれでマラーは12月21日生まれだった)。ニューヨークの多くの子供と同じように、度々訪れた市立自然史博物館が彼の科学への興味に火を付けた。マラーの知的な優秀さはすでに高等学校時代には明らかで、1906年にはコロンビア・カレッジへ入学するための奨学金を勝ち得た。2年後にカルテックにやって来たスターテバントとブリッジスと同じように、彼はウィルソンの染色体と遺伝に関する見事なセメスター講義に興奮を覚えた。ロバート・ヒース・ロックの 「変異、遺伝と進化」 と題した本17を読んで、マラーは遺伝現象を説明するメンデリズムの普遍性を確信した。特に、遺伝子が真の物理的実在であること、何らかの仕組みで染色体と関係していることに納得した。生物学者になると決心したマラーはコロンビアの学部学生のための生物学クラブを作り、そこで遺伝子と遺伝に関する今振り返ってみれば例外的に成熟した見解について頻繁な 「講義」 を披露した。マラーがスターテバントとブリッジスからモルガン研究室での刺激的な研究の進展について学んだのは生物学クラブでの出会いだった。マラーはモルガンのハエ・グループに加わろうと希望したが、実験室のスペースが足らないからという表向きの理由でこの願いは認められなかった。それでもスターテバントとブリッジスはマラーがハエ・グループの仕事の進展について行けるように気を使って様々な情報を与えて彼を助けた。

 1910年に卒業すると、研究課題への興味からではなく収入が必要だったので、マラーはコーネルの医学部生理学のフェローシップを受けることにした。しかし彼は2年のうちに神経生理学の研究が嫌になって再びモルガンの研究室に申請書を提出した。今度は、モルガンは彼をPh.D.コースの学生として受入れ、芽を出しつつあったハエ・グループの皆が並んで仕事をしていた机に居場所を与えた。マラーは、その段階で既に遺伝子の性質と行動については誰よりも、特にモルガンよりも進んだ考えを持っていた。マラーはスターテバントとブリッジスが開拓の対象にしていた課題は目標としないことに決めたが、それは彼らの道に埋没したくはなかったからだった。それでも彼らがしていることを理解しようと努めたし、役に立つ意見が自分に可能だと思えば何時でもそれを彼らに伝えた。

 マラーは、自分自身の研究課題として、配偶子の形成時にどのようにして相同染色体間の交叉が連鎖した遺伝子間の連鎖を切るのかを理解しようとした。彼は染色体上に並んだ多くの突然変異の位置が決定されたハエを育てて異なる染色体領域における交叉頻度を決定した。驚くべきことに、アリルのセット間と染色体間で交叉頻度に際立った差異があることが分かった。彼は、近接したアリル間の距離の和は遺伝子群の両端の距離とはならないことに気がついた。もし単一の交叉の代わりに稀ではあっても近接した二重交叉があれば交叉がなかったように見えるだろうと推論した。その場合にはアリル間の遺伝距離は実際より小さく見積もられるだろう。更に彼は、逆位、挿入あるいは欠失のような異常な構造的特徴が相同染色体の一方に存在すれば、アリルの交換が起こるには二つの相同染色体間の連続した対合が必要だから、そのようなヘテロ接合の個体では交叉が抑制されるだろうと推論した。マラーの研究結果は交叉頻度に基づくスターテバントの地図作製戦略は単純化され過ぎていることを明らかに示唆していた。

 スターテバントとブリッジスのもつ快活さと比較してマラーの物腰は激しく、自分自身と自分のすることを何時も深刻に捉えていた。彼とモルガンとの間にはある種の緊張関係があり、1916年にPh.D.を取得した後に、彼はモルガンの影のもとに留まるのではなくテキサス州ヒューストンのライス大学の新しい生物学科で職を得るのがむしろ最善だと決断した。彼は1918年にコロンビアのハエ・グループに戻ったが、昇進が認められなかったことから、コロンビアでの滞在は短期間で終わった。マラーは自分の昇進が拒否されたのはモルガンの支援がなかったからだと誤解したが、実は決定を下したのは学科長のウィルソンだった18。彼はもう一度職場を変えて今度はテキサス大学の遺伝学の教授としてオースティンに移った。1927年にX線の照射がハエの突然変異を誘発する強力な手段であるという彼の劇的な発見が行われたのはテキサスでのことだった19。この発見は遺伝子が物理的実体であることとその構造が放射線によって変化することの確定的な証拠だった。同じ頃、ミズーリ大学のルイス・ジョン・スタッドラーがトウモロコシとオオムギでX線が高度な突然変異誘発効果をもつ事実を独立に発見した20。スタッドラーはその後、紫外線(UV)放射も突然変異誘発能をもつことを発見している。こうした人為的な突然変異の誘発手段は自然突然変異の入手が困難な様々な生物種での遺伝学研究を大いに加速させた。この大発見だけで、マラーは1946年のノーベル生理学・医学賞を勝ち得た(注:スタッドラーはノーベル賞を受賞することはできなかったが、ミズーリ大学は彼の偉大な業績を記念して2年に一回スタッドラー遺伝学シンポジウムを開催している)。X線と紫外線が誘導する突然変異はどちらも、後にビードルの遺伝子機能に関する革新的な研究の重要な手段となった。

 1930年代初期に、マラーは大学における左翼運動と過激派学生グループに巻き込まれることになる。そうするうちに、キャンパスにおける政治活動でますまず問題を引き起こした彼はソビエト連邦の指導的遺伝学者だったニコライ I. バビロフのもとへ行く決心をした。しかし、トロフィム・ルイセンコの荒っぽい戦略と破壊的な影響から1937年までにはソビエト連邦を離れて、結局マサチューセッツ州アムハースト大学で教職を得て、インディアナの生物学教授になる1945年までそこに滞在することになった(注:バビロフは、栽培植物の起源地を探る研究から、遺伝的多様性の最も大きい地域がその作物の発祥の地であるとする学説を提唱した。彼が提唱した世界の8つの主要な作物発祥の地はバビロフセンターと呼ばれる。一方、ルイセンコはメンデル遺伝学を排斥し、ソビエト連邦でいわば似非科学運動を展開した園芸学者として知られる。ルイセンコによって、『ブルジョア的似非科学者』であるとして指弾され追放されたバビロブは1943年に獄死した。第6章参照)。

 1910年から1915年の間にハエ・グループが傾注した努力は遺伝学の領域を大きく変えた。彼らが成し遂げた染色体が遺伝情報の物理的な運搬体であるという事実の証明と遺伝情報が世代から世代へ伝達する規則に関する明確な解釈は衝撃的な発見だった。コンラッド・ハル・ウォディントンは 「モルガンの染色体説はガリレオとニュートンに匹敵する創造力の偉大な飛躍である」 と書いたし、シリル D.ダーリントンは、さらに付け加えて、 「モルガンの染色体説は人類が達成した偉大な歴史的奇跡のひとつとして姿を現した」 と讃えた21(注:ウォディントンはショウジョウバエの発生過程に関わる突然変異体を用いた研究によってシステム生物学の基礎を築いたイギリスの遺伝学者で、1935年にモルガン研究室を訪れている。ウォディントンはDNA塩基配列の変化を伴わない遺伝子発現の変化を研究する領域であるエピジェネティックスを提唱したことでも知られる。ダーリントンは非姉妹染色分体間の交叉で生じる構造をキアズマと名付け、キアズマが交叉と遺伝子組換えの証拠であることを提唱した遺伝学者で、 「染色体アトラス」 を著した。第6章参照)。しかしモルガンは自分の成功はスターテバント、ブリッジスとマラーの比類ない人間性と問題解決への独特のやり方に帰すことができることをおそらく他の誰よりもよく理解していた。モルガンと彼らの間を結んだ交流の運動力は、この大事業の遂行に当たってそれぞれが持ち込んだ経歴、知的才能、異なる価値と生き方に負うところが大きかった。モルガンはもちろん全体の音色を決める指導的な役割を果たした。彼は形式的でなく実際的に人をうまく動かした。彼の年齢も立場も年下の仲間たちとの科学上の会話を妨害する要素ではなかった。彼は敬意と盲目の服従を要求する 「ドイツ語でいうところの枢密院教授」 では決してなかったのである。彼の仲間がモルガンを 「ボス」 と呼ぶ時、それは彼の高い身分を意識してではなくむしろ彼への尊敬と好感から自ずと湧き出たものだった。

 ハエ・グループの急速で眼を見張る業績は他のショウジョウバエ遺伝学者達には恐怖ですらあった。あたかも最も重要な問題がすべて 「ハエ部屋」 に囲い込まれているかのようだった。コロンビアのハエ・グループの仕事は他の研究室の仕事の影を薄くしたが、彼らは気前よくショウジョウバエ情報交換ネットワークを通じて自分達の突然変異体系統と情報を他の研究者が自由に使えるようにした。もちろん彼らは、そうした 「気前よさ」 の恩恵をもらった他の研究者達がどんな発見をしたかについて情報をしっかり把握していたので、こうした交流から却ってうまく利益を得ることができた。いずれにしても、そのような表面的な 「共同」 だけでは、コロンビアのハエ・グループの独占と彼らが競争相手の論文を監視することで行使する影響力に対して他の研究者達が覚えた憤りが和らぐことはなかった22

 モルガンと彼の学生達が生み出す知的なエネルギーは物理的な環境の劣悪さをものともしなかった。コロンビア大学構内のシェルマホーン・ホールの6階に位置する彼らの仕事場は16 x 23 フィートの広さの一部屋で、そこには8つの机が所狭しとばかりに詰め込まれていた。コロンビア大学はまだ大きな居住用アパート群に囲まれてはおらず、実験室からは近くの牧草地で草を食むヤギの群れが見えた。訪問客は即座に部屋の汚さと乱雑な様子に気づいて驚くのだった。中でハエが飛び回るガーゼで蓋をしたガラス瓶が紙切れや終了した実験から出た屑ゴミで溢れた机と棚の空間を奪い合っていた。ハエ・グループの神秘的雰囲気の一部は、ハエを収めるミルク瓶が近くの家々の玄関先から収穫されたものではないかという疑いから来ていた。ハエは割り当てられたミルク瓶に閉じ込められてはいたが、あらゆる隙間と割れ目に潜むゴキブリがハエの餌や他の食物の残り滓の上を自由に這いずり回っていた。もちろんネズミが部屋の汚物置き場に集まった残り物の中から食物を探して運動会をしているような有様だった。部屋には酵母と腐りかけたバナナの匂いが漂っていた。時折、建物の友人や同僚達が壁を飾るバナナの茎をもらいにやって来たりした。

 モルガン自身が快適とはほど遠い実験室の有様を作りだす張本人だった。まだ読んでいない手紙が机の上に溜まっていたが、その束は仕事の邪魔になるほど積み上がれば近くの空いた机に利用者が戻るまで移されるか、またはそのまま捨てられるのが常だった。他の者は使用済みのハエを油缶に捨てたが、モルガンは前の実験から出た残り物が積み上がっている陶製の観察用の盆を用いていた23。彼の身なりの汚さはまた評判で、時々は掃除夫に間違えられるほどだった。一度、講義の開始直前にモルガンのシャツの襟が剥がれていることに気づいた学生が気遣ってそれを告げると、モルガンは 「心配ないさ、後でブリッジスが粘着テープで直してくれるから」 と言い、実際そうなったそうである24。しかし、実験室のモルガンを映した写真を見ると、彼はいつも白いシャツにネクタイとベストを身につけていて、それは今日でも決して普段着とは云えないちゃんとした身なりだったことが分かる。

 ハエ部屋の住人の間で交わされる会話はほとんど連続的な騒音を生み出していたが、モルガンもハエを数えたり調べたりする時は始終独り言でこれに輪をかけた。会話は生き生きとしており、時折に乱暴だったが、冗談と爆笑で味付けされていた。 「神の国の何か素晴らしいものを期待した」 一人の外国人女性訪問客はこの有様を目撃して困惑を隠せなかった。彼女は 「ヨーロッパの大学とは何とすべてが違っているのだろう」 、ヨーロッパでは 「教授は重々しく、学生達と距離を置いて、時々実験室を見て回っては指導したり質問に答えたりする」 のにと述懐したものだった。彼女は、ハエ部屋の状況と教授との良好な時間を得るための学生達の集まりを見て、 「これこそが合衆国のやり方だ」 と考えた。彼女は、しかし後になって、 「モルガン・グループの雰囲気が例外的である」 こと、さらにモルガンが全員の生活と家庭状況、お金と恋愛問題についてさえ知っているひとつの家族のようなものだということに気づいたのだった25。しかしもちろん、ハエ部屋は楽しみとゲームのため以上の場所だった。科学はそのようになされるべきだと考えていたモルガンは、ほとんど世話を焼かずにいつも刺激的なあり方を推奨し大切にした。

 スターテバントは、この雰囲気はモルガンの態度、強く批判的な感覚と寛大さ、心の広さと注目すべきユーモア感覚のお蔭だと考えた。彼は動物学科の当時の学科長だったウィルソンの 「研究に対する変わることのない支援と理解」 にも感謝した26。ハエ部屋はスターテバントによれば 「誰もが殆どあるいはまったく管理されない状態で自分自身の仕事ができる場で、新しい結果はグループ内で自由に議論された。私達はそこで毎日議論し、計画し、論争し合った。私は、時々、あれだけの時間を語ることに費やしながら、どうして仕事が成り立っていたのか不思議に思った」 そんな所だった27。モルガンは父親のように若者達の負担を支え、彼らの高まるうぬぼれをさえ満足させてあげた。モルガン、スターテバントとブリッジスは彼らが注いだ科学的な努力、科学への献身を共有することで互いの賞賛と尊重がもたらす相乗効果に基づく特別の絆を築いたのだった28

 ハエ・グループが育んだ 「社会学」 に見られる特徴は、アイディアや提案は個人に属さない、どちらもグループの所有物であるとし、かつ、これを実行したことだった。さらに、グループのメンバーには課題を自分だけの研究対象としないことが期待されたが、この了解にメンバーはいつも従う訳ではなかった。スターテバントは、後に次のように語っている。この 「ギブ・アンド・テイクの雰囲気は、新しい結果や新しいアイディアが持ち上がるたびに、それがグループ全体で自由に議論されることを許す類いのものだった。公表された報告がいつもアイディアの出所を明らかにするとは限らなかった。誰が最初にアイディアを得たかを決めることはしばしばできなかったし、そうすることが重要だとも思われなかった。このギブ・アンド・テイクのルールにあっては、誰もがほぼ平等な位置に立っていて、だからこそ仕事が確かに捗ったのだと私は思う」 29。論文の著者の権利は、通常、実験を実施した者に与えられた。このやり方に腹を立てたのはマラーだけだった。

 ハエ・グループに参加した当初からマラーは、その明敏な精神から、頻繁にあった予期せぬ発見の結果をグループが咀嚼するより早く理解し、それに理論的解釈を与えることができた。彼が即座に仮説を実証するための新たな実験を説明し提案し、他の者が気づいた問題に解決を与えたのは自分だと自慢することが皆の忍耐の限界を試すことになったのも不思議ではなかった。自分にこそ正統に属すべき業績の恩典をボスとスターテバントが奪ったのだといつも信じていたマラーは、コロンビアを離れた後で人々の前でずけずけとモルガンを批判した。それでもモルガンは、遺伝の染色体基礎を総括した記念碑的な論文の共著者の一人にマラーを加えることで、ハエ・グリープによる発見に彼が与えた重要な知的貢献に感謝で報いたのだった30

 モルガンの余り褒められたものではなかった人格のひとつでハエ・グループのメンバーの憤りを買った癖は、そのあまりのケチくささだった。彼らの設備の殆どは間に合わせの手作りで、すぐにでも市販品が手に入る品物についてさえブリッジスが頻繁に呼ばれてデザインして制作するよう頼まれた。顕微鏡は数が少なく、モルガンの考えではハエを調べるにはハンド・レンズで十分だったし、モルガン自身は宝石商が使うルーペを好んだ。この節約ぶりは、一部には初期の時代のハエ・プロジェクは学科予算から僅かな資金しか得ることができなかった事実から来ていた。その後に仕事が花開き出すと、モルガンは外部資金を求めて1914年から退職するまでのあいだワシントンのカーネギー研究所から補助金を受けることができた。それでもなお彼は年末に未使用金を返却することができることを、たとえそれが正統な支出の否定になることを意味する場合でさえ、誇りに思うのだった。

 ある時、学生達がボスを説得して必要な物品の購入を認めさせる企みの競争をした。ビードルはカルテックへ来たばかりでまだ必要な支出は僅かだったが、モルガンが10ドルの支出さえ認めないことをすぐに確信させられた。植物生化学者のジェームス F. ボナーならその備品の必要性を正当化できると考えた彼は、後で備品を返却する約束でボナーにモルガンへの説得を頼んでうまく目的を果たした。モルガンの備品要求への反応が気分次第だったこともあった。日曜日の朝ならモルガンの機嫌が最もいいだろうと思案したビードルは、おそらく彼らの時折のテニスの試合の合間だったと思われるが、顕微鏡用の新しい油浸対物レンズの購入を認めさせることに成功した。それは偉大な勝利だと誰もが思った31

 ビードルがパサディナへ移る少し前にジャック・シュルツがハエ・グループにPh.D.コースの学生として加わった。1904年にニューヨークで生まれ、知的な興味と才能で早くから頭角を現したシュルツは、高校の過程を優れた成績で修了したので、ブリッジスと同様にコロンビアに入学するための奨学金を得ることができた。彼は勉学が好きだったが、いくらかの金を稼ぐ必要があったので、モルガンの実験室でハエの飼育瓶の洗浄と餌の準備をするアシスタントの募集に応じた。生まれつきの好奇心に動かされて、彼は遺伝学実験の基礎を素早く吸収した。スターテバントとブリッジスは彼の可能性を認め、彼はすぐにハエ部屋での意味ある議論に加わることになった。後にモルガンは彼を大学院生として引き受けた。カルテックへ移った後の1929年に完成した彼のPh.D.学位論文は遺伝学上の好奇心を誘う問題を扱っていた。胚の生長が遅く正常な個体より約2日遅れで成熟する 「マイニュート」 と名付けられた一群の突然変異は、染色体上の多くの異なる座位にマップされるにも関わらず、ほぼ同一の形質を現したのである。この発見は重大な概念上のパラドックスを提示した。多種多様な突然変異が胚発生の間にどのようにしてひとつのよく似た効果をもたらすのだろうか?この実験はハエの発生における遺伝子の行動がどんな分子的仕組みの上で成立しているのかを理解しようとするシュルツの生涯の興味の基礎となっただけでなく、カルテックでの彼とビードルの緊密な関係の基礎ともなった。

 カルテックでシュルツは野生型のハエと何年もの間に集められた多くの眼色に関する突然変異体の眼色を決める色素の分光写真による比較を開始した。この仕事は眼色素の発達に関するビードルの後の仕事に基礎を与える試みだった(第7章参照)。ビードルは遺伝子機能に関する本質的な謎を広げて見せたシュルツの鋭敏なレビュー論文から大きな影響を受けた32。そのうちに、シュルツの関心は遺伝情報の伝達を支配する仕組みを探るよりは遺伝を決める物質の化学的構成とそれが生物の示す表現型を支配する仕組みに関する研究にますます移って行った。この興味を追求するために、シュルツはスェーデンのトルブジョーン・カスパーソンの研究室に2年間滞在して染色体に存在する核酸を顕微分光光度法の分析技術を応用して研究した。第二次世界大戦が始まりパサディナに戻ったシュルツは、モルガンが細胞学的研究の継続に必要な設備のための資金を提供できなかったことに失望した。その代わりにモルガンはブリッジスが若くして亡くなる前にやっていた仕事だったハエの飼育と管理をシュルツに執拗に求めた。スターテバントとモルガンに対する関係は日増しに険悪となり、シュルツはカルテックを離れて遺伝学ユニットを創設するためにフィラデルフィアのランケナウ研究所へ移って行った。シュルツの論文は数多くはないがどれも刺激的で先見的だった。ハエ・グループの最も情熱的な論客の間でさえ、シュルツは自分を堅持して説を曲げず、聴く者誰にも興味深いアイディアを提供したそんな人物だった。

 コロンビアでモルガンはその他にも何人かのその後に群を抜き独立した研究経歴を積み上げることになる才能に恵まれたポスドクフェローと大学院生を引き寄せていた。中でも特に目立った人物は、ドイツからの客員研究員だったカート・スターンとロックフェラー財団の奨学金でレニングラードから来たテオドシウス・ドブジャンスキーだった。ドブジャンスキーは1900年にキエフの近くの小さな村に生まれ、荒れ狂うボルシェビキ革命の時代をそこで過ごした33。幼少の頃から、彼は蝶とテントウムシの採集と観察から生物学への愛好心を育てていた。キエフ大学で生物学を学び卒業した後、モスクワのコズロフ研究所を訪ねて3年前にマラーが持ち込んでいたハエの突然変異コレクションを用いた実験を始め、ロシア語で初めてとなる遺伝学に関するハエ論文を幾つか書いた。これがレニングラード大学の新しい遺伝学科の学科長Y.フィリップチェンコの注意を引き、ドブジャンスキーは彼に招かれて助手となりハエの研究を続けるように促され、さらにその後モルガン研究室へ留学するよう勧められた。ドブジャンスキーは、モルガンは 「神に次ぐ人」 で、ハエ・グループは 「神に次ぐ存在」 、ハエ研究室は 「天国に次ぐ場」 だと想像していた。彼のこの素朴な見方は、到着してすぐに 「モルガン研究室がひどく小さく、満足な設備もなく、まったく汚らしい」 ことを発見して吹き飛んでしまった。彼は 「合衆国の研究室はどこも豪華で、いわんやモルガン研究室は豪華さの頂点にある」 と期待していたが34、そこは実際にはレニングラード大学の研究室のどれよりも不便で間違いなく汚い場所だった。

 スターテバントとブリジッスはドブジャンスキーが英語の語彙を増やし彼自身の仕事を始めるのに必要な技能を身につけられるように力を貸した。数年以内に彼は、交叉の仕組みの理解に大きく貢献し、さらに期待にあわない交叉頻度から明らかになった遺伝地図に見られるある変則的な性質を明らかにした。非相同な染色体間の稀な交叉で生じた不規則な相互転座と呼ばれる染色体をもつ突然変異体を用いて、連鎖関係に基づく遺伝子の直線的な配置はスターテバンが指摘していたように染色体における遺伝子の物理的配置と共直線的な関係にあることを証明した。ドブジャンスキーはまた、染色体上の部分によって交叉頻度が異なるというマラーの発見を拡張して、それが特に紡錘糸の付着点近傍、すなわち相同染色体対が分離する際に微小管が結合する今では動原体と呼ばれる装置が存在する染色体上の部位で交叉頻度が顕著に低下することを明らかにした。一定の染色体領域で交叉頻度が低下する現象はビードルが後にショウジョウバエ遺伝学に入るきっかけとなった。

 ドブジャンスキーは絶えず実験し、もっと多く広く論文を書かなければという脅迫観念とも言える思いに取り付かれていた。カルテックでドブジャンスキーの同僚だったジェームス・ボナーは、ドブジャンスキーが 「ひとつも論文を提出せずに過ぎてしまうひと月は無駄なひと月だ」 と言うのを耳にしたことがあると述懐している35。しかしドブジャンスキーが名声を求めた主な理由は、進化を実験的に研究する上でのショウジョウバエのもつ可能性を広げてより進んだ進化理論を作り出す仕事で重要な役割を果したいという希望だった。最初のうち彼は種分化の遺伝的基礎に興味を持っていたスターテバントと共同した。進化に関する共通の興味を通じて、彼らの関係は助言者と学生というよりは研究上の同僚のそれになった。彼らはハエ収集のための共同の野外探索を好んだ。異なる種のハエを識別するために、彼らはマーカーとして多糸性染色体がもつ特徴的な性質を研究し、雑種不稔性と地域集団の進化的な歴史の問題を探索するために遺伝学的、細胞学的研究と野外調査の統合を試みた。自然生息地の数種のショウジョウバエで見られる染色体逆位の異なるパターンを用いて、彼らは関連する種の自然分布を調査し、逆位が発生した順序を推測し、さらに逆位の特徴に基づいて系統関係を構築しようと試み、幾分の成功を収めた。スターテバントが主導して自然集団の遺伝学に関する大規模な研究のための広範囲な計画を展開したが、近しい仲間だった二人が喧嘩別れになった1936年以後は、ドブジャンスキーは一人でこれをやらなければならなくなった36。スターテバントとドブジャンスキーの間に生じた亀裂の原因については記憶から導かれた多くの異なった見解があったが、ドブンジャンスキーには発見を拡大解釈する傾向があるとスターテバントが疑ったことで熱が冷めてしまったのが原因だったとするのが最もあり得る説明のようだ37

 ドブジャンスキーがカルテックにいる間に出版された彼の著書 「種の遺伝学と起源」 は進化に関する理論研究では20世紀における最も重要で影響力を持った仕事のひとつと考えられる38。彼の著書はその後の実験研究を何年もの間刺激した概念的な骨格を提供した。ドブジャンスキーは1940年までカリフォルニアにとどまり、コロンビアへ戻って動物学の教授になった。そこで彼は人間の進化の歴史に興味を移した。彼は個々の人格の独立性の擁護者となり、個人の人格に生物学的基礎を与えるのは広範な遺伝的変異(多様性)の存在であるとする主張を展開した。人種間に見られる遺伝的違いよりは、どの人種であっても人種内に存在する遺伝的変異がより大きいことから、個人は個人が属する遺伝的な人種ではなく個人としてのあり方で評価されるべきだとドブジャンスキーは主張した。ドブジャンスキーのこの見解は、ヒトゲノムの配列決定と遺伝的種族に関して啓発された社会的態度から、現在では確認された明らかなことだと思われるが、当時にあっては新規で革命的な見解であった。

 ハエ部屋が活動を続けていた年月の間、ハエ部屋の住民はハエ部屋の訪問者とその雰囲気を経験した者達による無数の逸話や回想の的だった。そこで噂された内容は、全体として見れば、興奮するほどの知識のまさに最先端で互いに協調し競争しながら働いていた特別な個人達の集団について語られたものであった。それは正に真剣で質の高い科学であり、しかも楽しい冒険だった。ハエ・グループの当時は斬新的だった社交的・開放的な構造は、その後に生物学の多くの分野と実際すべての科学分野で採用されるようになった研究者組織における新しい類の交流の場としての先駆けだった。

 モルガンのハエ・ボーイと呼ばれることが多かったハエ・グループのメンバー達は皆が否定する余地なく優秀だったが、より重要なことは彼らの才能が相補的だったことである。モルガンは、考え方は正確で創造的だったが、仕事の数学的で量的な側面の取扱いには不安を感じていた。一方、スターテバント、ブリッジス、別けてもマラーにはこれらの問題はお手の物で、モルガンが困った時にはいつも助けることができた。モルガンは常に実験によって強く支えられていない推量を排していたが、若い研究者達は、予備的な結果でさえ、それが与える暗示の理論化に好んで挑戦しようとした。遺伝子の物理的実在を示す証拠が広く認められるようになると、モルガンは若い仲間達が前進させつつあった遺伝子の働きに関する分子的あるいは生理学的説明をさえ受入れるのに困難を感じるようになった。

 モルガンは単純で複雑さを排した謙虚なやり方を科学でも信じていたが、スターテバントもこの信念を共有し実践した一人だった。ボスは近しい友人や仲間といる時間を最も好んだし、科学的あるいは個人の問題に関しても真面目な議論に何時でも喜んで加わった39。モルガンと経歴、科学上の興味と考え方で最も近かったスターテバントにはモルガンの考え方がよく分かった。モルガンもスターテバントも 「確立したドグマ」 あるいは過度の自信には容赦がなかった。ボスは冗談の名人で、特にきっと承服はしないだろうと予想した者達をちょっとからかうのが好きだった。モルガンと同じようにスターテバントは物に拘らず、冷静で必要な時にだけ機知を発揮するような人物だったが、開放的で穏やかな態度の影に普段は隠れた鋭利なユーモアの精神が、特に彼が認めることのできない事物に対して発揮されることがあった。同僚の研究とその発表に対して彼が時折下したぶっきらぼうな批判が同僚を怒らせることがあったが、彼の鋭い洞察は受入れられることの方が多かった。ドブジャンスキーはスターテバントを評して、 「非常に安定した仕事人間、ひらめきも輝きもなく、クリスマスでも元日でも、毎日、一日中懸命に働き、いつも実験室でハエを数えるか文献を読んでいる、そんな人間だ」 と回想したことがあった40

 ビードルがカルテックに到着した時の生物学部門の文化はコロンビアの 「ハエ教室」 を受け継ぐものだった。彼らは新しい人材を得たときいつもするようにビードルを歓迎した。そうして、先人達と同じように、ビードルもグループの活動のすべてに参加し自分の研究計画を作るように期待された。いつもと同じように、彼は知的な点でも気分的にも自分には準備ができていると確信していた。トウモロコシの不稔突然変異体の仕事を続ける計画は、しかし彼にとっては、殆どの時間をカルテック校内から自転車で約半時間の距離にあったアルカディアの20エーカーの 「農場」 という名で知られた実験植物園で過ごすことになることを意味した。彼のフェローシップ申請の際に助言者として名前が上がっていたE. G. アンダーソンが農場に住んでおり、彼の実験室と実験圃場もそこにあった。独身、 「孤独好き」 で生物学部門でのただ一人のトウモロコシ研究者だったアンダーソンにとっては、この状況が都合良かった41。彼はまた堪能なショウジョウバエの遺伝学者でもあり、早くも1920年に染色体の小さな領域が稀に重複を起こすことが重要な進化上の作用であるという現代の生物学者達が最近の発見だと思いがちな優れたアイディアを提示したアンダーソンの洞察力をマラーは高く評価していた42。農場の建物の中の大きな家をアンダーソンは無料で借りて住んでいた。その代わり、彼は仕事のために農場に泊まるカルテックの他の研究者達に料理を作り家事をする者を誰か雇用するよう求められていた43。農所にやって来るカルテックの学生達は納屋の屋根裏部屋に集まり、彼の遺伝学の講義を受けたが、 「アンディーは授業や講義となるとまったく自信がなかった」 44

 アンダーソンは自分に閉じこもりメインキャンパスで他者と交わることが滅多になかったので、ビードルはハエ・グループに強く引かれてすぐにその科学的な文化に取り込まれた。始めのうちはトウモロコシの研究がビードルの主要な仕事だったが、ほどなく彼はショウジョウバエ遺伝学の刺激が打ち勝ちがたいものであることを理解した。コーネルで生態学から遺伝学へ専攻を変えたと同じように、ビードルは自分の研究の方向を変えて最も魅力的な分野に身を置くことにまったく躊躇しなかった。



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21. どちらもI. Shine and S. Wrobel. Thomas Hunt Morgan: Pioneer in genetics. University of Kentucky Press, Lexington, Kentucky, 976, p.92で言及.
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