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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第8章 教授になる

 家財道具とペットをクレアモントのマリオンの母の家に残して、ビードルとマリオン、デービッドの3人はA型フォードで東のマサチューセッツ州を目指した州境をいくつも越える旅にでて、1936年の秋学期に間に合うようケンブリッジに着いた(注:ハーバードは9月開始の2学期制で、秋学期が9月から12月、春学期が1月から5月)。彼らはハーバードの教授達の何人かが住んでいたマサチューセッツ通りのどちらかと言えば魅力的でない地域の小さいがそれでも快適なアパートに落ち着いた。滞在期間を通じて家具をほとんど持ち込まなかったのでアパートは広々としていたが、その理由はマリオンが生まれ育ったカリフォルニアの環境から離れて暮らすことを幸せとは感じなかったことに加えてビードルもそこに長くは滞在しないだろうと考えたからだった。実はスターテバントも、ビードルはハーバードを好きにはならないだろうと予想していた。雪を見ることと父が買い与えてくれた雪車で遊ぶことばかりを考えていたデービッドだけが、カリフォルニアを離れる前からケンブリッジに移ることを楽しみにしていた

 ケンブリッジに着いたビードルには早急に研究計画を軌道に乗せる必要があった。彼はロックフェラー財団の生物学研究奨学金のプログラム部長だったF. B. ハンソンに大学から支給される研究費が十分か心配だと懸念を伝えた。年俸4,000ドルの給与の他に、ハーバードは設備を購入するための資金と実験アシスタントを雇用するための500ドルを提供した。設備費は十分だったが、大学院生を雇用するにはカルテックで学生達に支払った金額の2倍、すなわち時間当たり1ドルの支払いが必要だと考えたビードルは、アシスタントのための経費が不十分だと心配した。ハンソンの日記には 「ビードルは例外的に素晴らしい印象を与える疑いなく今の時代の生物学で最も有望な人物のひとり、注目すべき男」 と記されていた。そのように査定がよかったから、財団はすぐに追加的な研究資金をビードルに提供した。それはその後も続くロックフェラー財団からビードルへの直接の資金提供の始まりだった。

 ビードルは時間を無駄に費やすことなく実験に入った。彼は、ハーバードに到着したばかりのもう一人でカルテック時代からの知り合いだったケニース V ティマンという共同研究者をすぐに見つけた。ティマンは植物ホルモンのオーキシンが化学的にインドール酢酸であることを最初に明らかにした業績によってハーバードの助教の職を得た植物生理学者だった。ビードルはv物質、cn物質の分離と同定で助けてくれるようティマンを説得した。それには第一に色々な材料でこれらの物質の量を測定する方法が必要だった。彼らは2種類の 「テスター」 すなわちv物質あるいはcn物質を作る能力に影響する突然変異と紅い色素の生産を妨害する突然変異(bw)を選抜するというアイディアを得た。そのようなテスターの眼は赤色素も茶色素も作らないので青白く見える。vとcn両物質の量はテスターの眼にサンプルを注入することでどのように成虫の眼色が変化するかを検定して測定できた。それらの化学試験からvとcnは、どんな資料から得たものであっても、タンパク質、酵素あるいは脂質ではないことが明らかになった。その代わり、それらの性質はタンパク質の構成単位であるアミノ酸の一般的な性質に似ていたが、既知のアミノ酸のどれとも異なっており、ふたつの仮想的な物質の同定は彼らの追跡の手を逃れてしまった。

 ショウジョウバエの眼色の仕事に深くのめり込んではいたが、ビードルは時間を見つけて生物学科の社交的な活動にも時折に参加した。教員クラブで昼食を摂ることは、カルテックと同じようにハーバードの由緒ある伝統だった。彼は同僚と会い研究所の文化に触れることが出来るこうした機会を喜んで活用した。午後のティータイムは教員、学生や職員が集う寛ぎの場だった。その時代の慣習で、教員が限られた女子学生と一緒にティータイムに出席するのは稀なことだった。しかしビードルは女子学生によそよそしく振る舞うことが全くなかった。ラドクリフの学生で後にビードルの共同研究者で近しい友人になるノルマン・ホロヴィッツと結婚することになった女子学生はビードルについて次のように述懐している(注:ラドクリフは、ケンブリッジにあるリベラル・アーツの女子カレッジで、男子のみのハーバードと同等と見なされた大学)。 「ビードル先生は、ハーバードのコースを受講している女子学生にもったいなくも話しかけてくれるただ一人の生物学教授でした」 。ビードルが力を貸した大学院生のロイド・ローは、スポーツや他の大学活動に興味を持ってもらおうとビードルを誘ってみたが、すぐにそれは無理と知って諦めた。若い教授にはそのような娯楽に時間を割く気が全くなかった。

 ビードルには研究の他に講義の義務が求められていて、学部学生のための遺伝学コースと上級実験コースが割り当てられていたが、実験コースを受講したのは一人の大学院生だけだった。同僚の何人かを驚かせたことだが、実験コースではビードルが自分自身の実験室で行っている実験、すなわちショウジョウバエの組織移植が主だった。ビードルの教育技能には改善の余地が大いにあったが、彼に講義が下手だという事実を教えたのはコースを受講したハーバードの学部学生だった。学生達が講義を受入れたか拒否したかは拍手かブーイングで示されるのが習いだった。ビードルはたびたびブーイングを受けたことを覚えている。こうした拒絶にビードルは敏感だったし、それに自分の講義よりずっと下手だと思っていた一人の同僚の講義にブーイングが全くなかったことを発見した時には、講義の後で一人の学生に声をかけて、何故いつも自分に辛い思いをさせるのかと尋ねて見た。ビードルは今でも覚えているが、学生の答えは、 「ブーイングの価値さえない講義には沈黙するのがルールです」 だった。この答えにビードルが満足したかどうかは分からない。

 ハーバードで過ごした日々を思い出すとビードルにはほぼ否定的な思いしか残らなかった。ビードルの言葉を借りれば、 「ハーバードは私のようなワフーの農場ボーイには形式的に過ぎた」 。コーネルとカルテックの開かれた率直な雰囲気に慣れたビードルにとって、教授との面会や公開討論会へ出席するためにさえ予約が必要なハーバードの生物学部門の 「ドアの閉じた」 文化は非難すべき対象だった。大勢すぎる助教達の士気も高くはなかった。彼らは中級教員が自分達に敬意を払わないことと、これは周知の事実だが、大学が自分達の昇任に乗り気でないことに腹を立てていた。ビードルもショウジョウバエを遺伝学のモデル生物とすることへの同僚達の無関心にいらだちを覚えた

 スタンフォードへ移らないかという誘いが学年半ばにビードルに届いた。生物科学分野の終身雇用資格(テニュア)付きの正教授職は魅力的だったが、誘いを受ける前に、ハーバードの著名な遺伝学教授だったエドワードM. イーストが25年前にエマーソンの助言者(メンター)だったことを思い出して、ビードルは彼に助言を求めた(注:イーストは雑種トウモロコシの開発と量的遺伝形質の解析で有名な植物遺伝学者)。 「イースト教授は、いつものぶっきらぼうで直接的な態度で私に聞きました。‘さて、貴君はそれについて私に何と言って欲しいのかね?’教授がそれについてどうお考えかお尋ねしたいのですと私は応じました。すると教授の反応は、‘ああ、君は私がどう考えるかを聞きたいのですな?では私の考えを言いましょう。スタンフォードは少しもよくありません、少しもよくなかったし、これからも少しもよくなりません。私の考えは以上です’でした」 。今度はハーバードからテニュアの誘いがあったが、ビードルはイーストの忠告を無視してスタンフォードへ移ると決心した。後にイーストはビードルにこう語っている。 「ビードル君、私は君がスタンフォードへ行くだろうと思っていました。君がハーバードを好きではないことを私は知っていましたから」 。その時を振り返ってビードルは、 「その年の終わりにハーバードを離れるという私の決断は私にとって正しい決断だった」 と思い出話で語った

 1937年4月5日にスタンフォードからの誘いを受けたビードルは、その年の秋に大学のあるパロアルトへ移る準備を始めた。彼はスタンフォードで遺伝学を研究する最初の研究者となった。最初の年には教育の義務がなく、研究計画を軌道に乗せるために十分な自由が約束されたことが彼をスタンフォードへ引き寄せた重要な条件のひとつだった。生物学科の学科長だったチャールズ・ヴィンセント・テイラーは、すぐにロックフェラー財団のワレン・ウィーバー科学部長に宛てて手紙を送ってビードルの研究計画の概要を知らせ、初年度の研究支援のために3,000から3,500ドルを要求した10。ロックフェラー財団のハンソン部長がビードルを高く評価していたことで、委員会の承認は事実上約束されていた。

 マリオンにとってカリフォルニアへ戻るのはおそらく喜ばしいことだっただろう。冬の間はケンブリッジを留守にすることが多かった彼女とデービッドは、春学期の間に列車でカリフォルニアへ戻って行った。残されたビードルは、アパートと残った家具を処分した後で、車を運転して一人でカリフォルニアへ戻らなければならなかった。ビードルは、ハーバードの春学期が終わった後で直ちに西へ向かう代わりに、スターテバントが海洋生物学研究所で仕事をするために家族とともに夏期休暇を過ごすウッズ・ホールを訪ねた(注:海洋生物学研究所は1888年に創設された生物学、生物医学と生態学の国際研究施設で、シカゴ大学の非営利外部団体)。ビードルの学部実験コースに参加したただ一人の学生だったローがビードルに従った。彼らは港と大西洋に浮かぶマーサのブドウ畑と呼ばれる小島を見下ろす丘の上の一軒家を借りた。運動が好きなビードルは数マイルの道を歩いて実験室へ通い終日そこで過ごした11。夏の間ウッズ・ホールは、研究者達が入れ替わり訪れ、様々な講義やセミナーが準備されていたことから、多様なタイプの生物学者のたまり場だった。そこは砂浜と海のある場で知的な交わりができること、学事に関する義務が介入する日常から開放される機会を満喫できることで人気のある場所だった。ビードルもハーバードで味わえなかった広範で非公式な自分の好みに合った議論を楽しんだ。その夏にビードルが何か実験をしたとは思えないが、おそらく彼とスターテバントは2年後に出版されることになる古典的な教科書 「遺伝学入門」 の共同執筆に時間を使ったのだろう12

 夏が終わると、ビードルとローはビードルが新しく手に入れたプリムスでカリフルニアへ向かった。彼らはワフーに立寄り、まだ働いていた父とビードルに会うために帰ってきていた妹のルースを訪ねた。ビードルが遺伝学のクロスワード・パズルを作ろうと提案したことで、西へ向かう二人の長旅も退屈せず我慢できた。クロスワード・パズルは、ビードルが語彙を組み立ててローが書き写しながら未完成部分を埋めて行くやり方で二人が共同して作った。農場で数日過ごした後に、ビードルはリンカーンへ車を走らせて自分を科学の世界に誘い入れたカイム教授に会いに行った。そこからは寄り道せずにサンフランシスコの南東35マイルにある田園都市のパロアルトに向かった(注:パロアルトはスタンフォード大学のあるスタンフォード市に隣接した市)。サンフランシスコ湾と山吹色に輝きゆっくりとうねりながら太平洋に向かって傾斜した丘陵の間に広がるスタンフォードは年間を通じて温暖な気候に恵まれた土地で、ビードルはすぐに慣れたし、マリオンもその地に移り住んだことを喜んだ。

 スタンフォード大学は、南北戦争の間に北部諸州のひとつとして州を守った功績で讃えられたカリフォルニア共和党の創設者であったリーランド・スタンフォードによって1885年に創立された。彼はユニオン・パシフィックの最初の大陸横断鉄道を完成させ、そのことで選挙戦を有利に運んでカリフォルニア州知事となり(1862年から1864年)、その後に合衆国上院議員を務めており(1885年から1893年)、まさに国家的名声を勝ち得た人物だった。スタンフォード州知事と夫人は、彼らの息子で16才の時に罹った腸チフスで死んだリーランド・ジュニアを記念してスタンフフォード大学を創設した。サンフランシスコからサンノゼに向かって南に走る有名なエル・カミオ・リール(スペイン語で王家の道を意味する)が、8,800エーカーの広大なキャンパスとパロアルト市を隔てていた。市の名前は初期のスペインからの開拓移民達の地上の目印で今でも残る細身の高木セコイアスギに由来する(注:セコイアSequoia sempervirensは高さ100mにもなる世界有数の高木で、合衆国西海岸の山脈地帯に自生する)。キャンパスはスタンフォード知事の趣味だった賞金獲得馬の育種と訓練の場所だったから、キャンパスは今でも幾分の冷やかしの意味をこめて 「農場」 と呼ばれている。ビードルのトウモロコシを植える情熱は 「農場」 に落ち着きの場を見出すことになるだろう。

 スタンフォード家は、大学は第一に研究に重点を置くべきだが、学部と大学院のコース・ワーク(講義)も大切にしなければならないとしていた。大学は創立以来ずっと共学で、誰からも好かれた魚類学者で初代の学長だったウィリアム・スター・ジョルダンが設立し育てた生物学に強い伝統があった。ビードルが着任した時には、内科医出身で既に22年間学長を務めていたレイ・リーマン・ウィルバーが後6年間学長を継続することになっていた。ウィルバーは著名なオランダ人微生物学者のC. B. ファン・ニール、発生学者のV. C.ツイッティーとD. M.ウィッテカー、海洋電気生理学者のL. R. ブリンクスと細胞生物学者のA. C. ギースなど精力的で未来志向の教員を生物学科に採用した。生物学科はロックフェラー財団からの10年間の一括補助金で潤っていたが、ビードルがタンフォードへ移ろうと決心したのは生物学科の若さと活気だった13。ウィルバー学長がビードルのハーバードからの転入の説得に一役買ったかどうかは不明である。おそらく、生物学科長のテイラーとモルガンの義理の息子のV. C.ホイッタカーが主導したというのが本当だっただろう。ビードルが到着した時、パロアルトは市全体が大学行事と大学関係者に注力する典型的なアカデミック共同体だった。

 ビードルに割り当てられた研究スペースは到着次第いつでも入居可能なように改修されていた14。実験室は世紀の変わり目に建てられた建物群のひとつだったジョルダン・ホールの地下にあった。今日の設備の整った実験室とは全く違って、照明はまあまあだが窓がなく、蒸気を通す配管が天井を這うように取り付けられた空間は小さな仕事場ごとに分けられていて、何時でも自由に行き来ができるようになっていた。ビードルのやり方は 「古いスタイルで、何でも自分でやる」 だったから、実験室の何かを変える、例えば壁の色を塗り替えることなど全く念頭にはなかった15。実験室はビードルがスタンフォードに滞在した9年間、自分と大学院生、ポスドク研究者、同僚、訪問者など様々な人間集団のためのホームだった。講義を免除された初年度が終わると、ビードルは次年度の春学期からは比較遺伝学を教え、その後は遺伝学実験も担当した。後に、冬学期に隔年で実験を伴う上級遺伝学コースも担当した(注:スタンフォードはクォーター制で、春学期は3月末から6月初め、冬学期は1月初めから3月末まで)。

 ビードルの到着時にマリオンは既にパロアロトで家を借りていたが、その家はローウェル通りとウェーバリー通りの角で、辺りは 「教授村」 と呼ばれていた。家は大きな古いカリフォルニア・オーク(樫)の木々が日陰を作る田園風の広い平屋建てで、かなりの広さの空き地の一方の端に建っていた。移り住んですぐにビードルは庭を手入れして野菜と花を植え、デービッドと彼の友達のためにバトミントン用の広場を用意した。デービッドは私立のペニンシュラ校に入学し、マリオンはその学校の積極的な協力者になった(注:ペニンシュラはパロアルトと境界を接するサンフランシソコ湾に面した町)。3年生になる前にデービッドは大学キャンパスにある公立小学校の3年次に転入することになったが、多分にそれはマリオンがますます他の教員夫人達との関係を強めキャンパスの活動にのめり込んでいたことが理由だった。

 ビードルは、スタンフォードへ向かう前おそらくウッズ・ホールに滞在した間に、v物質とcn物質の化学的性質を決定する仕事で前進を目指すためには物質の分離と分析に生物化学の専門家との連携が必須だと確信していた。ビードルはウイスコンシン大学の天然物の分離に関する専門家だったW. H. ピーターソン教授とE. B. フレッド学科長に助言を求めた。彼らはシカゴ大学で学部を卒業しウイスコンシン大学でM.S.(修士号)とPh.D.(博士号)を取得したエドワード L. テータムを推薦した。乳酸菌の栄養と代謝に関するテータムの仕事はビタミンB1の構造決定に道を開くうえで大きな役割を果した。博士研究を終えてジューン・アルトンと結婚した後でテータムは1年間ウイスコンシンに残って様々な細菌を用いた仕事を行い、種はそれぞれアミノ酸とビタミンに対する種々の要求性をもつという重要な事実を明らかにした。(注:1936年にテータムはH. G. ウッド、E. E. スネルと共同でミルクのアセトン抽出物中に存在するビタミンB1すなわちチアミンが様々なバクテリア種が要求する必須な栄養素であることを明らかにした。彼らの仕事は糖、アミノ酸、脂質、核酸と並んでビタミンが種を越えて広く生物の生存に必須な栄養素であることを明らかにした点で重要だった。これによって、遺伝解析が容易なバクテリアなど微生物が動物の代謝を研究する際の格好の実験材料となりうることが明確になった。ところでビタミンB1の発見には日本人研究者が深く関わっていた。ビタミンB1を発見したのは東京帝国大学農学部の鈴木梅太郎教授で1910年のことだった。鈴木梅太郎は玄米の米糠からのアルコール抽出物中に脚気に効く有効成分があることを発見し、1912年にドイツの生化学雑誌に発表した論文でイネの属名であるOryzaに因んでこれをオリザニンと名付けた。1911年にはポーランドの生化学者カシミール・フンクが米糠に含まれる化学物質が脚気の原因であることを確認し、1912年にこれをビタミンと名付けた。実は、オランダの医師クリスティアン・エイクマンによって、1897年にニワトリなど鳥類の白米病の予防と治療が米糠の摂食で可能なことが初めて発見されていた。ビタミンという重要な新しい栄養素発見の栄誉は1929年のノーベル生理学・医学賞として、エイクマンとビタミンAの発見者であるイギリスの生化学者フェレデリック・ホプキンスに与えられたが、候補者として推薦された鈴木梅太郎は残念ながらフンクとともに選に漏れてしまった。ビタミンB1の単離は1926年にオランダの科学者B. C. ヤンセンとW.ドナートが、構造決定と合成はアメリカの化学者ロバート R. ウィリアムスが1936年に達成した)。ロックフェラー財団のフェローシップを得たテ−タムはオランダのユトレヒト大学のF. コーゲル教授のもとでポスドクとして研究する機会を手にしたが、溶血連鎖球菌の栄養要求性を決定するプロジェクトは菌の要求性の複雑さから失敗に終わった。経済不況がまだ続いていた中で職を得る機会は限られていたが、テータムには今は新たな職場を探すべき時だと分かっていた。

 ビードルはウッヅ・ホールからテータムに手紙を書いて化学者が必要だと訴えた16。ピーターソンとフレッドからはアイオワ州立大学かウイスコンシン大学の方がスタンフォード大学より条件がいいと勧めたられたうえ17、父がスタンフォードでの将来性を心配したこともあったが、テータムはビードルの誘いを受けて秋学期から年俸2,000ドルの研究助手として働くことになった18。ビードルはマリオンが月額40から50ドルの適当なアパートをテータムと家族のために準備すると約束した19。ビードルはテータムをv、cn物質の分離と同定のために必要な並外れた経験と技術を持つ人材と見ていたから、テータムには遺伝学の素養とショウジョウバエの経験がないことを全く気に留めなかった。テータムも、よく知らない生物相手の仕事にも準備の全くない領域の仕事にも怯むところがないようだった。ビードルが次の段階の仕事にテータムを選んだことは、モルガンがショウジョウバエの仕事を始める際にスターテバントを選んだことに匹敵するまさに先見の明に富んだ選択だったことが後で明らかとなる。

 エフルッシもv、cn物質の同定を目指すのなら経験のある化学の専門家が必要なことをよく理解していた。1937年春にパリへ戻った彼は、生物物理化学研究所(IBOC)のR.ブルムザー教授と何年間か共同研究をしていた化学者マダム・イボンヌ・クォービンを雇用した。彼女は9月半ばにエフルッシの研究室に加わったが、それは丁度テータムがパロアルトに到着したのとほぼ同じ時期だった。エフルッシの筆頭研究助手としてクォービンが担った役目は、エフルッシがv, cn 「ホルモン」 と呼び始めていた物質の分離と同定のために必要な日々の努力を方向づけることだった。フルッシとビードルはv, cn物質を表現する際にホルモンという術語を用いたが、それは両物質が一般にホルモンがもつ性質、すなわち、合成された場で(in situ)作用するか又は合成後に他の組織に拡散あるいは輸送されて働く性質をもつと考えたからだった20

 ビードルとテータム、エフルッシとクォービンのチームは、大西洋を越えた手紙と論文原稿の驚くほど頻繁な交換を通して互いの実験結果を共有する、いわば 「競争的共同」 を次の2年間継続した。情報交換によって発見と予備的な観察が互いの間で確認され、解釈と推測に関する意見が自由に述べられた。v, cn物資を測定する技術の改善はすぐにそれぞれの実験に応用され、眼色の発達に影響する特に有用な突然変異を示すショウジョウバエのストックはカリフォルニアからパリへ頻繁に発送された。エフルッシはビードルを励まして、関連リプリントを発送する際には自分の未発表の発見を自由に引用しても、結果の記述を含めてもかまわないと伝えた21

 彼らの間には、こうした自由で寛大な交流を認め合いながらも、それぞれが主導的に研究を進め独立して論文を発表してよいとする合意があった。しかし、誰が何を担当し論文発表の優先権の先取りを避けるためにどのようにそれぞれの貢献を平等に扱うかに関しては懸念を感じることが時折あった。ある時点でエフルッシはビードルに手紙を書いて、 「共同を無理強いするのは好ましくないという貴兄の意見に賛成です。ですから過去のやり方を続ければよい、換言すれば何か意味のあることが見つかればすぐに論文発表すればよいと思います。以前のように、編集者に論文を送るのと同時にそちらに原稿を送りましょう。私はそうした共同の形態が現状では最も便利なやり方だろうと思います」 と伝えた22。しかし、テータムとクォービンが参加してすぐに競争に関するもっと明白な懸念がパリで表面化した。エフルッシはテータムが計画しているv, cn物質の単離について 「明確に定義した」 計画の記述を提出することとクォービンがそれに同意できるようにテータムを説得するようビードルに求めた23。数週間後に、彼はもう一度手紙でビードルに念を押した。 「共同に関する貴兄の提案を切望し待っています。コールド・スプリング・ハーバーで取り交わした私達の会話から、貴兄がご存知のように、私は貴兄が実現可能な計画を提供してくれるなら何時でもそれに賛成で、それは私達皆にとって有益なことだと確信しています」 24。続いてひと月後にまた、 「共同プロジェクトについて返事がないのは何故でしょう?クォービンと私はこの点について大分前にお返事を期待しましたが未だです」 という手紙が届いた25。それでも尚、その間ふたつの実験室はそれぞれかなりの前進を勝ち得ていた。彼らは発生中のショウジョウバエでv, cn物質がいつどの組織で作られるかを確定し、それらの化学的実体について強力な糸口を得ていた。

 始めのうちv, cn物質の化学構造については何の手がかりもなく、どちらの研究室もそれらの検出と定量は生物検定に頼らざるを得なかった。ビードルとテータムが開発したテスターを利用する手法で26、テータムは計量化したv物質あるいはcn物質を含む抽出物を対応する二重突然変異体に注入し、vあるいはcn物質の相対量と眼色の強さの間の数的関係を決めた。テータムの考案した 「眼色チャート」 の真価が発揮されたのは、テスターの眼が幼虫の抽出物に含まれるv、 cn物質の存在に応答するのは抽出物を餌と混ぜてハエに食べさせた時であるというビードルの学生ローの重要な観察のお蔭だった27。こうした改善はすぐにパリのエフルッシに伝えられた。

 二重突然変異のテスター系統を使うことで、パリのグループは酵母あるいはそれから抽出した部分分解後のタンパク質をバーミリオンの幼虫に餌として与えると野生型によく似た眼色への変化が誘導されることを見出した。さらにクォービンとテータムが独立に驚きの発見をしたが、それはバーミリオン突然変異体を飢餓状態に置くと正常な眼色が発達したことだった。彼らは部分分解したタンパク質か飢餓状態に伴って何らかの細胞構成物が分解されて作り出された何かがv物質の生産を導いたのだと推察した。しかし、この着想も彼らをホルモンの化学的実体に近づけることはできなかった28

 テータムは次に、純粋なv、 cn物資を唯一の再現可能な出発材料であった野生型の蛹の熱水抽出物から得る方向に努力を集中した。彼は数千の野生型ハエの乾燥物を材料に、化学的手法で高度に濃縮したv物質の標本を得て、種々の化学的、物理的分析に供した。これでv物質は比較的小さな分子(分子量が440から660)でアミノ酸に似ているとする初期の推測を確認することができた29。しかし、タンパク質の部分分解物から見つかったのは20のアミノ酸のうちのどれだったか?バーミリオンの幼虫にアミノ酸の混合物を与えるとほぼ正常な眼色のハエに成熟した。このデータはタンパク質の20種類のアミノ酸のうちのひとつであるトリプトファンが原因物質であるというヒントを与えてくれたが、結果が振れることからその意義に注目することはできなかった。テータムのトリプトファン・サンプルのひとつが確かに正常な眼色をもたらしたが、その他のトリプトファン・サンプルは同じ結果を与えなかった。うまく行ったサンプルに細菌の混入が確認されたことで、この不一致の理由は細菌汚染だった可能性もあった。微生物学と生化学の専門家としてテータムは、汚染サンプルから分離した未同定のバチルス種がおそらくトリプトファンを活性のあるv物質に変換したのだろうと考えたが、この推量は正しかった30。トリプトファンで育てた細菌培養物から分離した物質はショウジョウバエの蛹から分離したv物質と生物学的な特徴が区別できなかった。生物学的に活性のある物質が結晶化され、さらにその純粋な結晶の性質は幼虫から得たv物質の性質と生物学試験では区別が不可能だった31。しかし、結晶化された物質はトリプトファンではなく類似の別の物質だった(注:第9章の冒頭部分参照)。

 ショウジョウバエの仕事と担当予定の新しい講義の準備に没頭していた間もビードルはスターテバントとともに、1937年の夏にウッズ・ホールで計画した遺伝学の教科書作りに多くの労力を傾注した。その教科書 「遺伝学入門」 はビードルがスタンフォードに着任して2年後の1939年に完成し32、すぐに合衆国での遺伝学の標準的な教科書になり、次代の遺伝学者を引きつける磁石すなわち優れた入門書となった。 「入門」 の語は当時知られていた遺伝学の基礎的事項を理解し易く包括的にカバーしていることを意味した。教科書は、彼らが前置きで述べたように、課題の簡便な取り上げに留まらず、特に問題集は学生に真剣な努力を要求するものだった。同じ時期にショウジョウバエの眼色に関する難問の追求に打ち込んでいた献身的な努力を考えれば、教科書の完成はビードルが一度に複数の問題を解決できる希有な能力の持ち主であることの確かな証明だった。

 眼色のパズルは沸点に達したようで、1939年8月にスコットランドのエディンバラで開催された第7回国際遺伝学会では、ふたつのグループに研究の進展を報告する機会が与えられた。生理遺伝学のセッションの座長を頼まれていたエフルッシは、ジョン B. S. ホールデン、シューアル・ライト、N. W. ティモフェーフ・ロソフスキーと共にビードルを講演者として招待した。パリの研究所で夏を過ごすようビードルを説得できると期待したエフルッシは、ビードルが以前の滞在中にしばしば訪れたモンパルナスの人気カフェーレストラン、ラ・クポラードで交わした科学に関する魅力的な会話をビードルに思い出させようと努めた。しかし会議の日が近づくとフランスで政治的な緊張が高まり、エフルッシはショウジョウバエの眼色に関する仕事を続けることも興味を維持することさえも不可能だと感じた33。一ヶ月後には、二週間以上先の実験を計画するなど無駄なことだと認めざるを得ない状況になった34(注:1938年8月に独ソ不可侵条約が結ばれ、1939年9月1日にはヒットラーのポーランド侵攻に対抗してフランスとイギリスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が始まった。本章の後段を参照)。ビードルには、そのような状況下のフランスで夏を過ごす考えもあったようだったが、いずれにしても彼とマリオンとデービッドはその夏のほとんどをカリフィルニア州ニューポート・ビーチのコロナ・デル・マールのコテージで過ごす計画を実行した。ビードルには父親らしくデービッドと共に過ごす滅多にない時間が楽しみだった35。夏も終わりに近づくと、彼はエディンバラの会議に間に合うよう、フランスの定期船ノルマンディーに乗船して8月16日にニューヨークを出航した。

 会議の準備は多くの問題を抱えていた。1932年夏のイサカの第6回国際遺伝学会議では、次の国際会議は1937年にモスクワで開催するとのソビエト連邦科学アカデミー最高会議からの開催提案が了承されていた。会議の議長はロシアでもっとも情熱的な古典遺伝学の支持者であるニコライ I. バビロフが務める予定だった。バビロフは国際学会の開催はロシアの遺伝学を広く世に知らせルイセンコの実践で生まれたロシア遺伝学に対する嘲笑を取り除く好機だと捉えた。しかし、会議の開催準備が進み世界の科学者からの参加申し込みが受理される中、ソ連の委員会は事前の相談も説明もなしに会議の中止を宣言し翌年の開催を改めて提案した。もちろん、中止決定はバビロフではなくルイセンコと共謀したヴァチェスラフ・モロトフ首相によるものだった。キャンセルの理由は明瞭だった。ソビエト生物学の主導者としてのバビロフの地位が高まることでルイセンコが推進してきた詐欺が明るみに出てしまう恐れがあったからだった。

 ソビエトは、1年延長して1938年に会議を開催する意向を述べはしたが、準備の気配は全く見せなかった。それで国際遺伝学会議の執行委員会はこれをキャンセルし、第7回会議開催の栄誉を1939年夏に英国遺伝学会に与えると提案した。この提案は受理され、スコットランドのエディンバラ大学が開催校に決定した。1538年創立の由緒ある大学でその科学教員組織は、特に遺伝学分野で連合王国最上の研究機関のひとつだった。高い科学的評価に加えて、胸壁のある古い建造物や地域の魅力と英国を囲む政治的嵐から比較的離れた場所にある点は会議の開催地として望ましい条件だった。ソ連の科学者達の気持ちを和らげるために、組織委員会はもう一度バビロフを改めて予定された会議の議長に招聘し、エディンバラ大学動物遺伝学研究所のA. E. クルー教授を大会委員長に任命した。準備と参加登録が夏まで続き、開催日まで一ヶ月を切る直前になって、再びバビロフから大会準備委員会宛に自分を含むソ連の遺伝学者は一人も参加しないと連絡があった。ルイセンコとバビロフの対決は頂点に達しておりバビロフは破れた。バビロフはソ連の報道機関と指導部から不法な似非科学者と非難され、1941年には牢獄に送られて2年後にそこで死亡した。

 ヘルマン J. マラーはそのとき既に世界で最も傑出した遺伝学者の一人だったが、レニングラード(現在はセント・ペテルスブルグ)のバビロフ遺伝学研究所で3年間を過ごしており、ルイセンコへの賞賛がロシアの遺伝学と農業にもたらした壊滅的な被害をよく知っていた。ルイセンコ信奉者の常規を逸した大合唱はますます問題を大きくしたので、マラーは、ロシアによる欧米遺伝学に対する蔑称であるメンデリズムーモルガニズムとルイセンコ主義者が熱烈に支持したラマルキズムを比較するのは 「医学とシャーマニズム、化学と錬金術あるいは天文学と占星術」 を比較するように愚かなことだと断言した36(注:ラマルクはフランスの博物学者で、1809年の 「動物哲学」 で進化に関する最初の包括的な理論‘獲得形質の遺伝’を提唱したことで知られるラマルキズムの創始者。ラマルクは‘生物は前進的に姿を変える能力を備へている’と考えて、個体が後天的に獲得した形質が子孫に遺伝し適応進化の過程を経て種内に広まるとする説を唱えた。これはラマルクの‘用不用説’と呼ばれる。例えば、‘ラクダとキリンは異なる環境に適応して共通の祖先から分化した’と考える。ラクダとキリンの共通祖先は木々の地上に近い部分にある葉を食べていたが、より高い位置にある葉を食べるために首を伸ばし続けた。何世代にもわたって‘長い首’の性質が子孫に伝達することで、現在のキリンが生まれた。ラマルクの考察は獲得形質をもたらす変化の原因に関する考察は不十分であったが、生物の進化は遺伝可能な伝達と環境への適応の結果であるとする概念を導いた点で重要である)。ルイセンコの非正統的な見解に対するマラーのあからさまな批判と彼の政治的な力はソ連当局から好ましからざる人物との疑いを招くことになり、ソ連での研究活動に危険を感じたマラーはエディンバラに逃れて世界大戦の半ばまでそこに留まった。

 マラーとほぼ全員が合衆国とヨーロッパの遺伝学者からなるグループは、彼らが言うところの人類の遺伝的権利宣言を支持するよう国際遺伝学会議に求めた。彼らが作成した 「遺伝学者のマニフェスト」 は人類の改善を目指したラマルキストの教義に虚偽のレッテルを貼っていた。マニフェストでは、その代わりに、人類にとって遺伝的な改善が難しい主要な社会的、経済的な形質が何であるかが特定されたが、彼らが指摘した最も重要な要素は、健康の改善、知性の向上と 「仲間を思いやる感情と個人の成功の助けとなるような社会的態度を好む気質」 だった。マニフェストの提案は、当時隆盛だった優生学が主張した施策、例えば望ましくない形質が蔓延する可能性を減らすための強制的な不妊治療のような威圧的な施策ではなく、遺伝原理を人間の生殖へ応用するにはより人間的なやり方が求められるべきであるとの主張だった。マニフェストには、 「ある種の選択」 を通じて人類の一部に対して遺伝的な改善策を適用することは可能であるとする見解が述べられていた。すなわち、 「より適した遺伝的素質が備わっていて、意識的な選択かあるいはそうした人々の生き方が自動的にもたらす結果としてかに関わらず、他の人々より全体としてより多くの子供を残すことができる人類の一部の人々に対しては選択が可能である」 と彼らは主張した。この考え方には人類の改善方法を見つけたいとするマラーの若い頃からの性向が反映していた。そのような選択は 「何らかの意識的な指導」 すなわち遺伝的改良のやり方に対する厳密な価値評価の方法を一方で求めることになると考えられるが、そうした選択によって奨励されない限りは、市民社会ではあり得ないことだと考えられていた。マニフェストは微妙で柔らかい響きを伴ってはいたが、ある種の優生学への支持の表明であることは明らかで、かなりの議論を巻き起こした。結局、マニフェストには英国と合衆国の21人の遺伝学者が署名したが、その中にはフランシス A. E. クルー、 ジョン B. S. ホールデン、ジュリアン S. ハクスリー、ハーマン J. マラー、ジョセフ・ニーダム、 テオドシウス・ドブジャンスキー、ロリンス A. エマーソンとジャック・シュルツが入っていた37。ビードルについては勧誘されたが署名しなかったのかどうか不明である。

 ソ連と遺伝学者のマニフェストという問題は別にして、第7回国際遺伝学会に対するもっとも深刻な脅威はヨーロッパに吹き荒れていた戦争だった。エフルッシは、ビードルへの手紙で、いつもその危険性に言及していた。ヒトラーはますます金切り声をあげ脅迫的になっていた。オーストリアとともにチェコスロバキアのドイツとの国境地帯にあるズデーテン地方はその地方に住むドイツ系住民の保護を口実に併合された。イギリスとフランスのドイツに対する宥和政策に力を得たヒトラーはチェコスロバキアの残る全土に対する要求を突きつけた。フランスの首相エドゥアール・ダラディエはチェコ人への支援の約束を反古にし、さらに 「私達の時代の平和」 を求めたイギリスの首相ネヴィル・チェンバレンは1938年9月30日の悪名高きミュンヒェン協定でヒトラーのチェコスロバキア奪取の要求に従った。チェンバレンを大いに当惑させたことだったが、ヒトラーはオーストリアとチェコスロバキアの勝利に満足しなかったばかりか、チェコスロバキアの併合後は新たな領土要求をしないという約束さえ守ろうとしなかった。ヒトラーの計画は、第一次大戦の敗北後にポーランドへ割譲されていた領地グダニスク(ドイツ語ではダンツィヒ)の領有権を主張することでポーランド自体への野望を隠すことだった。遺伝学会議の参加者がエディンバラに集まりつつあった8月半ばに、ドイツとソ連が不可侵条約を締結したニュースが世界を仰天させた。彼らの同盟の目的は一週間以内に明らかになった。条約の目的はドイツとソ連が同時にそれぞれポーランドの西側と東側の国境地帯へ侵攻し征服した土地を分割することだった。もしドイツが戦闘を開始すればポーランドを守るために参戦する約束を確認していたイギリスとフランスの政府にとって戦争は不可避だった。イギリスとフランスは、この約束に従って、ドイツ軍のポーランド侵攻の3日後にドイツに宣戦布告した。

 驚くべきことだが、この破局的な事態が発生する直前の8月23日には国際遺伝学会議の最初の基調講演が始まっていた。常設の国際委員会議長だったノルウェーの遺伝学者O. L. モーア教授が事態を報告し、会議の延期と開催地の再決定を提案した。モーア議長は 「極めて深刻な相違にありがちだが、基本的な科学的原理に対する誇張された全く不正確な証言」 が科学上の見解と意見のオープンで偏りのない交換を脅かす環境を生み出していると警告した。彼の主張は以下のように明確だった。科学に政治の影響を持ち込むことは嘆かわしいことであり、 「‘あれでなければこれでない’が表現する意見と議論の自由こそが科学の発達のために必要である」 、またそのような自由がなければ真に国際的な科学的精神を獲得することは不可能である(注:‘あれでなければこれでない’は、事実的な因果関係の前提となる条件を意味するラテン語)。彼は 「基礎的な科学原理を尊重し人類のより大きな福祉の増大に向けた支援を共有しよう」 と会議の参加者に強く訴えた38

  「ギャザリング・ストーム」 が今にも到来することに気づかなかったかのように科学者達は会議を続け、ビードルは会議が始まった一日後に研究発表を行った(第9章参照)(注:Gathering Stormは第二次世界大戦開始前のイギリス首相ウインストン・チャーチルの葛藤を描いた英国放送協会(BBC)と合衆国ケーブルテレビ放送局(HBO)が共同制作したテレビ映画)。その後の一週間で政府の命令を受けたドイツとイタリアからの参加者は帰国し、すぐにフランスと他のほとんどのヨーロッパ諸国からの参加者もエディンバラを離れたが、それにも関わらず残った研究者は会議に参加し活発で有益な議論を行った。会議の議長だったフランシス A. E. クルーを含むイギリスの遺伝学者の何人かは軍隊へ戻って行ったが多くはエディンバラに残った。エフルッシの発表は最後の日に予定されていたが、彼が残ったかどうかは不明である。カナダ人、オーストラリア人、ニュージーランド人、南アフリカ人と125人ほどのアメリカ人遺伝学者達が会議に残ったが、その主な理由は短時日で帰国の目処が立たなかったことだった。およそ参加者の3分の2が去った後で会議は分裂状態となり計画より一日早く閉会が決まった。

 8月29日の解散パーティーでは、 「会議の終了に不満で非協調的な態度をとっていた参加者も、全て良きことには終わりがあるという事実を認めてようやく30日の午前中に去ることになった」 39。しかし翌日には帰国の船便のキャンセルが相次ぎ、次の便がいつ出るかも明らかでないことが分かった。数日後にはドイツとポーランドの国境で戦闘が始まり、イギリスとフランスが参戦した。第2次世界大戦が始まり、最終的に合衆国が参戦した闘いは1945年春まで続くことになる(注:ヒトラーが1945年4月30日に自殺、5月9日にドイツ国防軍が降伏して、ヨーロッパにおける戦争は終了した。日本の敗戦は8月15日)。会議の最終報告は次の悲しみに満ちた声明文だった。 「もし妨害がなかったとしたら、この会議はいつもと同じ心躍る行事で終わったかもしれない。しかし私達を襲った外部状況が会議に特別な意味を与えることになった。同じ興味と熱情をもつ遺伝学者として集った私達は、突然それぞれ強烈に対立した見方を持った個人として振る舞うよう強いられた。そうした要求は私達には受入れがたく、腹立たしく、悲しむべきものだった。この会議の苦い思い出が私達を平和と科学的人間主義へのより熱い心をもった奉仕者に導いてくれることを期待する」 40

 オランダのグローニンゲン大学であったジョン B. S. ホールデンの1940年3月の一連の講演を掲載した本の前置きには、戦争が始まった時に科学者達が直面した困難のありのままな記憶が次のように書かれている41。 「その時、オランダは平和と文化の国でした。今は戦争の波に飲み込まれ、私を歓迎してくれた人々の何人がまだ生きているか、生き残った人々の何人が収容所に入れられているか、私には分からない。生きている友人と亡くなった友人が与えてくれたもてなしに私は感謝を捧げなければならない」 42。イギリス政府の要請に時間を割かなければならず、本に集中する時間を持てなかったことをホールデンは詫びて、 「もし今この本が出版されなかったら、出版されることはもうないだろう。私には原稿に手を入れるだけ長く生きて人生と自由を楽しむことができるかどうかさえ分からない」 と書いた。彼は 「遺伝学研究がもう一度ヨーロッパで将来可能となることを願う」 という言葉で、本の前書きを締めくくった。

 遺伝学会議の後にパリのエフルッシを訪ねるビードルの当初の計画はご破算になった。彼が合衆国へ帰国する際に乗船を予定していたノルマンディー号は予定より早く出発しており、ドイツのUボートの脅威から逃れるために、戦時中は合衆国に残ることになっていたのだった(注:Uボートは潜水艦 「Unterseeboot」 で、第一次、第二次世界大戦で通商の破壊と海上封鎖を目的に配備され、終戦まで連合国側に多大な被害を与えた)。アメリカ人の何人かはリバプールを9月2日に出航した後で他の乗客を乗せるためにグラスゴーとベルファストに寄港する予定のイギリス定期船S. S. アテニア号の乗船券を手に入れることができた。だが、戦争参加国の船を嫌ったほとんどのアメリカ人研究者は合衆国政府が帰国船を手配するまで待つことにした。グラスゴーで足止めされていた科学者グループは、ビードルもその一人だったが、合衆国海事委員会のシティー・オブ・フリント号に乗船することができた(注:フリント号はミシガン州デトロイトの南西にある都市の名を取った船)。フリント号は35人の乗組員と英国製の毛織物と3万ケースのスコッチ・ウィスキーを積んだニューヨーク行きだった。船には乗客を乗せるための設備はなかったが、間に合わせの準備で30人の乗客を乗せることができるようになった。中西部とテキサスの女子学生と10数人のアメリカ人遺伝学者がフリント号に乗り込んだ。

 シティー・オブ・フリント号は、50才前後のニューイングランド人で合衆国商船サービスに勤務し第一次世界大戦の数度の魚雷攻撃を生き延びたジョセフ L. ガイナー船長の指揮下で、9月1日の夜にグラスゴーを出航した。船の両側に描かれた合衆国国旗は安全のために照明で照らされた。9月3日の夜までは全てが静かに過ぎた。だがその夜、船長は全乗組員が緊急の持ち場に着いて救命ボートを準備するよう命令し、乗客全員が救命胴着を身につけて寝るよう支持を与えた。彼は既にアテニア号からSOS信号を得ており、できるだけ多くの乗客を救うためにコースを変えてスコットランドの西海岸沿いの列島群ヘブリ-ズの200マイル西方の海域へ向かった。アテニア号はドイツ潜水艦の魚雷攻撃を受けて今にも沈没するところだった。一時間以内に、シティー・オブ・フリント号は生存者を収容する準備を終え、教授達と女子学生達はマットレスを引き担架と救急医薬品の準備を始めた。アテニア号が連合王国を離れた時には1,400人の乗客と乗組員が乗っていたが、この人数は大西洋航路を走る船の通常の乗客人数を大幅に上回っていた。遭難時の乗客だった212人はアメリカ人で、そのうち10人は遺伝学会の参加者だった。

 シティー・オブ・フリント号が早朝に悲劇の現場に到着した時、月の光に照らされた海面は沈む船から何とか逃れて浮かんでいようと懸命な人々を乗せた救命ボートで一杯だった。フリント号の乗員と乗客達は110名ほどの恐怖におびえた人々をボートと海から引き上げた。さらにおよそ120名がスウェーデン帆船のサザン・クロス号から乗り移ってきた。乗客を乗せる満足な設備のない船に、先の30人と合わせて260人の人々が乗ることになった。最初の数時間は、限りある物資と設備しかない窮屈な甲板の片隅で凍える傷ついた男性と女性、子供のなかでより重傷な者の手当を優先しなければならず、まさに悪夢のような闘いの時間だった。全体で、アテニアの乗員乗客の112人が亡くなったが、そのうち28人がアメリカ人だった43。魚雷攻撃があったのは第2回目の夕食が準備された時だったが、もし乗客が就寝中だったら死者の数はもっと多かったに違いない。

 シティー・オブ・フリント号はカナダのノバシスシア州の州都ハリファックスへ向けて運行したが、それは困難な10日間の旅だった。荒れた海が船を襲い人々の志気を奪った。しかし、乗組員と乗客達の無私の態度は英雄的だった。体力のある者は誰もが余分な衣類や衣装を他に与え、網紐と通常は船を覆うのに用いるキャンパス地でスリッパを作ったりした。食事のサービスは全員の大仕事で、乗員と体力のある者たちが一日3回の食事を8交代で作って後片付けもした。ビードルは自分のキャビンの部屋を遭難者に与えてロープの束の上で寝た。ビードルの大工仕事の技術が大いに役立つことがあった。乗員と乗客に呼び出しの声がかかって避難デッキに簡易ベッドを設置することになった時、ビードルはタールを塗った防水布を支柱の間に伸ばしてハンモックのような簡易ベッドを作って避難デッキに積み上げた。船のラジオから流れるニュースは速記タイプの技術をもつ者が記録し乗客に配られた。時には他の船に引き上げられて生き残った家族や友人の声が届くこともあった。

 巨大な群衆とニュースメディアがシティー・オブ・フリント号のハリファックス入港を待っていた。歓迎され賞賛された船長は次のように語った。 「英雄など一人もいません。いたのは人間か根性の腐った奴かだけでした」 。それに、以前に3回も魚雷攻撃を受けていたので、 「海を荒し回る奴等には我慢がならない」 と付け加えた。皮肉なことに、ヨーロッパへの次の航海でシティー・オブ・フリント号はドイツの戦艦に拿捕されて、ロシア・ムルマンスク州の州都で北極圏最大の都市ムルマンスクに連れ去られてしまう44。生存者達がハリファックスへ上陸した後で、シティー・オブ・フリント号はニューヨークへ向かう航海を続けた。ニューヨークに着くとビードルはすぐに列車に飛び乗りカリフォルニアへ向かった。衣類を乗客にあげてしまい乗員からもらった上着とズボン姿のビードルが手に持っていたのは、船を離れるときにそれを掴みとって女性が渡してくれたカシミアの毛布だけだった45。ビードルは車中で父に手紙を書き、仕事に戻るのが既に一週間遅れているからという理由で、一日でも家に立ち寄って父に会うことができないことを詫びた。彼の体験記には彼が救助で果した役割は何も語られていなかったが、それは9月14日のニュークタイムズの記事とほぼ同じ内容だった46



1. Lloyd Law, インタビュー,January 30, 1997.
2. David Beadle, インタビュー,August 13, 1997.
3. Frank B. Hansonの日記、September 4 and 5, 1937. RFA 205D 7.88.
4. K.V. Thimann and GWB. 1937. Development of eye colors in Drosophila: Extraction of the diffusible substances concerned. Proc. Natl. Acad. Sci. 23: 143-146.
5. Norman H. Horowitz, 私信.
6. Law, インタビュー.
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9. GWB. 1975. Biochemical genetics: Recollections. Three lectures. January 15-17, 1975掲載,The Edna H. Drane Visiting Lectureship, University of Southern California, School of Medicine.
10. Charles V. TaylorからWarren Weaverへの手紙, April 5, 1937. 205D 10.135, RFA.
11. Law, インタビュー.
12. A.H. Sturtevant and GWB. An introduction to genetics. W.B. Saunders, Philadelphia and London, 1940.
13. GWBからEdward L. Tatumへの手紙,July 2, 1937; Joshua Lederberg提供.
14. Law, インタビュー.
15. Norman Horowitz, インタビュー. October 1, 1996.
16. GWBからTatumへの手紙,June 23, 1937; Lederberg提供.
17. W.H. Peterson and E.B. FredからTatumへの手紙, July 2, 1937; Lederberg提供.
18. TatumからGWBへの手紙, July 21, 1937. GWBからTatumへの手紙, July 31, 1937で言及.
19. GWBからTatumへの手紙,July 31, 1937.
20. B. Ephrussi. 1946. Analysis of eye color differentiation in Drosophila. Cold Spring Harbor Symp. Quant. Biol. 11: 40-48.
21. EphrussiからGWBへの手紙, January 9, 1937. Box 1.26, CIT.
22. 同上.
23. EphrussiからGWBへの手紙,November 8, 1937. Box 1.26, CIT.
24. EphrussiからGWBへの手紙,November 29, 1937. Box 1.26, CIT.
25. EphrussiからGWBへの手紙,December 26, 1937. Box 1.26, CIT.
26. Thimann and GWB, “Eye colors in Drosophila.”
27. GWB and L.W.Law. 1938. Influence on eye color of feeding diffusible substances to Drosoplila melanogaster. Proc. Soc. Exp. Biol. Med. 37: 621-623.
28. Y.Khouvine, B. Ephrussi, and S. Chevais. 1938. Development of eye colors in Drosophila: Nature of the diffusible substances; effects of yeast, peptones and starvation on their production. Biol. Bull. 75: 425-446; GWB, E.L. Tatum, and C.W. Clancy. 1938. Food level in relation to rate of development and eye pigment formation in Drosophila melanogaster. Biol. Bull. 75: 447-462.
29. E.L. Tatum and GWB. 1938. Development of eye colors in Drosophila: Some properties of the hormones involved. J. Gen. Physiol. 22: 239-253.
30. E.L. Tatum. 1939. Development of eye colors in Drosophila: Bacterial synthesis of v+ hormone. Proc. Natl. Acad. Sci. 25: 486-490.
31. E.L. Tatum and GWB. 1940. Crystalline Drosophila eye color hormone. Science 91: 458.
32. E.L. Tatum and GWB. An introduction to genetics. W.B.Saunders, Philadelphia and London, 1940.
33. EphrussiからGWBへの手紙,March 17, 1939. Box 1.26, CIT.
34. EphrussiからGWBへの手紙,April 17, 1939. Box 1.26, CIT.
35. David Beadle, インタビュー,June 27, 1997.
36. E.A. Carlson. Genes, radiation and society: The life and work of H.J. Muller. Cornell University Press, Ithaca, 1981, pp. 231-232.
37. 遺伝学マニフェストはJournal of Heredity, September 1939に掲載; コピーがthe Muller Archive in the Lilly Library, Indiana Universityに存在.
38. Otto L. Mohrによる開催基調講演,第7回国際遺伝学会議,August 23, 1939.
39. Proceedings of the 7th International Congress of Genetics, August 23, 1939.
40. 同上.
41. J.B.S. Haldane. New paths in genetics. Harper and Brothers, New York and London, 1942.
42. Haldaneの講演の2ヶ月後の1940年5月にドイツ軍がオランダへ侵攻.
43. The gathering storm, vol 1. Houghten Mifflin, Boston, 1948, p. 423.
44. 同上,p.484.
45. David Beadle, インタビュー, June 27, 1997; Beadleの経験を伝える記念品として毛布がサウンダース郡歴史博物館に現在所蔵されている.
46. GWBからChauncey Beadleへの手紙,September 18, 1939; Wahoo Wasp, September 28, 1939,WAHに掲載.