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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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エピローグ

 過去半世紀の間に生物学は急速な進歩を見せた。生物システムの基本的な枠組みが一旦理解されると、その後の発見はすぐにその枠組みに組み込まれて、たとえ5年前の発見でさえ過去の歴史の一コマのように見えることが多々ある。数少ない例外を除いて、偉大な進歩を実現した伝説的な科学者もすぐに私達の視界から消え失せてしまう。今日では遺伝学者と分子生物学者は多少ともひとつの遺伝子がひとつのタンパク質をコードするという大前提に立って日々仕事を続けているが、ジョージ・ビードルの名前を知る者は多くない。

 詳細に見れば不十分な点があったにしても、遺伝子はそれぞれ特定の酵素(タンパク質)を決定するというビードルの発表は当時の科学界に「爆弾」と言っていいほどの衝撃を与えた。多くの生物学者にはひとつの遺伝子はひとつの機能しか持たないとする提案を受入れることはできなかったが、それは遺伝子の影響は生物の様々な性質に様々な作用を通じて作用すると長年抱き続けて来た見解を生物学者がむしろ好んだからだった。自分達の提案が革新的な性格を帯びたものであることを十分に理解していたビードルには、生物学会が当初は仮説に懐疑の眼を向けるだろうと予想することができた。彼流のいつもの率直さでビードルは議論に正面から応じて、こうした懐疑に対峙した。彼は合衆国中を走り回って科学者達を前に講演を行ったが、その頻度と内容は息を飲むほどの圧巻だった。懐疑論に油を注いだのは、ビードル達が用いた方法論の正当性に対する疑いとアカパンカビが当時はまだ生物学のモデル系とは認識されていなかったことによる。ビードルは仮説の支持者は両手の指の数にも足りないのではないかとふと思うことがあった。遺伝子はそれぞれひとつの酵素ではなくひとつの機能を特定するのだと改めて説明することで自分達の説の意味する所を明確にしようと努めたが、それでも反対の声は静まらなかった。だが、より多くの証拠が集まり彼等の見解の本質的な正しさが確実になるにつれて、批判の声は弱まって行った。

 生物学上の多くの概念がそうであったように、時間が経過し知識が深まるにつれて当初の一遺伝子一酵素仮説には修正が加えられた。タンパク質の多くはそれぞれ異なる特定の遺伝子でコードされる複数のポリペプチドから構成されていることが明らかになるにつれて、一遺伝子一酵素説は一遺伝子一ポリペプチド説に道を譲った。特に真核生物では、遺伝子がポリペプチドをコードする複数のエクソンに加えてアミノ酸に対応した暗号を持たないイントロンを含んでいること、さらに選択的スプライシングと呼ばれる現象によって、ひとつの遺伝子からひとつ以上のポリペプチドが合成されることが今では知られている(注:遺伝子DNAの塩基配列がタンパク質のアミノ酸配列を指令する成熟したメッセンジャーRNAの塩基配列とは異なった配列を持つ事実、すなわち遺伝子がエクソンとイントロンから構成される分断遺伝子であるという事実の発見により1993年のノーベル生理学・医学賞を受賞したのは、英国と合衆国の2人の分子生物学者、リチャード・ロバーツとフィリップ・シャープだった)。遺伝子にはポリペプチドをコードせず機能をもつRNA分子のみをコードするものもある(注:たとえば細胞のタンパク質合成の場であるリボゾームを構成するリボソームRNAや、メッセンジャーRNAの暗号に対応したアミノ酸をリボソームへ運び、遺伝暗号とアミノ酸配列の共直線性を仲介するトランスファーRNAがある)。それぞれの遺伝子はひとつの機能を特定するというビードル自身による改訂版は、ひとつの遺伝子産物が複数の機能をもつことがあるという私達の現在の理解からすれば誤りである。今日では、それぞれの遺伝子はひとつの機能を特定するという説明は、ひとつの遺伝子はひとつ以上の高分子を特定するという説明でより適切に置き換えることができる

 ビードルとテータムのアカパンカビの実験が世に出るまでは、突然変異はもっぱら遺伝子の存在を確定し遺伝の仕組みを研究するための遺伝マーカーとして用いられていた。遺伝学者は生物の観察可能なあるいは測定可能な性質を変化させる自然で無差別な事象としての突然変異に依存して仕事をしていたのであって、正常な野生型の遺伝子は測定可能な存在であるというよりは推論上の存在に過ぎなかった。さらに言えば、突然変異遺伝子と対応する正常なアリルの機能を知らなくても、遺伝子を染色体上の特定の位置にマップしたり、他の遺伝子との連鎖を決定し、世代から世代への伝達を追跡したりすることは可能だった。

 一遺伝子一ポリペプチド説が明らかにした科学的な認識体系(パラダイム)は正常型の遺伝子は機能をもつ単一のポリペプチド鎖の合成を指令すると主張する。従って遺伝子の突然変異型は、機能が損なわれたあるいは不活性なポリペプチドの合成を指令するか、またはポリペプチドを全く作らないかのどちらかであると理解された。今や遺伝学者は遺伝子を3つの観点、すなわち遺伝子は突然変異と組換え(交叉)の単位であるとするそれまでの観点に加えて機能の単位でもあるという新たな観点で見なければならなくなった(注:シーモアー・ベンザーは1961年に、T4ファージのrII遺伝子座を対象にした詳細な遺伝子構造の解析から、遺伝子を突然変異の単位であるミュートン、組換えの単位であるレコンと機能単位のシストロンとして認識できる可能性を提唱した。ベンザーのシストロンは、それぞれ突然変異で変更された機能を両者が共存することで互いに補い合って正常な機能が回復するという相補性で規定される染色体上の領域として認識される遺伝子を指し、特定のポリペプチドの合成指令で規定されるビードルの遺伝子とは概念的に異なる)。遺伝子がDNA領域に対応することが分かると、遺伝子を規定するこれら3つの定義はDNA構造の基本的な特徴であるとして一般に受入れられるようになった。従って、突然変異はひとつ以上のDNA塩基配列の変化、遺伝的組換えはふたつのDNA鎖間の領域の交換、遺伝子の機能はDNA領域の特定ポリペプチドへの翻訳の結果であると理解される。

 遺伝子にタンパク質合成指令の機能を与えたビードルとテータムの提案には、遺伝子が情報の単位であるという4番目の見方が暗黙の内に認められていた。重要な点は、この新しい見方によって遺伝子が物質的実体を獲得したことだった。これによって遺伝学は分子科学へと変貌した。その結果、遺伝子の物理的、化学的性質の発見が遺伝子とタンパク質の関係を理解する上で最も高い優先順位を占めることになった。ビードルは遺伝子作用を理解するには遺伝子の物理的、化学的性質に関する諸々の問題を解決する必要があることを理解していたが、その仕事は他の科学者達に任せた。それまで十分な経験のない分野でも敢えて挑戦することに躊躇することがなかった多才なビードルからすると、これは驚くべきことだった。とういのもビードルはそれまで、興味をそそる遺伝学上の疑問を解決する際には全く異質な生物種でも進んで利用してきたし、それは彼の自信と新しい挑戦への戦闘的な意欲の明瞭な現れだったからである。

 染色体が遺伝情報の貯蔵場所であることは広く知られていたが、遺伝子が染色体を構成するタンパク質であるかDNAであるかについては論争が続いていた。DNAが遺伝子としての性質を持つことを強く示唆する実験的な証拠があったにも拘らず、1940年代にはDNAは遺伝子としての生物学的特異性を説明できないと多くの科学者は主張していた。ビードルもDNAが遺伝物質であるとする考えを支持するデータに注意を向けない傾向があり、むしろDNAは遺伝子であるタンパク質の構造的な支持物質に過ぎないと考えていた多くの科学者の一人だった。このはっきりしない不明瞭な見解は彼の注目すべき科学的直感がうまく働かなかった数少ない例のひとつだったであろう。

 遺伝子がDNAであることが確認されると、この事実からエネルギーを得た新しい研究者達が、X線回折の方法論とモデル構築とを組み合せてDNA構造の探求に乗り出した。DNAの塩基組成が生物情報の貯蔵庫として十分な複雑さを備えていることを示す新しいデータが彼らを助けた。ワトソンとクリックによる1953年の大成功は、科学物語として模範的ではなかったにしても、間違いなく知的な大傑作だった。特筆すべきは、DNAの二重らせん構造モデルがどんな楽観的な期待が予想したよりも多くの情報をもたらしたことだった。このモデルによって、遺伝子機能の本質である遺伝情報の貯蔵、複製と利用の仕組みが明らかになった。このシナリオは遺伝子がDNA分子に沿って並んだ塩基対で既定される個別の特定領域であるという知見を生み出した。一遺伝子一ポリペプチド説は、突然変異型のヒト・ヘモグロビンはタンパク質のアミノ酸が変化した結果生じた産物であるとする証明とともに、遺伝子の塩基配列と対応するタンパク質のアミノ酸配列との関係を直接的に示唆していた(注:遺伝子の塩基配列とそれがコードするタンパク質のアミノ酸配列との間に見られる共直線性と呼ばれる関係は、1963年にスタンフォードのチャールズ・ヤノフスキー達による大腸菌のトリプトファン合成遺伝子のひとつTrpAで明らかにされた)。この共直線的な「遺伝暗号」によって突然変異がもたらす結果に合理的な説明が与えられた。遺伝子の塩基配列の変化がコードされるタンパク質のアミノ酸配列を変化させタンパク質の特性を変えるのである。

 遺伝暗号の解読と塩基配列が固有のポリペプチドに翻訳される仕組みの解明が次の10年間の中心課題となり、一群の「英雄達」を生み出すことになった(注:遺伝暗号の解読が行われたのは1960年から1966年までだったが、フランシス・クリック、シドニー・ブレナー、マ−シャル・ニーレンバーグ、ゴビン・コラーナなど世界の一流の遺伝学者、生化学者、有機化学者達が取り組んだこの6年間は20世紀の科学史の中で最もエキサイティングな研究競争が展開された時代の一つだった。すべての遺伝暗号が解読され遺伝暗号表が作成された1966年はメンデルの論文が発表された1866年から数えてちょうど100年目の出来事だった)。一遺伝子一ポリペプチド・パラダイムの確立で果たしたビードルの業績は過去の歴史となり、ビードルがDNA構造の解明に続く爆発的な進歩をもたらした「大騒動」の直接的な参加者になることはなかった。「中庸で、ナイスガイで、まるで真直ぐな矢」のようなビードルは、恐らく新しい生物学の主流プレーヤーのうちでも特に派手で奇妙な振る舞いをする何人かとは、恐らくうまくやって行くことができなかったのだろう。一方、彼らから見るとビードルは過去から来た「非戦闘員」だったに違いない。

 ビードルの経歴に見られる全体的な軌跡は、過酷で独創的な研究に何年もの間身を捧げた後にギアーを入れ替えた多くの科学者達のそれと似ていた。トーマス・サミュエル・クーンが「パラダイムの転換」と呼んだ発見を人生でひとつ成し遂げた科学者でもう一度それを実現できた人は滅多にいない(注:クーンは、合衆国の物理学者、哲学者、科学史家。1962年の著書‘科学革命の構造’は学術界だけでなく一般に大きな影響を与えた)。クーンのいう「普通の」研究を続ける科学者は沢山いるだろう。例えばモルガンはカルテックへ移った1928年にはすでに遺伝学の主流から離れており、胚発生の遺伝学的な基礎を見いだす必要について広く執筆活動を続けたが、その仕事自体は他に任せた。エマーソンは、コーネル大学院の研究科長の間も教育と自身の研究の継続に努めた。スターテバントとブリッジスは変わらず研究に身を捧げたが、若い時代のような「パラダイムの転換」となる大発見をすることはなかった。デルブリュックは常に他の研究者達に新しいアイデアを供給する泉の役割を果たしたが、最後の数十年は研究が実を結ぶことはなかった。退職した研究者達の多くは、ビードルも同様だったが、彼らのエネルギー、専門知識と立場を他の研究者の支援に振り向けたり、科学教育政策の実現に携わったりした。ビードルはいつも自信に溢れ悠々とした科学者として多くの可能な道を歩んだが、どんな仕事に携わろうと、農民ビードルがいつもそこにいた。家族も大学経営や顧問の仕事も彼をトウモロコシの圃場から遠ざけることはできなかった。彼はネブラスカの農場へ帰ることはなかったが、その地を忘れることはなかった。何処へ行こうと彼はトウモロコシを植えた。そうしたのは、もしも研究のためでなかったとすれば、トウモロコシを育てて、食べて、皆とともに楽しむためだった。

 ビードルは早起きで、疲れを知らず、理路整然と生化学と遺伝学の統合を主張する代弁者だった。彼自身は生化学者ではなかったが、遺伝学の未来が生化学との共同に掛かっていることを明確に理解していた。当時その考えは多くの研究者が共有する見解ではなかった。ファージグループとその追随者の多くは遺伝学にとって化学は重要でないと見ていた。一方で、生化学者達も純粋に遺伝学的な実験に基づく解釈に懐疑的だった。しかし、学部学生時代と大学院生時代にジェームス・サムナーが酵素ウレアーゼを結晶化したことを学んだビードルは、酵素化学と生化学がもつ生物学への意味を理解していた。ビードルとエフルッシのショウジョウバエの眼色に関する実験結果の解釈はまさに化学による解釈だった。それにもちろん、ビードルとテータムの共同研究は今日広く分子生物学と呼ばれる研究の多くを具体化したものだった。遺伝学と生化学が共同する重要さに対してビードルが先見的な信念を持っていなかったなら、分子生物学の支援に熱心なウォーレン・ウィーバーへの大胆な提案にライナス・ポーリングを共同研究者として加えるような決断を下すことはなかっただろう。奇妙なことに、1970年代になってもビードルは多くの講演やレビュー論文で、「分子生物学」ではなく「生化学遺伝学」の術語を用いた。分子生物学という術語は当時すでに広く用いられていたにも拘らず、ビードルとミュリエルが1966年に一般読者向けに書いた本“生命の言語”でも全く使われていない

 カルテックの生物学部門を再建するに当たってビードルは、生物学であれば分野によらず優秀な人材を招聘して生化学と遺伝学をもり立てると確約した。約束が成就したことは、そうした環境から素晴らしい生物学研究が生まれ、優秀で生産的な研究者が輩出されたことに加えて、ビードルが招聘した4人の科学者、マックス・デルブリュック、エドワード・ルイス、レナート・デルベッコとロジャー・スペリーがノーベル賞を受賞したことからも明らかである。化学と生物学の共同により20世紀後半に実現された学術上の並外れた進歩はビードルの見通しが確かであったことの証である。恐らく最も劇的な証拠は化学の進歩がもたらしたDNA操作技術の発展がヒトを含む生物のゲノム解読を可能にしたこと、それによって遺伝学に途方もなく生産的な新しい方法論を提供したことだった。

 遺伝子の生理学的な役割を特定したビードルとテータムの実験は、生物システムの解析に全く新しく強力な実験手段を導入することになった。それまで遺伝学者は観察と測定が可能な生物の表現型を変える自然の無差別な事象に依存して遺伝子の存在を確証してきた。この作戦は特定の生物現象の進行過程に関連した突然変異の同定を可能にした。例を挙げれば、ショウジョウバエの眼の色、翅の構造や交尾行動に影響を与える突然変異は、そうした変異をもたらす特定の段階やプロセスに影響を与えると合理的に推定することができる。同様に、トウモロコシで種子の色や減数分裂の進行を変化させる突然変異は関連するプロセスの特定の様相に欠陥をもたらすとして理解できる。ビードルとテータムは、放射線を照射することで、自然突然変異よりずっと高い頻度で突然変異を誘発し、同一の形質に影響を与える一群の突然変異を含む多くの種類の突然変異体を入手することができた。彼らはそうした突然変異体グループの存在によって、それぞれのプロセスがひとつかそれ以上のタンパク質によって触媒、促進される、すなわち互いに構造的、機能的に関連した多くの連続的な反応の結果として対象とする変異形質が発現することを理解した。例えば、アミノ酸、プリン塩基、ピリミジン塩基、ビタミン、糖や脂肪のような細胞の構成要素の生合成は酵素が触媒する一連の生化学反応の結果である。同様に、アミノ酸の集合によるタンパク質の合成、プリンとピリミジンの集合によるDNAとRNAの合成、糖の集合による複雑な多量体炭水化物の合成を含むプロセスのすべては、複数の特異的な遺伝子群が指令する一連のタンパク質の作用に依存している。

 ビードルとテータムのアカパンカビの仕事が公表されるとすぐに、ビードルの研究室はもとより、突然変異の解析が代謝経路の解析の主要な方法論になった。例えば、突然変異解析は生物がエネルギーを引き出す仕組みの研究の基礎となった。正常なプロセスを変化させる突然変異は、今日では、記憶、学習、視覚、嗅覚など複雑な過程の個々の段階を同定する目的で使われる有効な手段、あるいは胚発生や胎児の発達過程で生物の形がどうのようにパターン化されるか、さらに最近では老化の過程を解析する際の主要な戦略である。一般的には、同一のプロセスに影響する多くの遺伝的に異なる突然変異体を分離し、各突然変異体から明らかとなる各段階がどのような順位で働くことが正常なプロセス全体の進行に必要かを決めることになる。その後は、変化した遺伝子の分離、その完全な塩基配列の決定、遺伝子がコードする生体高分子であるタンパク質の同定と機能の推定に向けた努力が始まる。例えば糖のアルコール変換プロセスのような、酵素の分画と精製に依存した古典的なやり方では40年以上もの時間がかかった骨の折れる生化学的な仕事が、酵母の突然変異解析よれば、それに関わる12種類のタンパク質と関連する個々の酵素反応をずっと短い期間と少ない労力で同定することが今や可能となったのである。

 遺伝子とタンパク質を関連づけることで、人間を含む多くの病気についてその遺伝的基礎を明らかにする可能性が生まれた。突然変異はタンパク質の量と構造への影響を通じて機能に変化をもたらすが、タンパク質のそうした変化が一生の間に自然に発症する人間の多くの遺伝病とガンの原因であると考えられるようになった。皮肉なことだが、遺伝子はそれぞれ特定のタンパク質の合成に必要な情報をもつという40年以上も前のビードルによる発見が、今や彼自身の精神を蝕む特定の病を分子的に理解するための原理的な基礎となった。80才の誕生日の1ヶ月前に行われた標準的な神経心理学テストによる行動と成績の観察によって、ビードルの病は後期発症型(老人性)アルツハイマー病であると診断された

 アルツハイマー病発症例の95%以上は老化と関連しており、80才に近づくと罹患の頻度が急上昇する。多くの場合、明確な原因は不明である。それでも、患者の家系にこの病歴が見つかる場合があり、ビードルの症状が悪化しつつある間にも、特定遺伝子のある種のアリルを持つ個人がアルツハイマー病を発症する可能性を示唆する証拠が蓄積しつつあった。しかし、彼に遺伝した遺伝子がアルツハイマー病の原因なのか、彼の人生で生じた突然変異や障害が発症に役割を果たしたのかを知る方法はなかった。ビードルの先祖に老齢期に発症した者がいた記録はなかったが、70才を前にして死んだ祖先もあったのだから、はっきりとは分からなかった。若年、老年によらずアルツハイマー病の原因はアミロイドと呼ばれる難容性の異常タンパク質の蓄積である。アミロイドは血管と死滅しつつある脳細胞の周囲にプラーク(小斑点)として沈積する。アミロイドの分子的性質、アミロイド形成の遺伝的支配とプラークに沈積したアミロイドの性質に関する理解は大いに進んでいた。しかし今でもなお、アミロイドの毒性についても、あるいはアミロイド自体が毒性の原因であるかについても十分には分かっていない。

 アルツハイマーの診断が下ったのは、ビードル達がすでに18ヶ月を南カリフォルニアのクレアモントとポモナの境にあるマウント・サン・アントニオ・ガーデンで過ごした後だった。ミュリエルは、自分自身の危うさと日々に衰える夫ビードルの能力から、シカゴを離れると決断したのだった。正面からこうした現実に立ち向かいつつ、ミュリエルは家族に手紙を書いた。「私はもう一度心臓発作や脳卒中を起こすかも知れないし、それでも死ねないかも知れない。私は生き残って酷く衰弱して、ジョージやバーネットにできる限界を超えた長時間の苦労をかけることになるのではと気がかりでならないのです」。それでも、温暖な気候と慣れ親しんだカリフォルニアはミュリエルには魅力的な土地だった。すでにマウント・サン・アントニオ・ガーデンに定住していたカルテック時代の古い友人の勧めでその地を見学した彼女はそこを定住先に選んだ。その地域は田舎や郊外の小規模で小綺麗な建物であるコテージやアパートが点在する4ブロックの広さをもつ公園のような一帯で、医療と娯楽用の野外施設があるうえに、公共のバスサービスを利用して近隣の地域社会やロスアンジェルスへの移動にも便利だった。かなりの経済的な負担はあったが、それも何とかなる範囲だった。問題はコテージの建設が遅れていて、もう2年待たなければならないことだった。

 シカゴで待つあいだも、ミュリエルにはビードルの衰弱が明らかに見えていた。家族への手紙には、「スタンフォードでの様子や、もっと最近のカルテックでの様子をよく覚えている貴方達が今のジョージを見たらきっと悲しくなるに違いありません。すっかり年を取って、髪は白くなって、手足の関節はぼろぼろだし、元気を失い、特に物忘れが酷いのです。それでもジョージ自身が気に病むのはそれだけのことで、自分はいまだに立派な研究ができると思っているのです」と書かれていた。そうするうちに、ポモナで思いがけず住居が手に入ることになった1981年9月には、ビードルに前立腺の腫瘍が見つかった。幸いにも、まだ外科手術や何ヶ月もの放射線治療が必要な転移の兆候はなかったが、カリフォルニアへの転居は先延ばしになった。肉体的な病が精神上の痴呆に拍車を掛けたようで、ミュリエルは「私にはガンより彼の痴呆が心配」と家族に語った。悪いことに、「物忘れが酷く、自分が何処にいるのか方向感覚を失い、言いたいことも言葉で伝えられないなど自分の症状によく気がついているジョージは自分の愚かさを恐れている」に違いないとミュリエルには思えるのだった10。こんな状態にも関わらず、ビードルは手紙を書いて、妹のルースには父の思い出を語ってくれたことへの感謝を伝え11、デヴィッド・パーキンス12とマックリントックへは権威あるウルフ賞受賞のお祝いを伝えることができた13(注:ウルフ賞は1975年に設立されたイスラエルのウルフ財団から優秀な科学者と芸術家に与えられる賞で、マックリントックは‘染色体の構造と機能に対する理解を深めた創造的かつ重要な貢献およびトランスポゾンの発見’で1981年に医学部門賞を受賞した。なお、マックリントックは2年後の1983年に‘可動遺伝因子の発見’でノーベル生理学・医学賞を受賞する)。そんななか、ついにビードル達は1982年2月にカリフォルニアへ引っ越すことができた。

 新しい地での生活に初めは戸惑ったビードルも、花とトウモロコシとテオシントを育てる小さな圃場を庭に得て、近隣の人々に花を育てる手助けをすることができる様になると、そこでの生活にも慣れていった14。一方、ミュリエルはシカゴの友人を失ったことや好きな物書きに打ち込むことができなくなったことを残念がった。シカゴの友人達との交流では楽しむことのできた人種的あるいは民族的な多様性がここにはないと感じたミュリエルには、ポモナの「気難しい」環境はイライラさせるものだった。「断言する者も、品のないジョークをいう者もいない」事に気づいたミュリエルは、彼らは一体どんな日常生活を送っているのだろうと不思議に思った15。結婚生活の30年間を振り返って見ると、ミュリエルにはビードルとの知的な交わりが殊の外懐かしく思えたし、これからの残りの人生をどうやって生きて行こうかと心配せざるを得なかった。「辛いのは自分が一人きりだと思うことなのです」とミュリエルは家族に訴えた16。それでも挫けることなく、ミュリエルは特別な折りには友人達を招いて集まる機会を持ち続けた。ビードルが集まりの意味を理解していたか、彼の回復を願う沢山のカードや手紙が何を意味するかを理解したかは怪しかった。「それでもたまには集まった人々や過去のあるいは進行中の事柄について意味のあるコメントを述べることもできたから会話はまだ可能だったのです」17。そうしたビードルの見かけ上の明晰さも時間とともに失われて行った。以前は「自分の考えを理解可能な言葉で整理して語ることができないことに失望し、怒って咽び泣きし、拳で机を叩いたこともあった彼は、今では静かに笑ったり、両の手のひらを上に向けて肩をすぼめてみせたり、無理な努力を捨て去ったように見えます」18

 1985年の半ばには、ビードルの病状はすでにミュリエルの世話ではどうにもならないまでに進行していたので、彼はマウント・サン・アントニオ・ガーデンの「ロッジ」へ移った。そこで彼は、同じ病の入居者とともに、事実上24時間の密接看護を受けることになった。自宅の庭に通うことができたし、ミュリエルは週に一度はロッジに見舞いに来て食堂で食事をともにすることもあった。新しい状況に気づかなかったのかも知れないが、彼は「心の優しい、協力的な男性のままで、状況の変化を喜んでいるようには見えなかったけれど、それに慣れる様に努めていました」。自分が妻であることをビードルが分かっていると確信できないミュリエルは、2人が離ればなれに生活していることは「家族の中の死」で、「こうした状況がこれまでもこれからも長い間続くのは、死に対する嘲りである」とさえ感じた。「今のようにジョージの精神が少しずつ死んで行くのを見るのは私には堪え難い」。ミュリエルはアルツハイマー病を「終わることのない葬儀」だとみなした19。年齢を重ねることで生じる老衰を恐れたジョン・クィンシー・アダムスがこの病を「究極の死」と称したことがあったように20(注:アダムスは合衆国の第6第大統領で、父は第2第大統領を務めたジョン・アダムス)。

 父の余命が長くないと悟ったデビッドはイングランドからポモナを訪ねた。デビッドは、父は「自分を息子だとは分からなかったけれど、誰かがそこにいること、誰かが心配していることを分かってはいました。私は別れ際に父の体に腕を回して父を抱きましたが、父は拒否しませんでした。私がそうすると以前の父は決まって体を硬直させたものです。私はもう一度父の部屋に2人で戻り、気がかりは何か、人々に降りかかるこんな重荷をどんなに憎んでいるか言って欲しいと父に聞いてみました21

 1988年秋にはビードルはマウント・サン・アントニオ・ガーデンの医療棟に移り、およそ9ヶ月間に及ぶ完全看護の後、1989年6月9日にこの世を去った。ミュリエルの健康状態も悪化し、以前は頑固なほど人の手助けを嫌った彼女も、今では助けてもらうことを喜びながらたった一人の時間を過ごした22。その後ほぼ5年を生き抜いた彼女は、16年前の心臓発作が引き金となった心臓の欠陥が原因で、1994年2月13日に亡くなった23

 彼らの遺言に従ってビードルとミュリエルの遺骨は、他の何人かの学長達の遺骨とともに、シカゴ大学のロックフェラー礼拝堂に安置された。二人はデビッド、レドモンド、ルースとミュリエルの実弟にささやかな遺産を遺したが、ビードルはデビッドの嫡子達にもいくらかの遺産を与えた。ビードルはミュリエルの生活を支えるだけの蓄えに加えて、2年後に亡くなった先妻のマリオンにもかなりの金額を遺した。ミュリエルが亡くなったときに残った資産はデビッド、レドモンドとシカゴ大学に贈られた24

 ビードルの死後に友人達と以前の同僚達が慰霊祭を招集し、カルテックのキャンパスの講堂に集まった25。ミュリエルは病状が芳しくなく欠席したが、デビッド、レドモンドとルースは出席した。二人の息子は父に捧げた追悼の頌徳で、ビードルに「ポップ(親父)」と呼びかけ、ポップは感情的な言葉が好きではなかった」と語りかけた。デビッドは特に、「ポップは、言葉は達者でなかったけれど、音楽は好きで理解していた」と付け加えた。ビードルと最も親しかった同僚達は、彼が生物学部門を世界の指導的な地位に押し上げたこと、そうすることで、ジェームス・ボナーによれば、彼は「生物学の新たな黄金期の幕開けの中心的な存在となった」と語り合った。彼がどんなに自分達の人生と経歴に影響を与えたかを皆が語った。その後すぐに、カルテックとシカゴの友人達はカルテックの生物学部門にジョージ W. ビードルの名前を冠した講座を設立した。

 何年か後にリンカーンのネブラスカ大学の遺伝学・生物材料研究所の竣工式に参加したジェームス・ワトソンは、基調演説でビードルの同僚に対する人間的な心使いを回想しながら、彼の優しさについて繰り返し聴衆に語りかけた26。ワトソンは、若い頃に一度夏にカルテックを訪問した際にビードルが心よく夕食に招待してくれたことを思い出していた。ワトソンがDNAの二重らせん構造を発見して一躍有名になるずっと以前のことだったが、ビードルの聳え立つような科学上の名声を知っていた若いワトソンは、その気取らない人柄とさりげない暖かさをその時に知っただけでなく、ビードルが科学への情熱を共有する者との語らいに本当に興奮している様子を見て、大きな感銘を受けた。ジョージ・ビードルは、彼に会って彼を知った多くの人々の間で、そうした人物として記憶されている。



1. GWB. 1945. Biochemical genetics. Chem. Rev. 37: 15-96; GWB. Genetics and modern biology. Jayne Lectures for 1962. Americal Philosophical Society, Philadelphia, 1963; GWB. 1966. Biochemical genetics: Some recollections. Phage and the origins of molecular biology, Introduction: Waiting for the paradox. (ed. J. Cairns, G.S. Stent, and J.D. Watson). Cold Spring Harbor Laboratory of Quantitative Biology, Cold Spring Harbor, New York掲載; GWB. 1974. Biochemical genetics: Recollections. Annu. Rev. Biochem. 43: 1-13; GWB. 1975. Biochemical genetics: Reflections. Three lectures. January 15-17, 1975. The Edna H. Drane Visiting Lectureship, University of Southern California, School of medicine, CHG掲載.
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18. M. BeadleからR. Beadleへの手紙, March 13, 1997.
19. M. Beadleから家族と友人達への手紙, June 10, 1985. RB
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