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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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プロローグ

 19世紀が終わる頃、「遺伝子」という術語はまだ存在していなかった。その40年ほど前に、グレゴール・メンデルが形質の遺伝に影響を与える「因子」を認識していたが、エンドウマメを使ったその優雅な実験の意味は1900年に再発見されるまでは注目されることがほとんどなかった。しかし、その後の半世紀で存在が広く認識されるようになった「因子」は「遺伝子」と名づけられ、科学としての遺伝学が誕生した(注:遺伝子は1909年にデンマークのウィルヘルム・ヨハンセンが命名した術語である)。遺伝学はヨーロッパで生まれたが、遺伝子が果たす生物学上の根本的な役割に関する理解を深めることに成功した研究のほとんどすべては、農業上の具体的課題を念頭に置いた植物育種家と発生過程を理解しようと努めた生物学者が先導したアメリカの事業として成し遂げられた。この時代には、遺伝子は生物の変化すなわち突然変異とそれによる機能喪失から生じる検出可能な効果によって認識される抽象的な存在に過ぎなかった。メンデルの有名なしわ種子も、正常で膨らんだ種子になることができない突然変異の証と考えられた。遺伝学者は突然変異の同定と変異遺伝子の次世代への伝達に研究の焦点を当てた。彼らは動物と植物の発生、生育、生殖能力、体色と形態など認識できる特徴のすべてが遺伝子によって支配されていることを知った。最も重要な点は、遺伝子が細胞核内に見える染色体と呼ばれる構造の上に位置するという事実を学んだことだった。細胞分裂時に観察される正確に振り付けされた「染色体のダンス」とその結果生まれる卵子と精子がメンデルの遺伝法則の物理的基礎を与えていると考えられた。さらに個々の遺伝子が染色体上の特定部位に位置するという認識が生まれたが、これは概念上の進歩がもたらした最大の成果だった。二十世紀はじめの20年間で得られたこれらの観察結果から遺伝の染色体基礎が確立され、それに続くすべての発展の根拠が準備された。

 しかしそれでも、遺伝子が何からできているかを誰も知らず、遺伝子が生物の特徴や行動に効果を与える仕組みはまったくブラックボックスの中にあった。多くの推論や見解があったが、遺伝子が何で何をしているかを知るための鍵はほとんどなかった。そうした状況にあった1941年に、ジョージ・ビードルと彼の共同研究者達は重大な発見を成し遂げてブラックボックスのふたの一部を開けた。彼らの発見は遺伝子の本質的な働きが酵素の合成指令であることを決定的にした。動物と植物の特性がタンパク質によって決定されること、さらに酵素を含む一つのタンパク質の合成が一つの遺伝子によって決定されることを明らかにしたこの画期的な「一遺伝子一酵素説」によって、その後の遺伝学は大きく様変わりした。「一遺伝子一酵素説」がもたらした重要な結果は、遺伝子が概念上の「指令の小箱」ではなく分子的実在として認識されなければならない点を明らかにしただけでなく、遺伝子が2重らせん構造をもつDNA分子の断片であるというその後に続く発見がもつ生物学上の意義を確かなものにしたことだった。

 一つの遺伝子が一つのタンパク質の合成を指令すること、現在の生物学の言葉では一つのポリペプチドをコードするという結論を導いた実験は、ごく普通のカビの仲間であるアカパンカビ‘Neurospora’を材料に行われた。ビードルは、遺伝子の働きを知るためにショウジョウバエの眼色に影響するいくつかの遺伝子について実施したそれまでの研究に、いわば欲求不満を味わっていた。ビードルとボリス・エフルッシによるハエを使った実験から、遺伝子の突然変異が眼色素の形成を導く連続的な化学反応を阻害していることが明らかとなった。彼らは古典的な方法で同定された複数の突然変異遺伝子を研究対象としたが、眼色素を合成する一連の化学反応系については何の知識も持っていなかった。ビードルは、突然変異はこの系における化学変換を支配するタンパク質触媒(酵素)に影響を与えていると推論したが、化学反応を丹念に辿るのは気力を萎えさせるほどの厄介な仕事であることに気がついた。そこで彼は質問の方向をひっくり返せばうまくいくだろうと思い着く。化学的な欠損が明らかな突然変異を見つけることはできないだろうか?彼の計画は検出可能な栄養要求性を示す突然変異体を得ることだった。このやり方なら、特定の突然変異を化学的に証明済みの特定の機能と関係づけることができるだろう。ハエはそのような実験に都合の良い材料ではなかったが、遺伝的行動と単純な栄養要求性が既知のアカパンカビならそうした解析が可能だった。すぐにビードルと共同研究者のエドワード・テータムは、それぞれ特定の代謝経路が阻害されている多数の突然変異体を集める仕事に着手した。入手した栄養要求性突然変異体は正常なアカパンカビなら合成できる栄養素の合成能力を欠いていた。ビードルはこの結果から、それぞれの突然変異が単一の形質、この場合は単一酵素の性質に影響を与えるとする正しい推論を導きだした。

 ビードルの成功は実験の目的に叶う適切な生物をうまく選んだことによるところが大きい。この点で彼は科学者としての生涯を通じて特定の生物種に執着しがちな研究者達とは一線を画していた。対象生物を変えるときに必要な新しい技術と幅広い基礎知識の修得に少しも恐れを感じなかったビードルは、14年間で研究対象をトウモロコシからハエに、さらにアカパンカビに変えた。他の研究者もついにはビードルの実利的なアプローチに習って、今では特定の生物学上の課題を解決するために適切な実験材料すなわち適切な生物種を見つけようと努力している。

 ビードルは、こうした実験的なアプローチがそれまでまったく別の科学分野だった遺伝学と生化学を融合し生物学に一大変革をもたらす重要な可能性を明確に認識していた。彼は二つの科学を結びつける必要性を多くの文書や講演で指摘し続け、さらにこの確信を結実させる目的でカルテックの生物学部門長としてモデルとなる学科を建設した。その後の20年間の主要な発見により遺伝子の本体はビードルを含む多くの研究者が考えていたタンパク質ではなくDNAであることが明らかとなり、さらにDNAの二重らせん構造、複製の生化学的仕組みと遺伝暗号の分子的実体の発見が続いた。遺伝暗号は遺伝子がどのように特定タンパク質の合成を細胞に指令するかを正確に説明し、さらに「一遺伝子一酵素」概念に化学的、機械的な証明を与えた。二十世紀の終わりには、科学者はヒトゲノムを構成するすべてのDNA塩基配列を決定していた。ヒトゲノムの概要版の作成という並外れた科学上の偉業は、それによってヒトのタンパク質をコードする遺伝暗号の解読とタンパク質の完全な構造予測を可能とした点で重要である。ビードルこそ、ゲノムの解読を可能とする道に私達を立たせた先駆者の一人だった。

 ビードルのアカパンカビを用いた実験は、「一遺伝子一酵素説」の発見に加えて、生物現象の解析に大きな影響を与えた実験アプローチを科学者に提供した。このアプローチの本質は、特定のプロセスを構成するひとつあるいは複数の段階に影響する突然変異の同定を目指す戦略である。そこでは、すべてのプロセスは各段階がそれぞれ触媒作用によって促進される、あるいは少なくとも一つのタンパク質に構造的に依存する多くの連続反応の結果であると仮定されている。例えば、細胞のすべての構成要素と構造の形成過程とその制御はいくつものタンパク質、従っていくつもの遺伝子の作用に依存している。アカパンカビでのビードルの成功に続いて、記憶、学習、視覚、嗅覚、さらに受精胚と胎児の発達のような複雑な過程ですら突然変異体を用いた解析が実験的アプローチの主流となった。一般的には、同一のプロセスに影響する遺伝的に異なる多くの突然変異体を分離した後で、生化学と細胞生物学の手法を用いて正常な遺伝子産物が働く順序が決定される。いったん遺伝子が特定のプロセスに関与することが分かれば、その後は突然変異遺伝子と突然変異タンパク質の同定からタンパク質機能の決定に向けた研究に努力が注がれることになる。眼の形成、筋肉の構築と体内時計の性質や性的二系の遺伝的基礎の解明などはこうしたアプローチが成功した例である。

 ビードルの物語は私達に、初めは不運だったが後に成功を収めた合衆国のヒーロー、例えばホレイショ・アルジャーの本に登場する空想上の人物やエイブラハム・リンカーン、アンドリュー・カーネギーやウィラ・キャザーのような実在の人物達を思い起こさせるだろう(注:ホレイショ・アルジャーは不遇な少年が努力、決断と勇気によって成功を収めるアメリカン・ドリームを描いた人気作家。ウィラ・キャザーは西部開拓時代の辺境を描いた女流作家)。家族の中でただ一人高校に進学しネブラスカ州立大学での自由な教育を受ける幸運を手にしたビードルには、片田舎の父の農場を離れる時、大学を卒業したら農場に戻るのだとの期待があったのだろう。しかし、その聡明さと行動力を知った指導教授達の勧めに従って研究の道に進んだビードルは、教授達が与えた研究課題を遂行する上で父から学んだ実践的な知識と技量が大いに役立つことを知る。教授達はより大きな世界には予想もできないチャンスがあることを彼に教えた。それで知性と精神が呼び起こす科学への期待に惹かれたビードルから農場の影は次第に薄れていったが、心の奥底では農場への思いが消えることはなかった。彼は大学院生としてコーネルに進学しポスドクとしてカルテックで研究生活を送ったが、そうした有名大学に身を置いてなお過酷な大平原の小さな農場で学んだ勤勉な習慣を捨てることはなかった。洗練さと優れた競争力に恵まれた彼は、その時代で最も生産的で刺激的な科学コミュニティーのメンバーとなり、研究能力と管理能力を発揮してカルテックの生物学部門とシカゴ大学という二つの偉大な研究機関の科学者コミュニティーをさらに前進させた。第二次世界大戦後に、遺伝学が核弾頭の備蓄と核実験がもたらす放射能の危険性を評価するための不可欠な手段になった時、ビードルは研究者仲間と協力して国家に対する賢明な勧告を行った。当時は、核兵器にまつわる政治的状況に加えて、冷戦時代の幕開けにあって科学者コミュニティーを蝕んだ科学者に向けられた疑いと不信の申立てが吹き荒れた困難な時代だった。根拠のない申立てに反対する研究者仲間を公に弁護することで、ビードルは彼のもつ常識、公正さと正義への揺るぎない献身という真に人間的な魅力を発揮した。ビードルと共同研究者達が責任を担ったことで国家の公共政策の確定に生物学者が継続して関与する先例ができたのだった。

 ビードルは、中西部なまりの鼻声は言うまでもなく、農民としての自立自尊の精神を生涯決して失わなかった。ハーバードの文化が友好的でないという理由で、そこでの助教授の地位を一年で捨てる若手研究者が一体何人いるだろうか?何人の著名な科学者がワシントンでの重要な政策会議から一日だけ抜け出して庭の手入れのためにカリフォルニアへの往復旅行をするだろうか?大学長とノーベル賞受賞者のうちで退職後にトウモロコシの遺伝学研究のために骨の折れる圃場の仕事に喜んで戻って行くような者が一体何人いるだろうか?ビードルの人間性には微塵も傲慢さがない。ビードルには、知性と名声は科学と大学とすべての人の正義に奉仕すべきだとの強い意識があった。

 本書を書くための探索の過程で、私達はビードルの欠点を見つけようと努めたがうまくいかなかった。彼を好きでない人々あるいは少なくとも彼に敬服しない人々を探すこともできなかった。私達はビードルの内心の思いを知ろうともしたが、これにも失敗した。二人の子息への聞き取りと二番目の夫人ミュリエルが書いた文書も、ビードルの内面を少し覗く助けになっただけだった。彼自身の文章とスピーチ、同僚への手紙や彼らへの聞き取りによっても、同じようにビードルの心の内の核心部分を窺うことはできなかった。私達は、彼自身の言葉ではなく、彼の若き日の農場での経験、教育、研究への道筋と実践的で誠実な指導力こそがビードルを語っていることを理解し、それらをそのままに記載した。

 ビードルの物語は一人の人間の単なる物語を遥かに越えている。それは驚嘆すべき生物学の世紀の中心を占めた一人の巨人の物語である。ごく少数の科学者と抽象的なアプローチで始まった20世紀の生物学にあって、遺伝学研究はヒトゲノムの配列決定や科学界に占める巨大な研究共同体と生物工学産業の繁栄をもたらした。彼の教師達は20世紀前半の偉大な遺伝学者達だったが、彼は20世紀後半に偉大な遺伝学者となる多くの科学者を教え育てた。ビードルは抽象的な遺伝学の世界が今日の分子遺伝学と分子生物学へ移行する時代を生きた歴史の証人であり知的な世紀の架け橋となった人物だった。