水質管理センター回想

初代水質管理センター長 山田浩司

 昭和30年代(1955年代)後半になり日本の経済が向上期を迎え、工業も盛んになると共に大規模化し、国民生活も豊かになるに従い大量生産、大量消費が唱えられ、昭和40年代になると消費は美徳と考えられるような風潮すら見られる状態になって来た。そのような時に先ず石油精製工場の在る地域、或いは火力発電所の在る地域で喘息患者が多発し始め、その原因が二酸化硫黄であることが分かり、大気汚染ということがいわれ始めた。その後に水俣湾で獲れる魚介類を多く食べる人々の中から、奇病患者が多発し水俣病と呼ばれた。その原因が工場廃水中の水銀による海水が汚染されていることが判明した。その後続々と四エチル鉛による大気汚染、カドミウムによる「イタイ、イタイ病」、 BHCによる中毒、PCBによる「カネミ油症」等が発見された。これらの原因物質が何れも天然物でなく、人間活動による人工物質で、それ等による症状は「公害」と呼ばれ、その防止のために法的規制が行われるようになった。大学でも付属病院の排水桝の底の土中から破損した機器のものと思われる水銀が発見された。このようなことが大学等の研究機関や医療関係のような工場に比して量的にはきわめて量が少ない機関も特定施設の指定を受け昭和50年(1975年)秋から法的規制の対象となった。大学は工場と異なり、量こそ少ないが、質、種類的に非常に多様であり、かつ経時的な変化が大きいところに特色がある。

 神戸大学では、社会状況を考えると共に環境保全の点から49年度の概算要求で理・工両学部から別個に薬品類廃棄物処理の施設を要求した。50年になり上述のような情勢となったので、全学組織として「神戸大学環境保全委員会」を学長を長として設け、委員会で全学共同利用施設として「薬品類廃棄物処理施設」を51年度概算要求で要求することになった。51年度予算で設置が認められ、同年度に施・ンは完成した。施設の完成に伴い名称も「神戸大学水質管理センター」と改め全学共同施設として発足した。「薬品類廃棄物処理委員会」は自然科学系学部選出の委員で構成されていたが、管理センターの設置の下部機構として技術小委員会に改めた。

 薬品類廃棄物処理に関する学内規則は改めて検討して処理規則として制定された。

 規則の制定と併行して施設の設置場所、処理装置の選定も急がねばならなかった。設置場所については業務の関係上利便性、付近住民への影響も充分に考慮する必要があり、また予算的考慮もしなければならなかった。設置場所は理・工・農3学部から便利であること、付近住民への影響が少ないこと等と共に当時同年度に建築が行われた、理学部C棟と一体構造とすることが施設部長より提案され、これに決定した。装置の選定については関係学部委員が中心となり、施設部長も加わり行うこととした。当時はまだ廃棄物の処理を行っている大学も少なく、旅費の関係もあって京大、岡山大、大阪府大など比較的近距離の大学からしか情報を集めるしかなかった。ただ、例外的に施設部長のはからいで部長と一緒に筑波の公害研と建設中の筑波大の施設と装置及び処理方針の話を聞くことができた。一方メーカーも工場の処理については多少の経験を持っていたが、大学については充分な知識も経験も持ってはいなかった。委員会では、神戸大学では廃棄物を無機系と有機系に大別して処理することとし、質・量共に変動が多いものを各部局について調査の上、大凡の見積もりをたてて、当時知られたメーカーに大学の見積もりを呈示し各自の計画案を建設費を合わせて提出してもらうこととした。建屋設計もかたまって来たので選別に入ったが、運営後のメンテナンスと残滓の処分についても考慮に入れた。メーカーの提出した計画について審査し、10数社を選び順次ヒヤリングした。その結果無機系2社、有機系1社を選び、更に話を聞くと共に、そのメーカーの装置を設置している大学で装置を処理状況について視察し意見を聞くと共に、そのメーカーの装置を設置している大学で装置を処理状況について視察し意見を聞いた上で、予算を勘案して、無機系装置は現存する三井金属エンジニアリング製、有機系はサンレー冷熱性とすることになった。装置が決定されたので建屋の最終設計を施設部に依頼し、処理規則と処理マニュアルを定めた。予算の関係から建屋は極めて狭く装置の設計装置の設計をにも苦・Jした。一階は処理装置で一杯になり、二階は分析装置を置くスペースも狭く、業務の性質上是非必要な事務室はとれず、実験室は事務室兼用でそこに処理装置のモニタリング機も置いていた。

 職員はセンター設置の伴い技官一名が配置されたが職務の性格から単なる技官では困るので庶務部と接渉して所属は施設部であっても特例として当時の教務職員としてもらった。教官については学長に懇請して、助手一名の借用ができとりあえずの人員が得られた。

 分析用の機器は予算面の制約から、充分に設置できず、処理施設として特殊なものから設置し、理学部化学科のものを利用させて貰った。この中で全学的にもまだなかった蛍光X線分析装置は当時の施設部長の絶大な配慮によったもので、私は今でも深く感謝している。

 処理は他大学では学部指名の指導員を置き処理施設で職員により処理法を修得させて教官、学生を指導しながら処理しているところもあるが、神戸大学では諸般の都合からセンター職員により自衛することとした。処理は当初は装置の試運転を兼ねて、メーカーの派遣員がセンター職員を指導することで始まった。試運転時から本学用として改良すべき箇所が見つかり、また数年経過して修理すべきところも出てきた。これらは逐次改良と修理を行った。また、公共下水道での接続点で必要なところに水質モニタリング用の自動採水装置も設置した。

 センターの分析機器類の購入は、当時は科研費は得難く校費の他は特別設備費に頼らざるを得ず遅々として進まず、予算化されても本体分しかなくアクセサリーはメーカーより借用したことも多々あった。処理費については今のように排出者負担の考え方は浸透しておらず、下水道には終末処理場のあること故研究費から支出する要はないといった考え方も強くやっと排出者負担額は18L当たり500円が認められ、不足額はセンター経費で賄われ、この点からもセンター予算は圧迫された。センターとその仕事或いは環境問題についての広報・PRのために「センター報」といったものの発行は予算的に困難であり、といって学報にもなじまないので各委員がその判断で機会を得て各部局で行うほか無かった。ただひとつ全学的にPRできたのはセンターが学長直属の全学共同利用施設であることから概算要求について部局長会議で直接説明できたことであった。

 概算要求は装置の耐用年数はほぼ10年長く持っても15年と設置時からいわれてきた。その間に廃棄物の様相も変化するであろうし、装置も進歩するので、それに合うように考えた。これらの情報は多くの大学に処理施設が導入されるようになり設立された「国立大学廃棄物処理施設連絡会」(現『大学等廃棄物処理施設協議会』)の場を通して得ることにしていた。しかし会への出張旅費は一名が年1回出席できるだけでセンター長は自分の教官旅費を使った。

 概算要求では装置の更新或いは新設はさりながら、センターが単なる処理のためのサービス機関にとどまらず、環境関連の研究・教育機関である可きであると考え、それにそって職員も少なくとも助教授1、助手1、技官2(そのうち1は教官的な職)として組織の拡充を計り目的達成を目ざした。そのためには建屋と設備が必要となるので敷地については現在の瀧川記念館西側に広くあった空き地を充てることをキャンパス委員会の承認を得た。要求は回を重ねる毎に研究・教育面を強調していた。その為には関連部局との連携を計っていく必要があった。しかし時には県下の国立機関の処理センターとし、環境関連の情報についてのセンターとなることも考えた。学内的には必ずしも独立したものではなくても環境関連の学科等が新設されその付属機関であってもよいと考えていた。しかし、私の在職中は公害問題は解決したという風潮もあり、現在のように環境問題が国際的に取り上げられる時代ではなかった。

 現在はますます人間活動による環境問題が重要になり、国連でもとり上げられ国際会議も屡々開催されるようになっている。大学でも処理施設が処理にとどまらず、環境安全研究センター、炭素循環素材研究センター、省資源省エネルギー研究センター、環境化学センター等と名実共に内容を変えて来ている。聞くところによるとWHOの研究機関が神戸に設置される由である。

 神戸大学水質管理センターも設置22年を迎えるに当たって、関係者皆様方がセンターについて改めてそのあり方について充分に検討を加えられ、想いを新たにしたセンターを創建、神戸大学を特色ある機関に発展させると共に大学としてユニークなものとなることを管理センター創設に関わったものの一人として希求してやまない。