乙藤洋一郎のチベット行報告記

神戸大学東チベット学術登山隊に参加して
調査地域:チベット高原東部
期間:2003年9月〜10月


1986年当時世界で未踏の最高峰だったクーラカンリ(7554m)の登頂に成功した神戸大学山岳会と山岳部は、21世紀の最初の目標に、東チベットのルオニイ峰(6805m)を選びました。2002年6月、平井一正工学部名誉教授の粘り強い交渉のすえ、神戸大学山岳会はルオニイ峰登山の許可証を勝ち取りました。ルオニイ峰登頂成功へむけて、神戸大学山岳会は行動を開始しました。大学の登山隊であることから学術隊をもつくり「神戸大学東チベット学術登山隊」を組織し、登山実現に挑戦することが決定されました。

私は平成14年から「アジア大陸東部の大陸変形現象を古地磁気学よりさぐる」の課題名で科学研究費の補助金を受け、アジア大陸東部を研究対象域にして研究をおこなっていました。しかし、チベットの調査をするには補助金だけでは調査費用に不足をきたし、調査に行けないくやしい思いをしてきました。そういうおり、ルオニイ峰登山に学術登隊を組織するとのニュースは願ったりかなったりで、私が山岳部の部長をしていることから学術隊長の話しが私に回ってきましたのでよろこんですぐに引き受け、学術登山隊に参加することになりました。

学術隊長になると最初にもっともらしい研究目的をつくることが要求されます。しかし今回はすでに科学研究費の課題を考える際に研究目的についてはできあがっているので、あとはチベットで満足できる調査を行う方策を考えるだけでした。調査は高度3500mをこえる高原で行います。調査にとっての大敵は高山病です。高山病は死と直結しています。満足できる調査を行うというより、死なないで調査をして元気に帰ってくること、これを実施へ向けた一番大切な問題としました。高山病は、血管から水分がなくなり、血管外に水がたまります。顔が脹れるのはこのためです。悪化すると水は肺にたまり肺水腫に、脳にたまると脳水腫となります。血管の水分が減少すると血液の濃度が上昇し、血栓がとびはじめ、心筋梗塞や脳梗塞がおこります。高山病予防は、血液の濃度を減らすことであり、そのための近道は体重を落とすことです。学術隊員には運動することをすすめ、私はカロリーブックを読んでダイエットにつとめました。私は学術登山隊の派遣がきまって出発までの16ヶ月で12kgの減量に成功しました。調査の成功は約束されたようなものです。

東チベットは、大陸がその形を変える現象をみつけることができる地域です。一億二千年前にインド洋の生成に伴いゴンドワナ大陸から分裂したインド亜大陸は北上運動をはじめ,四千五百万年前にはアジア大陸の南端に達しました.さらに北上を続けたインド亜大陸は,アジア大陸と衝突をしたあともアジア大陸の内部に2300kmもの「めりこみ」をおこしました.衝突と「めりこみ」により,地殻は鉛直方向へもちあげられ,アジア大陸ではチベット高原の隆起が、インド亜大陸側ではヒマラヤ山脈の上昇がおこりました.インド亜大陸の衝突は,アジア大陸の形まで変えてしまったと考えられています.チベット高原から流れ出る揚子江,メコン川,イラワジ川,ブラマプトラ川などの東アジアの大河の奇妙な流れの方向の変化こそが,大陸変形の証拠だと想像する人はたくさんいます.近年のGPSを用いたアジア東部の測量は,形を変える運動は現在もおこっていることをものがたっています.

アジア大陸の変形を世界に先駆けて発見したのは,1986年に東チベットを訪れた神戸大学西蔵学術登山隊でした.Markam(亡康)に分布する白亜紀の岩石の古地磁気に時計回り42度の回転を示す証拠が残されていました.その後,神戸大学をはじめとしてパリ大学,マイアミ大学,チューリッヒ工科大学などのグループが,チベット、雲南,四川,インドシナで,大陸変形の発見を主眼として白亜紀やジュラ紀の岩石の古地磁気研究をおこなってきました.

発見という初期の研究にひと段落つくと,あらたな世代の研究が続きます.アジア大陸に連続体力学を適用して変形現象を論ずることが出来るように、東アジアの広い地域から多くの観測地点を系統的に選定しそれらから古地磁気データをもとめることです.今回の調査・研究はその第二世代の研究の流れに向けた第一歩目なのです.東チベットにおける変形現象はメコン川沿いのMarkamでのみ発見されていましたので,今回はMarkamと,メコン川の上流にある察雅,さらに上流の昌都を、そしてMarkamのすぐ西にあるイラワジ川支流沿いの八宿に調査地域に設定しました.

学術隊は、乙藤洋一郎を日本側隊長とし、井口博夫(姫路工業大学環境人間学部教授:元神戸大学理学部助教授)、三浦大助(電力中央研究所 主任研究員; 1992年修士課程修了)、亀井理依子(神戸大学理学部学生4回生)と中国側隊長の牟伝龍教授(成都地質鉱産研究所教授)を加えた五人から構成されています。中国政府とチベット政府は、チベットにおける外国人の滞在に目を光らせており、チベット政府連絡官(普布多吉氏)の帯同を要請しました。

2003年9月7日に日本を出発した学術隊は翌日には成都を出発し,9月10日にはもう最初の調査地域である高度3500mのMarkamに着きました.成都を出て1日目の宿泊地である高度2800mの康定まではなにごともおこりませんでしたが、2日目の宿泊地である高度4000mの理塘に着くと2人の隊員に顔のむくみがでました。利尿剤であるラシックスを半錠のんでいただくと、翌朝には普通の顔の大きさに戻りました。もちろんその夜は排尿でほとんど寝ることもままならなかったようです。9月10日には頭痛等を訴える隊員にバッファリンを投与すると、高山病特有の症状もおさまりました.その後は全員高度に慣れ,快調な調査が始まりました。

調査と岩石採取は次の四カ所でおこないました.

9月11日:Markam:ジュラ紀・白亜紀の地層調査
1986年乙藤が岩石を採取した白亜紀の地層です.かって15個しか採取をしなかったので,より大量の岩石を取るためにジュラ紀層の調査をおこなったところ,岩石ドリルで岩石試料を採取した跡を発見しました.これらはマイアミ大学のグループにより古地磁気のための試料採取がすでに行われた跡だということがわかり,岩石試料採取を断念しました.

9月13日〜9月17日:八宿:後期ジュラ紀〜前期白亜紀の地層調査.
八宿東5kmのジュラ紀の地層中に恐竜の足跡を発見しました.鳥の足跡も多数みつけました.牟教授に聞くと,この地層で恐竜の足跡に出くわすことは希ではなく,発見というにはおこがましいとのことでした.八宿西地区において13箇所で104個,東地区で8箇所64個の後期ジュラ紀〜前期白亜紀の岩石を採取し,広域の研究地域から大量の試料をとることができました.

9月20日〜9月22日:昌都:ジュラ紀の地層調査
北西地域において中期ジュラ紀の地層調査を行いました.南北に褶曲軸を持つ地層が分布しています.褶曲軸の東西両翼の地層から22箇所で176個の岩石試料を採取しました.

9月24日〜9月25日:察雅:ジュラ紀の地層調査
メコン川と察雅のあいだで,中期ジュラ紀の地層の褶曲構造の調査をおこないました.地層の上下が逆転するような激しい地殻変動がおこった場所でした.南北に褶曲軸をもつ褶曲の東西両翼の地層から23箇所で中期ジュラ紀の岩石104個を採取しました.
Markam・八宿・昌都・察雅の調査地域に滞在の2週間のあいだ,快晴の天気と地層の露出に恵まれ,きわめて順調に仕事がすすみました.晴れると暑くてTシャツだけに太陽が雲に閉ざされると羽毛服を着るほど寒くなるチベット特有の気温変化でした。結局56箇所で447個,総重量215kgの岩石試料の採取に成功しました.隊員の顔は紫外線で真っ黒くなっていました。

9月26日以降は昌都の東に広がるジュラ紀の地層や,雀児山周辺の松藩ー甘攻地質ブ ロックの調査をしながら,10月2日成都に戻ってきました.10月2日に成都空港の中国国際航空公司のカーゴ取扱で岩石の運搬を依頼しました.成都ー関西空港間215kg岩石運搬を6792.4元(手数料込み)で契約しました.中国から岩石を持ちだす時には,岩石には経済的価値がないことを証明する書類がいります.ちょうどこの週は「国慶節」のゴールデンウィークなのですべての官公庁は休みで,書類発行は10月6日にずれ込むことになりました.成都出発予定が10月5日だった私たちには困ったことになると思ったものの,さいわいこの書類の発行は私たちの共同研究相手の「成都地質鉱産研究所」が行うことになっていましたので,書類申請・受け取り・提出等を「成都地質鉱産研究所」の牟博士に頼みました.

調査隊は予定どおり10月5日成都をたち,上海経由で10月6日,帰国いたしました.私たちのあつかましいお願いにかかわらず牟教授は書類を税関に提出する約束をはたされ,岩石試料は中国航空貨物で関西空港に10月14日に到着し,10月17日には神戸大学の私の研究室まで無事届けられました.
2004年9月現在、研究室に届いたジュラ紀の岩石の古地磁気の測定がすすめられ,大陸変形の様相を明らかにする研究室内の仕事が始まっています.


BACK

GEOMAG.`s homepage