動物行動における記号の起源 郡司ペギオ幸夫†‡・石川正樹‡ †神戸大学理学部地球惑星科学科惑星大講座 ‡神戸大学自然科学研究科情報メディア専攻科 1.はじめに 記号が使われる状況というのは、人間の記号使用の場合でさえ語ることが困難である。記号とは様々な個物や現象をひとまとめにする容器のようなものだ。容器は通常容れるべきものの属性を厳格に規定するかに思われる。ワイングラスには様々なワインというように。しかし同時に容器は別の使われ方を禁じたものでもない。破産した実業家は、唯一残った高価なワイングラスにタンポポの花を生けることさえあろう。記号は、一方でその使われ方に厳格な規定を強い、他方でこの規定を無効にする。両者の特性は論理的に相容れない。両者が同時に働くなら、我々は記号を認識することさえできないだろうと想像してしまう。しかし、記号は独立性を保ち高い安定性を示しながら、あるとき突然変化し得る。この両義性と時間の関係こそが本質的問題である(郡司, 1999; Gunji, 1997)。 類人猿の研究では文字の使用が直接研究対象となり、研究者は手話やプラスチックの単語を用いて彼らと簡単な対話さえできる。チンパンジーのエリザベスはプラスチックの単語を並べて自分のした遊びを記述するようになった。しかしある場合には、文を作ったあとでその遊びをした (Premack, 1986)。ここでの文すなわち記号は、過去の記述として使われながら、ある場合には欲求の表明として使われている。このような記号使用の恣意性は、欲求の表明を過去の記述といった文の使い方に対する誤りではなく、それが未来に対する記述でさえあることを許容する者がいて初めて理解される。記号を使うエリザベスとそれを観察するプレマックがいて初めて自由に使われる記号が理解される。記号使用という様相は、類人猿に固有な問題ではない。さまざまな動物行動が、受け手へのメッセージを担う行動学的言語であると考えられている(Gould & Gould, 1996)。問題は動物の行動に留まらない。タンパク質のレベルですら立体構造の担う鍵と鍵穴の厳格な関係とその自由、すなわち鍵と鍵穴の関係に選択があるという問題が研究の対象になりつつある(Conrad, 1993)。 本稿では、動物の行動学的言語における記号の問題に関し、記号が使われるという様相を時間との関係において論じていこうと思う。記号論において(例えばHoffmyer, 1996)、記号が使われる様相と記号が起源するという問題は分離できない形で議論される。記号論とはそのようなものだ。しかしこの限りで、我々は進化や発達、記号を使わないレベルと使うレベルといった階層性を受け入れるだけとなる。このとき記号の担う単独の個物と様々な物質の間のコードの起源 (Collier, 1988; Bickhard & Terveen,1996)やコードの変換といった問題は図らずも隠蔽されてしまう。我々は記号と時間との関係を記号論から出発して論じ、記号を認め使う観測者をより積極的に構成しよう。それによって記号の担う志向性を新たな形式で展開し、記号がもつ自由もしくは記号の起源をサインからシンボルへの転回として論じようと思う。記号の様相は、二つの異なる表現すなわち記号存在肯定の否定表現と、記号の自由の有する否定性の肯定表現によって表される。このとき否定・肯定はその操作をする観測者を考慮して構成されるが故に、志向性を担う。シンボルの起源は、両者間の転回として形式的モデルによって構成されることとなる。最終的に、時間の中で記号を語るという研究プログラムによって初めて、動物行動学が動物の心さえ(Bekoff, 1996)、そして人の心や意識さえ(Allen, 1992; Chalmers, 1996)射程に入れられるということに言及しようと思う。 2.出発点としての記号論 生物学の中に主観的選択もしくは志向性を持ち込んだ最初の人間は、ユクスキュル(Uexkull, 1982=1940)であろう。ミツバチも蛾も、各々の動物は世界から必要な個物を選択し、それによって自らにとっての世界を構成する。ユクスキュルは各々の動物にとっての固有世界を環世界と呼ぶ。ホフマイヤーは、ユクスキュルの描像に記号論を見出し、生物学全体を記号論によって再構成しようする(Hoffmeyer, 1996)。記号論とは、記号をあらわす物質とそれを対象化するコードだけでなく、このコードをもたらす観測者を含めた三項関係によってコードの選択を理解しようとする試みである。例えば、記号を表す物質を肌に現われた赤い発疹とするなら、これを麻疹にコードするのは観察する医者である。ここに赤い発疹−麻疹−医者の三項関係が見出される。蛾の環世界においては、ある振動数の音を天敵であるコウモリへとコードする蛾がいて、三項関係が成立している(図1)。 二項関係は、コードを客観的にそこにあるものとみなす。これに対して三項関係は常にコードが徹底して相対的であり、ここに選択するなにものかがいることへの留保を置く。問題はこの「なにものか」である。蛾の環世界の例では、世界を観測しコードするなにものかを蛾と呼んだ。しかし蛾を世界から切り取り三項関係を切り取るなにものかは、観察者である私である。コードを選択するなにものかは、観測者(私)のなかに観測者(蛾)がいる形式をとる。私という観測者で観測者の連鎖が終わるわけではない。私が世界から蛾を切り取ったのも、私以前の誰かがそれを蛾と呼び、私は蛾を世界から切り取る世界に育ち蛾を見つめることに慣れ親しんだがためである。なにものかとは、観測者の無限の階梯となる(Gunji, 1994; 郡司, 1999;最近観測者の文脈で記号論を見直す動きもある。例えばIgamberdiev, 1999a,b)。 要点はここにある。「蛾自身にとっての」という視点を採用しようとする限り、蛾の外に位置すべき観察者の階梯が蛾自身に入り込む。無限の階梯の出発点を主体的私にとるなら、そこに私以外の観測者・他者が不可避的に参入してくる。このことは我々に次のことを想起させる。すなわち私が赤い発疹を麻疹へコードしているという事態は、絶えずこれを否定する他者にさえ開かれていることを意味する。赤い発疹を斑点とコードしていた私は、あるとき突然赤い発疹を麻疹へとコードすることを可能とする。だから、記号を使っている状況は、記号の変化もしくは記号の起源と分離して考えられない。観測者の無限の階梯によってなされるコードの選択は、コードの起源という問題をそれ自体含む過程なのである。ひとたび選択され、それ以降未来永劫に渡って安定であるようなコードにあっては、観測者を問題にする必要などない。 記号を、使用される状況や使用する者において考えるとき、あるとき以降姿をみせる記号の起源が語り得る問題となる。ホフマイヤーはこのことへ注意を払いながらも、積極的に展開することをしなかった。我々は、記号を使用する者や使用する状況を、時間によって展開し、記号の起源という問題について論じようと思う。このとき記号論は、観測者に積極的意味を与えるべく展開される。それは使われる記号の状況を、内部観測として展開することである(Matusno, 1989, Matsuno & Slathe, 1995; 郡司1997, 1999; Gunji & Toyoda, 1997; Gunji et al. 1997)。内部観測論とは、表現されるものと表現されたものの間のコードを観測者による選択の結果であると捉え展開される運動論である。例えば本書においても、北林がアリの道具(細粒の餌の運搬具)使用に言及している(Kitabayashi & Gunji, 1999)。アリによって新たに使われるに至る道具は、いつでもどこでも、ある使用方法に供されるが故に、特定の道具と呼ばれることになる。このような道具が創発される状況において、我々は、道具が突然別の使われ方をする「記号の自由」を認めることとなる。運搬具は「任意の場所、任意の時間において同一である」というだけでなく、任意の使われ方にさえ開かれている。これが記号の自由である。だからこそ、餌の運搬具として使用されていた台は、アリの集団の中で突然別の使われ方をすることさえ起こり得る。アリは運搬台を、巣穴を雨から守る屋根としてさえ使用する可能性もある(北林の実験ではここまで観察していない)。記号の創発は、記号の自由において可能であるがゆえ、変更・解体にも開かれている。本稿で我々が明かそうということは、そういった時間の中の記号の意味である。 3.時間の中の記号 時間の中で理解される記号を、より明確に打ち出しておこう。記号とは、本質的に一個の個物と不定なる複数性との一対多の対応関係である。この関係は、いかなる意味においても一対一の対応関係に還元できない。例えば、郵便番号を同定する計算機について考えてみる。この計算機は、手書きの様々な9という文字を、概念としての「9」もしくは理想的な活字体の「9」と一致させることで郵便番号の同定を人に代わって実現する。ここには理想的な文字「9」と複数の(無限個の)手書き文字9との対応関係が見出される。先の定義に従うなら、計算機は記号を使用しているといってもよさそうだ。そうだろうか? このような計算機は、パターン認識によって9を「9」に一致させる。計算機は仕事を始める前に、「9」を学習せねばならない。様々な手書きの文字9を計算機に入力パターンとして与えるとき、これを変形していって最終的に理想的「9」で安定しこれを出力する。このような変形過程が様々な手書き文字9に対して実現されたとき、計算機学者は計算機が「9」を学習したと言う。もちろん全ての手書き文字に対して変形の仕方が一々違っていたら、計算機の学習はおぼつかない。特定の学習方法(アルゴリズム)が与えられるとき、任意の手書き文字9に対して「9」を出力することが期待される。そのような学習方法がよい学習アルゴリズムと呼ばれる。しかしいかなるアルゴリズムにとっても、与えられる手書き文字9は、数字ではなくパターンである。機械はパターンの意味を読み取れない。だから、いかなるアルゴリズムも9の頭に短い棒が付着したようなパターンを「9」と同定する危険に曝される。このままでは計算機は頻繁に間違いを繰り返すことになろう。 同定の間違いを防ぐ為には、計算機に9の意味を教えておかなくてはてならない。例えば、上に丸があり下に縦棒がついているトポロジーが9であるというように。これによって計算機は人が9とみなさない、しかし9に似たパターンを「9」から排除するようになるだろう。ここで記号の定義にもどってみよう。記号とは、個物と不定な複数性の一対多の関係であると述べた。しかしもはや計算機において、理想的な「9」と手書き文字の集合の関係は、「9」と特定のトポロジーというように一対一の関係に還元される。したがって計算機は決して記号を使っていない(郡司他, 1999)。 翻って人は、先の記号の定義を満足するように記号を使っているのだろうか?ここでe−メールで流行した笑顔の記号、“:−)”について考えてみよう。読者の何人かは、ここに記号の自由の意味を見出したかもしれない。笑顔の口として使用される括弧すなわち“)”は、この記号使用以前の使い方を逸脱したものである。従来は文を囲む為に使われてきたのだから。したがって従来の使われ方において、)と>とは区別されるべきであった。環世界(ユクスキュルの造語>といった使われ方は、端的に誤植とみなされただろう。ところが、笑顔:−)の口だと思えば、それがちょっとばかり尖っていたところで笑顔の用を足す。:−)も:−>も同じ笑顔だと思って不都合はない。 再度、郵便番号同定の計算機について考えてみよう。この計算機の同定する「9」は、決して別の使われ方に開かれていなかった。この計算機に、やはりパターンとして「)」を学習させてみることにすると、笑顔出現の前と後で同一視させるべきパターンの意味を変えてやる必要がある。以前には)と>とを区別し、以後には同一視させるといったように。郵便番号同定の計算機は、郵便番号を同定するという使用状況を限定して使用されるのだ。この計算機は、「9」を高々他の算用数字と区別さえすればよい。だから、手書き文字の集合は、特定のトポロジーで定義でき、「9」と複数の手書き文字の関係は、一対一に還元できたのだ。使用状況の未定義性を考慮して、“)”を計算機に学習させようとするとき、手書きの“)”の集合を、一つの定義によって押え込むことができない。:−)出現の前には、)と>を区別し、後では同一視するというように、使用状況の異なる)の定義は互いに矛盾することさえあるのだから。このとき我々は、理想的「)」と手書き文字)の集まりの関係を、決して一対一に還元できない。個物と不定なる複数性の関係が本質的に一対多であるというとき、術語「不定」には、使用状況の未定義性や時間が含まれることになる。ここにおいて記号論における記号の意味が現われ、コードを観測し使用する観測者の無限の階梯や時間が強く意識されることになる。 4.サインからシンボルへの転回 我々は、記号以前から記号出現という過程を議論する。起源の以前と以後において記号の使われる状況は本質的に変化しない。そこには記号が使われていく運動、記号論的運動、内部観測、が進行するのみである。しかし我々はここに記号起源の以前と以後という断絶を構成することになる。この断絶を構成する為に、以前に使われているものをサイン、サインの使用状況が陽に現われ起源した記号をシンボルと呼ぶことにする。このターミノロジーからすると、第3節ではシンボルが定義された。シンボルは使用の自由を含む一対多の関係として定義された。シンボル以前を構成する為には、シンボルの定義の否定的表現としてサインの運動状況を表現する必要がある。コードと観測者の三項関係を、ある種の否定表現として構成することが要求される。 サインに対して求められるのは、否定形の肯定的意味合いである。これが転じて否定を伴う肯定形が出現したとき、我々はここにシンボルを見出すことになる。この描像を理解する為に、次のような例が読者を助けるであろう。サインとして1、2、..なる数字を考えよう。歴史的に0が発見されるのはそれよりずっと後である。ここでは0の起源をシンボルの起源と考える。0起源以前そこでは「数える」という操作のみが積極的意味を有していたと考えられる。「数えない」という操作は人々の視野に入ることはなく、1、2、..を明示的に構成するために否定されていたことになる。ここでの否定はなにものかの否定ではなく非存在を意味する。やがて人々の視野の外部にあった数えないは、「数えること」の否定としてシンボル化され、「数えない」を数える操作となる。このとき、「数える」の否定を数えるという、否定の肯定的意味がシンボル0となって出現することになる。 サインとしての1、2、..と、シンボルとしての0という区別を導入するとき、両者の間に否定表現の意味の違いが見出されよう。前者における三項関係は、様々な物質(二つのリンゴや二つの石礫)と対象(数字2)なるコードとそれを選択する観測者によって構成される。後者の三項関係は、様々な不在(リンゴがない、石礫がない)と対象(数字0)なるコードとそれを選択する観測者によって構成される。両者の間にこの限りで差異はない。しかし我々はここにサインの運動からシンボルの起源を見出すに当たり、選択する観測者の表現を違った形で与えようというのである。サインにおいて、サインの使用(肯定的意味合い)を図とするなら、図をもたらす地として「数えない」という否定が意味をもつ。サインの使用に対し我々は、否定の宣言によって肯定が選択されるという表現を採用することになる。シンボルにおいては逆に、否定形「数えない」は肯定的意味しか持たない。ここでは様々な物質的状況と対象0との一対多の関係が肯定され、記号の自由の担う否定的意味合いは、むしろシンボルが変わり得る可能性を秘めるという形で潜伏する(Gunji, 1998)。 サインからシンボルへという転回は、肯定の否定的表現から、否定の肯定的表現への転化として描写されることになる。このとき勘のいい読者は、否定や肯定が論理学の中で使われる否定や肯定と異なる意味合いを持つことに気付かれたかもしれない。論理学において否定操作は、公理系ごとに定義される。例えば古典論理という公理系では、二重否定は肯定に一致する。これが肯定の否定的表現とみなされることになる。二重否定という操作自身に、観測者(無限の観測者の階梯)による選択や、その表現自身のもつ志向性はない。これに対し我々は、否定の肯定的表現によって、以後の運動を選択する志向性を表そうとする者である。次の例は、これを理解する一助となろう。ある研究会で、著者の一人は養老孟司氏から次のような質問を受けた。 「君の言っている否定の肯定的意味合いというのが解りかけてきている。そこで次のような場合について問おう。僕は蝶の採集が好きで、筑波山にある蝶がいるかいないか気になっている。今のところその蝶を発見できない。しかし、筑波山にその蝶がいないという否定の証明ほど大変なことはない。否定を肯定的に理解する以前に、否定の確定ほど困難な作業はない。これをどう思う?」 著者の一人は概ね次のように答えた。 「否定や肯定を、否定や肯定をする人(観測者)から分離して考えるとき、否定や肯定されることを待つ客観的問題が存在することになる。客観的問題は観測者と無関係に、誰もが同じ解答を得られるものとして、証明されるべきステータスを持つ。しかし観測者が積極的に寄与する状況というのは、観測者が証明することと観測者が勝手に決めてしまうことの間の区別が困難な状況である。すなわち養老さんは、客観的証明のつもりで、しかし自ら「筑波山にその蝶はいない」と決定できる。この決定によってあなたは、すぐさま別の山に採集に出掛けられるし、むしろ否定の決定自体が、別な山への志向性を担っている。否定の肯定的意味合いとは、観測者の存在する決定・選択過程に認められる志向性のことである。」 養老氏はこれを受けて「わかった」と返答した。 観測者の無限の階梯としての観測者、これを俎上にのせるとき、否定の肯定表現や肯定の否定表現は志向性を帯びることになる。ここには運動の継起がある。志向性が決定によってもたらされ、次の運動を駆動し続ける。このとき我々は、サインからシンボルへの転回として、記号の起源を語り得る。 5.文法と言語 ここではサインからシンボルへの転回を、抽象的な数理モデルによって構成してみる(Gunji & Ishikawa, 1999)。サインの運動に関しては、第4節で述べたように否定表現(論理学的な否定操作ではない)が運動をもたらすよう構成する。この運動において、一対多の関係を肯定的に示すシンボルの生成が説明される。否定表現は、運動を駆動する為にむしろ必要不可欠なものである。それは否定表現を追加するというよりも、否定表現を導入しない限り形式に選択操作が現われないという事情による。このことは第3節で述べた記号「9」の問題に関係している。第3節での議論は次のようにも言い換えられる。理想的「9」と手書き文字9の集まりの対応関係は、使用状況の不定さや時間が考慮されない限り、一対一対応に還元される、と。このことはある意味で、形式的・数理的表現の限界を示している。いかに様々な物質と対象の関係に一対多の関係を盛り込もうとしても、通常は一対一対応としてしか表せないというわけだ。この事情をまず正則文法と正則言語認識機械との関係で説明しよう。形式言語の世界で表される両者の一対一対応に対して否定表現を構成するとき、我々の目的であるサインの動態モデルが構成される。 我々はサインの動態モデルの出発点として、以下を考える。このモデルは抽象的とはいっても動物行動のモデルであると想定できる。特に我々は、著者の一人石川が観察しているトゲウオ雌雄間のコミュニケーションからこのモデルを考案した。第一にトゲウオのオスの行動項目がN(ここでは4)項目観察されたとする(図2A中のa, b, c, d)。観察によって行動項目の間には遷移関係が認められ、観察者は図2Aのような行動項目遷移図を描くことができる。ただしここで遷移を示す矢印には実線と点線と2種類ある。点線のような遷移をオスが示す場合、メスはオスから逃げると考えよう。逆に実線の場合は、メスがオスに接近すると考えるのだ。したがって図2Aの遷移図は、オスの行動遷移をメスの反応と対にして表したものとみなすことができる。 図2Aのような行動遷移図は、動物行動学者にとって十分馴染み深いものであろう。実線と点線は、矢印に0か1かのラベルが付され区別されていることを意味する。このような遷移図は、数学的にラベル付き有向辺グラフと呼ばれている。有向辺とは矢印である。辺と辺の間を節と呼ぶ。形式言語の世界では、このような遷移図を正則文法と呼ぶ。辺に付された0か1かの文字を言葉と考えるとき、矢印に沿った動きは、文字列を出力する。例えば、経路a→c→b→b→ cを通過すると、文字列として1110が出力されるであろう。形式言語の世界ではこのような文字列の集合を言語と考えるため、言語を出力する遷移図を文法と呼ぶのである。一般に遷移図は有向辺であることやラベル付きであることを要求されず、この限りで文法と呼ばれる。特に遷移図がラベル付き有向辺グラフであるとき、文法は正則文法と呼ばれる(Hopcroft & Ullman, 1979, Walters, 1991)。 正則文法によって出力される文字列全体の集合が、正則言語である。このとき正則言語を認識する機械的装置を、再度、有向辺グラフの形式で表すことができる。これを有限状態認識機械(略して認識機械)と呼ぶ。認識機械は、有向辺グラフではあるが、矢印に沿って経路を選ぶとき開始する節が唯一個に決まっている。正則文法の場合、ある文字列を出力する経路を考えるとき、経路の出発点としてどの節を選んでもよかった。認識機械は正則言語を判断する機械であるがゆえ、始点が機械的に決まっていないといけないのだ。この始点から出発した認識機械のいかなる矢印も、正則文法で表されたある行動項目から別の(同じも含む)行動項目への遷移を意味するように有限機械は構成される。したがって有限機械の始点である節は、行動項目全てを要素とする集合によって表される。図2Aが正則文法として与えられている場合、認識機械の始点は、集合A={a, b, c ,d}で表されることになる。正則文法上の、aから0を出してdへ至る矢は、Aから別の集合Bへの矢印として表される。だから、ここでの集合Bは少なくともdを要素として含むと考えられる。集合Aから0を出力して到達する節を考えるには、Aの要素全てについて一々調べてやればよい。その結果、b以外の全ての要素に対して0を出力して到達可能であるとわかり、B={a, c, d}であると決定できる。認識機械において、いまや0は擬似的な関数である。これは、0:A→Bと標記でき、Aの要素に対して0はBの要素を選ぶことになる。例えば0(a)=dのように。ただし全てのAの要素に対してBの要素を選んでいるわけではないので、正式の関数ではない。出力1に関しても同様に、これを関数1として決定できる。こうして始点である節Aからの経路を考えるとき、新しくBが得られ、同様に我々はBから0や1を出力して辿り着く集合を決定することになる。新しく決定される集合がなくなったなら、認識機械は、すべての節から矢印が伸びるラベルつき有向辺グラフとして得られることになる。 図2Aの出力する正則言語を認識する認識機械が、図2Bである。ただしこの図中の節である数字は、正則文法の節であった行動項目a, b, c, dの一部または全部を要素とする集合の名前である。名前Mは、 M = f (a)+2 f (b)+4 f (c)+8 f (b) (1) で定義される。ただしf (x)は、名前Mと名づけられる節上に位置する集合がxを含んでいるなら1を含んでいないなら0を与える関数である。この認識機械はグラフ理論を用いて、より簡単な有向辺グラフに書き換えることができる。ここで節13と12とは、0の矢印と1の矢印の行き先が一致しており、この限りで両者を同一視できる。こうして節を1個減らすことができ、その結果認識機械は、図2Cまで簡単化できる。◎は始点を意味している。 正則文法と認識機械は、各々、文法(創り出すもの)と言語(創り出されるもの)とを意味する。両者の関係は疑いようのない対応関係であると考えられる。正則文法が一個与えられると、ここから上述のような手続きに従って認識機械を唯一個構成できるが、逆は成立しない。この限りで両者の間に一対一対応はない。言語は本質的に文法の経路を連接して構成できる。文法に、矢印の連接を1個の矢印に書き換えて付加すれば、言語が構成できる。この付加を忘れれば言語から文法が構成できる。ここで任意の文法G
および言語L,そして文法から言語への付加操作をF、言語から文法への忘却操作Uを考えよう。このとき言語FGから言語Lへの写像を決めてやると、これに一対一に対応して、文法Gから文法ULへの写像が唯一つ決定される。これは、相対的な文法の意味と相対的な言語の意味とが一対一であることを示している。別言すると、このようなFとUとを採用する限り、文法と言語間の関係は一対一に還元できてしまう。
Fと、正則文法から認識機械を構成する方法は本質的に同じである。 6.サインの動態モデルとシンボルの起源 文法と言語との相対的な一対一対応が表れたところで、サインの動態モデルを構成する準備が整った。文法の出力する可能な文字列の全体が言語であるから、我々は言語を可能態と呼ぶことにしよう。文法に付されたラベルのみから構成される文字列は、可能態の可視化された一部とも考えられるから、我々は文法を実現態と呼ぶことにする。実現態と可能態とは、部分と全体とのモデルとみなすこともできよう。実現態と可能態は各々、理想的な文字「9」とそれが意味する手書き文字9の集合とに対応する。「9」と手書き文字の集合の関係が、状況や時間を考慮しない限り一対一対応に還元されたことと同様に、実現態と可能態とがある意味で一対一対応に落とせたということは、実現態と可能態間のコード決定に状況や時間を取り込む観測者が介在していないことを意味する。したがって正則文法と正則言語だけではサイン足り得ない。 我々の最初の仮定によれば、正則文法(実現態)はトゲウオのオスの行動項目遷移図であった。ここから理解できる可能な遷移の全てが正則言語(可能態)であり認識機械であった。両者間の関係が一対一で一切疑う必要がないとは、観測者が世界に唯一人であると想定することだ。個別的な私やあなたが観測したのではない、ということだ。それはまた好むと好まざるとに拘わらず、観察に供された特定の観察環境や境界条件以外の可能性を考える必要がなく、他の環境条件によっても行動項目遷移図が変化することはない、ことを意味する。以上の理由から、正則文法と正則言語の間にある一対一対応を壊すことによって観測者の介在を陽に構成できる。もしくは文法から言語への変換操作Fとその逆向きの変換Uとの関係を崩してやることが、観測者の介在するサインの存在を肯定するための否定的表現となる。 我々はサインの動態モデルを、図3のように構成した。全ての手続きはプログラム化され、数値実験が行われた。第1段階:正則文法と正則言語を認識する認識機械の間の相対的一対一対応が、仮に認められる。すなわち我々は、観察から得られた行動項目の遷移図(正則文法)G(0)から(最も簡単化した形式で)認識機械を構成する。構成できるということが、文法から言語への変換操作Fとその逆向きの変換Uとの関係を暗黙の内に認めることになる。こうして得られる有限機械をR(0)と呼ぶことにしよう。第2段階:認識機械は始点から出発することで正則文法が出力する言語の中から、特徴的文字列を出力することができる。これは正則文法からは伺いしれない認識機械の特性である。このような文字列表現は、文字の連接、分岐、繰り返しのみを適宜繰り返した形式で表せる。この表現形態が正則表現と呼ばれる。第2段階では正則表現を出力するところまで計算する。第3段階:ここまでの手続きで仮定されていた文法と言語の相対的一対一対応関係(手続きFとUの担う論理的随伴関係)を無効にしてしまう。認識機械を構成する手続きを経由することで、文法と言語とは厳然と区別されたわけであるが、両者を同一視することによって区別を無効にするのである。無効操作こそがサインの肯定的存在に対する否定的表現である。実際には第2段階で得られた正則表現を出力したのは認識機械ではなく、正則文法であったのだと考え、正則文法を書き換えるのだ。得られた正則文法をG(1)と呼ぶ。このとき書き換えにある種の制約を設けてもよい。正則文法を構成しなおすにあたって、有向辺は全ての節間に許されるのではなく、一部にのみ許されるとする。このような可能有向辺の集合が、制約を表すことになる。第1段階から第3段階に至る手続きによって、G(0)はG(1)へと変化する。以後これが繰り返される。正則文法に付随した数字が、離散的に進行する時間ステップである。すなわち任意のt時刻において、G(t)はG(t+1)へと変更され時間発展する。 このモデルはサインの動態モデルであると言い得るだろう。形式的表現では可能態と実現態との間に一対多の関係が認められず、故に観測者の不在が帰結される。我々は形式的に仮定される可能態と実現態との関係を無効にすることで、時間ステップを創り出し時間の中のサインを構成したのであるから。すなわちこのモデルによって、トゲウオの行動項目遷移図がサインとして用いられる運動を構成できる。それは観察者にとってのサインのみならず、トゲウオが行動をサインとして用いる動態をも表している。 サイン動態モデルから示せる事例をいくつか紹介する。まず我々は、制約なしに正則文法を変化させ、認識機械R(t)の時間発展を調べた。ただし行動項目数すなわちグラフの節数はN =10である。特にR(t)の複雑さを示す指標として有向辺と節の数を掛けた値(en)を用い、その頻度(f(en))分布を5万ステップ分の時間発展について調べた。図4は両者の関係を両対数で表示したグラフである。実線は傾き−2.0の直線を表している。両対数表示で分布を表したとき、傾きが−2.0であるなら、累積頻度分布はこれを積分すればよいから傾き−1.0の分布となる。これは定量化できる特性をランク(多い順)にそって並べて得られる、傾き−1.0の分布すなわちジップの法則(例えば都市の人口を多い順に並べ両対数で表示すると傾き−1.0の分布が表れる)に一致した結果である。 ここからシンボルの起源に関して議論しよう。正則文法を変化させるとき、今度は制約を与える。ここでもN =10である。前述したen(認識機械の複雑さの指標)の時間発展を図5に示す。認識機械は複雑さを大きく変化させ、あるときは節が1個の有向辺グラフにまで落ち込んでしまう。しかし時間発展の過程で変化しながらも、認識機械の有向辺グラフはある構造を断続的ながら保存する。図5の時間発展の場合それは図6に示すような部分グラフである。図6の有向辺グラフで認識機械の始点は、左端の節である。ここでは黒丸で示された節に注目して欲しい。黒丸の節へ入る矢印は、全てラベル1の有向辺である(黒丸への矢印をもつ節は斜線で表されている)。黒丸にはラベル1のループがついていて、黒丸から出る矢印は、ラベル0の有向辺のみである。 斜線で示された節すべてを結ぶ経路を考えよう。そのような経路の一部Pを考えると、全ての斜線付き節はPへ到達し得る。前述のように、認識機械における矢印は擬似的な関数である。各節に位置する集合の全ての要素(行動項目)に対して0や1で到達する行動項目が決められているわけはない。このことを利用してうまい要素を選んでやると、二つの異なる経路で到達する要素が一致するものを選ぶことができる。図2Bで経路15→13→6と15→6を考えてみよう。15の要素からaをとると、13へ至るとき出力0が課せられる。だから図2Aよりaは13のdに写されることがわかる。このdは13→6でcに写されることがわかる。今度は経路15→6を考えるとaはcへ写される。この限りで、二つの経路はaに関する限り同じcへ至る。15からa, d, bを選ぶとき二つの経路は結果を一致させる。この限りで二つの経路は交換可能であると言える。さて、最初に選んだ経路Pを考えると、全ての斜線つき節が経路Pへ至る経路と、中心の黒丸を経由してからPへ至る経路を考えると、両者を交換可能とする斜線付き節から黒丸節への経路は1しか存在しないことがわかる。別言すると、斜線付き節を経路Pをみる観測者と考えるとき、それらいずれの観測者のPに対する描像も、黒丸節である観測者の描像に還元することができる。黒丸節は、この意味で極限であり超越的観測者とみなすことができる。ここには複数の斜線付き節と極限との、一対多の関係がある。我々はここにシンボルの雛形をみることができる。 しかし第3節で強調したことは、個物(ここでは黒丸)と複数のもの(斜線付き節の集まり)の対応関係が決して一対一に還元できないということであった。もし斜線付き節の数が確定されるのであれば、複数性のもつ不定さは意味を失うことになる。我々は経路Pをより弱い何らかの経路と想定して、これに関する経路交換可能性を満たす極限を考えることにする。図7を見て欲しい。ここに挙げたのは、図5の時間発展で認められた認識機械の例である。注目すべきは、斜線付き節と黒丸節によって構成される部分グラフである。この部分グラフは図6の構造と相同な構造をもっているといえよう。斜線付き節から黒丸節へはラベル1の有向辺しか存在せず、黒丸にはラベル1のループが存在し、黒丸から斜線付き節への矢はラベル0である。すなわち斜線付き節と黒丸節とが構成する特異な構造は、節の数を変えながらもあるとき出現し、その後断続的ながらかなり長期に渡って保存されるのである。各時間ステップで現われる部分グラフを同じ構造と考えるとき、我々はここに第3節で述べた定義を満足するシンボルを認めることになる。黒丸へ至る任意の斜線付き節からの矢はラベルに関して唯一つに決定される。この文で言葉「任意の」が意味するのは、斜線付き節の集まりからどの節を選んでも、といった条件である。しかし長時間に渡る部分グラフをみるとき、我々は斜線付き節の集合を予め規定することができない。有限個の斜線付き節でこの集合を規定しようとしても、しばらく時間が経つとその集合に属さない斜線付き節の出現が起こり得る。だから、斜線付き節の集合を単独の言葉で定義することはできず、黒丸節と斜線付き節との対応関係は一対多に留まり続ける。関係は決して一対一に還元できない。 果たして我々は、サインの動態モデルから、シンボルの出現を理解するに至った。ここでサインの動態は実現態と可能態の間のコードを無効にする(広義の否定)操作によって表現された。他方シンボルは、一対多という形式的にはコードと呼べないような、もしくは一対一対応を否定する形式を直接肯定するような動態によって表現された。我々が意図したように、ここには肯定の否定表現から、否定の肯定表現といった転回が認められる。この限りで我々はサインからシンボルへの転回として記号の起源を構成したのであり、記号を時間の中で展開したことになる。 動物行動学の立場から考えるなら、ある正則文法はトゲウオの行動項目をある状況で静的に表現した遷移図である。当然観察にかからなかった別な状況や環境は想定できるだろう。しかし枚挙的に他の可能な状況を挙げていっても際限がない。むしろその際限のなさの中に、動物の可塑性や自律性が隠されていることになってしまうから。我々のモデルは、抽象的な形式ながら、可能な他の状況という概念や観察者が排除してしまう観察外部に言及する。別言すると、環境が決して閉じることはないという様相を展開したモデルである。このときシンボルの生成を目にすることができた。トゲウオの雌雄間行動学の立場から考えると、サイン動態モデルにおける可能態は、他の雌雄対によって実現できるだろう。したがってモデルで構成された可能態と実現態との相互作用は、複数の雌雄対の相互作用で実験的に構成できる。ただし2つの雌雄対に、実現態と可能態の非対称性を明確に与えるような特殊な条件を構成する必要はあるだろう。例えば実現態のモデルとしては未だメスを誘導したことのないオスと誘導されたことのないメスの対を、可能態のモデルとしては熟練した雌雄対を与え、その上で両者の相互作用を実験環境として構成してやるのである。このときモデルから示唆されたように、雌雄対の行動にシンボルと呼び得るような明確な行動言語項目が出現する可能性があるだろう。シンボルは自由を有するが故にシンボルである。我々はうまくすればあるシンボルが出現し、あるとき突然そのシンボルが別な用途・意味で使われるような、そういった現場に実験的に立ち会えるであろう。このとき我々は、動物が行動において担う選択・志向性という問題をシンボル生成という形式で展開できたことになる。 我々が本稿で述べたサインの動態モデルは、実現態(正則文法)と可能態(正則言語または認識機械)の間に隠された一対一対応を無効にすることで構成された。文法から言語への変換操作Fと言語から文法への変換操作Uに着目し、任意のグラフをG, 任意の言語をCと書くことにする。さらにGと別なグラフG’の関係の集まりをX(G, G’), Cと別な言語C’の関係の集まりをY(C, C’)と表記するなら、可能態と実現態の関係は X(G, UC)〜Y(FG, C) (2) で表される。記号〜は一対一対応を示している。我々が採用した、否定表現とはこの一対一対応を無効にすることだった。式(2)は様々な数学表現を抽象化したさいに認められる極めて普遍的な構造である。論理学の無矛盾性証明や完全性証明の関係も(2)を満たすFとUとの関係で表される。この限りで、肯定の否定的表現によって動態モデルを構成しようとするとき(2)は有効である。また(2)を無効にする方法は様々なものが考えられるだろう。我々は既に、集合の直積(二つ並べること)と関数の集合との間の関係(2)を無効にすることで自己相似な関数を変化し続けるサカナの群れの動態モデル(Gunji et al. 1999)や、生物種の進化動態モデル(Gunji & Takachi, 1999)などを構成した。これらは挙動のパターンとして、記号の担う制約と自由といった両義性を示し得た。サカナのモデルでは個体間の親和性・反発性の両義性が時空パターンとして離散的に現われることが示され、群れをつくるサカナが縄張りをつくることさえ有り得ると主張された。進化動態モデルでは、統計力学的モデルでは説明できなかった(例えばBak & Boettcher, 1997)種の寿命分布に始まる様々な指数−2.0のべき分布が説明できた。さらに文法と言語の関係をより一般的な形式で表すとき、我々は同様の手法で計算概念における記号の起源や計算概念の進化を示せた(Gunji & Higashi, 1999)。サインからシンボルへの転回は、生成・進化・個別化の理論を提供する。それは言語や意識という個別化すら射程にいれられる展開となる。 7.むすびまたは動物の心 動物が自らの行動を選択する。もしくは選択の駆動力が動物に内在するといった観点が、近年認知動物行動学において強調されている(Bekoff, 1996)。ここには選択の原動力である志向性を動物行動学の基本的語彙として採用しようという企てがある。物理学において電磁場発見以前、電磁場は実体がないにも拘わらずそれを仮定すれば現象が整合的に説明できるといった概念であった。電磁場と同様の使い方(未定義ではあるが説明体系に組み入れる)を、志向性についても採用しようというのである。しかし志向性を導入しなければ説明できない現象というものを、動物行動学は視野におさめているだろうか?例えばBekoff(1996)が取り上げるのはシメ類(鳥類のgrosbeaks)の夜警行動である。シメ類が直線的に並んでいるとき、夜警行動に多様性はみられない。しかしシメ類が円環状に配列するとき、夜警行動は姿勢や探索時間に大きな多様性を示し得る。また直線的配列では、シメ個体群サイズが小さいと環境変化に対して夜警体制をなかなか回復できない。他方、円環状配列では、夜警体制はサイズによらず短時間で回復できる。すなわちシメ類ではある目的のもとでの多様な選択が、円環状配列によって強調されるというわけだ。Bekoffが指摘するのは、シメ類は天敵を警戒しながら警戒中の他の個体をも同時に観察しているという点だ。円環状配列でこの二重性が強調される。この二重性下で選択するとき、ある目的(夜警体制)を安定化させながら多様な選択が実現されるというわけだ。この選択は志向性によって初めてうまく説明できると主張される。 夜警という目的は記号として認識されているのだろうか?発達の過程で出現可能(現われない可能性にも開かれている)で、現われた後別の用途にも開かれた記号であろうか?現代総合説では、目的論を自然淘汰という歴史の産物として構成する。このとき、ある目的という記号を使う観測者は特定の歴史的経路に置き換えられる。歴史的経路はそれ自体不定さを含むが、社会生物学ではこの不定さを強調することはない。だから記号を使う観測者は観測者の無限の階梯とならず、特定の明確な観測者となる。この限りで我々は議論から観測者という言葉を排除できる。翻ってシメ類の夜警行動はどうか?記号論的に考察するなら、様々な夜警姿勢−夜警−シメ類(不定な観測者)という図式が有効であるか否かが詮議の対象となる。すなわち様々な夜警姿勢−夜警の関係が一対多かどうかという点が問われる。Bekoffの観察において、この関係は本稿で議論したような意味での一対多を想定する必要がなさそうだ。したがって夜警という行動が歴史の産物として遺伝的に決定されており、その中に選択項目として様々な姿勢が用意され、各個体は環境に応じて適宜姿勢を選択するといっても夜警現象は説明できる。この選択は環境を原因として機械的に決定されると仮定して不都合はなく論理的に決定できる。すなわち不定な観測者の選択=志向性は想定する必要がない。 しかし我々は、動物において志向性概念を積極的に展開していこうという研究プログラムに関して賛意を表明する。ただし志向性は飽くまで不定な観測者という概念を射程にいれて初めて俎上に載せられるものであり、記号の起源、サインからシンボルへの転回という立論において構成されるべき概念だと考える。記号の起源とは、個別化の起源という問題である。記号の自由への留保を保ちつつ、記号は不定なる複数性を封緘した個物として振る舞うこととなる。こうして階層構造が出現する。あるレベルで記号化された個物は、さらなる記号化に向けて上位レベルのアトムとみなされる。記号化の継起が階層構造自体を形成する。レベルごとに各々整合的な論理が構成可能であるが、各レベルに渡って存在する運動はサインの動態でありシンボルの起源である。あらゆるレベルにおいて、記号の起源問題はサインの動態モデルから出発できるだろう。すなわちサイン存在の肯定に対する否定表現からの出発である。我々は本稿で、動物行動を題材に議論を始めたが、記号化が物質−自己触媒系−細胞−多細胞生物−意識をもった人間という階層構造まで帰結し得る。だからこそ、あらゆるレベルにおいて記号化を考えるという研究プログラムは、単なるアナロジーではなくなる。生化学物質の基質特異性といった記号の起源や、動物の行動学的言語における記号の起源、意識という一人称の起源は同じ方法論によって議論できる。 意識の困難な問題といわれるクオリア(質感)の起源について考えよう。クオリアとは例えばリンゴの赤の赤らしさというように主観的質感であると定義される。クオリア概念を整理したChalmerth(1996)は、クオリアと志向性を区別せず、例えば次のように言う。「ボブディランがオーストラリアにツアーに来る」と信じることと、希望するということは心的状態が異なる。この違いがクオリアの違いであると。ここではクオリアや志向性は先験的に実在するものであり、飽くまで因果論的説明から漏れるが故に困難な問題であると主張される。しかし我々にとって「希望する」と「信じる」の違いは自明なのであろうか?例え生活の中で自明であっても、この自明性を自明な形で理解することは、意識やクオリアを理解しようとするものの態度ではあるまい。我々は「ボブディランがオーストラリアにツアーに来る」を信じる・期待する、を、「ボブディランがオーストラリアにツアーに来ることを信じる」と信じる、「ボブディランがオーストラリアにツアーに来ることを期待する」と信じる、と書き換えることができ、しかも我々はこの限りでチャルマースの信念内容をいずれかに決定できないだろう。このような議論は分析哲学で徹底的に論じられている(例えばKripke, 1982)。ここで我々とは、当事者であるチャルマースと無関係な傍観者であり客観的観測者の例として登場している。ここから、クオリアは論理学的証明の観点では決定不能性しか帰結し得ないような当事者の概念であると言える。そして同時にクオリアは、当事者にとって証明など必要としないあまりにも自明で必然的感覚である。すなわちクオリアは存在の肯定に関し、否定的表現と不可避に結びついている。クオリアはサインである。すなわち「ボブディランがオーストラリアにツアーに来る」なる発話の決定について論理的証明=決定の否定的表現を構成するとき、次なる決定を駆動する志向性が生まれる。発話の決定において、希望か信じるかのクオリアがもたらされる。それは明示的な志向性さえシンボルとして生成し得るサインの運動である。もし希望するのなら、チャルマースは音楽事務所に手紙を書くなど具体的行動にでるだろう。志向性は次なる運動を継起する。 果たして我々はサインからシンボルへの転回という形式で、クオリア問題さらには意識の起源まで解読可能であろう。もちろん意識の起源に達するには段階的手順を踏むことになる。一つの可能性は一人称の起源である。なぜ「太郎は遊びたい」ではなく、「私は遊びたい」なのか?「私」なる記号は、当事者の世界の中心を指定する極めて行為遂行的記号(Austin, 1970)でありながら、同時に誰でも「私」によって世界の中心を指定し得るといった両義性を担う記号である。中心を指定するには指定される当事者の世界が絶対的でなければならぬ。そうであるにも拘わらず、絶対的世界が複数あること、絶対的世界が同時に徹底的に相対的であることを「私」は含意する。この問題に関しては改めて議論しよう。いまは記号の起源という展開が意識の起源に接近するアプローチ足り得ることを示唆するだけで十分だ。動物の心を考えること、機械の心を考えること、人の心を考えることは同様に解読されるだろう。そのためには記号の起源という展開、肯定の否定表現から否定の肯定表現への転回という切り口が極めて重要なものとなろう。こういった問題を考えていくとき、「肯定や否定をする者は誰か」、という疑問文として常に観測者の問題が惹起される。 引用文献 Allen, C. 1992, Mental content. 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図1 記号論における三項関係 図2 A 有向辺グラフとしての正則文法 B 正則言語を認識する有限状態認識機械C Bを簡約化した認識機械 図3 正則文法と正則言語の関係を無効にするサイン動態モデルの概念図 図4 制約なしのサイン動態モデルが生成した認識機械の複雑さ(辺数と節数の積)頻度分布。 図5 制約付きサイン動態モデルの時間発展。横軸は時間、縦軸は認識機械の複雑さ 図6 図5の時間発展に現われる認識機械の構造。黒丸で示された節、斜線付き節が特異な構造を示す。 図7 図5の時間発展中に現われる認識機械の例。図6と同様の構造を有する。
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