Japanese  English

  Nonlinear Sci. Lab.  

  KOBE University  

■郡司の講演に関する討論

 

 郡司は4月3日以下のような講演を行った。掲載論文は、この講演の最後の部分(全称量化子の議論)を膨らませたものである。そこでここでは、講演内容全体を簡単に再現する。

 講演は、「自明であるが無根拠な区別」をいかに擁護するか、をテーマとした。それを標語的に、「他人を殺してはいけない、と国宝の壷を壊してはいけない」の違いをどう論ずるか、という形で最初提起した。よく言われることだが、他人を殺してはいけないという言明を、論理的に根拠付けようとすると困難を強いられる。もちろん、だからといって「他人を殺してはいけない」が否定されることはない。しかし、この言明を無根拠であるが自明である、と捉え、その否定的表現のみに定位するなら、区別の自明性が相対的であることは認めざるを得ない。とするなら、相対的である以上、国宝の壷を壊してはいけないという相対的言明と、他人を殺してはいけない、との間に本質的差異はなくなる。あるのは、単なる程度の差異となる。果たしてそれでいいのか、が第一の問いであった。

 郡司の立場は、無根拠で自明(したがって自明性の破壊に常に開かれた自明性)な区別を認めることでのみ、新たな、無根拠で自明な区別の生成・起源を語り得るとするものである。国宝の壷を壊すことと、他人を殺めることはまったく違うという区別から考えることは簡単だが、他人の命さえ切り捨て御免が許され、奴隷制度が許されたという時代が確かにあり、他人を殺してはいけないなる言明は、歴史的に出現し、いわば生成されたものだ。したがって、この自明で無根拠な区別を、自明性が失われる可能性に言及せず自明と考える態度は、寧ろ「他人を殺してはいけない」の生成さえ禁止する態度に通ずるものである、というわけだ。現在において自明な言明を生成と捉えることで、結果としての区別と区別を実現する過程の非分離が帰結される。

 無根拠で自明な区別の生成という過程=状態、といった観点は、区別され結果として自明となった状態と、自明とされるに至る選択過程を分離しない、という立場を与える。既にチェックされ消え去った前提は、その実決して消え失せたわけではない。ここでは、結果として自明となったがゆえに無視される前提と、帰結としての区別とが、常に共立している。ここにおいてこそ、生成・起源が語りえるというわけだ。

 その第一の例が、鳥の学習過程において論じられた。生物学にあって、氏か育ちか、という学習・本能論争は枚挙に暇がない。これはその典型的事例である。未加工の牛乳が毎朝宅配されていた頃のイギリスで、ミルク瓶のキャップを開け、分離して表面に浮いた脂肪分を食べるトリが現れた。キャップを開け、中の食べ物を食べるという一連の行動は、手続き的な作業に思える。トリはこんな難しい作業を学習できるほど知能が高い、当初はそう思われた(ここでは後の仮想的実験にあわせて、プルトップの蓋を開けられるトリと仮定する。図1)。

 ところが、このトリは元来、樹木に止まっては樹皮を剥がし、その下にいるイモムシを捕食するトリだったのである。したがって蓋を開けてその下の食べ物を採るという行動は、別に学習され獲得されたものではなく、本能的なイモムシ採取行動の一環だったというわけだ(図1)。

 
    図1左・中:プルトップを開けて瓶の中身を食べるトリ。
         右:樹皮を剥がしてムシを食べるトリ。

 ここで提起される問題は、「このトリの行動は、確かに学習ではなく本能だったのだ、という結論が妥当なのか」、である。瓶の蓋と樹皮とは、異なる物体である。この両者を同じとみなす場合においてのみ、二つの行動は同一規範において成立すると言うことができよう。両者を同じ概念とする概念化は、予め規定されているのか、問題はそう置き換えられる。

    
    図2 学習とは、観測者の概念化の失敗か?

 ここでは図2のような図式化を通して考えてみる。異なると考えられていた細目、樹皮とプルトップは、プルトップを開けるトリの発見によって、初めて概念化され、「剥がしやすいもの」のもとに同一視された。この行動の発見以前、樹皮が「虫の隠れている覆い」として概念化されていれば、樹皮と蓋は異なる。ところが、この概念化は基本的に誤りであり、「剥がしやすいもの」が先見的に規定されていたのだ、と考えるなら、トリの瓶開け行動は生得的と考えられるわけだ。

 或る概念化の規定が先見的か否かという判断に依存して、プルトップの瓶開け行動が生得的か学習か決定される。もちろん両者の区別に関して、生物学的に妥当な線引きは可能であろう。しかしその区別は恣意的であり続け、トリの行動を跡付け的に説明することには有効であっても、新たな実験を組んでいくとか、生物学の知見を用いて世界をどう変えていくかという態度に関して、あまり有効ではない。


 問題は、もはや次のように捉え直すべきである。或る概念化すなわち概念化する観測者を特権化していいのか、と。「剥がれ易いものを剥がす」というプログラムが生物に内在し、だから生得的であるという議論は、このプログラムが自明であると信じ、このプログラムを自明足らしめる前提に関して何も問わない。しかし、「剥がしやものを剥がす」というプログラムが、そのようなプログラムとして実行されるという過程は、そのプログラムは自明であると考えるだけの観測者によって実行されるわけでは決してない。プログラム実行の過程もまた物理現象・物理過程なのであり、現象なのだ。このことに思いをはせることは、プログラムを自明と考える観測者を、特権化された場所から引きずり落とし、観測者を現象化することに他ならない。観測者を現象化するとき、或る自明な概念化という地点から議論を発することが意味をなさない。

 図2は、しかし、生得的か学習かという問いに対し、否定的見解を与えるだけに留まらない。樹皮を剥がす行動の前提が、その下の虫をとることであるというと言う場合、それは観察者の勝手な概念化ではなく、虫を採る事が境界条件として、トリやトリを取り巻く環境により選択される結果であることを主張する。この境界条件もまた何らかの別な物理現象を境界条件として境界条件化されているに過ぎない。特権化された概念化を現象化するとは、物理的境界条件の連鎖が断ち切れないこと(フレーム問題)に定位することである。すなわち、いかなる、或る境界条件に定位しようと、その不確定さを逆に利用できる。樹皮を剥がす行動は、フレーム問題に曝されているからこそ、個別現象として現れるのであり、同時に或る境界条件から見れば外部と想定される細目(ここではプルトップを開けること)に開かれている。ある行動の個別化とそこからの逸脱が共立する、これこそがフレーム問題の意義である。

 しかしそれでも、学習過程か生得的か、いずれかに決定することは程度問題ではなく有意味である、と仮に考えてみよう。そこで次のような実験を想定してみる。図1のトリは嘴を閉じたまま樹皮のひび割れにこれを差し込み、これを引き剥がすトリと想定されている。このトリに、嘴を一度開き、樹皮を挟んでから引き剥がすよう訓練しておくのである(図3上)。その後、トリに今度はプルトップではなくネジ式のふたつき瓶を与えるのだ。おそらくトリはこれを開けることすら可能とするだろう。



       図3 樹皮を挟んでから剥がすよう訓練されたトリは、螺子式ふたを
          開けられるか?

 図3を説明しよう。或る行動の前提(フレーム)が現象として自明に成立するよう環境はさらに外部のフレームを選択している。この様子が、ここでは穴明きだらけ(点線)のフレームとして描かれている。現象が自明であると概念化されるとき、フレームの穴は確かに認識しにくいだけの理由があるだろう。そこで穴の方へと或る現象を移動させてやる。挟んでから剥がすという訓練が、このX→Yに当たる(しかしそれでも樹皮を剥がす行動において概念化されている)。もしYへの移行を訓練しなければ、ネジ式の蓋にトリは対処できまい。しかしこの移行は、フレームが開かれていることを認識可能な、フレームの穴の方へとトリを動かす操作である。果たしてトリは剥がしやすいものを剥がすといった概念化(フレーム)さえ飛び越えて、ネジ式の蓋を開けるだろう。すなわち図3はフレーム問題の肯定的意味、「創発」を契機するために、疑いもなく自明であると信じられる細目(ここでは樹皮を剥がす行動)を少しだけずらしてやりさえすれば、譲れない自明な前提と考えられる前提(ここでは剥がしやすいものを剥がす行動という概念化=前提)さえ飛び越える現象が発見=構成可能でないか、とった見取り図を与えるものだ。

 ネジ式の蓋さえ開けたとしよう。いまやトリの行動は、剥がれ易い物をとりあえず剥がしてみる、という生得的行動の一環として理解できるだろうか?これを含めてトリの行動を概念化すると、生得的プログラムは「開けられるものを開ける」と規定される。この言明は何か説明の用を足すのだろうか?学習、生成過程を排除して論を進めようと、予め規定された前提を跡付けていくなら、最終的に現れるのはトートロジーである。ここへ至って初めて、自明な規定によって或る現象を説明しようとする説明原理が、進化・発達・学習といった生成過程に対して無力ではないか、といった帰結が現れる。もちろんここでは、生得的プログラムが存在しない、と言っているのでない。生得的プログラムが発動し実行される過程が現象である以上、プログラムの実行さえ、観測者が限定的に想定するプログラムの内実を逸脱する可能性がゼロではなく、すなわち創発に開かれているということだ。このとき、それは学習過程と理論的に区別できず、学習か本能かという「程度の決定問題」以上に、考えるべき問題がある、と主張しているのだ。それは、実験的には、制限されたと想定される以上の現象を導き出す実験を、積極的に展開することであり、理論的には、個別化と個別化の逸脱が共立する存在論(「すなわち」で結ばれた意味的関係)と、両者が排他的であるからこそ因果律(「だから」で結ばれた因果的関係)を構成しえる認識論との接合面を見出すといった問題である。

 この限りで、国宝の壷と、殺人の問題は、次のように答えられる。すなわち、両者の言明を認識論的に解明しようとするなら、それは程度問題に陥る。しかし両者は、それが自明とされる意味的関係において、少なくとも現在本質的に異なる。ここで本質的に異なるのだという地点から出発するなら、現在にいたって本質的に異なったのだ、という過程を無視することになる。そうではなく、本質的に異なるに至り得るという生成の過程をこそ議論すべきである。そのとき初めて、先人の歴史の結果、生成されてきた「他人を殺してはいけない」、なる言明獲得が理解され、我々もまた生成に向けて生成を生きることができる。

 この問題に対して、「しかし我々は既に、生成を生きている。何も科学の中で考えなくてもいいじゃないか」、そう思われる方も多かろう。そうではない。認識論と存在論の素朴な乖離は、また多くの誤謬を含む。脳科学における、決定論と自由意志の対立図式など誤謬の一例であろう。脳を、チューリング機械のような決定論的機械と考えるなら、どこにも選択過程は認められない。ミクロに脳を考えるほど、その描像は決定論的機械に整合的で、選択や自由は蒸発してしまう、といった描像がこれだ。しかし決定論的機械はこれを決定論的機械として成立させる観測者・物理的境界条件の中で実行される。観測者・計算機使用者を特権化して、決定論的機械の自明性を疑わない限り、決定論と選択は対立するだけなのであり、決定論的機械の実行前提を現象化するなら、むしろ選択は決定論に内在するのである。こういった描像は、認識論的前提をどこまでも解体し、現象化することで得られる、認識論と存在論との接合面においてのみ、真に理解されるだろう。そのために、認識論対存在論という地平からの転回が必要なのだ。

 このような事例を、計算機プログラムの実行という観点から簡単に述べた(詳細は養老シンポジウム第1回報告を参照)。与えられたプログラムの意味内容は、特定のパズルを解く目的を指示し、それ以外ないように思える、そういったプログラムである。しかし、そのプログラムがそういった意味内容のみを有すると想定されるのは、そのようなプログラムの実行を実現する境界条件を与える限りにおいてである。別の特殊な初期境界条件を与えると、プログラムはパズルを解く用は足さず、思いがけない挙動を創める。これもまたトリの学習問題と同じく、或る意味が観測者によって実現されるのではなく、現象として実現されることの事例であり、前提の現象化によって創発という観点を科学に持ち込めるという事例である。さらに、トラウマの事例も挙げられた。トラウマは、「この現在」を成立させる前提として現在と共立する。問題は、前提としてのトラウマが、現在に対し確実で自明な根拠足りえないという点にある。だからこそ、現在と共立するトラウマは、トラウマを現在の前提という形態で実現する、より外部の前提に開かれており、そのために変質可能なのである。だからこそ、トラウマを変える事が可能であり、「この現在」を変えることが可能となる。ポイントは、前提としての過去の非自明性にある。開かれた前提は確定的条件ではない。条件を変えれば「この現在」が変わるというだけなら、条件が変わりえることの意味が見失われる。

 最終的に存在論と認識論の接合面を捉えるために、全体概念の概念的拡張が唱えられた。論理的パラドックスは、全体を超越的に見渡し、見渡すこと自体を個別な記号で扱うことをもって帰結される。ここで用いられる全体は、列挙的・操作的性格を持つと同時に、個別的・実体的性格を持つ。この両義性は、しかし論理的誤謬ではなく、全体を言葉で表すときに出現する不可避的性格であろう。ただ、創発に開かれた、現象化された境界条件・フレームを扱っていこうとするなら、かかる全体概念を弱い形で再定義することが有効に思われる。そのような全体概念は、論理的水準を異にする外部と接しながらそれ自体成長する全体である。かくして、超越的全体である全称量化子の定義になんらかの形でそういったアイデアを盛り込むことが、唱えられた。そうした「世界の中で成長する全体」を組み込まれたプログラムは、プログラムの実行過程を実装されたプログラムとして、認識論と存在論の接合面に関する指標となり得るだろう。そう結ばれた。

 

郡司1
トラウマの話題で、「この今の私」に伴う父との関係(過去)が文脈です。それは限定されてしまう条件ではない。条件であるなら過去は、事前に設定された強い意味論となります。これに対して問題とされた父との関係なる過去は、飽くまで父との関係を同定する前提にさえ開かれた文脈です。この限りで弱い意味論(経験を駆使しその都度構築される意味論)で在りつづける。「この今の私」の状態(意味)を、トラウマを背負った私と決定することは、選択の結果であり、弱い意味論です。だからこそ、父との関係は確実に実在する条件ではなく、条件として選択され得る文脈なのです。もしこれが条件であるなら、これを変更することは極めて困難でしょう。そうではなく、開かれた文脈だからこそ、「この今の私」にちょっと摂動を加えることで、「父との関係」自体が変わり得るわけです。事前に唯一の意味を決定するような意味論ではなく、その都度「この今の私」を「この」状況にコンシステントに成立させるよう意味論が構築される。局所的な意味論は、その都度のコンシステンシー実現に向けてダイナミックに運動しつづけます。

郡司2
「意味」ですか?今のモデルだったら二項関係で与えているのですが。形式言語では、構文論に対して意味論が定義されます。意味論は構文論的に定義された形式(文)の意味を一意に決定します。或る文の意味は、いつどこで用いようと唯一つに決定されます。この限りで形式論理の意味論を強い意味論と言いました。これに対して、日常言語で使われる意味は、文脈に応じてその都度決定されます。「煙草を取ってくれ」は、依頼かもしれないけれど、劇の台詞の練習かもしれない。目の前の煙草を前にした状況で、劇の台詞を言っているとは思えない場合ですら、その可能性は決して0ではない。結果において同じく依頼であっても、他の可能性が0で、その意味を依頼と決定できる過程と、他の可能性に言及し依頼であると選択する過程は、まったく異なります。日常言語では、その意味の決定に関して選択の余地なしと思える場合ですら、選択が内在している。だから、意味論は万能ではない、局所的かつ場当たり的なものとなります。それを弱い意味論と言いました。私が考える「意味」は、この弱い意味論のほうです。

郡司3
私の言いたい部分、とおっしゃった点は概ねそのとおりです。部分・全体を包含関係と考えて、かつ事前に確定されたものと考えるなら、樹皮の話は部分で、プルトップまで入り込んだ話が全体の意味論になりますけど、私が分けた部分的意味論と全体的意味論の区別は、別なところに要点があります。与えられた文なり対象の意味を予め規定してしまうものが全体的意味論です。対して、その都度経験世界を部分的に動員し、与えられた対象を、憶えている限りの記憶とコンシステントに理解されるべく構築されるのが部分的意味論です。鳥の或る個別な行動に対して、どんなに観察者が概念化しても、概念自体は部分的意味論の産物である。しかし、これは概念化が常に曖昧で単に負の要素を負っている、というのではなく、プルトップを開ける行動を創発として理解することの出発点になる、ということです。後半のモデルの話では、意味論の作り方に常に経験世界を全て見渡さない仕掛けが入ってきて、創られる概念世界、つまり概念束が、劇的に変わり得るわけです。新たな意味論の作りかたに、経験世界を動員して過去の意味論を拡張するという仕掛けがあり、それによって、例えばラティス(束)の分配律の効き方が変わるのです。

郡司4
いやいやなっている。野矢さんがいま言われたようには意味論を使っていません。例えば先ほどのパズルの例を述べますと、基本的には環境に合わせて、一本の線を少しづつ伸ばし、自分の領域を拡張する陣取りゲーム的システムを考えたわけです。線を伸ばしていってその線が閉じた領域に戻ってくれば、その分領域を増やす。これを毎回やっているんですね。
その時に、じゃあシステムの周囲にある環境の意味は予め確定されているのか、というのがここでの論点です。もし事前に唯一つに決まっているなら、環境に対するシステムの処し方は何ら変わらない。最初に述べた「全体の意味論」では、与えられた環境全てを見渡すので、これに対応します。環境としての数字の分布は、閉曲線を描け(領域を増やせ)という問題としてしか想定されてなくて、それ以外の可能性はないと考えられている。ところが、「環境は、パズルという問題としてのみ概念化されている」、という概念化自体、どんなに頑張っても覆される可能性を含んでいる。システムは観測者(プログラム製作者)による概念化の確実さを覆し、パズルという概念を覆してしまう。それは常に概念化の担う不定さに起因するわけですが、単に概念化の失敗=パズルの破綻ではなく、パズルが解けないからこそ成長する、とか解けるように環境を変えるとか、いろいろ出てくる。概念化は選択の結果であり、選択過程が概念化に内在しているわけで、だからこそ結果としてのパズルの頑健さは異なる使われ方に開かれているわけです。

しかもあのモデルは生物のモデルだと思っていて、粘菌みたいな自己増殖的に平面に広がる生物のモデルとして構想したんです。普通粘菌は、局所ごとの反応が並列分散処理的に同時進行するわけですが、並列性に定位してモデルを創ると、それでもシステム全体の境界が維持されているという感じを表現できない。つまり境界が繋がったまま、かつ成長するモデルを創ろうとすると、境界を繋げたままで成長するための大域的情報が必要になる。この大域的情報が完全なら、「局所を並列的に計算するモデルを、局所を逐次直列的に計算するモデルに置き換えてかまわない」ことになります。ここではこの大域的情報の不完全さを、「並列処理を逐次処理に置き換えることによる不都合」として表せます。つまり境界の成長を計算する意味論としての束が分配束である場合だけ、完全な置き換えができ、そうでないときは分配律の成り立つ程度に合わせて不都合の程度が変化するというわけです。この置き換え可能性の程度が、経験をその都度動員した意味論の作り上げ方に起因している。だから、まさに確実な情報から類推して、環境同定に足る意味論を拡張・構築する、その、だらしない拡張がストレートに効いてくるのです。

郡司5
内と外を区別する境界とか膜の形成に関して、たいていリアクション・ディフュージョンを使うわけですね。このとき、例えば透過選択性のある膜形成とか考えると、壁の形成という問題について考えた後、透過に関する物質の選択性を考えるとか、境界形成+透過選択性の問題として予め想定するとか、そういう形式になりますよね。例えば境界は、特定の化学物質濃度が、或る場所で振動して維持され、うまく釣り合っている限り境界となる、といったように。そうすると、境界形成の機構と、形成された境界の機能としての透過性は、分離されるか、完全に同じ問題とされるか、いずれにせよ二つの問題の関係自体が予め想定されることになります。ところが境界はぐずぐずと維持されながら、その維持、境界を個別化することの剰余という形で、境界の機能がついてまわるんじゃないかと。そうするとシステムは、設定された問題を問題として解くわけでも、解けずに動きつづけるわけでもなく、その都度えいやっと解いてしまうことで新たな問題を作りつづける。これに対して、例えば境界形成=境界機能という形式で問題を考えると、形成に預かるXとYのような物質が、境界の内外を移送されると形しか望めない。

郡司6
だから、膜形成を拡散反応系で考える場合でも、物質透過に関する選択性は、チャネルができてくるとか、境界形成の当初には想定されなかった、視野に入らなかったような物質の透過が示せる、ということの意味を問わないと。通常は問題を立てたとき、透過する物質のリストは境界形成と共に全部決まっています。これに対して、境界形成を実現する過程、つまり個別化の過程には、問題を作り変え、想定されなかったものを動員する過程が内在している。つまり正当に膜形成問題を解こうとすると、とてもじゃないけど解けないような問題であって、えいやっと解くことでのみ個別化は可能となるけど、この限りで個別化を実現してしまうと、解くことの剰余が問題の作り変えという形で現れてしまう。だから、個別化と、個別化を問題として想定した当初の想定外部に開かれた可変性とは矛盾どころか寧ろ共立しているわけです。想定外部をうまく取り込むようなものを考えないと、鳥がプルトップを開けるように、膜が或るチャネルをもって或る物だけを通せようになるという話にはもっていけないわけですよ。

郡司7
いや、問題と答えが等価でないというとき、ないという否定以上のことは、その実否定が理解される過程に内在している。もちろん否定は通常否定以上でないことで否定と呼ばれますが、肯定を契機する(弱い)否定という意味をまず十分吟味しないと。何ができるか、という問いでのみ肯定の意味を問おうとするスタンスから逃れられない。実際問題として否定・肯定の対立はそのとおりですが、この点が大事だと思うのです。そう考えるなら、否定して、その後何ができるか、という問いを出されても。ここに個別化とそれからの逸脱との均衡ではなく、共立の問題がある。

郡司8
いや、そうじゃない。とは言ってもそれは私が判断することでないけれど。でも、私の提案には、意味論の空間をどういう風に使うか、その使い方の程度が入っている。全部見渡してやるんじゃなくて、適当に空間を探索し、その不定な探索ゆえに、並列処理を逐次処理に置き換える不都合の程度が変化する。だからそれを言ったら、所詮全部プログラムだから同じかということですよ。先ほどの例題として示した、パズルを解く計算機からパズルを無効にしてしまって自己増殖する計算過程への変化をどう考えるか、みたいな。

郡司9
力学系は本質的には統語論なんで、最初に言った部分的意味論という限りでの意味論の議論が載せにくいんじゃないか。で、僕は問題の表現として意味論で展開してやる必要があるのじゃないかと思うのです。力学系で意味論を考える場合は、位相空間の構造でアトラクター・ベースンの選択という話になって、軌道に沿いながらも分岐していくとか別の地点に移れるとかは位相空間の構造に依拠している。その上で問題を表現すると、ミクロには軌道を区別可能と想定しながら、予想外の現象の現れを考えるときにはマクロな軌道の同一視、パターンとしての同定を重ねていかないといけない。そうすると、意味論は計算結果のパターンを見る私にゆだねられて、統語論的計算を実現する過程で意味論がどう使われるかという議論が展開できないのではないか。システムとその結果を見る私に分離してしまうじゃないですか。

郡司10
そうです。先ほどから全てを見渡せないという「こと」をどう理解するか、という問題を繰り返しているわけですが、全てを理念的に想定しておいて見る部分を限定するということではないと思うのです。全部見渡せないというのを、限定つき観測と考えても、限定された内側と外側は、超越的な理論家が便宜的に与えるだけになりますよね。つまりミクロに軌道は同定できるはずだけど、マクロに同一視されるということの関係を同表現するか、に関して、後者を「計算結果を見ている理論家」とすると、両者は分離しすぎて調停の妙を理解できなくなるし、後者を位相空間の中の例えば軌道の近傍として定義すると、位相空間全体が理念的に全て想定されているから、軌道の束(たば)と軌道の関係や、束(たば)とその外部の関係には一切の齟齬がなくなる。つまり分離しすぎるか、齟齬がなくなるかで、対象(統語論)に応じたその都度の意味論的対応策という過程は積極的には見えてこないのではないか、ということなんです。全体を見渡せないという否定的側面が、見渡さないからこそある部分・個物の指定を可能にするという、否定と肯定の共立、見渡せないことの個物の指定への寄与が、明示的にならないとおもしろくないんじゃなかろうかと。

この限りで力学系でもメトリックが定義できないとか、時間とか空間の順序が軌道の同定(意味論の場当たり的構築)によって変わっちゃうみたいな展開になると違うと思いますが。

郡司11
そうですね。津田さんが言っている記述することで発生する不安定性が明示的に入っているなら、松野さんの言っているとおりだと思います。まさにコンテクストが記述することで決められていくから非決定性がみえてくるというのは、決まることと決まらないことの共立と齟齬の関係が一切わからないというより積極的意味を持ってきますから。

郡司12
フレーム問題の積極的意義をどう肯定的に展開するか、という問題は、表現の問題だから一見戦略的なんだけど、フレーム問題の積極的意義という問題そのものにかかわってくる問題ですよね。フレーム問題と言った瞬間に通常、書ききれない、という否定的表現になってしまって、この問題に対しては常に、前提を書ききれる、いや書ききれない、といった二項対立の中で扱う話になってしまう。しかし問題は、書き下してしまったものも、読まれて理解されるという過程を込みにして考えるなら、書ける・書けないという問題ではない。決定論的プログラムがプログラムとして書かれたからといって、その実行過程を込みにしたら、書けた・書けないという対立がナンセンスなように。ところが、フレーム問題に対する態度は、概ね、文科系の方は、書ききれないというスタンスで議論し、理科系の方は、書ききれないといういってしまうと話が進まないので、まず近似としてでも書いてしまう、というスタンスから出発する。そしてこの対立図式からフレーム問題の積極的意義を展開しようとしても問題がみえてこない。

郡司13
いや、だから、フレーム問題の積極的意義に関して、心情的にはわかるんだけど、問題をはっきりさせようとすると、明確にするということ自体が、書ける・書けないの旗幟を鮮明にすることだという前提で話が進むんじゃないかという危惧が、僕にはあるわけです。最初の前半みたいな話をすると(鳥のプルトップや正方格子パズルの話)、話としてはわかるんだけど、だから何なんだ、という反応が返ってくる。津田さんのように私にシンパティックにしてくれる人もですね。私は、自戒を込めて、だからいいと思うんです。何となく心情的にわかるというのではなく、心情的にわかる、すなわち経験論的にわかるということと認識論的にわかって書き下せるという点の交錯するところを問題にしないと、いけない。多分、さっきの(以下―P.50L8まで生き)。

この点に関して、経験を部分的にしか動員しない部分的意味論という展開に、ご利益が見出されるんじゃないかと。つまり部分的意味論を考えるとき、いわばランダムネスの使い方が変化していくわけです。ランダムネスが常に作用するんだけど、その効き方がシステムの状態(軌道上の位置など)によって違ってくる、というだけではなく、ランダムネスの適用範囲や強さも変化する。並列処理を逐次処理に置き換えられない程度が分配律の程度として意味論に現れ、それによって自発的にランダムネスの程度が変わる。これを込みにした計算機の使い方は、大分違ってくるんじゃないかと。

郡司14
いや、立ち止まって考えるときにも、時間を生きるということが進行しており、立ち止まるか否か、という対立図式の中で考えている限り、問題の解読はできないということを主張したいのです。プログラム実行過程をプログラムとして書いてしまうと、書いてしまったからみもふたもない、と言うんでは、プログラムとして書くこと=機械論という図式に再度載ってしまう。何のためのフレーム問題的転回だったんだ、という気すらするわけです。プログラム実行過程を考慮したプログラムという表現において、うまく構成できたかできなかったか、という程度問題ならいいし、程度問題においてだめだと言われるなら、それはもちろん私の責任ですが、過程をプログラムとして書いてしまったこと自体原理的におかしい、と言われるなら、それは問題の転回がなされていない、と思うのです。つまり、立ち止まらずに生きていくことが重要で、立ち止まって考える(プログラムとして書き下す)なら、それは生きることではない、という問題意識に留まっていただきたくない。両者の間に、時間を生きるという観点に関して、あまり違いはないということです。だから、あえて時間に関して、現在・過去・未来という文節を導入し、例えば、現在の進行と過去に依拠した現在という状態、の違いを当初際立たせておいて、その後翻って、過去に依拠した現在もまた状態ではありえない、という転回が必要となるのです。過去は、閉じた条件や明示的な記録テープではなくて、テープをテープ足らしめる文脈に開かれているわけですから。この点において、計算機を使っちゃおしまいだ、なんて話をすると、かえって変な話になるんじゃないかと。

郡司15
とりあえず法橋さんの言われた志向性という話を、志向性という言葉を使わずにどう転回するかということが、僕のそもそもの目的だったんですよ。つまり「物語る」とは、ある閉じた文脈のもとで成立する一つの物語でありながら、語ると過程である以上、より外の文脈に開かれている。つまり或る物語として終結しない可能性を含意しながら、しかし一つの物語として進行し、理解されることを可能とする。物語はフレームの階層をどこか切断し、書き下してしまうように思えるし、全体性を見渡しながら、全体のモデルを参照しながら細部を進行させる過程に思える。しかし、物語を進行可能とすることは、様々な局面にその都度応じながら進行させることです。したがって、細部を進めるために参照する全体性は、予め規定され、見渡された全体ではなく、それ自体置かれる場所を有し成長する全体なわけです。そのような成長し、世界に置かれた全体に定位して、成長する全体の強度を一言で言おうとすると、志向性という言葉が思い浮かぶ。だけれども志向性とかの言葉で済ませずに、物語として完結する自明性を持ちながら同時に、その都度の状況に適応できるということの両義性を解読しないと問題は頓挫してしまう。物語にすることが「生きている過程」を殺してしまうことではなく、えいやっと完結させるからこそ新たな問題として想定され適応という開かれた過程が実現されていくということを理解していかねばならない。根拠付けられた区別は、閉じる・閉じないの二項対立を喚起するけれど、無根拠な区別は、結果として「閉じ・てしまう」選択過程を逆照射する。だからこそ、閉じ・てしまうことが開く過程を契機する。ここにこそ、無根拠な区別が擁護されるのだと考えるのです。

 

© Copyright 2008 Yukio-Pegio Gunji, All rights reserved.