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火災調査の歴史 −建築物の避難安全計画に果たしてきた役割−


神戸大学 都市安全研究センター 北後明彦


1.はじめに

 これまでの大きな火災現場をいくつも見てきた先輩の研究者は、「若い人達にとっては、火事がどんなものかという全体像を把握できるものが現状では無いように思うし、それと同時に、研究者(特に若手)は総合的な火災安全とは何かということが理解できていないように感じている。」(文献1)と述べている。一度に多数の人が亡くなるような建物火災が、近年、発生していなかった、あるいは発生したとしてもそんなに連続して起きていなかったという火災安全にとっては望ましい状況が、逆に火災安全を理解する上では困難な世代を生み出してきたことになる。

 性能設計の時代になって、火災のイメージ、総合的な火災安全は何かということが実感としてつかめていないとすれば問題である。制約がなくなったから、ある種の理屈で説明がつくから、ということで、イメージできないままに設計してしまうことはないだろうか。多くの犠牲者がでるまで自由に設計して良いというわけにはいかない。それぞれが納得して犠牲者がでないような設計を行っておくべきだろう。それでは、どのように火災の全体像をつかんだらよいのだろうか。これは言い古されたことだが、災害に学ぶということがやはり重要である。

 新幹線のコンクリート崩落事故や臨界事故など社会的に大きな影響を与えた事故が、20世紀末頃に相次いで発生したのを受けて、日本学術会議の安全に関する緊急特別委員会は、「安全学の構築に向けて」と題する報告を出したが、その中で「事故に学ぶシステムと事故を調査するシステム」の重要性を指摘している。火災の場合でいえば、火災事例に学ぶシステムの構築と、火災調査を行うシステムの構築が重要であるということになる。

 人類の歴史において、人々に深刻な影響を与えた大きな災害が発生した場合には、その経験に学び、その教訓を社会の様々な活動の側面に生かしてきた。しかし、海外や日本の多数の死者が発生した火災の一覧を見ると、同様の火災が再度発生している場合も多い。これは、その災害について学ぶ仕組みが不十分であったことに一つの原因があると考えられる。災害について学ぶことの基本は、教訓を社会に反映できる観点から、その災害を調査することにある。この調査がうまくでき、その教訓を社会の様々な側面に生かすことができた場合、その種の災害が頻発することがなくなる。ここでは、防火・避難計画の分野で、このような仕組みがどのようにあるべきであるかを展望するため、筆者の知りえる範囲で、火災調査がこれまでに行われてきた歴史と、調査が建築物の避難安全計画に果たしてきた役割について、関連する事項を含めて述べる。

2.避難安全計画にかかわる火災と調査の歴史

1)19世紀末まで

劇場火災

 建築物の避難安全計画にかかわる火災で最初に問題となったのは劇場火災であろう。表1に示されるように、世紀中頃から一度に多くの死傷者をもたらした火災が、劇場のような多人数を収容する建物で頻発している。常設の大規模な劇場が続々と建設された18世紀から、既に当時の劇場の危険性は明らかであったようであり、1781年のパリ・オペラ座火災のあとに理想劇場の設計を提案したE・L・ブーレは、「現在の劇場のほとんどは恐ろしい火葬用の薪の山だ」と書いている。彼の提案による劇場の階段は(パニックを防ぐために)それぞれ独立して人が流れる方式で四つの主要出口に通じ、舞台とその備品以外はすべて石か煉瓦で作られることになっていた。(文献5)。

英国の避難規定

 19世紀後半になると、劇場火災による多数の死者の発生は社会の関心事となり、ロンドン州議会では、劇場や音楽ホールなどを対象とした最初の避難手段の規定を1879年に制定した。この規定は、避難経路を利用する人数に基づいて避難経路の幅と数を要求した(文献6)。その後、英国内務省では、劇場など公共娯楽施設に対する防火安全の要件をまとめた手引書を出版しているが、その序文によると、英国内で得られた経験とともに、外国の火災事例や外国の当局によって行われた調査報告書に基づいて提案を行った経過が記されている(文献6)。

米国における火災の発生状況

 米国においては、19世紀後半は、工業化の進行により都市に人口が集中し、耐火鉄骨造の高層建築物が多く出現した時代であり、火災による被害が増大していた。この時期に、米国においてヨーロッパの火災事情と比較した文献によると、ヨーロッパの主要な都市における建物火災のほとんどは出火階でとどまっていたのに対し、米国の建物は非常に火災の被害を受けやすい、つまり建物の質がよくなくて火災による延焼拡大の危険性が高い状態にあるとしている(文献7)。より一般的には、19世紀においての米国においては、火災による人命や財産の損失の問題以前に、いいかげんな施工方法による建物倒壊の危険の問題があったようで、火災の問題に関しては保険会社やその関係者などの比較的狭い範囲で理解され取り組まれていた状態で(文献8)、全米防火協会(
NFPA)は、スプリンクラーの規格検討をきっかけにとしてこれらの保険会社などをメンバーとして
1896年に設立されている(文献9)。

2)20世紀初頭

 このような状況の中で、表1に示されるように、米国では、1903年のイロコイ劇場火災で
602人、1908年のロードス劇場火災で170人とレイクビュー中学校火災で176人、1911年のトライアングルシャツウェスト会社のビル火災で145人が焼死するなどの多くの人命が失われた火災が相次いで発生した。このようなことが関係して火災安全の確保に対する世論が高まり、1910年代までに、米国のほとんどの州において官吏(ファイアマーシャル)に火災安全に関連した調査と取締の権限が与えられている(文献8)。 NFPAにおいても、これらの火災をきっかけとして火災安全の確保を願う人々の関心が高まったことを配慮し、1913年に人命安全委員会を発足させ、これらの火災についての調査結果を検討した上で、避難安全関係の基準をとりまとめている(文献10、文献6)。

イロコイ劇場火災
 
 1903年のイロコイ劇場火災については、火災から約10日後に調査報告がNFPAのメンバー(保険会社関係者)によって記述されている(文献11)。この火災は、舞台のスポットライトから出火した。死者602人のうちの多くは、煙の吸引や火傷によって発生しているが、パニックによって踏みつけられて死亡した者も多数いた。死者の約70%は、ギャラリー(最上部の桟敷席)、残りはバルコニー(2階席)で発生している。1階の主要な客席部では、十分な出口があったことと、ドラフトのため火煙が上方へ向かったため、ほとんど死者は発生していない。建物自身は耐火造であったが、客席と舞台を区切るアスベストのカーテンは適切に機能せず、舞台近くの換気装置は完成していなかった。また、出口の位置を適切に表示していなく、最上部の桟敷席からの主要な出口がなかった(図1参照)。この火災のときに出演していて火災に遭遇した喜劇俳優のエディー・フォイは、手記の中で、「この劇場は非常にすばらしく高級なつくりであり、また、効率的で安全だと聞いており、実際、防火的な措置もおそらく十分に考えられていたのであろうが、不注意や経済効率優先によって欠落していた部分があり、幻影のパラダイスとなっていた。米国ではこの火災までに何年間も重大な劇場火災が発生していなかったので、火災に対する予防措置が大幅に緩和されていた。」と記している(文献9)。NFPAの劇場建築・設備委員会へ1905年に出された報告では、「一般的に歴史上の重大な劇場火災では、書割などによって覆われた舞台上の炎の急速な拡大と、それに続く2、3分以内のプロセニアムアーチから客席部の上部への息苦しい煙の流出によりギャラリーの客が避難する余裕がなく、人命が失われている。死者は、最初の炎が出てから5分以内に、主にバルコニーにおいて発生している。」とし、「舞台上の自動即開排煙装置・自動スプリンクラー設備、ギャラリーからの十分な出口と階段」を推奨している(文献12)。この劇場建築・設備委員会は、1911年に避難方式や容量などについて詳細な報告を出している(文献13)。

古着再生工場のビル火災

 1911年のトライアングルシャツウェスト会社の古着再生工場ビル火災(1
0階建て)では145人の従業員が焼死したが、この火災をきっかけとして、火災時のビルからの避難方法をめぐって全国的な議論がまき起こっている。このビル火災では、屋外の鉄製避難タラップが窓から噴出する火炎の熱によって避難者とともに崩れ落ちて大量の死者発生の原因となった。この火災に限らず、屋外のはしごのような鉄製避難タラップは、先述したような当時の米国での火災が延焼拡大しやすい傾向とあいまって、火災による悲劇の主要な原因となっていた。そこで、NFPA
の季刊誌に、ニューヨーク市で推奨されていた避難階段(この時代、一般的には防煙タワーと呼ばれていた)の図面を掲載し(図2は自然排煙附室経由内部階段、その他、バルコニー経由内部階段、及び、各階を2つの部分に分ける防火壁の端部に両側の部分から入る自然排煙附室経由内部階段の図が掲載されている)、この避難階段は火災となっても使い物にならなくなることはないとしている。ただしこの避難階段であっても、急速な火災拡大によってパニックの状態となった場合には十分ではなく、各階を2つの部分に分ける防火壁を設けて避難口を設ける、つまり水平避難を行うことが最も安全であるとしている(文献14)。図3は、当時のある技師が1913年の第1回アメリカ全国火災防止会議においてトライアングルシャツウェスト会社のビル火災をイメージして提案した水平避難の概念図である。ただし、この提案については賛否両論があったようで、防火戸の不十分さについての批判に対して提案者は防火戸に改良を加えればよいとともに、防煙タワーとの併用によってさらに有効となるとしている(文献8)。NFPAの耐火建築委員会では、1913年に「標準建築物」についての仕様書を作成した。ここでいう「標準建築物」とは、外部火災及び内部火災にさらされても被害を最小限に抑え、焼失しても主要構造部には重大な損傷が発生しないように設計・設備され、その結果、火災やパニックに対して在館者の生命が適切に守られる建築物であると定義され、一般の人々や建築家への教育を念頭に、ある意味では理想形として論じられている。その「標準建築物」の仕様書において、避難施設についても詳細な注意が払われ、閉鎖型内部階段(避難階段)、防煙タワー(特別避難階段)、水平避難口(避難口用隔壁となる防火区画に設けた水平避難用の出入口)についての仕様や、必要とされる水平避難口及び垂直避難口の数・容量について定めている(文献15)。

NFPAの人命安全委員会

 NFPAにおいて1913年に発足した人命安全委員会はNFPAで行われてきた上述の各委員会での検討結果を受け継いでいる。同委員会の初年度の年次報告においては、スプリンクラーが設置されていた建物における火災事例の調査結果によって、スプリンクラーによる人命安全確保の効果が非常に高いこと、特に、スプリンクラーが設置されていた建物の火災でパニックが発生したことは一度もないことが示されている。NFPAはスプリンクラーの規格制定に関連して設立されたこともあり、1907年から、スプリンクラーが設置されている建物で発生した火災時におけるスプリンクラーの効果についての年次統計報告を出している(文献9)。なお、同委員会の初年度の年次報告では、火災事例の調査について、多くの人命が失われた重大な火災についてはかなり正確な報告が得られるが、その他の火災についての報告には、火災による死傷者の記録が必ずしも求められていなかった状況が示され、今後は、どのような火災についても死傷者についての記録を積極的に記載するとともに、人命安全以外の側面についての報告であっても死傷者があった場合についてはその記録を掲載することを決めており(文献16)、その後の人命安全委員会では、これらの記録が活用されている。

Building Exit Codeの作成

 1917年からは、NFPAの人命安全委員会において避難行動についての研究がなされ、その成果を基に「Building Exit Code(建築物避難出口規定)」の原案の準備をはじめ、1924年に公表、1927
年に出版している(文献17)。この時のBuilding Exit Codeには、技術基準(避難階段の構造、水平避難口の設置方法、ドアの構造、エレベーターの位置づけ、エスカレーターの構造、避難器具の設置方法、警報システム)及び用途別の要件(一般要件、2方向避難に対応する避難口の数と位置、歩行距離制限、廊下の幅、デパートの要件、工場の要件)などについて記述されていた。1930年の
NFPAの年次総会に提出された研究報告によると、その当時の火災で死者が発生したものは、設備や維持管理がBuilding Exit Codeからみて不適切な状況にあったことを例証しているとしている。同年次総会では、さらに、1929年のクリーブランド病院火災(125人死亡)、1930年のコロンブス刑務所火災(320人死亡)などを取り上げ、これらの火災においては、X線室のフィルムなど危険物が存在していたとともに十分な防護のための設備がなかったことを示している。NFPAでは、1931年から、以上のような大きな損害のあった火災についての調査研究結果の出版をはじめている(文献9)。

3)1930年代

Building Exit Codeの見直し

 米国の各州・市においては上述の経過の中で、過去20〜30年間、2方向避難や防煙タワーを求める規制を取り入れるようになり、維持管理が悪い状態の場合に火災で死者が発生している以外、重大な火災が発生していない状態が続いたといえるので、これらの原則の緩和、つまり、2方向避難の原則を緩和して単一階段を認める、また、防煙タワーは上下の階の連絡用には使いづらく物置となっているような実態があり実際的ではないので見直しを要求する声が出てきて、実際に緩和した自治体もあった(文献18)。このような動きと関連してかどうか明らかではないが、これまで非常に複雑化し、場合によっては過度に避難施設の数や容量を要求している数式や表を用いることとなっていたNFPAのBuilding Exit Codeを、商務省のBuilding Codeと調和させることになり、避難施設の数や容量の規定を単純化させ、結果的に事務所ビルなどではエレベーターを避難出口とみなして、単一階段を認める結果となっている(文献19・20)。1936年には、NFPAのBuilding Exit Codeに「ホテル及びアパート」の章が追加された。これらの就寝施設では、ほとんどの死者は夜間の火災によって発生しており、火災の発見や在館者を起こすことが遅れがちになることへの対策が強調されている(文献21)。この規定についても、規模の小さいものについての2方向避難の緩和についての議論が連邦住宅局の要請により1940年になされている。その際、当時発生したアパートにおける火災事例の調査結果が参照され、人命安全に重大な影響を与えた火災では、階段の区画や火災報知器が無いなど、Building Exit Codeの原則の重要さを示して、緩和に反対する意見が出されている(文献22)。ただし、この当時の議論では、人間行動を火災実験によって確かめることはできないので火災事例を見ていくことが大事といいつつ、個々の原則の必要性を示すために火災事例での死者の発生状況を持ち出しているが、どのようにすれば個々の原則をうまく機能させるかについてまではあまり検討されておらず、詳しい人間行動にまで踏み込んだ議論はなされていなかったようである。なお、1937年からNFPAは、12の州のファイアマーシャルから集められた報告に基づく在館者の状況と出火パターンについての年次記録を発行している(文献9)。

白木屋の火災

 日本においては、1920年代からようやく近代的な高層建築が次々と建てられるようになっており、
1932年には百貨店白木屋(8階建て)で 14名の死者を出す火災が発生している。この火災の直後、日本建築学会は「時局に関する委員会(関東大震災の復興対策調査立案のために設立されていた委員会)」の委員を中心に現場調査を行うとともに、消防、避難等に関与した関係者のヒアリングをもとに詳細な報告をまとめている。白木屋火災の直後には深川大富アパート(木造3階建て)において火災が発生し死者23名を出している。当時警視庁保安部建築課長であった北沢五郎は、これらの火災について徹底した調査を部下に命じ、日本建築学会の調査にも部下を多数参加させている。また、北沢は、警視庁建築課の名前の入った調査票により、白木屋の従業員1101人(出火階以上339人)に対して調査を行い、在館者の避難行動を明らかとし、調査結果を日本建築学会の機関誌「建築雑誌」に掲載している。白木屋の火災において約270人が窓から救助されているが、これらの人々は、煙に追い詰められ小区画された窓際の部屋等に逃げ込み、そこから梯子、救助袋などで救出されている。死亡した14名のうち、多くは煙突、避雷針、ロープなどで脱出しようとして墜死したものである。この他、屋上に避難したものが約130名であり、出火階より上の階に約 700人の在館者がいたので出火階より上の階で階段から避難したものは約 300人となる。階段から避難した人のうち、出火階では手近の階段を用いているが、より上階では安全であった階段に利用が集中し、煙が上昇してきた階段は利用されていない。なお、以上に示した火災調査は、警視庁保安部建築課が中心となって行われているが、当時の建築課では、新人教育として研究が重視され、防空、防火避難、騒音防止、鉄骨の溶接工法など建築に関わる様々な課題の研究を行い、特に北沢は課長であったが率先して研究を行い、大きな問題については陣頭指揮をとり、その成果は部下の名において発表するとか共同研究の形をとって一同を激励し、更に意欲を持たせるようにしていたようであり、このような状況にあってはじめて以上のような精力的な調査結果がまとまったものと思われる(文献23・24)。

 白木屋の火災については、我が国の最初の高層建築物火災であったことから、その教訓をくみ取るためにこのように調査が精力的に行われ、北沢が中心となって行った調査結果は、火災の翌年に制定された警視庁令の百貨店建築規則に反映され、1936年に制定された内務省令特殊建築物規則に受け継がれている。百貨店建築規則では、延焼防止のための防火区画、防火区画を通る水平避難、避難階段の構造、階段までの歩行距離の制限、通路の最小幅などを規定している。当時、米国の避難安全に関する規定の情報はかなり豊富に入手可能であり、市販の書籍にニューヨークの建築コードやNFPAのコードが多く引用されている(文献6)。避難階段の構造や歩行距離制限、水平避難の考え方などは、米国の避難安全の考え方と類似しており、米国の情報を参照した可能性が高い。白木屋火災の前の1930年に、丸の内消防署長東野正明は、ビル火災の危険性を既に予見し、ビル火災に対して国民が冷淡であると指摘していたが(文献25)、白木屋火災の調査によって米国の規定の本質がようやく理解され、受け入れる素地ができ、日本の規定に取り入れられたと考えられる。1933年には、旧内務省が「内務報告令」を制定し、火災に関する資料が組織的に集約されるようになっている。

4)1940年代〜1960年代

非常に燃えやすい内装材料の出現

 1942年、ボストンのココナッツグローブナイトクラブでは定員以上に込み合ったところに火災が発生し、壁や天井の可燃性の装飾物によって火炎が急速に拡大し、5分後には避難出口が使えなくなった。避難出口は回転ドアなど機能的に良くないものがあった。この結果492人という多くの命が奪われた。そこで、新しい規制を求める声が広がり、この火災の翌年には米国の多くの州・市の建築コードの避難出口、可燃材料、非常照明,自動スプリンクラーの規定が刷新され、レストランやナイトクラブも公衆が集まる場所と定義し、公衆が集まる場所では2つの離れた避難出口が必要で回転ドアの場合はその両側に通常のドアが必要となった。ただし、NFPAの生命安全委員会では、戦時下であったので通信で検討した結果、Building Exit Codeが遵守されればこのような火災には対応できるとの立場をとっており、各州・市の動きはBuilding Exit Codeで推奨されていた十分な出口を確保する方法を取りいれたということになる(文献9・26・27)。

 1946年、多数の死者を出したホテル火災が相次ぎ、5月にはシカゴのラサールホテルで死者
61人、アイオワ州のキャンフィールドホテルで死者19人の火災が相次いで発生し、12月には、アトランタのウィンコフホテルで119人の死者を出した火災が発生した。これらのホテルの構造は耐火建築物であったが、建物やその中味は防火的ではなく、ロビーなどでの壁や天井の可燃性の装飾やオープンな縦シャフトが急速な火炎の拡大と煙の拡散をまねき、多数の死者発生の原因となった(文献9)。

 1948年のイリノイ州の病院火災では74人の死者が発生したが、この病院では避難出口が十分に確保されていたにもかかわらず、火災の拡大が急激でそれらの避難出口を用いることができなかった。木よりも燃えやすい内装材料が使われていたためである(文献28)。

 以上の1940年代に多くの犠牲者を出した火災の共通した特徴は、火災が発生した場合、急激に燃え拡がりやすい内装材料が用いられたため、従来規定されていた避難施設の容量では不十分ということであり、一連のホテル火災が起こった1946年頃から内装材料の規制の必要性が認識されるようになった(文献10)。燃えやすい材料が使われるようになった背景には、米国で合板の生産が
1900年代に開始されたことや石油化学工業が1920年代に始まり、1930年代には一般大衆を対象とする最終製品が出回るようになっていたことなどがあると考えられる。NFPAの生命安全委員会において、トンネル試験による材料のクラス分けに応じた避難安全の考え方が検討されているが、関係する材料の企業の合意が得られない状況が何年も続き、内装材料に起因する火災での多数の死者発生が後を絶たなかった。1956年になってようやく業界の反対を押し切り、NFPAの年次総会においてBuilding Exit Codeの改訂が可決され、内装材料の規制の考え方がこの文書に盛り込まれることになった(文献29〜31)。

 米国では、1940年代には上記のような多数の犠牲者の出た火災が発生し、また1950年代においても養老院や学校で多くの死者が発生する火災が発生しているが、火災時の人間行動へは関心が払われず、1942年のココナッツグローブナイトクラブ火災のように492人という多くの命が奪われた火災であっても、在館者の対応行動についての人間行動に着目した調査は行われていない(文献32)。これは、上述したようにこの時代の火災の延焼拡大速度が急激で、人間の対応行動によって避難安全を確保できるような状況ではない火災が多かったことが一因と考えられる。なお、1951年にNFPAの火災死傷者統計委員会は、標準的なフォーマットの火災報告を提案しているが、1953年の段階では国民的な支持は得られていない。1960年からは、NFPAは複数の死者(住宅で5名以上、非住宅で3名以上の死者)が発生した火災についての報告書を今日まで発行している(文献9)。

日本における映画館・劇場火災

 日本において1943年、北海道倶知安町の映画館布袋座において火災が発生、208人の死者を出した。当時の倶知安警察署長名でまとめられた数ページの「火災状況報告」には、火災の発生状況、消火の状況、災害を拡大した原因などについて示されている。それによると、積雪のために開かなかった非常口があったこと、出火した映写室が階下の入口付近にあったこと、消灯して上映中であったこと、家族慰安のための映画会を開催しており老人や子供が多数いたことなどが災害を大きくした原因であるとしている。当時の北海道新聞には、この火災について大きく報道されているが、遺族や一般の人は一般の災害として諦めていた模様であると警察は内偵している。なお、この「火災状況報告」は、火災から約40年後に当時の警察官が他の記録とともに町へ寄贈したものである(文献33)。大惨事であったにもかかわらず戦時下であったこともあり、全国的にはそれほど注目されず、三井不動産の嘱託となっていた北沢五郎は、映画館や劇場は法規で厳重に規定されているので設備不完全のための災害は少なくなっており、この火災では、不適切な非常口の管理によって折角の非常口が用をなさなかったとの感想を示している(文献34)。

群集流の研究

 戦後、娯楽のため多くの人々が映画館に集まり、1950年頃には1日1館という状態で映画館が増え、映画館・劇場で火災が相次いでいた。建築研究所の戸川喜久二は、都内の映画館の調査を行い定員の2.6倍を見込んだ避難計画が必要だとの結果を得、群集流動の研究に取り組み始め、1955年には「群衆流の観測にもとづく避難施設の研究」をまとめている。その翌年の1956年に大混雑時の百貨店で火災が発生したが、約2000人の客の避難は良好に行われ犠牲者は出なかった。戸川はこの避難の実態を仙台市消防本部の協力を得て調査し、避難計算による全館避難時間と極めてよく一致した結果を得ている(文献35〜37)。

 1958年には東京宝塚劇場において上演中火災が発生し、3階席では避難するとき髪がこげた者もあるものの観客は無事に避難したが、楽屋にいた出演者3名が死亡している。この火災についても、戸川は東京消防庁調査課と丸の内消防署で調べた当日客数に基づき避難計算を行っている。東京消防庁で行った調査は、建築学会の「東京宝塚劇場火災実態調査報告」として、防災設備状況や火害調査などとともにまとめられ発表されている。この中には発見と通報の状況や、劇場関係者に対する調査票を用いた調査結果についても示されている。このような調査グループの構成や結果の公表の方法は白木屋の火災の時と同様である。この劇場は当時としては防火的配慮が払われていたとされる建物であり、過去の数百人という死者を出すような結果とはならずにすんだが、条件によってはより重大な事態となる危険性もあり、更に防火的な改善の教訓を得るために調査が行われたといえる。この劇場の復旧工事にあたっては、舞台と客席の防火区画の信頼性の向上、客席大天井の防火的設計、舞台天井へのドレンチャーの設置・排煙口の増設、舞台設備の防火処理、楽屋まわりの避難用タラップの増設などが行われている(文献38〜40)。

消防法に基づく火災の調査

 上記に示した火災については消防本部が調査を行っているが、これは、それまでの「内務報告令」に代わって戦後の1947年に制定された「消防組織法」及び1948年に制定された「消防法」に基づいている。具体的には「消防組織法」に基づき1953年に消防庁が制定した「火災報告等取扱要領」に従って発生した火災はすべて一定の様式で記入され、各市町村長から都道府県知事を経由して消防庁長官に報告されることになった。また、「消防法」に基づく「火災の調査」としては、消防長又は消防署長により火災の原因調査(出火の原因、延焼拡大の原因、死傷者発生の原因にわたる調査)と火災及び消火のために受けた損害の調査が行われることになった。

 以上のようにして調査された結果のうち、特徴的な火災については、上記のような日本建築学会の報告や、1947年に発足した日本火災学会の「火災誌」(第1号は 1951年発行)の記事として消防本部名(火災の概要など)或いは個人名(避難行動の分析など特化したものが多い)で紹介されるようになった。

 1960年代になると、ビル火災が頻発するようになり、金井ビル火災(1966年、川崎市)では12人、旅館池之坊満月城火災(1968年、神戸市)、磐光ホテル火災(1968年、郡山市)ではそれぞれ
30人が死亡している。これらのうち、旅館・ホテル火災は、1960年代の高度経済成長期のレジャー・ブームにともなって増築が繰り返された旅館・ホテルにおける災害を代表しており、防火管理の遅れが指摘されている。これらの火災の避難状況については、担当の消防本部がアンケート調査を行い、詳細な火災調査結果を公表している。また、金井ビル火災では、3階から火災が発生し、ほとんど延焼していない6階で12人が煙に巻かれて亡くなっており、煙と避難の問題がクローズアップされた(文献41・42)。これらの火災を教訓として1970年までに一連の消防法及び建築基準法の改正が行われ、防火管理関係、防炎規制、竪穴区画、内装制限・避難施設、排煙施設・非常用照明装置・非常用進入口・非常用昇降機の設置等について規制強化が行われた。

5)1970年代以降

アメリカ・バーニング

 米国では、合成繊維やプラスチック製品、合成ゴムなどが1960年代以降ますます多く使われるようになり、また、難燃材料が使われることもあいまって、これらの合成材料からの火災時の煙や毒性ガスがより大きな問題となってきた。このような中で、1971年には火災による死者が米国では年間約1万2千人(当時の日本の火災による死者数の約8倍)と多数に上り、また、消防士の死亡率も高い状況が続いた。1960年代の後半にはこれらの状況に根本的な対策を求める声が高まり、1973年に国家火災予防制御委員会の報告書「アメリカ・バーニング(アメリカ炎上)」が発行され、国民が一体となって火災の問題と取り組むことが宣言され、1974年には連邦火災予防制御法を成立させ、様々な取り組みが始まった。この連邦火災予防制御法によって設立された連邦消防局の国家火災データセンターは、国家火災報告システム(NFIRS)を開発・運用を開始し、米国の各州や主要な都市で行われた火災調査の結果が集約されることになった。

 「アメリカ・バーニング」報告は、火災予防の諸側面についての取り組みを提起し、多くの研究機関に研究資金が行き渡るようになり、火災時の人間行動の分野についても1970年から1980年代の中ごろまで盛んに行われるようになり、主要な火災やその他の火災についても詳細な火災調査が行われた。

 「アメリカ・バーニング」報告では、煙や毒性ガスの問題については、当面は、自動スプリンクラーや感知警報システムによる対応を図る必要があるが、将来的にはこれらのシステムだけにたよるのではなく、危険な物質に取り囲まれて生活しなくてもよいようにするとともに、システム・アプローチの方法によって、効果的に火災対策の費用をかける必要があるとしていた。また、同報告では、人間行動についての研究は、主として防火教育の側面に応用する位置づけであった。1975年には米国やカナダの火災時の人間行動についての研究者が米国標準局(NBS)に集まり、米国健康教育福祉省からの資金による火災時の人間行動についての研究プロジェクトを開始している。1980年代からは、避難安全性を評価するために各種のコンピュータ・モデルの開発がはかられ、火災時の火災事象と避難行動をシナリオとして捉えるという方法が避難安全計画で試みられるようになった。(文献32・42〜46)。

ビル火災での煙と避難

 日本においては、 1960年代以降、高度経済成長の中、合成材料利用の急増により火災時の煙や毒性ガスが問題となることに加えて、高層ビル、雑居ビル、ペンシル型ビルなど様々なタイプの耐火建築物の中高層化が進み、先述した1966年の金井ビル火災の他、1970年代には、千日前ビル火災(1972年、大阪市)、大洋デパート火災(1973年、熊本市)をはじめ多数の死者を出したビル火災が相次ぎ、煙との関係で避難をみていく必要が生じた。これらの多数の死者が発生した火災を契機として、火災時の避難行動に関する幅広い調査研究の必要性が認識され、建築計画分野の研究者も加わって火災時の在館者行動調査が始められた。この時代、避難行動については京都大学の堀内の研究グループが、多くの火災事例調査を精力的に行っている。堀内は、従来から行われていた各個バラバラの対策や研究の「信頼性や有効性の算定を軸とする総合化」が必要であり、その「総合化」に欠くことのできない、しかも最も遅れている災害時の人間挙動の分野に主力を注いできたとしている(文献42・47)。この他、様々なグループにより火災事例における避難調査が行われており、その結果、ビル火災での典型的な煙と避難についての現象が整理され、また、日常動線志向性、帰巣本能、指光本能、向開放性、退避本能、追従本能などの避難行動特性が明らかとされ、その上で、避難路は簡単明瞭であること、二方向避難が可能であること、安全域まで歩行で避難可能であること等の避難対策の原則が示された(文献48)。これらの研究で解明された結果を用いることにより、人間の習性にかなった、逃げやすい、より安全な避難設計となるためのより適切な設計指針が得られることになる。具体的には日本建築センターの「建築防災計画指針」へ反映され、建築物の防災計画書を作成する際の参考となってきた。

 1980年代になると、川治プリンスホテル火災(1980年、死者45名)、 ホテルニュージャパン火災(1982年、死者32名)、万座ホテル火災(1983年、死者なし)、熱川ホテル大東館火災(1986年、死者24名)などの宿泊施設での火災が連続して発生した。これらの火災については消防研究所の神らが在館者へのヒアリング調査を行っている。その結果、避難安全は行動面だけでなく、適切な行動を行う上での正しい火災の情報伝達が非常に重要であり、避難安全上併行して考えるべき問題であることを明らかとした(文献42)。

英国での心理学からのアプローチ

 英国では、1960年代から1970年代に火災発生件数が急増している。この時代から普及してきた電気調理器からの火災件数や社会の疲弊に起因する放火件数が増加したほか、比較的大きな火災の後に特に急増している。また、米国と同様に、発泡プラスチックを詰めた椅子などからの毒性ガスを含む煙の問題など、従来の法規制で前提としていた火災そのものが変化してきている状況となっていた。法規制によって規定されている避難施設などが人間にうまく使われるかどうかは、火災時の人間の行動特性にかかっているので、人命安全のための対策をより適切に行うための科学的な火災時の人間行動についての研究を行って火災安全のための法規制に活用しようということになり、英国建築研究所の火災研究ステーション(FRS)でこの分野の研究が始まった(文献49・50)。

 1970年頃、FRSでは大学の心理学研究者との共同によりストレス下での人間行動について研究を始めた。具体的には消防隊の協力により約1000件の火災現場での質問票を用いたインタビューによる行動調査を約2000人に対して実施し、死傷者の出た火災とそうでない火災について人間行動の比較を行った。その結果、これまで個別の事例でパニックといった側面だけが火災時の人間行動として取り上げられていたが、一般の人はそれまで思われていたよりも消火活動などを行おうとすること、避難をするかどうかの決断は、火災がどの程度深刻になるかの個々人の見通しに依存すること、死傷者が出なかった火災では訓練を行ったことがあるなど建物に精通しているケースが多いことなどを明らかとした(文献51)。

 1975年には、FRSと心理学の教授であるサリー大学のデービッド・カンターとの共同研究が始まった。現代心理学によって避難行動をとらえると、それは火災への様々な対応の一側面であると見ることが重要であるとカンター教授は指摘し、火災調査によるケーススタディによって人間行動についてのモデルをつくり上げた。その結果わかったことは、「@人々の火災時の行動は、組織の中での役割に依存しその責任にふさわしく行動する。A人々は、よく知っている経路を避難に用いる。B 人々はベルなどの警報を無視する傾向がある。C火災の最初の前触れが不確かであると、人々は行動のよりどころとなる情報を探す。D人々は火災に対して最も適切な行動をとらず、これはよくパニックと呼ばれるのだが、これは、得られる情報の範囲では最も合理的な行動をとっていると解釈される。」の5つの点に要約される。また、初期行動が最も結果の成否につながることを明らかとしている。このような知見が得られているのであるが、FRSでもカンター教授もこの知見をどのように対策に結びつけるか当初は見当がつかなかったようである。

 1970年代末には、自動火災報知システムからの誤報が多発し、誤報であってもまずは消防隊を呼ぶ傾向があることによる消防隊への負担が問題となっていた。この問題に対処する一つのカギとしてカンターの指摘した火災時の初期行動との関連が持ち出され、1980年代にコンピュータを用いた火災警報システムが開発された。このシステムを有効に使えば、これまで定められていた歩行距離制限が緩和されるのではないかということにもなったが、過去の火災事例ではたして役立ったかどうか検証する必要があるということになり、ウルスター大学のシールズ教授が分析を行い有効だったとの結果を得たとされているがその報告書はまだ公表されていない。分析に用いられた火災事例の関係者がまだ存命中であるためである(文献52)。

火災と人間行動

 1977年には、英国のサリー大学、1978年には米国のNBSでヨーロッパ及び北米から火災時の人間行動を研究している人々がそれぞれの研究を持ち寄ってセミナーを開き、これらのセミナーの時に提出された論文を基に1980年には「火災と人間行動(Fires and Human Behaviour)」が出版された。1977年のビバリーヒルズサパークラブ火災(米国ケンタッキー州、164人死亡)、1980年のMGMグランドホテル火災(米国ラスベガス、85人死亡)など、この間に起こった主要な火災についてはこれらの研究者によって詳細な調査が行われている。また、1987年に英国のロンドンで発生したキングスクロス地下駅火災についても調査が行われ、「火災と人間行動」第2版に収録されている。これらの火災時の人間行動についての研究の結果で特徴的なことは、緊急時に情報を活用することについて重視していることであり、従来の火災といえばパニックを心配することはかえって人々の避難を阻害することになる、なぜ、火事が起こったときに人々に真実を言ってはいけないのか、という問題提起である。

 1993年のニューヨークのワールド・トレード・センターにおける爆発・火災後の避難については、アンケート調査及びインタビュー調査が行われ、障害者の避難についても着目された。この爆発・火災では、爆発によってコントロールセンター(防災センター)が破壊され、火災報知器、音声通信、非常放送設備が作動しなくなり、在館者は警備員の指示なしに緊急事態に対応しなければならなかった。そして、大量の避難者によって階段は埋まり、待ち行列のためドアは開いたままとなり、煙が階段を汚染した。さらに、避難者が階段から出たり消防隊員が階段に入る間、非常口は開いたままとなったため1階ロビーの煙が階段に侵入した。日本からの調査団によるワールド・トレード・センター内に事務所のあった日系企業に対する調査も行われており、全館への煙の拡散による全館避難の問題や、防災センターからの避難誘導がないため幹部以外の従業員をただちに避難させたことによる問題などが指摘されている(文献32・53〜55)。

 日本においては、1988年の南砂スカイハイツ火災、1989年の長崎屋尼崎店火災(死者15名)、1996年の広島基町高層住宅火災、1998年の白浜温泉ホテル火災など特徴的な火災について火災調査が行われ、避難行動の知見が蓄積されてきている。

3.おわりに
 
 各時代における火災調査と避難安全計画との関係をみてきた。各時代で特徴的な火災調査で把握された避難行動の特徴などは、その前の時代で解決された条件の上にたったものであるとの見方が必要だと感じる。たとえば、火災時にパニックはあまり起こらず、むしろ初期の人間行動がキーポイントになるといった把握がされるのは、その前の時代に火災や煙の拡大についての制御、避難施設の配置や容量などが整った上で、パニックの心配をしなくてもよくなっていることが背景にあるのである。このことをおさえた上で、早期警報システムを考えるべきなのであり、安易なトレードオフにならないようにするべきである。

 最近において特徴的な火災についての調査が行われている背景には、性能設計の時代になり、評価のために避難モデルがますます使われるようになってくることがある。しかし、その前提条件として人間行動のモデル化が現実に即したものになっているか、鋭く問い直されているのではないかと考える。つまり、本当にその避難モデルで予測すれば火災時の安全性を証明できるのか、たとえば、避難開始時間についてその設計から考えられる諸条件から妥当な予測を行っているか、いろいろなタイプの人が混じって避難が行われていることを本当に評価しているのか、が問われているのである。
 
 そのためには、過去の火災調査の結果も含めて火災事例を分析し、個々の火災の側面だけでなく、各火災の条件を整理した上で、総合的に教訓を把握し、火災安全のシステムに反映させる必要があるとともに、各種の条件で十分妥当性のある避難モデルを今後作っていく必要がある。また、様々な条件における人間行動を予測するには、死者が多数出た火災だけでなく、小さな火災を含めて調査が行われる必要がある。

 年々、火災直後の現地への立入が犯罪の立件に関与する調査に圧され制約されてきているといわれている(文献42)。責任の所在を明らかとすることは今後の対策が確実に行われる上では重要なのだが、調査結果の公表という点で問題が残る。そこで、火災予防の観点からの消防機関の火災調査権を活用し、建築学会や火災学会などの研究グループと連携して調査を行い、調査した結果の公表、利用を進めることがより重要となってきたといえる。


参考文献

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18)NFPA、Proceedings of Thirty-Sixth Annual Meeting、pp.296-301、1932.
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20)NFPA、Proceedings of Thirty-Eighth Annual Meeting、pp.317-339、1934.
21)NFPA、Proceedings of Thirty-Ninth Annual Meeting、pp.398-409、1935.
22)NFPA、Proceedings of Forty Fourth Annual Meeting、pp.202-209、1940.
23)北沢五郎、資料 百貨店の火災に於ては人は如何に逃げたか、建築雑誌、pp199-208、1933.9.
24)北沢五郎先生記念出版実行委員会、五月晴、1966.
25)高野公男、白木屋の火災、建築防災、pp.14-23、1999.8.
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28)NFPA、Proceedings of Fifty Third Annual Meeting、pp.160-163、1949.
29)NFPA、Proceedings of Fifty Seventh Annual Meeting、pp.65-71、1953.
30)NFPA、Proceedings of Fifty Eighth Annual Meeting、pp.86-90、1954.
31)NFPA、Proceedings of Sixtieth Annual Meeting、pp.100-111、1956.
32)Bryan, J. L.、 "Human Behavior in Fire the Development and Maturity of a Scholarly Study Area", Human Behavior in Fire、Proceedings of the First International Symposium、pp3-12、1998.
33)水根義雄、二百八名の命を呑込んだ劇場火災、1991.
34)北沢五郎、非常口、科学知識、昭和18年5月号、1943.
35)関根孝、思い出すこと、火災、Vol.49、No.3、1999.
36)戸川喜久二、群衆流の観測にもとづく避難施設の研究、建築研究報告14号、建築研究所、1955.
37)戸川喜久二・岡樹生、丸光百貨店火災時の群衆避難に関する調査とその解析、日本建築学会大会論文集、1956.
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39)戸川喜久二、劇場・映画館における避難計画(東京宝塚の火災に関連して)、建築雑誌、Vol.73、No.859、pp.9-11、1958.
40)浜田稔・亀井幸次郎・芦浦義雄・味岡健二・塚本孝一・高野高次・大内二男、東京宝塚劇場火災実態調査報告、建築雑誌、Vol.73、No.859、1958.
41)関沢愛、避難事例研究の系譜、日本火災学会50年史、pp.125-126、2000.
42)山田常圭、火災時の避難行動調査および避難行動実験とその支援機器開発にかかわる研究推移、火災、Vol.50、No.1、2000.
43)America Burning、The Report of The National Commission on Fire Prevention and Control、1972.
44)http://www.usfa.fema.gov/
45)長谷見雄二、避難安全設計が成り立つまでの歴史を考える、建築防災、pp.2-6、1991.4.
46)Jake Pauls、A Personal Perspective on Research, Consulting and Codes/Standards Development in Fire-Related Human Behaviou, 1969-1997, With an Emphasis on Space and Time Factors、Human Behavior in Fire, Proceedings of the First International Symposium、pp.71-82、1998.
47)堀内三郎、防火計画の研究と私、退官記念講演、1980.
48)室崎益輝、ビル火災と避難行動、法律時報49巻4号、pp.220-228、1977.
49)Ian Appleton、The Requirements of Research into the Behaviour of People in Fires、Fire and Human Behavior、John Wiley & Sons Ltd、pp.13-30、1980.
50)G.Ramachandran、Human Behavior in Fire−A Review of Research in the United Kingdom、Fire Technology、pp-149-155、May 1990.
51)Peter G. Wood、A Survey of Behavior in Fires、Fire and Human Behavior、John Wiley & Sons Ltd、pp.83-95、1980.
52)Pigott, B. B., "An Administrator's View of Human Behavioural Research
from 1975 to 1995", Human Behavior in Fire, Proceedings of the First
International Symposium、pp.31-38、1998.
53)Isner、M.S.、World Trade Center Explosion and Fire、New York、February 26、1993、NFPA、1993.
54)G・T・タムラ著、吉田治典訳、高層ビル火災の排煙と制御、鹿島出版会、
pp.135-137、2000.
55)吉田克之、米国・世界貿易センターの避難行動、建築防災、
pp.26-34、1993.9. 


表1 死者50人以上の建物火災(世界)

西暦 国名(場所) 火災になった建物 死者 備考
1689 デンマーク(コペンハーゲン) 木造のオペラ劇場と城 210人 .
1836 ロシア(ペテルブルグ) 劇場 700人 .
1845 中国(広州) 劇場 1670人 .
1846 カナダ(ケベック) 王立劇場 200人 負傷多数
1863 チリ(サンチアゴ) 教会 2,000人 多数は婦人と子供
1876 米国(ニューヨーク) コンウェス(ブルックリン)劇場 295人 .
1881 オーストリア(ウィーン) リング劇場 850人 .
1883 ロシア(モスクワ) ブフォ劇場 270人 .
1883 英国(サンダーランド) ビクトリアホール 183人 児童が階段で圧死
1885 米国(リッチモンド) 木造のサーカス劇場 100人 負傷多数
1887 フランス(パリ) オペラ劇場(コミック座) 115人 重傷60人
1887 英国(エクスター) ロイヤル劇場 86人 .
1888 ポルトガル(オポルト) バケット劇場 170人 .
1897 フランス(パリ) チリティーバザー会場 124人 .
1902 米国(アラバマ州) 教会 115人 .
1903 米国(シカゴ) イロコイ劇場 602人 負傷250人
1908 米国(ペンシルバニア州) ロードス・オペラ劇場 170人 映画館
1908 米国(オハイオ州) レイクビュー中学校 176人 .
1911 米国(ニューヨーク) トライアングルシャツウェスト会社 145人 .
1909 メキシコ(アカプルコ) フローレヌ劇場 250人 .
1919 プエルトリコ マヤケス劇場 150人 .
1923 米国(サウスカロナイラ州) クリーブランド地区学校 77人 .
1927 米国(モントリオール) ローリアー・パレス劇場 78人 .
1928 スペイン(マドリッド) ノバタテス劇場 67人 .
1928 チリ(タルカ) 中央病院 100人 地震火災
1929 ソ連(イゴルキノ) 映画館 144人 .
1929 米国(オハイオ州) クリーブランド病院 125人 X線室爆発、毒ガス
1930 ルーマニア(コスチ) 教会 150人 .
1930 米国(オハイオ州) コロンブス刑務所 320人 囚人
1933 米国(ロサンゼルス) 学校・倉庫など 500人 .
1937 中国(安東) 安東劇場 650人 .
1937 日本(和歌山) 南冨田小学校 81人 講堂で映画会中
1937 米国(テキサス州) 中・高等学校(ニューロンドン) 311人 ガス爆発
1940 米国(ミシシッピ州) ダンスホール(ナッチェス) 207人 .
1942 米国(ボストン) ココナッツグローブナイトクラブ 492人 1,000名入場
1942 カナダ(セントジョン) ホテル 100人 .
1943 コロンビア サンドーナ市庁舎 103人 .
1943 米国(テキサス州) ガルフモテル 55人 .
1943 日本(北海道) 布袋座(映画館) 205人 積雪で非常口開けず
1944 米国(コネチカット州) サーカステント(ハートフォード) 169人 .
1946 米国(シカゴ) ラサールホテル 61人 .
1946 米国(アトランタ) ウィンコフホテル 119人 15階建、3階出火
1948 米国(イリノイ州) 病院 74人 急激な火災拡大
1948 中国(香港) 倉庫 135人 .
1951 ナイジェリア(カノ) 映画館 100人 .
1955 日本(横浜) 養老院 99人 .
1957 米国(ミズリー州) 養老院 72人 .
1958 米国(シカゴ) 学校 95人 .
1958 コロンビア(ボゴタ) ウィーダデパート 98人 出口1ヵ所
1960 グァテマラ(グァテマラ) 精神病院 200人 無窓
1960 シリア(アミューデ) 映画館 152人 .
1961 ブラジル(ナイトロール) サーカスのテント 323人 .
1963 セネガル 劇場 64人 .
1963 米国(オハイオ州) 老人ホーム 63人 .
1967 ベルギー(ブリュッセル) イノバシオンデパート 322人 .
1968 インド(ビジャワダ) 結婚式場 58人 .
1970 フランス(サンローレン) ダンスホール 144人 .
1971 韓国(ソウル) 大然閣ホテル 163人 .
1972 日本(大阪府) 千日ビル 118人 .
1973 日本(熊本県) 大洋デパート 103人 .
1973 韓国(京城) 劇場 50人 .
1974 ブラジル(サンパウロ) 高層ビル 227人 .
1977 米国(サウスゲート) ビバリーヒルズサパークラブ 164人 .
1978 イラン(アバダン) 映画館 430人 放火
1979 インド(ツチコリン) 映画館 104人 .
1980 ジャマイカ(キングストン) 老人・困窮者施設 157人 .
1980 イラク(バクダット) 映画館 59人 .
1980 ポーランド 精神病院(ゴーナグルッハ)゚ 50人 .
1980 米国(ラスベガス) MGMグランドホテル 85人 負傷534人
1981 インド(アーマダバード) 5階建ての行楽用建物 50人 .
1983 イタリア(トリノ) 映画館 64人 負傷93人
1983 スペイン(マドリード) 地下ディスコ 79人 ステージ付近出火
1985 英国(ブラッドフォード) サッカー競技場観客席 54人 .
1986 プエルトリコ(サンファン) 高級ホテル 95人 .
1991 中国(広東省) 工場の宿泊施設 66人 .
1993 中国(唐山市) 百貨店 79人 負傷53人
1994 中国(犀新) ダンスホール 233人 負傷5人
1994 中国(カマライ市) 映画館 310人 負傷150人、児童
1995 台湾(台北市) 耐火造3階複合建物 67人 カラオケ
1995 インド(ダブワリ) 学芸会(小中学生等) 425人 負傷120人

出典
高橋太「外国の火災年代表」(火災便覧第3版)、
矢島安雄「ビル火災の避難と救助」、

NFPA防火ハンドブック及び全国消防長会「海外事例は物語る」掲載火災事例


表2 死者10人以上の建物火災(日本)

西暦 所在地 火災になった建物 死者 備考
1929 東京都牛込区 戸山脳病院 12人 患者の放火
1929 東京都 東大久保脳病院 12人 患者の放火
1931 北海道 東島牧村特設映画会場 16人 仮設映画館
1931 群馬県 金古町繭糸市場 13人 仮設映画館
1932 東京都日本橋区 白木屋(百貨店) 14人 8階建、重傷百十数人
1932 東京市深川 大富市場アパート 23人 木造3階建、重傷3人
1934 広島県呉市 衆楽市場 11人 店舗併用住宅
1937 東京市銀座 関西割烹「銀栖鳳」 10人 近隣の市場等焼失
1937 東京都浅草区 同情園育児部(福祉施設) 10人 .
1937 広島市西白島町 私立教護所(福祉施設) 23人 死者は全員幼児
1937 和歌山県西牟婁郡 南冨田小学校 81人 講堂で映画会中
1943 北海道倶知安町 布袋座(映画館) 208人 積雪で非常口開けず
1945 徳島県 大阪市立南恩加島国民学校 16人 疎開中の貞光寺で火災
1950 岡山市 岡山県立聾学校寄宿舎 16人 宿直の失火
1951 北海道浜中村 大原劇場(映画館) 39人 .
1951 彦根市 近江絹糸彦根工場講堂 23人 映画上映中。圧死。
1951 千葉県勝浦町 見晴館(旅館) 10人 84戸焼失
1951 北海道釧路市 私立釧路病院 18人 .
1953 岡山県 加茂中学校倉見分校 14人 映画会中に出火
1955 横浜市 聖母の園養老院 99人 木造2階建
1955 千葉県市川市 式場精神病院 18人 .
1959 北海道美幌町 美幌銀映座(映画館) 12人 .
1959 熊本県多良木町 多良木病院 12人 .
1960 神奈川県横須賀市 衣笠病院 16人 .
1960 福岡県久留米市 国立療養所久留米病院 11人 .
1966 神奈川県川崎市 金井ビル 12人 6階建、3階出火
1966 群馬県水上町 菊富士ホテル 30人 警備員控室から出火
1968 神戸市 池之坊満月城(旅館) 30人 耐火一部木造
1969 福島県郡山市 磐光ホテル 30人 .
1970 栃木県佐野市 両毛病院 17人 患者による放火
1971 和歌山県和歌山市 寿司由楼 16人 .
1972 大阪市南区 千日ビル 118人 .
1973 福岡県北九州市 済生会八幡病院 13人 .
1973 熊本県熊本市 大洋デパート 103人 .
1976 静岡県沼津市 三沢ビル(らくらく酒場) 15人 .
1978 新潟県新潟市 今町会館(エル・アドロ) 11人 .
1980 静岡県静岡市 ゴールデン街第一ビル 14人 地下店舗
1980 栃木県藤原町 川治プリンスホテル雅苑 45人 .
1982 東京都千代田区 ホテルニュージャパン 32人 .
1983 山形県山形市 蔵王観光ホテル 11人 .
1986 静岡県東伊豆町 ホテル大東館旧館「山水」 24人 木造3階建
1987 東京都東村山市 昭青会松寿園(老人ホーム) 17人 .
1990 兵庫県尼崎市 長崎屋尼崎店(物販店舗) 15人 .
出典
 高橋太「特異火災事例一覧」(火災便覧第3版)
 長谷見雄二「大規模木造建築の火災」掲載火災事例

 


   
    
   1)断面図
    
   
    
   (
2)平面図

   図1 イロコイ劇場(1903年火災、文献9・11より)

 
   

   図2 推奨された避難階段の一例(文献14より、1911

 
   

   図3 提案された水平避難の概念図(文献8より、1913


この文章は、「建築防災」に掲載されたものをベースとしています。今後、日本建築防災協会編集「20世紀の建築における災害と防災技術」(技報堂出版)の北後担当分に掲載する予定です。