大腸菌におけるパルスフィールドゲル電気泳動パターンの変異に関する研究

 病原菌による集団感染事例または散発的感染事例が発生した場合、その原因食品や感染経路を明らかにするために分離 株の系統的素性の決定が求められる。その決定法として生化学的型別、ファージ型別、血清型別といった表現型による古 典的手法も用いられるが、近年、疫学的分類をより明確にするためにPCRを基本とする手法、リボタイピング 、パルスフィールドゲル電気泳動法(pulsed-field gel electrophoresis :PFGE)による染色体DNA制限断 片パターンの解析といった遺伝子学的手法が使われるようになった。中でもPFGEは細菌の 疫学的分類において最も有効な手法として頻繁に使われている。
 1996年、日本において腸管出血性大腸菌O157:H7(enterohemorrhagic Escherichia coli O157:H7:EHEC O157: H7)による一連の集団感染事例が突発的に引き起こされた。これらの事例から分離された株をPFGEにより解析し た結果大きく6タイプに分類され、散発感染事例を含む1,794株について細かく分類すると200を越える多型が確 認された。これらの結果により、日本全土で発生したEHEC O157:H7による集団感染事例および散発感染事例は 単一のクローン株によるものではなく、多数の異なったクローン株により引き起こされたと考えられている。  実験室環境においてCampylobacter coliでは菌株を継代、保存することにより自発的な遺伝子の配置転換 (spontaneous genomic rearrangements)や可動部位の組換え(recombination of mobile elements)により 、PFGEパターンの異なる株が発生したり、Staphylococcus aureusStaphylococcus epidermidis、それに 大腸菌においては、ファージを人為的に溶原化させることによりPFGEパターンのある特定単一バンドがファー ジDNAの分子量の大きさだけ上方に移動することが観察されている。このような内的、または外的要因 によるPFGEパターンの多様化事例を考えると、単一のクローン集団が常に単一の遺伝子プロファイルを維持するとは限ら ないと考えられる。従って分子疫学的調査を行った場合、これらの要因が分離株のPFGEプロファイルに影響する可能性も あることから、上記のEHEC O157:H7株のクローナルな多種性もこの見地から再検討する必要がある。
EHEC O157:H7は志賀毒素(Shiga toxin :Stx)を産生する。このStxは本菌の主たる病原因子とされており、実験室 環境においてベロ細胞に対して細胞障害性であることが分かっている。StxはStx1とStx2の2種類に大別され、 それらの毒素遺伝子(stx1とstx2)は本菌に溶原化しているバクテリオファージにコードされている。すなわ ちこのバクテリオファージが毒素性のない大腸菌株に溶原化することにより、その宿主菌株でもStxが産生される 。
 マウスにStx1転換ファージ溶原株(ファージ提供株)と宿主株を接種し、その糞便からこのファージ が溶原化した宿主株を得ることにより、腸管内において大腸菌間でStx1転換ファージの伝播が起こっていることや 下水中でStx2転換ファージが他菌に感染することが報告されている。また、 実験室環境においてEHEC O157:H7に溶原化しているStx転換ファージが取り扱い中に消失し、 それに伴って宿主菌のPFGEパターンが変化することを報告されている。これらの報告から考えると、Stx転換ファージを はじめさまざまなバクテリオファージが菌株に出入りすることにより遺伝子的多型株が生み出されていることが予想 される。しかしながらバクテリオファージが大腸菌に溶原化したときに起こるPFGEパターンの変化や表現型への影響に ついてはこれまでほとんど検討されていない。そこで本研究では由来の異なるEHEC O157:H7株から分離した3種類の Stx2転換ファージを実験株大腸菌 K-12由来株に溶原化させ、PFGEパターンと表現型への影響について 調べた。

修士論文要約

 由来の異なる3つのStx2ファージを大腸菌K-12株に溶原化させたときに起こるPFGEパターンおよび炭水化物発酵能を含む 表現型の変化を調べた。本実験では19の溶原株を作製し、それらのPFGEパターンは3タイプ(PFGEタイプB、CおよびD)に 分類された。大腸菌K-12株のPFGEパターンにみられた255 kbpのバンドは、PFGEタイプDではStx2ファージDNAのサイズ (約65 kbp)だけ大きくなり、320 kbpに変化した。PFGEタイプBおよびCでは上記のバンドサイズの変化に加え、大腸菌K -12株のPFGEパターンと比較してそれぞれ5および9のバンド変化が観察された。49種類の炭水化物を用いた発酵能試験により、 本来持っている5-ketogluconate発酵能がPFGEタイプBおよびCを示した溶原株では失われた。PCRおよびサザンブロットハイ ブリダイゼーションにより、5-ketogluconate代謝に関係した遺伝子群の一部を含む約40 kbpがPFGEタイプBおよびCを示した 溶原株では欠失していることがわかった。
 また25週間にわたり3つのEHEC O157株を連続継代または室温保存し続けることによるPFGEパターンへの影響を観察した。連 続継代または室温保存により、オリジナルの菌株とは異なるPFGEパターンを示す菌株が複数観察されたが、その変化は最も大 きいもので5つのバンド変化であった。この多型化は制限断片に影響する2(または3)つの自然発生的な変異により起こったと推 測されたが、疫学解析においてオリジナル菌株とこの多型株間の系統性は失われない程度の変化であった。よってEHEC O157株に おけるPFGEパターンの劇的な多型化は菌株染色体の自然発生的な変異では起こらないことが示唆された。
 Stx2ファージの溶原化が大腸菌K-12株の遺伝子型や表現型を変化させたことより、ファージの溶原化がEHEC O157を含む大腸 菌株の多型化を誘導する可能性が示唆された。実際にそのような現象を起こすのであれば、多様なPFGEパターンを示すEHEC O157 分離株は、ファージの溶原化を介して派生している可能性が考えられる。

 
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