*

非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

HOMEPROFILELINK

前書き

 アイザック・ニュートンの有名な言葉から私達は科学の重要な進歩は「巨人達の肩の上」で生まれる事実を思い出すことができる。だが残念なことに、私達の分野の「巨人達」の存在を知る研究者や学生は多くはない。DNA二重らせんの発見者であるジェームス・ワトソンとフランシス・クリックの名前は誰でも間違いなく知っているだろうが、ワトソンが遺伝学上の3人のMと呼んだグレゴール・メンデル、トーマス・モルガンとバーバラ・マックリントックについて知るものは多くないだろう。因みに、放射線が突然変異を誘発すること、細菌が遺伝子をもつことを発見した科学者や遺伝暗号表の作成などノーベル賞級の発展をもたらした科学者は誰かを学生に聞いてみれば、彼らの多くは困惑するに違いない。こうした遺伝学上の重要な概念の多くは、発見からまだ100年足らずの時間しか経っていないにもかかわらず、今日の講義や研究の場では当然のことと看做されている。これらの概念が基本的であること、一方で今日の生物学では学ばなければならない事実が多すぎることから、こうした歴史への無知も理解できなくはないが、科学上の発見とそれを達成した科学者の物語を知れば、科学はもっと魅力的で理解し易いものになるに違いない。私達がこの本を書いた目的は、今日花開いている分子遺伝学の基礎を20世紀の初めに確立した巨人達について彼らの物語を語り伝えることだった。

 私達はそうした先駆者の一人であったジョージ・ウェルズ・ビードルの人生を中心課題として選んだが、それは彼の人生が抽象論から分子に基礎を置く科学へと変化する時代とほとんどの場面で重なっていたからである。ビードルはまさにそうした変化の立役者の一人だった。彼は20世紀古典遺伝学のリーダー達とともに仕事をし、彼らの知恵と彼らが研究と学生教育で用いた革新的なやり方を吸収した。こうした先達達の人生の物語、人間味と業績はビードルと彼の同僚達が自分達の志を達成するための指針だった。

 誰も遺伝子の物理的性質を知らなかった当時、ビードルは遺伝子がどのような仕組みで生物の形質を決めるのかを明らかにしようと企てた。遺伝子がタンパク質の合成を担っているという事実を多くの懐疑的な遺伝学者と生物学者に証明して見せたのは、ビードルが40歳になる前だった。この画期的な発見に続く20年間で、遺伝子の本体がDNAであること、DNAは二重らせんからなる分子構造をとっていることが証明され、そこから生まれた分子遺伝学は現在もなお実験的な限界への挑戦を続けている。研究者として、その後は優れた大学管理者、政府顧問として業績を積み上げた彼はシカゴ大学の学長になった。しかし、こうした成功のすべてを経てなお、彼はネブラスカ州ワフーの農場で過ごした少年時代に学び身につけた古い価値観を墨守する農民らしい率直な思慮分別を失わなかった。

 本書の出版はビードルのカリフォルニア工科大学(カルルテック)時代の同僚だったノルマン・ホロビッツによるところが大きいが、出版事業を進める中で記述すべき範囲とその可能性について検討を重ねる私達を彼が励まし続けてくれたことに深い感謝を捧げる。ビードルをいつもビーツと呼んでいたホロビッツは、ビードルとの親密で長い友情を通じて体験した数々の出来事に関する豊かな思い出を、特に遺伝子とタンパク質の関係の発見に至る道筋で起こった多くの出来事の思い出を私達に語ってくれた。彼が提供してくれた貴重な情報は、カルテックを舞台に展開されたモルガンの時代とビードルの時代の文化を私達が互いに関連づけて知るうえで大いに役立った。

 多くの人々と研究機関がビードルの論文、手紙、写真や書類など記録文献の検索で私達を助けてくれたが、それらの資料はビードルの実像をあらゆる面から明らかにしてくれる。ビードルの子息デビッドと今は亡き妹のルースは寛大にも彼らの家族に関する資料の再収集に多くの時間を割いてくれ、特にルースは彼女の個人的な記録から貴重な資料を提供してくれた。二十世紀初頭のネブラスカ農民社会の実情を私達に教えてくれたサウンダース郡歴史協会のレイモンド・スクリュー会長と青年期のビードルと彼の家族を知るワフーの人々には特別の感謝を捧げたい。カルテック文書館の寛容な職員は、ビードル、デュブリッジ、デルブリュックに関する情報とともに、ビードルがどのように生物学部門を管理したかその実体を教えてくれる作者不詳の貴重な資料を多数与えてくれた。カルテックのハリー・グレーと先端研究所のフィリップ・グリフィスは寛大にも彼らの施設を貸してくれて、私達の仕事が捗るように助けてくれた。著者の一人ポール・バーグに執筆のための“隠れ家”を提供し仕事を楽にしてくれた行動科学研究センターの皆様に感謝を捧げる。シカゴ大学のレーゲンシュタイン図書館特別収蔵部門はビードルの学長スピーチ、文書や大学運営委員会の議事録を集めてくれたが、それらがなければ学長としてのビードルの成功と失敗の軌跡を理解し再現することは不可能だった。合衆国哲学協会、ロックフェラー財団とロックフェラー大学、コロンビア大学口述歴史レポジトリー、コーネル大学、ニューヨーク植物園、アメリカ科学振興協会、全米研究評議会の他に、ネブラスカ大学、スタンフォード大学、インディアナ大学、アイオワ州立大学、カリフィルニア大学サンディエゴ校とサンタ・バーバラ校の図書館、文書館からも貴重な支援を頂いた。私達の不注意から書き漏らしたかもしれないその他の機関も含めて、私達に協力を惜しまなかった関係機関と人々すべてに賛辞と謝意を表する。ルースと他の人々が提供してくれたビードルの人生と活動に関係した手紙と文書はすべてカルテック文書館に寄贈した。

 その他数え上げられないほど多くの人々から暖かい支援を受けた。ここでは貴重なアドバイスを与えてくれ、ビードルの物語をより豊かにしてくれた特別な人々の名のみを挙げて感謝を捧げる(注:原著では数多くの個人への謝辞が述べられているが本翻訳版では割愛した)。マーキー・トラスト(注:合衆国の女性実業家、慈善家として知られるルシール・ライト・マーキーが1975年に設立した研究支援のための信託基金)からのありがたい資金の獲得に力を貸してくれたロバート・グレーザーに感謝する。本書の初期の原稿を忍耐強く読んでくれたサリー・グレゴリー・コールステッドと編集の面でいつも変わらず私達を助けてくれたドット・ポッターに感謝する。原稿の改善に専門家として情熱的に私達を助けてくれたコールド・スプリング・ハーバー・プレスの編集者ジュディ・キュッディーと、プロジェクト・コーディネーターとして出版の全過程で私達を導いてくれたマリー・コッザには特に感謝する。本書のための研究調査と執筆に費やした数年間は私達二人にとっては実に面白く楽しい時間だったが、私達の伴侶にとって同じようにそうであったはずはないのだから、フラストレーションから私達が苛立を隠せなかった時にも、喜んで耳を傾け辛抱強く支えてくれたマリー・バーグとダン・シンガーに心からの感謝を捧げる。

                          ポール・バーグ
                          マキシン・シンガー

著者紹介

ポール・バーグ
 スタンフォード大学メディカルセンターのケーヒル生化学名誉教授(注:バークレーの美術史家で特に中国絵画の研究で有名なジェームス・フランシス・ケーヒルの名を冠した名誉教授の称号)でベックマン分子遺伝医学センターの名誉センター長。1959年にイーライリリー基礎科学研究賞、1980年にはアルバート・ラスカー財団基礎医学研究賞とノーベル化学賞を受賞。バーグ博士は合衆国科学アカデミーと付属医学研究所、アメリカ哲学協会、王立協会(ロンドン)、フランス科学アカデミーとバチカン・ポンティフィカル科学アカデミーの会員で、1983年にアメリカ国家科学賞を授章した。

マキシン・シンガー
 アメリカ国立衛生研究所(NIH)で生化学研究に従事した後、国立がん研究所生化学研究室長。現在はNIHの名誉研究者。1988年にワシントン・カーネギー研究所長、2003年現在は名誉研究所長で、カーネギー・アカデミー科学教育の上級研究アドバイザー。シンガー博士は合衆国科学アカデミーと付属医学研究所、バチカン・ポンティフィカル科学アカデミー、アメリカ芸術科学アカデミーとアメリカ哲学協会の会員で、1992年にアメリカ国家科学賞を授章した。

翻訳者の紹介
中村千春
神戸大学名誉教授、龍谷大学教授

原著表紙袖の本書紹介文

 遺伝子がタンパク質合成を主導するという発見は遺伝学を記述的な科学から分子的な解析科学の時代へ動かす先導役を果たし、近年のヒトゲノムの解読にも繋がる遺伝学の歴史における中心的な出来事のひとつであった。このパラダイム転換をもたらした主要な創造者の一人が、謙虚な農場の青年から生長し知的な原動力として人々を導きノーベル賞を獲得したジョージ・ビードルその人であった。

 ジョージ・ビードルは20世紀の初めに合衆国の心臓部であるネブラスカ州ワフーの農村で生まれた。一人の科学者としてビードルは特定の生物学上の課題を解決するためにモデルとなる生物を用いる点で驚嘆すべき柔軟性を発揮し、トウモロコシからショウジョウバエを経てアカパンカビへ、そして再びトウモロコシへと変遷した。多様な才能と研究結果を語るために合衆国中を飛び回る旅の労を惜しまなかった行動力は、彼が今日の分子生物学が歩む道を切り開いたパイオニアであったことの証である。エドワード・テータムとともにビードルは、1940年代の一連の実験から、ひとつの遺伝子がひとつのタンパク質の合成を指令するという遺伝の理解に重要な洞察を与える大発見を成し遂げ、これによってノーベル賞を受賞した。

 第二次世界大戦が終結し冷戦時代が始まると、核兵器を取り巻く政治状況と科学者に向けられた国家に対する非忠誠の疑いや申立てが科学者の共同体を蝕んだが、そうした状況下でビードルは核弾頭の蓄積と核実験がもたらす放射線による遺伝的障害に関する勧告を策定する困難な国家事業に参画した。この国家事業でビードルが果たした役割を見れば、公共政策の策定に科学者が関与する際に機能する原則は公平と正義の立場でなければならないことがよく分かる。ビードルは、カルテックの生物学部門を分子生物学の主要な研究所に立て直し、後にはシカゴ大学の学長として重責を果たすなどアカデミアでも永続的な影響力を発揮した。

 スタンフォード大学のノーベル賞受賞者のポール・バーグとカーネギー研究所の名誉所長であるマキシン・シンガーによる‘ジョージ・ビードル:非凡な農民’はジョージ・ビードルの最初の伝記である。二人の著者はビードルの人生と古典遺伝学を背景にした科学上の業績を丹念に調査し、新しい遺伝学の発展とともにバーバラ・マックリントック、ボリス・エフルッシ、エドワード・テータム、トーマス・モルガン、ライナス・ポーリング、ジュームス・ワトソンとマックス・デルブリュックなどこの分野の主要な研究者達との交流を鮮明に描いた。著者が集めたビードルの家族に残された様々な資料も、ワフーの謙虚な農村青年から遺伝学の殿堂の重要な住人の一人になったが今では見過ごされがちなビードルの性格と個性に鮮明な光を当てている。