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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第11章 懐疑者達に立ち向かう

 1945年の始めになると、ビードルは既に実験室で日々進展中の研究と直接に接する時間をもつことがほとんどできなくなっていた。突然変異体の探索とそれらの生化学的な性質付けはほぼ決まりきった定型の仕事だった。アカパンカビでなお追求されるべき挑戦的な課題の多くは3年前に彼が集めた優秀な大学院生とポスドク研究員達が担っていた。実際、ノルマン・ホロウィッツ、ハーシェル・ミッチェル、デビッド・ボナー、ガス・ドールマンとアドリアン・サーブなど多くのポスドクが、それぞれ程なく 「生化学」 分野の主導的研究者として独り立ちすることになる。彼らは固く結ばれ相互に連携する注目すべき研究共同体を形成していた。ビードルが彼らをチームメンバーとして選んだことはモルガンがハエ・グループを集めたのと同じように幸運なことだった。彼らの努力の背後にビードルが事業の推進者として存在していたことに異論を差し挟む者はないだろうが、彼らが実施した実験とそこで果たした彼らの知的な貢献が重要だった事実には疑う余地がなかった。アカパンカビの実験から生まれた仮説を説明する術語として広く用いられるようになった一遺伝子一酵素を考えついた産婆役としての功績はホロウィッツのものだった。ビードルは1944年に米国科学アカデミー(NAS)の会員に選出されたが、このことは彼が科学的名声を得た証拠で、アメリカ遺伝学会は翌年にはビードルをマックリントックの後の会長に選出した。いよいよ高まる名声によって彼は複数の科学組織と全米研究評議会(NRC)の指導者として責任ある立場に就くことになった。頻繁な旅行計画と講演スケジュールに加えてこれら全ての事情から、1939年に出版した遺伝学の教科書を最新版に改訂しようというスターテバントの提案を実現することが難しくなっていた

 アカパンカビの仕事は重要なブレイクスルーだと認められたが、一方で問題が広がった。科学界の多くは一遺伝子一酵素仮説に懐疑的で、アカパンカビから導かれた推論が例えば動物や植物のような他の生物における遺伝子の機能についても適用するのが妥当か疑問を呈する科学者が多かった。ビードルは、持前の競争精神を発揮して、こうした懐疑論や批判に正面から立ち向かった。 「生化学遺伝学」 と名付けた包括的なレビユー論文で、彼は遺伝子による制御がすでに知られていた動物と植物の形質を纏めて記述したが、そこには代謝、色素形成、形態形成、染色体行動、病害抵抗性の他に心理学的な形質さえ含まれていた。同じ年に出版された2番目のレビユー論文でも、ビードルは単一遺伝子の突然変異が単一の代謝機能の欠損をもたらすことを明らかにしたアカパンカビの実験の多くを列挙して一つ一つ説明した。彼の推論には説得力があった。代謝反応が酵素に支配されること、一つの酵素が一つの反応に関わることは既に知られている事実であり、さらに上に述べたより複雑な形質もおそらくは酵素反応の結果であると考えられることから、遺伝子は酵素の働きを直接あるいは間接に支配しているに違いないと彼は主張した

 レビユー論文に加えて、ビードルは数多くの講演でかなりの時間を費やしてこの問題を議論した。シグマ・カイ協会の主催で開催された連続講演は全体で12〜18ヶ月の時間をかけて全米のおよそ20以上の研究所で行われた(注:シグマ・カイ協会は、コーネル大学の若手教員と一部の大学院生が創設した非営利の科学研究協会から出発して、現在では全米の多くの大学の6万人を越える科学者と技術者が参加している)。どの講演でも彼は、レビユー論文に記述したのと同じように、一つの酵素反応が失われる原因は一つの遺伝子の突然変異に帰すことができる事実を示す多くの事例について詳細な説明を展開してみせた。確かに講演を聴いた聴衆から賞賛を得ることはできたが、それでも多くは懐疑的だった。ビードルが思うに、 「私達が想定したような単純な仕組みで遺伝子の作用を一般的に記述することはできる筈がない」 と大半の研究所の大半の聴衆は考えたに違いないかった

 一遺伝子一酵素仮説への不信が広く蔓延していたにも関わらず、あるいはおそらくそのために、ビードルはハーベイ協会からの招待を受けて1945年2月にニューヨーク科学アカデミーで名誉ある年次講演を行う機会を得た(注:1905年に創設されたハーベイ協会は、ニューヨークとその近郊の科学者達が参加する年7回シリーズの公開講演会のスポンサーである。講演会はロックフェラー大学の大講堂で行われる。ハーベイ講演会は全米で最も権威ある講演会でノーベル生理学・医学賞受賞者の講演を公表した年報は世界中で読まれている)。冬の盛りの戦時下での旅行に不便さはあったが、科学界のエリート達の前で自分の見解を述べる機会を彼は喜んで引き受けた。伝統的に、講演の前には、話題提供者と選ばれた友人や賓客達が黒ネクタイの盛装でパーティーに参列し、一級品のワイン付きの豪華な晩餐の席に着くことになっていた。しかし宴のハイライトはもちろん科学と医学の国内指導者達の前での講演だった。タンパク質合成の仕上げに果たす遺伝子の役割を裏付ける前例となる歴史的な研究のレビユーから始めて、ビードルは研究室の仕事から得た証拠を列挙した。彼は 「生物体内で進行する酵素に触媒される反応の全ては関与する酵素の特異性を決める遺伝子に直接依存している」 という結論を何度も繰り返し語った。彼は 「進化のプロセスを経済的な側面で考えてみれば、特定の一つの酵素の最終的な特異性は、例外はあるにせよ、ただ一つの遺伝子によって担われていると期待できる」 と確信しているようだった

 同様の点を他の場面ではさらに拡張して、たとえ一つの酵素の構造と特異性が一つ以上の遺伝子に由来するとしても、一つの遺伝子はただ一つの酵素的 「機能」 を指定するとビードルは強調した。酵素の機能についてビードルは一つの酵素反応を念頭に置いていたようだ。しかし今日では、特定の酵素は一つ以上の基質と反応することで一つ以上の機能を担うこと、さらに多くの酵素が一つ以上の遺伝子に支配される一つ以上のタンパク質サブユニットからなっていることが分かっている。ところで、タンパク質が活性であるか不活性であるかはそのタンパク質を支配する特定の遺伝子が決定すると結論する以外に合理的な説明はなく、従って 「特異性が構成タンパク質の構造に依存するすべての酵素は突然変異による修飾あるいは不活性化を受ける対象となる」 とビードルは信じていた。もちろんこれは、問題とする酵素によって正常に触媒される反応が突然変異によって完全にブロックされるか、あるいは酵素反応の速度が変更されることを意味した。この見解によれば、 「ある酵素分子の最終的な特異性はある特定の遺伝子によって決まる」 ことになる。しかし、タンパク質はそれを構成するアミノ酸から合成されるのだから、これらの構成部分そのものが 「多くの遺伝子の働きに依存する酵素反応によって合成される」 に違いないと彼は予見した。遺伝子とタンパク質にそのような階層性が存在すると仮定すれば、それが制御される必然性は明らかだと思われた

 遺伝学と生化学は共通の基盤をもつと確信していたビードルは遺伝学者と生化学者の間にあった壁に決然と立ち向かった。 「過去には余りにしばしば遺伝子は遺伝学者だけの対象物だと考えられていた」 とビードルは見ていた。しかし、 「遺伝子を考慮せずには生化学者が生物で起こっている化学的な事象を遺伝学者よりもっとよく理解することはできないし、遺伝学者も遺伝子が何であって何をしているかを考慮せずに遺伝子を完全に評価することは到底できない」 。彼が非難に値すると考えるのは、 「私達の高等教育機関の研究者達は‘生化学’とか‘遺伝学’のような標識のついた研究室に追いやられがちである」 ことだった。 「遺伝子にとっては両者の違いなどどうでもよいこと」 であるから、 「少なくとも一つにする方がよい」 。実は、集団遺伝学者のシューアル・ライトが既に25年以上も前に同じことを訴えていた。 「遺伝学者達の推論と生化学者達の発見をいつも比較すると、最終的には両者の間に綺麗な相関があることが確かになるだろうと思える」 と。この問題を引きとって、ビードルは 「大学生の中には‘遺伝学研究室’と書かれた看板がかかった研究室のドアーから入って行く者もあれば、別の学生は‘生化学研究室’という看板のかかったドアーから入って行く。しかし将来は遺伝学と生化学は同じ研究室になり、学生達は一つのドアーから中に入って行くことになるだろう」 とコメントした。実は彼は、数年以内に遺伝学者と生化学者を同時に受入れる 「生物学」 という名前のついた研究室を創設する機会を与えられることになったのであるが、もちろんその当時の彼にはこれを知る術はなかった。彼の考え方に変化があったかどうかは不明だが、ロックフェラー財団で長年にわたって彼を擁護してきたハンソンは、ハーベイ講演会にもちろん参加しており、過去の講演者のうちでも最大の喝采をビードルが博したことをよく覚えていた10

 ビードルにとって遺伝子は実体であり、高名な生理遺伝学者だったリチャード・ゴールドシュミットが暗に指摘したような仮想の産物ではなかった11。 「単位としての遺伝子は」 とゴールドシュミットは渋々ながら遺伝子に言及し、 「突然変異遺伝子と呼ばれるものの存在から導かれる概念である。しかし、染色体の特定の座位にあって我々が突然変異遺伝子と呼ぶある状態が存在するにしても、その座位に別の単位としてあるはずの関連した正の状態は存在しない可能性がある」 と語っていた。ゴールドシュミットは、いくぶん形而上学的な違った推論、すなわち野生型は染色体の全構造の特質を反映した状態であり、一方で遺伝学者が突然変異と呼ぶ状態は野生型の構成が撹乱されてその領域の機能が変えられた状態だと主張した12。遺伝子は染色体の特定の座位にあって特定の生理学的機能を決定する因子であるというビードルの確信をゴールドシュミットは拒否したのだった13。シューアル・ライトもまた、遺伝子がふたつのアリルのどちらか一方として存在する個別的な実体であるとする点に不安を表明したが、彼の反対は強固ではなかった14

 ハーベイ講演の終盤でビードルはシュルツが数年前に考えた根本的な疑問を提示した。 「もし遺伝子が何をするかを十分に理解できれば、何が遺伝子かを推定できるだろう」 15。講演時間が限られていたので、彼はこの問題をさらに論じることはできなかったが、遺伝子の物質的性質についてより多くを知らなければ遺伝子の性質に関する議論も、自分達が提案するような作用を遺伝子がもつか否かについても解決することはできないことをビードルは十分に知っていた16。彼が繰り返し語ったように、生化学遺伝学は遺伝子の化学的構造とその機能の究明にもっと強く関わる必要があった17

 遺伝子の本体は染色体を構成するデオキシリボ核酸(DNAの用語は1950年代までは一般的ではなかった)であるかタンパク質かあるいは両者かという疑問については長年の論争があった。細胞をDNAに特異的な色素、特にフォイルゲン染色法で染めることでDNAは全ての動植物の細胞核だけでなく細菌細胞中にも存在することが明確に示されていた(注:細菌は核膜で囲まれた核をもたない原核生物の代表であり、DNAは細胞質の核様体と呼ばれる構造中に存在する)。タンパク質とDNAを適当な酵素でそれぞれ消化することで染色体を研究しようとする試みがあったが、ビードルが見たところでは、得られた資料はあまりにも不純物を多く含んでおり結論を得ることはできなかった。いずれにしても構成が明らかに単純すぎるという主な理由から、DNAは遺伝物質の有力な候補ではなかった。当時広く行き渡っていた見解は、1921年にロックフェラー研究所のフォーブス A.・レビーンが提案したもので、DNAはアデニン、グアニン、シトシン、チミンの4つの塩基を含むテトラヌクレオチドの繰り返しから構成されているとするものだった18(注:DNAは1869年にスイスの医師で生化学者のフリードリッヒ・ミーシャーによって発見された。彼は患者の膿が付着したガーゼから白血球を取り出し、その核からリン酸を含む物質を得てヌクレインと名付けた。このヌクレインこそが後のDNAである)。テトラヌクレオチドの構造自体の正当性には問題があったとしても、遺伝的多様性の広がりと遺伝子の複雑な性質がそのように限定的な情報量しかもたない物質で説明できるとすることはやはり不可解なことだった19。多くの生物学者と同様にビードルもタンパク質が遺伝物質であろうと考えていた。

 ビードルが遺伝子はタンパク質だと考えたのは、ウイルスの仕事に影響されたからだった。1935年に、ロックフェラー研究所のウェンデル・スタンリーがタバコモザイクウイルス(TMV)を結晶化していたが、ビードルが知るウイルスの知識ではウイルスはタンパク質に他ならなかった(注:スタンリーはこの業績で1946年にノーベル化学賞を受賞する。彼の発見は、結晶化される物質であるウイルスは果たして生命と呼べるのかという質問、さらに生命は何かという本質的な質問との関連で議論される先駆けとなった)。しかしすぐその後で、他の研究者達によってTMVはリボ核酸(RNA)を含む核タンパク質であることが分かった(注:スタンリーが結晶化したのは実は核タンパク質からなるTMVではなく純粋なタンパク質部分のみだった。TMVタンパク質は核酸なしに自動触媒作用によってウイルスの粒子構造をつくることができる)。この植物ウイルスがもつ遺伝子的な性質は大量に存在するタンパク質ではなく少量だけ存在するRNAに依存していることが分かるのは、それから20年以上も後のことだった(注:カリフォルニア大学バークレー校のハインツ・フランケルコンラットとビー・シンガーが1957年にTMVを用いて再構成実験を行った。TMVには異なる系統が存在する。彼らは例えばA型とB型からそれぞれRNAと外被タンパク質を精製し、A型のRNAとB型のタンパク質あるいはB型のRNAとA型のタンパク質を組み合わせて雑種TMV粒子を再構成し、これを健全なタバコに感染させた後で感染葉からTMVを再抽出して子ウイルスの構成を調べた。その結果、例えばA型のRNAとB型のタンパク質で再構成したTMVによる感染では、感染葉からはA型のRNAとA型のタンパク質からなるウイルス粒子のみが得られた。この実験結果は、RNAを提供したタイプから子ウイルスが生じていること、すなわちRNAがTMVの遺伝情報を担っている事実を見事に証明している)。そうこうするうちに、遺伝子はタンパク質であるとする見解の確からしさが細菌ウイルスであるバクテリオファージの仕事でも認められるようになった。バクテリオファージの現代的な研究は、エモリー L.・エリスとマックス・デルブリュックがカルテックの客員研究員だった1930年代の終わりに彼らによって開始された。彼らはタンパク質でできているウイルスは 「生きた生物の内部で増殖する能力を持つ」 と信じて研究を開始していた20。1940年代の中頃から終わり頃までにはバクテリオファージがDNAを含むことが知られており、デルブリュック、アルフレッド D.・ハーシェイとサルバドール E.・ルリアの仕事でバクテリオファージも遺伝子をもつことが確認された(注:本章の後段参照)。ビードルは 「全ての生物システムは遺伝子を不可欠な単位として持つ」 と確信していた21。しかし、ハーベイ講演会と化学レビユー論文で書いたように、遺伝子は核タンパク質でありタンパク質が主要な遺伝情報の担い手だとする考えをビードルは支持していた22。彼はタンパク質が遺伝子であるとする考えに縛られたまま、核タンパク質のタンパク質部分がどのような仕組みで鋳型として働いて自分自身の機能的なコピーを作るのかに思いを巡らせた。彼は 「遺伝子の自己複製とタンパク質の特異性の制御についてはまだ実験的な観察で支持される一般的な説明がないこと」 を知っていた。しかし彼は 「タンパク質分子がその構成部分から組み立てられて最終的な構造を決める際のマスター分子あるいは鋳型として働く遺伝子は核タンパク質である」 とする当時は広く受入れられていた見方を支持していた23。この概念は明らかに抗原が鋳型として働いて抗体タンパク質の折りたたみを決めるとするライナス・ポーリングの主張に基づいて提案されたものだった。しかし、タンパク質遺伝子が自己複製するだけでなく細胞内の酵素を作るという考え方には妥当性がないと考える研究者も多かった。タンパク質遺伝子という考え方は、一遺伝子一酵素仮説を批判し反対を唱える者が抱える弱点のひとつだった。

 コロンビア大学のエドウイン・シャルガフが、多くの生物から注意深く準備したDNA資料から4塩基の組成を正確に測定したデータを得て、それまでのテトラヌクレオチド仮説を葬ったのは1945年のことだった。シャルガフのデータは、DNA中で4種類の塩基はいつも同量存在するのではないことを明確に示していた。実は4塩基の相対量は種ごとに違っていた。種々のDNA資料の間でシャルガフが見いだした唯一変わらない規則は、アデニンの量が常にチミンの量と同じであり、グアニンの量が常にシトシンの量と同じであることだった(注:これはシャルガフの法則と呼ばれる。なおグアニン+シトシンのDNAに占める相対量を表すGC含量は種に特徴的だった)24。数年後にこのデータがDNAの二重らせん構造を決める際の鍵となったのだが、1945年当時は以下の二つの観察結果が既にテトラヌクレオチド仮説は正しくないと示唆していたにも関わらず、ビードルはまだDNAが遺伝物質であることを否定するこの仮説に拘っていた。

 ビードルは、1940年の始めに古い同僚のルイス・スタドラーとアレクサンダー・ホーレンダーが独立に 「紫外線照射が遺伝子突然変異を誘発すること、その単位エネルギー当たりの効率がDNAによる吸収量と同様に波長に依存して変化し、DNAによる最大吸収波長で最大となる」 ことを明らかにした事実を知っていた25。それに最近の仕事で 「肺炎球菌Pneumococci pneumoniaeでは核酸が個々の遺伝子の特異性を決める際に一定の役割を果たすことを示唆する」 事実26にも気がついていたが、これを疑っていた27。だが懐疑的なのは一人ビードルだけではなかった。核酸の専門家はオズワルド・エイブリー達の実験にはまだ疑問が残されていると考えており、多くの科学者は遺伝子として振る舞うとエイブリー達が報告したDNAの純度に関して批判的だった28(注:フレデリック・グリフィスが1928年に発見した肺炎球菌の病原性を決定する形質転換因子がDNAであることを実証したのはロックフェラー大学のエイブリー、コリン・マックレオドとマックリン・マッカーティーの3人で、1944年のことだった。彼らは、熱処理で殺した病原性のIIIS菌と非病原性の生きたIIR菌を混ぜてマウスに接種するとマウスが死んだというグリフィスの実験をヒントに、熱処理したIIIS菌から抽出したタンパク質、RNA、DNAを精製し、各画分のIIR菌に対する形質転換能力を調べた。IIIS菌から抽出したDNA画分をIIR菌に加え、増殖したIIR菌のみを抗IIR抗体を含む血清で除去した後で上澄みに残った菌を調べると、それらは病原性のあるIIIS菌だった。しかし、各画分が本当に純粋であることをどうしたら証明できるだろうか?DNAの画分にはタンパク質が混ざっていたかもしれず、実はそのタンパク質が形質転換を引き起こす本体であったかも知れない。彼らは予想されたこの批判に特別の酵素を用いて答えた。DNA分解酵素はDNAを、RNA分解酵素はRNAを、タンパク質分解酵素はタンパク質をそれぞれ特異的に分解する。彼らはIIIS菌から抽出したDNA画分をDNA分解酵素で処理したときだけ形質転換能力が失われることを示した。彼らの論文には 「少なくとも肺炎球菌では形質転換を引き起こす物質がDNAであることを証明できた」 と結論が謙虚に書かれているが、それでもなおDNAは生物一般に共通した遺伝子の本体であるとは考えられないとする見解が当時を支配していた)。ビードルはエイブリー達のデータは受入れたが、以下の二つの可能な解釈については区別できないと考えた。すなわち、エイブリーらの実験結果は、DNA資料が特別な突然変異誘発能力を持っていたことの反映であるか、あるいは彼らが主張する様に 「DNAそのものが遺伝子であるか」 どちらの可能性もあって区別できない29。数年後にはDNAが仲介する遺伝的形質転換という実験的事実が示されたが、それでもなお誘発突然変異を引き合いに出して、DNAそのものが遺伝子であるという見解を排除しようとした意見があったほどだった。ビードルもまた、核酸が吸収する波長の紫外線が誘発突然変異の頻度を上昇させる事実は核酸が照射エネルギーをタンパク質へ伝える役割を果たすとすれば説明できると考えたのだった30

 ビードルが懐疑的だったもう一つの理由はエイブリーの実験が細菌で行われたことだった。他の細菌と同様に、肺炎球菌は無性的な分裂で増殖する。多くの古典遺伝学者達と同様に、ビードルは遺伝子の存在は次のような遺伝的規則性に基づくと信じていた。遺伝法則によれば、遺伝子は二つの異なるアリル、すなわち一つの野生型と一つの突然変異型をもつ性的に増殖する種に存在するものである必要がある。彼にとっては、従って 「遺伝子の遺伝的な定義は性による繁殖」 を意味した31。ビードルの考え方は、彼が意図しないまでも、メンデルとモルガンの抽象的遺伝子の概念に拘束されていた結果であったことを示唆している。遺伝的な交配ができなければ、それは遺伝子が存在しないことを意味する。興味深いことに、テータムがすでに単一の栄養素要求性を示す安定な突然変異体を細菌で得ていたし32、サルバドールE.・ルリアとマックス・デルブリュックがウイルス感染に対する感受性に影響する細菌の自然突然変異体を既に得ていた33のだから、ビードルの思い込みは事実に反していたことになる(注:細菌に自然突然変異が起こることを実験的に証明したのは、ルリアとデルブリユックだった。ルリアは、極めて小さく短時間に膨大な数の子孫を残す細菌やファージを用いて遺伝現象を解析しようと試みた。そのためにはファージに自然突然変異が存在することを証明する必要があった。彼はまず細菌を宿主とするファージの増殖を解析した。ファージを大腸菌の培養に与えると、ファージは菌に感染して多数の子ファージを産生した後に、菌を溶かして子ファージを放出する。この溶菌と呼ばれる現象により細菌で濁った培養液は透明になるが、そのまま培養を続けるとやがてファージ抵抗性の菌が増殖し始めて培養液が再び濁ることがある。こうして生じたファージ抵抗性の性質は子孫の細菌に受け継がれる。彼はファージ抵抗性の大腸菌がどのようにして生じるかに興味をもった。可能性は2つ考えられた。1)ファージの感染によって一定の頻度でファージ抵抗性が誘導された。2)菌にファージ抵抗性の自然突然変異がファージとの接触とは無関係に起こり、これがファージ感染によって選抜された。ルリアの簡潔な実験は2)が正しいことを示したが、この結果にデルブリュックがさらに厳密な解釈を加えることで細菌にも自然淘汰を受ける自然突然変異があることが明確となり、従って細菌は極めて便利な遺伝学研究の材料であることが明らかとなった)。しかし、モルガンやエマーソンがそうであった様に、ビードルがこれを受入れるにはエイブリー、テータム、デルブリュックが提供した推論による解釈ではなく直接的な証拠が必要だったのだろう。

 しかし結局、細菌にも遺伝子様の単位が存在することを支持する十分な実験結果があることをビードルも認めることになる。ビードルは細菌細胞学の本に対する書評34で細菌が遺伝子をもつことを認めた35。X線がアカパンカビと同様に細菌でも突然変異を誘発することをテータムが証明した36ことに加えて、大腸菌で性に類似したプロセスが検出されたことでビードルは納得したのだろう。さらにジョシュア・レーダーバーグが、それぞれ異なる栄養要求性を示す遺伝的に明確に異なる大腸菌の菌株を使って、単にこれらの菌株を混ぜて培養するだけで両親系統が持っていた栄養要求性を失った野生型の系統が生じることを発見した37(注:細菌に自然突然変異があっても、遺伝子を交換する性の仕組みがなければ、細菌を遺伝学の対象とすることはできない。細菌に‘性’があることを証明したレーダーバーグとテータムの実験は画期的だった。第10章参照)。この結果は彼が栄養要求性の異なる二つのアカパンカビの系統を交配し栄養要求性を失った系統を得た時の結果と形式的に同じだったから、ビードルはその意味を理解し受入れることができた。

 しかし、一遺伝子一酵素説はもっと実質的な反対に直面することになった。反対意見は実験手法と別の解釈を考慮していない点に関係していた。遺伝学のエリート達が集まる会議の場である1946年のコールド・スプリング・ハーバー・シンポジウムでボナーがビードル研究室の発見を発表したとき、マックス・デルブリュックが栄養要求性突然変異体を選抜する方法に対する深刻な反論を展開した38。デルブリュックは、 「アカパンカビの仕事で蓄積された証拠は遺伝子と細胞中で見いだせる様々な種類の酵素との間に一対一の関係があるとする推定と矛盾しない」 ことを認めたうえで、次の深刻な疑問を提示した。 「得られた証拠は、それが矛盾しないという単なる事実を越えて、本当にこの論題を支持しているだろうか?」 。デルブリュックは 「遺伝子と酵素の間に一対一の関係があるとする論題の価値を公正に評価するには、論題に反証できる方法論を検討することから始める必要がある」 と指摘して議論を持ちかけた。そうでなければ、 「たとえ大量の矛盾のない証拠を集めても、それにはどんな価値もない」 とまで述べた。デルブリュックは、科学的な仮説あるいは証明の価値はそれが反証可能な方法論をうちに含んでいることだが、私はその理想に叶う方法論をそこに見ることができないと述べて、説得力のある批判を展開した。この実験手法では、ただ一つの機能が影響をうけるような形質以外の形質を持ったアカパンカビを得ることはできないのではないかと彼は指摘した。例えば 「論題はふたつの点で正しくないかもしれない。第一に、もしある生物が複数の酵素反応に影響を与える一つの遺伝子の突然変異で損傷を負ったとしても、突然変異によって生じた複数の欠損の一つ一つは一つの正常遺伝子でその機能を回復することになるだろう。しかしもしも、一つかそれ以上の欠損を示す突然変異体の生育回復が‘完全培地’で起こらなかったとしたら、そうした突然変異は致死で検出できないだろう」 というが彼の指摘だった。もう一つの気がかりは、仮説の誤りを立証する試み、例えば同じ酵素反応に影響する別の遺伝子に生じた突然変異体の選抜を試みていないことだと指摘したのだった。

 ボナーは、遺伝子が複数の機能をもつ場合があることを認めた上で、それでもそうした場合の全てで突然変異はただ一つの代謝反応に影響したと主張した(注:バリンとイソロイシンの合成経路を同時に阻害する突然変異はその一つの例である。第10章参照)。彼はまたアリルの関係にない別の座の遺伝子に起こった突然変異が同じ酵素反応を阻害する例は見いだせなかったと主張した。今日の知識から見れば、多くの酵素は一つ以上のポリペプチド鎖でできており、従ってその合成には一つ以上の遺伝子が必要であるから、アリルの関係にない別の遺伝子の突然変異はポリペプチド鎖のどれかに影響を与えるが、結果としては同一酵素の欠損をもたらすことになると考えられる。ボナーは、多くの実験事実から帰納法で導いた 「一対一」 の概念は法則を意味するものではないことを認め、さらにこの概念はむしろ有用な作業仮説であり、だかからこそ意味があると主張し、次の様に述べた。すなわち、 「‘一対一’概念の例外はおそらく存在するだろうが、別の説明を可能とするような実験を考案することは難しい。現在手元にあるデータは‘一対一’概念を基礎に説明されているのだから、換言すればこの概念で演繹的に説明できるのだから、遺伝子と酵素の関係を説明するより複雑な概念を考案するのは価値のないことだろう」 。

 スタンフォ−ドのグループは複数の効果を引き起こす突然変異を見落しているとするデルブリュックの批判とともに、ビードルの仮説に対してはジョシュア・レーダーバーグの公然とした異論があった。彼は批判の的を 「遺伝子は酵素の特異性に承認を与える特有の鋳型である」 とするまだ証明されていない仮定に集中した。どのようにタンパク質が組み立てられるかに関する知識なしに、遺伝子の変化が直接的に欠損酵素を導くと推定するのは推論が過ぎると彼には感じられたのだろう。 「ある遺伝子がある酵素の特異性を決める主要な中心物質であるか、あるいはいくつかある潜在的な可能性のうちのどれかを実現するための間接的な効果を発揮するのか」 がまだ分かっていない。‘一対一’概念の主要な難点はそれが実験的に破棄できないこと、すなわち、どのように遺伝子が作用するかに関する知識が不足したままであることから、その概念を排除するための実験方法がないことである」 とレーダーバーグはデルブリュックに同調して結論した。彼は、実験的な証拠ではなくある特定の目的で作られた議論が、モデルに適合しない例外や不一致を説明から除外するために意図的に使われていると付け加えさえした39

コールド・スプリング・ハーバーとその後の会合での批判が、一遺伝子一酵素概念の受入を今までにないほどに凋落させたように思われた。しかし、 「信念が堅固な研究者の数は片手で数えて指が残るくらいだった」 という印象を持っていたビードルが怯むことはなかった40

 メンデルの遺伝法則の再発見50周年を記念した1950年のシンポジウムでビードルは、遺伝子がタンパク質以外の物質の生産を支配する可能性があることから、一遺伝子一酵素モデルではなく、彼がそれ以来好んで使うようになった一遺伝子一機能仮説の立場について熟慮を加えて語った。彼は 「この仮説はある酵素または別のある物質の特異性が一つの遺伝子のみで決定されること要求してはいない。仮説は、しばしば必然的な結果だと誤って解釈されがちだが、まさに一つの可能性であり、むしろ特定の遺伝子が特定の単一酵素(タンパク質)とのみ主要な仕組みを通じて関係していることを求めている」 と5年前のハーベイ講演で強調した重要点を繰り返し述べた。この時点でビードルがとった態度は仮説を前に進めていたそれまでの5年間では取ることがなかった態度だった。ビードルは仮説の評価について保守的となっていた。ビードルがこのように主張したときには、仮説に対するデルブリュックの論駁はまだモデルに暗い影を落としていたし、ホロウィッツはデルブリュックの批判を打破できずにいた。遺伝子の性質に確証がないまま、ビードルはどのようにして遺伝子が酵素の合成に影響を与えるかについて考え途方に暮れていたようだった。ビードルは 「アカパンカビでは、ほとんど全ての場合に、主要な遺伝子の制御下にある反応を同定することができたが、私は一つとしてそれを直接に証明する方法を知らないと告白せざるを得ないと感じる」 と自らの限界を率直に述べている。ビードルの言葉で総括すれば、 「一遺伝子一機能仮説は、有用な目的に奉仕することができる仮説であり、その時点で破棄すべき強力な反証がないことに疑いの余地はなかったが、無条件で正しいと受入れられる仮説でもなかった。科学における多くの有益な作業仮説のように、たとえ仮説が論理的に正しいと分かっても、それが過剰に単純化された過ちであると判明する可能性もないとは言えない」 のだった41

 デルブリュックの批判に応える方法に答えを見いだすには暫く時間がかかった。ホロウィッツは、もし解答が見いだせなければ、 「青い一角獣が月の裏側に住んでいると主張するのと一緒で、一遺伝子一酵素のアイディアは検証できない仮説の煉獄に追放されることになるに違いない」 と冗談を言いさえした42。デルブリュックの批判は、複数の機能をもつ遺伝子が多く存在し、もしひとつの突然変異が原因となって生じた複数の欠損のどれかひとつでも修復できないとすれば、それらの欠損は致死的でどのような栄養素を補っても回復できないだろうという推定に基づいていた。この可能性を探るために、ホロウィッツは修復可能な欠損と修復不可能な欠損の頻度を比較した。表現型が細胞の生育温度に依存する突然変異体の存在が格好な実験方法を提供した(注:こうした突然変異体を温度感受性突然変異体と呼び、特に致死となるような変異体は識別が極めて容易で遺伝解析に有利な条件致死突然変異体としてよく用いられる)。

 修復可能な突然変異体と修復不可能な突然変異体の両方は同じ確率で温度感受性の表現型を表すと仮定して、二種類の突然変異体の出現頻度の測定を行った。ひとつは低温に置いた完全培地上では生育するが高温では完全培地上でも生育しない突然変異体、すなわち完全な栄養素を含む培地上でも高温(制限)条件下で突然変異の効果を打ち消すことができない温度感受性突然変異体で、その頻度を測定した。そのような欠損は、少なくとも高温条件下では栄養素の補給で生育が回復できないという理由からデルブリュックが指摘した致死的な突然変異であるとホロウィッツは考えた。第2のクラスは低温でも高温でも完全培地では生育できるが、最小培地では高温で生育できず低温では正常に成長する突然変異体からなっていた。この第2のクラスの突然変異体は、彼らが今まで扱って来たタイプの突然変異体で、完全培地では生育が回復するが高温下では最小培地上で生育できない欠損を引き起こしたものだった。ふたつのタイプの突然変異体の相対頻度を比較してホロウィッツはおよそ70%の遺伝子がただひとつの機能に影響すると評価した。ひとつの遺伝子が多重機能の特定に寄与する可能性は別にして、突然変異体の生育不能がどんな栄養素の補給によっても補償できない理由は他にも多くあったから、これらは評価の最小値だった。大腸菌を用いた同様の分析からは、77%の遺伝子が単一機能を支配するという評価が得られた43。結論は明瞭だった。ビードルのグループが分析した単一の機能だけを特定する遺伝子は、稀なクラスではなくむしろ大多数の遺伝子の代表であった。デルブリュックの批判は問題なく収まった。後に開催された彼を讃える目的のシンポジウムでデルブリュックは、どんな特定の酵素の合成にも関与する要因のひとつは 「遺伝的制御」 であり、そこでは 「ひとつの遺伝子の突然変異が細胞のもつ特定酵素の合成能力を決めている」 と語って、一遺伝子一酵素説の意義を明確に認めた44

 時間が経つに従って、全ての疑問と反対意見に対する解答が集まり、より多くの証拠がビードルの提案の正しさを実証することになった。そうした証拠の多くは、カルテックに移ったホロウィッツとミッチェル、それにイェールに落ち着いたボナーがもたらした。生育にトリプトファンを要求する突然変異体のひとつでは、インドールとセリンからトリプトファンを合成する酵素活性が実際に失われていることを一連の実験が示した45(注:第10章参照)。しかし依然として、不活性な状態であろうと酵素自体は存在するのか、あるいは突然変異体はそもそも酵素を作れないのか不明だったが、独立な研究が前者の正しいことを示唆した。ひとつは人間の遺伝病に関する仕事だった。鎌形赤血球貧血病はアフリカ、東南アジアと中東地域の人々の間で見られる風土病で、ひとつの突然変異がヘモグロビンに余分な負の電荷を与えることが原因で発症する。ヘモグロビン分子のこの変化が、赤血球が酸素を各組織に運ぶ間に異常な鎌形を呈する原因となる46(注:鎌形赤血球貧血病は遺伝子が人間の病気と直接関係することを示す一つの事例である。人間のヘモグロビンには胎児性ヘモグロビンFと成人性ヘモグロビンAの2種類が存在し、それぞれ4つのサブユニットとひとつのヘムグループからなっている。ヘモグロビンAはそれぞれ別々の遺伝子で支配される2つのα鎖と2つのβ鎖からなる。ヘモグロビン分子に生じる突然変異は数多くあるが、このうち鎌形ヘモグロビン(ヘモグロビンS)は人間で鎌形赤血球貧血病を引き起こし、S変異遺伝子をホモ接合でもつ人は赤血球が変形した鎌形になり貧血を起こす。S型変異遺伝子をヘテロでもつ人では正常な分子と異常な分子が共存することをカルテックのライナス・ポーリング達が発見した。面白いことに、ヘモグロビンSをホモ接合で持つ人間はハマダラカが媒介するマラリア原虫によって引き起こされるマラリア病に罹りにくい。この事実は、一方で不利な形質をもたらす変異遺伝子が他方では有利な形質をもたらし集団中である頻度で維持されること、この例ではマラリア病の蔓延する地域の黒人中で鎌形赤血球貧血病が維持されることを示唆している)。ここで見られたタンパク質分子の質的な変化は遺伝子とタンパク質構造の間の直接的な関係を支持していた。数年後の1956年に、ヘモグロビン分子の変化はふたつのヘモグロビン鎖のひとつで見られる負に帯電したアミノ酸の中性アミノ酸による置換であることがケンブリッジのキャベンディッシュ研究所にいたバーモン・イングラムによって明らかにされた47(注:患者のヘモグロビンSタンパク質β鎖では、アミノ酸のアミノ末端から6番目のグルタミン酸がバリンに変化していた)。

 突然変異が構造変化を引き起こすことで不活性な酵素が生産される事実を証明したもうひとつの例は、活性のある正常な酵素を認識する抗体を用いて得られた。例えば、インドールとセリンからトリプトファンを合成する酵素活性を欠いた突然変異体の中に、機能のあるタンパク質を抗原とした抗体で検出可能な量のタンパク質を作れない突然変異体の他に、免疫活性もつ検出可能なタンパク質を作るものがあったことがこの事実を示す例のひとつだった48。さらに、異なる突然変異体が作る不活性で抗体反応性をもつタンパク質が構造的に区別できたことで、異なる突然変異が同一タンパク質の構造に異なる影響を与えたことが示唆された。この結果は、遺伝子はそれが支配するタンパク質の構造を決定する直接的な役割を果たすことを強く示唆した。さらにふたつの研究がこの見解を支持した。それらは、高温では生育を阻害するがより低温では正常な生育を許すような温度感受性突然変異に関する研究だった。どちらの突然変異体でも、分離したパントテン酸合成酵素は低温では正常に機能したが高温では不活性で、突然変異体の行動をよく反映していた49

 遺伝子の構造とそれが支配するタンパク質の構造に共直線性があること、すなわち遺伝子に生じた突然変異がタンパク質のアミノ酸配列を変化させることが何年も後に行われた実験で明らかにされた50(注:DNAの塩基配列とタンパク質のアミノ酸配列の間に一対一の対応関係すなわち共直線性があることを最初に証明したのは、スタンフォードのチャールズ・ヤノフスキーのグループで、1963年のことだった。彼らは、大腸菌のトリフトファン遺伝子のひとつであるTrpAに着目して突然変異体を選抜し、突然変異アリルを染色体上にマップした。同時に突然変異体のアミノ酸変異を位置づけて、塩基の変異部分がどれもアミノ酸の変異部分と一致することを見いだした)。この仕事が進行中に、遺伝暗号の正確な性質と遺伝子DNA中の塩基の順序と遺伝子によって暗号化される(コードされる)アミノ酸の配列との間の対応関係を確認する懸命な努力が続けられていた。分子生物学のひとつの大勝利である 「遺伝暗号」 が解読されたのは1966年のことだった51(注:世界の一流の遺伝学者、生化学者、有機合成化学者たちが遺伝暗号の解読という重要課題の解決に取組んだ1960年から1966年までの6年間は20世紀科学史の中で最もエキサイティングな研究競争が展開された時代のひとつだった。1966年には全ての遺伝暗号が解読され遺伝暗号表が作成されたが、この偉業が達成されたのはメンデルの論文が発表された1866年から数えてちょうど100年目のことだった。遺伝暗号とそのタンパク質合成における機能の解明で、ロバート W.・ホリー、マーシャルW.・ニーレンバーグとハー・ゴビンド・コラーナの3人が1968年のノーベル生理学・医学賞を受賞した)。

 何年も後になって、ジョシュア・レーダーバーグはホロウィッツへの手紙で次のように告白した。 「私はこの頃、一遺伝子一酵素理論に当時私が与えた雑音を振り返ってみる機会を何度となく持ちましたが、私がその理論に反対したことは、たとえそれが知的な活動であったとしても、事実上の間違いだっただけでなく、むしろ正しい理論の防衛に失敗した浅ましい判断であったと今になって理解しています。おそらく、私は、他の誰もが過去に気づいたことのないアイディア、究極の真理であり科学における永遠の真理に対して過剰に反応したのだと思います。」 52。ビードルは 「私達の最高の友人達の誰もが私達の船を降りて離れてしまった時に、ジョンは、私の知る限り、心変わりを認める美徳を持ち続けてくれたたった一人の友人だった」 とホロウィッツへの手紙でレーダーバーグへの感謝を述べている53

 遺伝子は特定の酵素反応を触媒するタンパク質の合成を制御する能力を通じて働くというアイディアを受入れることが、当時の生物学コミュニティーにとってそんなにも難しかったのは一体何故だったのだろう?ビードル自身について言えば、ショウジョウバエの眼色に関する突然変異体の仕事から、遺伝子が代謝反応のレベルで働くこと、個々の化学反応はひとつの遺伝子の影響下にあるという考え方は既に血肉となっていたと言っていいだろう。自ら引用して言及したことはなかったが、トウモロコシで配偶子が形成される経路に影響を与える複数の突然変異体を同定した事実も、当時はまだ突然変異体と酵素とを結び付ける考えにまで発展することはなかったにしても、ビードルの考え方に影響を与えたことは間違いなかったであろうと思われる。実はビードルの一遺伝子一酵素説が発表されるよりずっと以前に、遺伝子は酵素の特異性に影響を与え、酵素を制御する能力を通じて作用するという観察あるいは明白な主張がすでにあった(注:後段参照)。ビードルは5年前のエディンバラで開催された第7回国際遺伝学会の講演54と1945年の主要論文55でこれらの多くを引用しレビユーしていた。他の研究者達も同様の論文を書いていたし56、今では初期の研究歴史の詳細なレビユーを読むことでこの事実を知ることができる57

 ビードルとテータムのモデルを受入れる障害となったのは、それぞれの遺伝子は重複した機能を持ち、おそらく全ての遺伝子が何らかの形で全ての形質の形成に関与しているという遺伝学者の間に広まっていた古くからの見解だった58。アカパンカビで真実と認められる仕組みが人間のようなより複雑な生物にも適応できるように一般化され得るとする考えを受入れるのは困難だと主張する生物学者もいた。しかしこうした疑いは、遺伝子と酵素の間にある生理学的な関係を示唆する20世紀始めに既にあった報告や推論の存在を無視していた。小型動物の外皮の色とパターンを決定する仕組みもこれらの報告に含まれていた59。メンデル遺伝子が外皮色の特性、その濃さと分布を支配しているとする結論は明瞭だったし、さらに色素の性質、化学反応と酵素の役割が理解され、ある場合には突然変異体が特定の配色を欠いている事実が関与色素の合成に必要な酵素の欠損と明確に関連づけられていたのである60

 人間の病気に関する領域でも、1902年から1908年にはすでにアーチバルド・ギャロッドが、複数の遺伝する人間の代謝異常の観察をもとに、正常な代謝反応を触媒する酵素が患者で欠落していると結論していた。実はビードルは 「ガロッドは遺伝子、酵素と化学反応の関係を明らかに念頭に置いていた」 のだから 「化学遺伝学の父」 として尊敬されなければならないと信じて、しばしばその事実を語っていた61

 アーチバルド・ギャロッドとはどんな人間で、どのようにして酵素と遺伝子を関連付けたのだろうか?62。ギャロッド(1857-1936)は医学の道でキャリアを積むことを選択して、オックスフォード大学で医学士と外科医の学位を取得し、イングランド王立外科医師会の会員として認められた。当時のヨーロッパを席巻していた医学における急速な科学研究の発展に鼓舞されて、ギャロッドは医学の臨床実務とともに、父が先駆者だった専門分野の化学病理学に従事する道を選んだ。尿中の化学変化が病理状態を評価する鍵を与える可能性に魅了された彼は、アルカプトン尿症あるいは 「黒尿病」 と呼ばれる稀な疾患に対する説明を追求しようと決意した63。アルカプトン尿症は古典的な意味では病気ではなかったが、この疾患に苦しむ患者の尿はしばらく空気に触れると黒く変色する。当初アルカプトンと呼ばれた尿の黒変の原因物質は後にアミノ酸のフェニールアラニンとチロシンの代謝産物であるホモゲンチジン酸だと同定された。家族の中で複数の子供が罹病する場合が多いことから、アルカプトン尿症はホモゲンチジン酸を代謝できない遺伝病の可能性が高いとギャロッドは考えた。しかしアルカプトン尿症の子供の両親は例外なく正常だったから、彼の説明は人間の遺伝に関する当時の理解とは相容れず、彼は困惑した。

 この見かけ上の矛盾は、両親のどちらか一方の正常な母、すなわち直系2親等に当たる祖母か又は母方の祖母である外祖母がアルカプトン尿症の子供を産んでいたことで解決された。ギャロッドは黒尿の形質は遺伝的であって後生で獲得された形質ではないと推論した。両親の家系を調べたギャロッドは、家族の感受性歴から見た彼の推論を支持する鍵となる事実、すなわちアルカプトン尿症の患者はいとこ間の結婚で産まれた子供に多いことに気がついた。数年前に再発見されていたメンデルの法則を知らなかったギャロッドには、メンデル遺伝学の法則がアルカプトン尿症の遺伝様式を説明する鍵であることを理解しうる術はなかった。ギャロッドの仕事を知ったウイリアム・ベイトソンはメンデルの最も強力な信奉者であったので、説明を添えてギャロッドに連絡を取った64。ベイトソンは、アルカプトン尿症は劣性形質として振る舞うことをギャロッドに説明した(注:ベイトソンはイギリスの遺伝学者で、1900年にメンデルの論文を読みその重要性を理解した彼は、1902年に論文を英訳してメンデル遺伝学を英語圏の研究者に普及させた。アリル、ヘテロ接合、ホモ接合の術語を考案した他、体の構造の一部が他の構造に変化する現象をホメオーシスと名付けたのもベイトソンである)。彼の説明によれば、正常な両親はともに該当する劣性のアリルをひとつずつもつ、従ってそのような結婚から産まれる子供では平均して4人に一人が発病することになる。アルカプトン尿症を引き起こす遺伝因子は稀であるから、血縁関係にない者同士の結婚では症状を示す子供はごく稀にしか産まれない。

 ギャロッドは人間の病気に関してメンデルの遺伝学が重要であることを理解した最初の医者だった。1908年の会合で彼は、アルカプトン尿症は劣性遺伝形質の範疇に入るように見えること、正常な人ではホモゲンチジン酸を代謝する酵素が患者では欠損していることが発症の原因のようだと正しく指摘している65。同時に、ギャロッドは他の病気についても研究を進めたが、それは白化現象(アルビニズム)とシスチン尿症だった。白化を発現する個人は皮膚と髪で正常なメラニン色素を生産することができず、シスチン尿症の患者ではアミノ酸の一種シスチンのレベルが異常に高くなる66。患者は同じ理由で血縁関係にある者同士の結婚から産まれる確率が高く、ギャロッドはこれらの代謝異常もまた劣性遺伝子によると結論した。

 その後、ギャロッドは個々の遺伝子の変異が多くの代謝反応に影響を与え、そのことが表現型、特に病気に対する感受性を大きく左右するという考え方にますます興味を引かれるようになった。ギャロッドは、遺伝学という名の新しい科学の一分野について教育を受けたこともそれに触れたこともなかったが、急速に人の遺伝病の権威となった。古典的な著書‘病気の先天的要因’でギャロッドは、化学的個性と病気に罹り易い体質は遺伝するとする見解を世に広めようとした67。この本を通じて、ギャロッドはタンパク質の変異は染色体変異に起源があることを暗示し、個々人の化学的特異性はタンパク質の質的、量的な変化の結果であるとさえ主張した。正常な人の血漿中にあるホモゲンチジン酸の代謝能をもつ酵素がアルカプトン尿症の患者では欠失していることをもし彼が知っていたらきっと大満足だったであろう68。酵素が分離されたのはギャロッドが死んだ20年ほど後で69、酵素をコードする遺伝子が人間の第3染色体の長腕にマップされたのはそれからさらに35年経ってからだった70

 ギャロッドはビードルとテータムの一遺伝子一酵素仮説の概念を予期していただろうか?もしそうであったなら、それは例え貧弱ではあっても遺伝学の知識によらない予期だったのだろう。彼は 「遺伝子」 の術語が用いられるようになった20年後でも、それをメンデル因子と呼び続けていた(注:‘遺伝子’という術語はデンマークの遺伝学者ウイリアム・ヨハンセンが1909年に提唱したとされるが、実は1906年にベイトソンが第3回国際遺伝学会議で初めて用いていた。表現型と遺伝子型の命名はヨハンセンによる)。生涯を通じてギャロッドは遺伝的な病気の罹り易さに関する彼の考え方を練り上げたが、ショウジョウバエにおけるモルガンの発見と彼らが生物学を革命的に変えた点については語ったことがなかった。当時イングランドで流行していた花色に関する遺伝的制御の研究についてさえその価値を認めていなかった。彼は、酵素がタンパク質であろうと考えてはいたが、遺伝子とタンパク質酵素を関連付けようとしたことは決してなかった。

 それでもビードルはギャロッドの貢献が優先した事実をハーベイ講演で評価し、ノーベル賞の受賞講演ではギャロッドの先見性をより大きく評価して次のように語った(注:ビードルが、‘遺伝子が厳密に化学過程の調節によって働く事実の発見’でノーベル生理学・医学賞の受賞したのは1958年だった)。 「この長い回り道を経て、始めはショウジョウバエで、次にアカパンカビで、私達はギャロッドが何年も前にすでに明確にしていた事実を再発見しました。私達は彼の仕事を知っていましたし、本質的な新しいものを何も付け加えていなかったことにも気づいていました。私達にできたことは、人間の幾つかの遺伝子と幾つかの化学反応についてギャロッドがすでに明らかにしていたことがアカパンカビでは多くの遺伝子と多くの化学反応について該当することを証明したことだけだったのです」 71。ビードルの謙遜は別にしてギャロッドへの賛辞は正鵠を得ていただろうか、あるいはギャロッドの先見性を実際よりは高く買いすぎていたのだろうか?イギリスの卓越した生物学者で酵素学者だったジョン S. B.・ホールデンは、ギャロッドが一遺伝子一酵素仮説を予想していたとして明確な評価を与えた72。ギャロッドが人間における遺伝と生理の機能的な関係を読み取っていたことに疑問の余地はないが、ギャロッドの書き残したどこにも遺伝的因子と特定の代謝反応や生物的性質の間の一対一関係に関する明確な、あるいはそれを暗示するような表明を見つけることはできない。ギャロッドの伝記作者のA. G.・ベアーンは、この文脈でのギャロッドの貢献について、次のように書き残している。 「ギャロッドの研究の成果がビードルとテータムの一遺伝子一酵素仮説を支えなかった訳ではなかった。実際に支えたのだった。ビードルとテータムの仮説は特異的あるいは厳格に遺伝子と酵素の間の一対一対応を指摘したものだった。一方で、ギャロッドの中心的な見方は、劣性形質として遺伝する病気における酵素の単なる欠質に留まるものではなかった。これらの稀な病気は単に一組の例にしか過ぎず、彼にとっては生化学的個性の基本的な原理を証明したことが重要だった」 73。ギャロッドに対するレーダーバーグの評価によれば、ギャロッドは欠損を正常な遺伝子の欠失とその結果としての酵素の欠失として見ることができず、むしろ病理的な条件を引き起こす遺伝子の獲得だと見たことになる。 「言って見れば、正常な遺伝子はその独自性を失い、ギャロッドは異常な遺伝子についてのみ注意を向けた」 とレーダーバーグは考えたのだった74

 ビードルはギャロッドの慧眼を賞賛したが、何故ギャロッドの発見をもっと早くから注目しなかったのかについてかなりの困惑があったようだ。最も大きな疑問は、これらの発見がその生物学的意義から高い評価を受けなかったのは何故かであった。 「大陸でもイギリスでも、ギャロッドの時代の生化学者達は先天性異常の遺伝的な面に興味がなかったし、これらの代謝異常が体の中で化合物が分解される経路に関して示唆を与えるとは考えなかったのである」 75。アルカプトン尿症、シスチン尿症とアルビノ現象の病的状態に関する意義が比較的に不明確で衝撃も小さかったことが、はじめから医学的な興味を削いだのだった。感染症の蔓延性とより破壊的な結果を考慮すれば、遺伝的な先天性代謝異常は全く注意を惹かなかったか僅かな関心しか呼ばなかったのも不思議ではない。当時、遺伝学者達はギャロッドの発見に気がついていたが、ギャロッドが記述した生化学的な奇妙さに関心を抱いた者は少数だったし、化学の言葉で遺伝的な形質を考えようとする者はさらに稀だった。遺伝学者達には遺伝子は多面的な効果をもつと考える傾向があり、遺伝子はひとつの生化学反応を支配するという考えは当時では余りにも単純であり過ぎた76。生化学者達は、F. G.・ホプキンスのような影響力を持った者でさえ、教科書に代謝異常として記述された遺伝病を研究しようという気にはならなかった。皮肉なことに、ビードルがカルテックのフェローだったとき、ボルスークが学部学生のための生化学コースの授業で先天的代謝異常についてギャロッドの仕事を教えていたことにビードルは気がつかなかった。ボダンスキーの広く利用されていた生化学の教科書にもギャロッドへの言及があったが77、ビードルはそれにも気がつかなかった。アルカプトン尿症に関するギャロッドの仕事が記述されていたベイトソンの教科書にハエ・グループが触れたか否かもビードルは思い出すことができなかった78。ゴールドシュミットの生理学遺伝学の専門書にも79、ビードルとテータムが書いた遺伝学の教科書にも80、ギャロッドの仕事は記載されていなかったのである。

 ビードルとテータムのアカパンカビの実験までは、突然変異はもっぱら遺伝の仕組みを研究するための遺伝マーカーとして用いられていた。遺伝学者は観察と測定が可能な表現型を変化させる自然で無差別な事象に依存して遺伝子の存在を確立しようと努めて来た。そこでは、正常な野生型の遺伝子は測定可能な単位というよりは推論上の仮想単位だった。さらに、遺伝子を特定の染色体の座位にマップし、他の遺伝子との連鎖関係を決め、ある世代から次の世代への遺伝様式を追跡するためには、突然変異遺伝子の機能を知る必要も対応する正常なアリルの機能を知る必要もなかった。新しい一遺伝子一酵素の概念はひとつの正常型の遺伝子がひとつの機能をもつ酵素(ポリペプチド鎖)の形成を指示すると主張した。従って、遺伝子の突然変異型は該当する酵素機能が損なわれた、あるいは不活性な酵素の形成を指示すると理解された。これを境に、遺伝学者は3つの観点、すなわち突然変異の単位、組換え(交叉)の単位、機能の単位として遺伝子を見るようになった81。遺伝子をこれら3通りの機能で記載することがDNAのもつ特別な塩基配列の基本的な性質と一致することが分かったのは、遺伝子がDNA上の特定部分であることが分かって初めてのことだった。従って、突然変異はDNA塩基配列のひとつあるいは複数の変化の結果であり、遺伝的な組換えはふたつのDNA鎖間の部分交換の結果として、遺伝子の機能は塩基配列を特定のタンパク質分子に翻訳することで生じることになる(注:カルテックの分子生物学者、行動遺伝学者だったシーモア・ベンザーは、細菌を寄主として増殖したT4ファージが寒天培地上に作る溶菌斑の形成能を支配する遺伝子座のひとつであるrII遺伝子座の詳細な解析から、これら3つの観点で見た遺伝子の構成単位をそれぞれミュートン、レコン、シストロンと名付けた。1959年と1961年にベンザーが発表したrII遺伝子座に関する2,400もの突然変異体をもとに作成したマップはこの遺伝子座を構成する塩基のレベルに匹敵するほど詳細なものだった)。

 生理的な役割を遺伝子に付与したことに加えて、ビードルとテータムの実験は生物学的システムの解析に強力な新しい実験手法を導入した。その戦略の本質は、ある特定の生物学的過程のある特定の段階で影響を発揮する突然変異を同定することだった。全ての過程がそれぞれ触媒され、促進され、あるいは構造的にひとつ又は複数のタンパク質に依存した多くの連続した反応の帰結であることが突然変異を同定する前提だった。例えばアミノ酸、プリン、ピリミジン、ビタミン、糖や脂肪のような細胞構成物質の合成は連続的な酵素によって触媒される化学反応の結果生じる。アミノ酸のタンパク質への組み立て、プリンとピリミジン塩基のDNAとRNAへの組み立て、単糖の複雑な炭水化物への重合は多重タンパク質の作用従って特定の遺伝子群に依存している。

 ビードルとテータムのアカパンカビの報告の後では、ほとんど即座に突然変異の解析は生物がエネルギーを得る代謝の経路と仕組みを分析するための優先的な手法になった。同じ戦略が記憶、学習、色覚、匂いなどの複雑な過程と、さらに生物の形がどのようにして胚の発生と胎児の発育過程でパターン化されるのか、より近年では老化の過程さえ解析するための主要な実験的手法となった。正常な一続きの事象を変える突然変異は今日こうした複雑な過程における個々の段階を同定するための貴重な手がかりとして使われている。一般には、同一の過程に影響を与える多くの遺伝的に異なる突然変異体を分離した後で、正常な遺伝子産物が機能を果たす出来事の順序の決定に挑むことになる。特定の生理的機能と関連する遺伝子がいったん同定されれば、当該変異遺伝子の全塩基配列を調査し、遺伝子が特定する特異タンパク質を同定し、そのタンパク質が果たす機能の推定に焦点が当てられる。これまでは、例えば糖のアルコール発酵に関与する11種類の異なる酵素や筋肉が収縮する際にグルコースが乳酸に変換される反応を触媒する10種類の酵素などが、骨の折れるタンパク質の分画作業を通じてそれぞれ分離され、性質付けされ、同定されるには、およそ40年という年月が必要だった。ところが、今日では、ビードルとテータムの突然変異を活用した手法を用いて、例えば酵母の発酵に関与する酵素タンパク質の同定をより効率的に行うことができる。個々の代謝反応のそれぞれがブロックされた突然変異体の選抜が第一段階である。突然変異遺伝子に対応する野生型遺伝子のDNA塩基配列が決定され、遺伝暗号に基づいてタンパク質のアミノ酸配列を推定することで、特定の生化学反応に関与するタンパク質が同定できる(注:遺伝子工学とゲノム解析技術が発展した現在では、機能が未知の遺伝子を直接的に破壊したり、あるいはその機能を増強したりすることによって、遺伝子の変化が細胞や生物にどのような影響を与えるか調べる逆遺伝学と呼ばれる方法が効果的に用いられている)。



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