*

非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

HOMEPROFILELINK

第12章 モルガンの後継者となる

 1945年が始まるころには、スタンフォードのビードル研究室はますます繁栄し、それとともにビードルの立場は学内だけでなく全米の科学界でも揺るぎなく報いの多いものとなっていた。年内に戦争が終わり国家と科学研究は正常化すると誰もが期待した。ビードルは既に4年間アカパンカビの研究を続けていた。一遺伝子一酵素概念の一般性について懐疑論はあったものの、彼にとって概念は既に確立されたものだった。テータムはアカパンカビで採用した手法を細菌に拡張していたが、細菌はさらに単純で扱い易く驚異的なほどに生産的であることが明らかとなった。ビードルの優秀な学生達とポスドク研究者達によって、代謝経路の重要な情報が次々と明らかになっており、ビードルの努力と彼への評価とで研究資金の流れも安定していた。しかし、依然としてビードルに休息はなかった。

 遺伝学者が当時直面していた最も挑戦的な課題は遺伝子の化学的性質で、この問題がビードルの念頭を離れることはなかった。ビードルは1945年の長文のレビュー論文でこの問題に繰り返し言及した。しかし、アカパンカビの実験も遺伝子の既に知られた多くの生化学的効果も、遺伝子の構造を明らかにする戦略あるいは遺伝子が対応する酵素を生産する方法を提示してはいなかった。ビードルは 「化学が遺伝、発生と機能を研究する方法論の重要部分であるように、遺伝子は生化学の研究対象の重要な部分である」 と確信してはいたが、遺伝子と生化学の関連を実験的に追求する方法を自ら考え出すことができなかった。ところで、ロックフェラー財団は次の大きな発展は両分野の交差点で起こると見ており、ビードル達が財団の支援を将来も受けるためには、統合されたふたつの専門領域を同一学科にもつことが必要だった。ビードルはスタンフォードの生化学者と遺伝学者の相互協力の促進に努めたが、それは厄介な闘いを招くことになった。スタンフォードの古参の生化学者だったフバート・ローリングは化学との統合を見ており、生化学遺伝学には無関心だった。ビードルが新しい方向を目指すのなら、どこか他の場所へ行く他なかった。1945年の春までに、フィラデルフィアのウィスター研究所から求められていた所長職を受けようかとビードルは考えていた(注:ウィスター研究所はペンシルベニア大学キャンパス内にあってがんや感染症などの研究とワクチンを含む治療法の開発に注力する生物医学研究所で、1892年に合衆国初の独立した非営利の研究機関として設立された)。スターテバントからカルテックへ来ないかという誘いがあったのはそんなときで、ドイツが5月に降伏した数日後のことだった

 カルテックでは、生物学部門長の席を退くことに乗り気でないモルガンが76歳になる1942年まで現職として留まっていた。モルガンは自分の後継者に誰も推薦してこなかったから、戦時中は新しい指導者の必要性という重大な問題が未解決のまま残っていた。部門の執行委員会側に立ったミリカンは、ヘイルとノイエスとともに学内で成功を収めていた立場から、モルガンに代わって部門執行委員会に生物学部門の運営を任せた。しかし、このやり方はうまく行かなかった。スターリング・エマーソンとアルバート・タイラーがスターテバントにリーダーシップをとるよう繰り返し説得したが、スターテバントには強い指導力を発揮するのは無理だったし、そもそも彼はそれに乗り気ではなかった。他の教員、例えばヘンリー・ボルスーク、フリッツ・ウェント、アリー・ハーゲンスミットはこの状況を 「私腹を肥やす」 ことに利用した。ついに、ジェームス・ボナーはシカゴ大学からの招聘を受けてカルテックを去ると決心し、一方、化学部門の部門長だったライナス・ポーリングに不満を伝えるまでに現状に失望していたスターリング・エマーソンもスタンフォードを離れようと考えていた。重要なことだったが、生物学部門はカルテックの経営評議会に直接の代表権をもはやもたず、大学における部門の意志を代弁できる代表権をポーリングに委ねる他ない状況だった。生物学部門のこの退化状況を食い止めるために何かがなされなければならなかった。ビードルの獲得は明らかな解決策だった。

 パサディナの生物学者達は、例えば1930年代にビードルのフェローシップが終了した時を含めて、過去に何度かビードルの雇用に失敗していたことを覚えていたに違いなかった(第6章参照)。エフルッシとともにパリでショウジョウバエの仕事に成功を収めた後では、スターテバントとモルガンはビードルがカルテックに職を得てカルテックの名声を維持する大きな助けになる機会はすでに失われてしまったと判断したが、それはビードルがハーバードへ移ると決心していたことを知っていたからだった。ビードルはハーバードで幸せでないという噂を聞いたモルガンは自分の失敗に気づいた。ビードルをパサディナに呼び戻すためにはロックフェラー財団の支援が必要だとウィーバーに申し出たが、研究所への資金配分を考慮する立場にあったウィーバーには個人の雇用に配慮することはできなかった。ロックフェラー財団の支援が得られないことから、モルガンはスタンフォードとの競争は無理で諦めるしかないと考えた(注:ビードルは1937年にスタンフォードの教授職を引き受けた。第8章参照)。しかしカルテックの生物学者達は、8年後の1945年には、ウィスター研究所との競争に勝ってビードルを招聘できると考えて実際にそれを実現した。

 カルテックに戻るようビードルを勧誘する目的で書かれたはずのスターテバントの手紙は奇妙なことに意図が不明瞭だった。友人をパサディナへ来るよう説得するというよりは、快適でない場所に呼んでしまうことに気後れしている様に見えた。提案された給与と開始資金はそれぞれ7,000ドルと7,500ドルで、運営資金の額は後に考慮されることになっていた。スターテバントは、これらの数字は何の考慮もなしにただ慣例で選んだもので低額に過ぎるとビードルにはっきり伝えた。ではビードルはテータムにどれくらいの金額が現実的か伝えることができただろうか?部門の職員はビードルの招聘に乗り気で異口同音にこの案を認めていたが、提案された給与額が自分を除いた職員が得る額よりは高かった点を配慮したスターテバントは給与を含む資金については職員に何も知らしていないとビードルに伝えた。ミリカンは招聘を支持したが、彼自身は金額の増加に乗り出しはしなかった。もしスターテバントが人を説得する力のある立場であったなら、彼は資金の増額を要求する内容の手紙を書いてミリカンの考えを改めさせる努力をしただろう。

 ビードルはすぐに、喜んで相談に乗る用意があるとスターテバントに伝えた。スターテバントの手紙の1週間後に、ビードルの興味を知ったスターリング・エマーソンはビードルに手紙を書いて、ボルスーク、ウェント、タイラーがビードルの招聘がもたらす可能性と期待される遺伝学の再構築に夢中であることに付け加えて、 「もし先生をカルテックに迎えることができるなら、私は先生から多くを学ぶことができるようになり嬉しいです」 と伝えた10。エマーソンも遺伝学が生み出している興奮はビードルのグループから発しているのであってカルテックからではないことを知っていた11。しかし、エマーソンもスターテバントも、ビードルの大きな研究グループにどれだけの場所が与えられるか、あるいは必要な実験室の改修の資金はどのように調達されるかなど、重要な問題については何の示唆も与えることができなかった。

 残念なことに、パサディナ訪問はビードルの興味を鼓舞する役には立たなかった。結局、エマーソンもスターテバントも 「自分達の希望を叶えてくれるよう」 にビードルを説得できなかったことを悔やんだ12。二人は、建設的な話しをする代わりに、むしろ課題を強調したのだった。現実的なビードルが申し出た経済的要求は、例えば生物学部門の教授陣が嘗てした要求のどれをも上回っていただけでなく、ミリカンが受入れる限度をも越えていた。この問題は77才になるミリカンが期待通り交代することで解決されるだろうと踏んだエマーソンは、この点については楽観的だった。評議会は既にミリカンの活動に制限を加えていた。6月末に、スターテバントは評議会の要求とミリカンの承認を得て、8,000ドルの給与と10,000ドルの開始資金の他に、外部からの支援資金の獲得が実現できない場合の年間運転資金として8,000ドルの補償からなる数段改善された申し出をビードルに送ることができた13。学部生と大学院生を対象とした生物学の講義義務については今後の相談で決めることとされていた。しかし生物学部門の再建に向けた展望を具体的に描くためにビードルが果たすべき役割という重要な問題については、懸念を呼ぶことを恐れたスターテバントは避けて伝えなかった。

 カルテックは求めた機会を与えてくれないと結論したのだろう、ビードルはパルアルトに残ると決心した14。スタンフォードはより大きな支援に乗り出してくれたし、ビードルはロックフェラー財団の支援が維持されるか、さらに増額されるかも知れないと期待した15。ビードルの結論を知ったスターリング・エマーソンは、 「先生が参加できていたらどんなにかよかったのに」 と言うことしかできなかった16。スターテバントも手紙で、 「私は貴兄が正しい判断を下したのだと認めてよいとさえ考えます。失望はしましたが、そんなに驚いてはいません」 と弱々しい反応を伝えた17。彼らに関する限り問題は決着だった。彼らは15年間もの共通の歴史と強い知的な結びつきと親密な友情を共有した偉大な科学者の獲得競争に負けたのだった。しかも彼らにできたことは彼の決断を悔やむことだけだった。しかし彼らと研究所にとって幸運だったことに、カルテックにはもう一人、もっと戦闘的で先見性があり容易には諦めない人間がいたことだった。

 ライナス・ポーリングはその時44歳で、既に長い間世界をリードする化学者だった(注:ポーリングは1922年にオレゴン農科大学で化学工学の学士を得た後にカルテックへ進学し、1925年に物理化学と数理物理学でPh.D.を取得した。量子化学という新分野の創設者で、1954年には化学結合の原理と複雑な分子の構造研究でノーベル化学賞を受賞した。さらに1962年には地上核実験への反対運動でノーベル平和賞を受賞している)。ポーリングにとってカルテックは大学院生時代からのアカデミックホームだった。彼は、化学部門の部門長として、部門を彼自身が興味をもつ生物学と統合する方向に向けて既に動かし始めていた。彼は生物学部門を化学部門と互いに補い合える強い分野にしたいと希望し、ビードルが生物学部門を指導するよう望んでいた。彼はまた、自分とビードルの組み合わせがロックフェラー財団からカルテックへの継続的で主要な支援を受ける機会を改善してくれることを知っていた18。この著名な化学者は、1933年にウォーレン・ウィーバーがロックフェラー財団に参加するとすぐに、ウィーバーの贔屓を受けることになった。常に既存の科学の標準的な専門分野の境界を見ていたウィーバーは、提案された研究が化学と物理学と数学の統合を目指すものだったから、ポーリングの最初のロックフェラー資金となった10,000ドルを支援した。そんな初期の時代に、ウィーバーは既にロックフェラーの理事達に向かって、 「生物学と医学の基礎的な問題に物理学分野で開発された技術と方法論が応用される機が熟している」 と語り始めていた19。ポーリングの他にモルガンもウィーバーの見解から恩恵を受けた科学者の最初の一人だったし、ビードルもロックフェラーからそれまで十分な支援を受けてきた。スタンフォードの生化学者達には、その後に続く経済的な支援への期待は別にして、ビードルが思い描く共同構想に彼らの性分として興味がなく賛同する気もないことを悟ったポーリングは、5月にスターテバントがビードルに書いた手紙でもおそらく一役買ったのだろう。ポーリングは、カルテックで化学と生物学の結束がうまくできればたった二つの単語すなわちビードルとポーリングの二語で全てがうまく行くと信じていたウィーバーに期待した20

 太平洋における戦争が終結して間もなくポーリングはウィーバーを訪ねて、ロックフェラー財団がカルテックの生化学とタンパク質構造の研究に、ポーリングの言葉によれば化学生物学の研究に巨大な補助金を出すよう提案した。彼の大望は、ふたつの新しい建物に200万ドル、今後15年間の運転資金として総額1,500万ドルの資金要求を含んでいた。ポーリングは、財団の役員が 「分子生物学」 と呼んだ分野へのウィーバーの偉大な情熱からカルテックが恩恵を得ることが出来るとするなら、その展望を共有し 「分子生物学」 をもり立てる資質と技能をもつ一人の生物学者とチームを組むべきだと考えていた。ポーリングはビードルが最高の候補者だと確信していた。カルテックを運営する5人の教授とともに新しく作られた執行委員会のメンバーだったポーリングは、ミリカンが9月に指導者としての役目を降りた後には、計画を前進させるよい立場に立った21

 ポーリングは時間を無駄にしなかった。今度は生物学部門の他の教授達の考えを聞かずに、すぐビードルに再度の手紙を出して 「部門の長とする」 申し出を伝えるようスターテバントを説得した。自分としては 「この案に賛成」 だが、ポーリングの他のアイディアには乗り気でなかったスターテバントは、 「ポーリングは、もし貴兄が受入れれば、ロックフェラーから巨額の資金が得られると考えています。そんな資金を得ることができればそれに超したことはないけれど、私にはそんな金額が本当に必要だとは思えません」 と付け加えた。スターテバントの相反する思いは次のような問題の伝え方に現れていた。 「私は部門が窮地に陥っているとは考えていませんし貴兄が来てそこから救い出して欲しいとも思いません。部門はある種好ましくない攻撃に曝されてはいますが、私が助けを求めて叫んでいるとは思わないでください。私達は何とか状況を切り抜けられます」 22。スターテバントはビードルがポーリングの情熱的な展望を共有していることに気がつかなかったのだろう。 「何となく」 はポーリングとビードルが状況を処理する際のやり方ではなかった。戦争が終わった今、科学には今までとは違う意欲的な取組が必要だと若い二人は理解したが、スターテバントは、まだ54才ではあったが、広がって行く未来を前向きに捉えるよりは後ろ向きに見ていたようだった。見通しは別にして、スターテバントは昔の優しさを失わず、次の忠告で手紙を締めくくった。 「貴兄がやりたくないと思う問題に、ポーリングの口出しを許さないように注意して頂きたいと思います」 。

 ポーリングが攻撃的だというスターテバントの見方は正しかった。ポーリングは何がふたりでできるかについてビードルと話すためにスタンフォードへ出向いた23。スタンフォードとそこの生化学者のローリングとは違って、カルテックとポーリングは生化学と遺伝学を結びつけるための分野横断の試みを支援しようとするウィーバーの意志を有利に使うことに熱心なことをビードルは知っていた。スタンフォードのチャールズ V.・タイラーは獲得競争が終わってしまったことをすぐに悟った24。タイラーにはカルテックの申し出と競うことはできなかったし、ポーリングとの共同を約束することもできなかったからである(注:タイラーは4ヶ月後の1946年2月に亡くなる)。ビードルは1946年7月1日にパサディナへ移ることをカルテックの運営委員会議長のジェームス R.・ページに伝えた25。同時に1946年の最初の半年間を乗り切るための追加支援の要求を添えて自分の決定をロックフェラー財団に伝えた26。ウィーバーは安堵し喜んだ。ウィーバーは、ハンソンとともに、ビードルがウィスター研究所へ移るアイディアを好ましいとは思っていなかった27。財団はすぐに要求額の5,000ドルをビードルに提供した28

 カルテック生物学部門のメンバーはビードルの部門長就任に賛否両論の態度をとった。スターリング・エマーソンとジェームス・ボナーは喜び、ボナーはシカゴでの就職を取りやめる決断を下した29。ボルスークや他の同僚達は、ポーリングが取り仕切るようになって以来、自分達に何も知らされないことに苛立っていた30。ウェントは自分自身の活動が気がかりだったが、それには理由があった。ビードルが部門長を受入れるとすぐに、ミリカンはビードルにウェントの仕事が新しい温室のための30万ドルとその維持費としての年間6,000ドルに相応しいかどうか調査するよう迫ったのだった31

 運営委員会議長のページもポーリングも、ビードルが7ヶ月間もカルテックの仕事に関わらない状況を見過ごせなかった。彼らは、ビードルの勧誘、任命とロックフェラー財団への申請があった時には、ビードルはすぐに仕事を始めると期待していた32。スターテバントも、ビードルはすでに心を決めていると思っていた33。さらにポーリングは、新しい同僚が急速に変化する科学の舞台で生じている国家的な課題について、一日でも早く自分と協力できることを期待していた。

 戦争の経験から、国中の大学における科学研究に対する連邦政府の支援は効果的でなければならないとされた。フランクリン・ルーズベルト大統領は、1944年に、戦争遂行努力を支援するための巨大な科学研究計画の管理に携わっていたバンネバー・ブシュに命じて平時の計画を準備させた。ルーズベルトが死ぬとブッシュはアメリカ国立科学財団(NSF)の前身となる機関の創設をハリー・トルーマン大統領に提案した34。しかし、ふたつの反対法案が速やかに上院に提出され議論を呼んだことで、機関の創設は1950年まで延期されることになった。ブッシュの報告の直ぐ後に出たマグナソン法案は、主として科学者からなる市民委員会に財団の権限を与えるとした。一方で、キルゴール・ジョンソン・ペッパー法案は大統領により多くの権限を与え、補助金で支援される研究は社会的な貢献度の高い目標を支援すべきだとして、研究に対する政治的影響力という妖怪を育てようとした(注:ここでの妖怪は、1848年にカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスによって書かれた共産党宣言の冒頭の文章、‘ひとつの妖怪がヨーロッパにあらわれている ー 共産主義の妖怪が’、からの対比表現と思われる)。ポーリングは、自分は南カリフォルニア地域を担当するからビードルにはサンフランシスコ湾岸地域でマグナソン法案の支持組織を作るよう期待した35。一般論で言えば、科学者はマグナソン法案に基づくNSFの構想で科学に対する連邦政府の支援の継続と拡大が約束されると期待して興奮していた。マックリントックはビードルのスタンフォードへの移籍を伝えるエフルッシへの手紙で、 「でも、科学の隆盛こそが大切です。もし連邦政府の支援が続けば、合衆国の科学はもっと多くの前進の機会を得ることができます。大きなアイディアが孵化しようとしていますし、それらはどれも新聞で見る限りいい案だと思います。遺伝学のグループもそう感じています」 と感想を述べた36。しかし彼女はすぐに話題を切り替えて、パリでの最初の平和な冬をどう過ごすかという、科学の補助金よりもっと基本的な問題に取り組んでいるエフルッシと彼の家族や同僚を気遣った。

 カルテックでの諸々の問題は別にして、ビードルは家族、研究室と研究グループがパサディナへ移動する計画を立てなければならなかった。幸いなことに、パサディナはデビッドのいる南カリフォルニアの学校と近いから、マリオンは 「パサディナへ戻ることに情熱を燃やした」 37

 ポーリングは提案が年の初めにはロックフェラーに届くとウィーバーから聞いた。ビードルはすぐ申請に必要な生物学分野の計画案を、ポーリングは化学分野の計画案を書き始めたが、それは10年かそれ以上に及ぶ構想力に富んだ包括的な研究計画を意図したものだった38。ポーリングから15年間分およそ600万ドルの要求を考えていると聞いたときのことを、ウィーバーは 「受話器を何とか取り落とさないようこらえた」 と回顧している39。ビードル自身も金額には吃驚したが、 「アイディアは承知している」 と考えた。うまく行かない時の失望を買うのを嫌ったビードルは、スターテバントには金額を他に漏らさないように注意を促した上で申請の内容について意見を求めた40。スターテバント自身は既にファージ、抗生物質、酵素を含む微生物学と細菌遺伝学について 「漠然」 とした 「広い」 アイディアをビードルに伝えてあった41

 ビードルの最初の申請原稿は次の文章で始まっていた。 「核物理学、化学と生物学の様々な側面で見られた過去10年余りの進展によって、生物学は今や未来の展開に向けた最も好ましい位置にある」 。ビードルは特に、放射性同位元素によるトレーサー技術と化学遺伝学のふたつが統合し発展すれば、そこから必然的に特別の機会が生まれると指摘した(注:トレーサー技術とは、放射性同位元素や蛍光物質などを援用して、様々な物質の細胞内あるいは組織内の移動を追跡する技術)。続けて次のように主張した。 「だが残念なことに、こうした機会を有利に使っている研究所は決して多くなく、その理由は以下のふたつである。(1)一般的に科学の発展をしばしば遅らせる保守主義と伝統主義が多くの研究所で生物学と自然科学を隔てている、(2)最大の進歩に必要な方法論と技術には資金の支出が必要であるが、この事実をほとんどのカレッジと大学は重大問題として認識していない」 。彼は続いて、カルテックは何故そのような統合を実現するに相応しい場であるかを説明し、酵素学とウイルス研究を含む微生物学を強化する必要性と、その実現に必要な設備と装置の設置を強調した。さらに一ページを使って彼は生物学部門の現在のプログラムと現有人員および勧誘を希望する人材のリストを揚げた。年間経費の評価額は265,000ドルで、そのうち170,000ドルは彼自身の研究を含む現在進行中の研究に割り当てた42

 ポーリングはビードルの計画に満足せず、 「ロックフェラー財団は、現在の職員全員のための巨額の補助金よりは、新しい学科を含むプログラムにより強い興味を抱いている」 はずだという自分の考えを明確にした43。研究の対象としてはビードルのリストにあった核酸と核タンパク質を特に強調した。12月初めまでにポーリングはビードルの簡潔な申請書を重厚で詳細な計画書に書き直して、ウィーバーにその 「草稿」 を送り反応を見た44。その間にビードルは、ワシントンで全米研究評議会(NRC)の発展委員会の会合に出席するために東部へ出かけた折に、ウィーバーをニューヨークに訪ねた。ウィーバーは申請書の草案をまだ見ていなかったが、ビードルは 「私達が提案するこうした類いの研究にとっては明らかにカルテックが世界で一番よい場所だという私達の主張にウィーバーは既に完全かつ間違いなく賛同している」 との確信を得て戻った。しかしビードルは一つにすべてを賭けようとはしなかった。彼はポーリングに発展委員会の会合で学んだことを伝えた。たとえロックフェラーに十分な資金提供の用意がなくても、アメリカがん学会からもっと多額の資金を得るかなりのチャンスがあった。さらに、小児麻痺国家基金マーチ・オブ・ダイムスも基礎研究への補助金を獲得できるもうひとつの可能性だった45(注:マーチ・オブ・ダイムス基金は、フランクリン・ルーズベルトによって、母子の健康改善を目的として1938年に設立された非営利組織である。ルーズベルト自身は39才でポリオに感染し、生涯小児麻痺を患った)。全てに良い兆候があったから、ロックフェラーには15年間で総額600万ドルを提供することはできないだろうというウィーバーの意見は落胆すべきだったものだった。金額が大きいというだけでなく、戦争が終わって財団は計画自体の見直しを既に始めていた。

 1945年12月の初めに、ビードルとポーリングが目指して来た化学と生物学の融合という展望がモルガンの死とともに象徴的な幕引きを迎えた。同じ月にウィーバーが続いて重病に陥り、ロックフェラー財団からの速やかな善処を求めていた二人の希望を挫いてしまった。それでも彼らは申請書を書き続け、3月初めに草案をほぼ書き終えた46。これらの仕事の他に、その年ビードルはアメリカ遺伝学会の会長を務めた。人生で 「これほど忙しい年はなかった」 47ほどで、夏のコールド・スプリング・ハーバー・シンポジウムにさえビードルは参加することができなかった。当時まだ30才だったデビッド・ボナーが、アカパンカビ・グループと一遺伝子一酵素仮説をマックス・デルブリュックの批判意見に対して弁護しなければならなかったのもこの年のことだった(注:第11章参照)。

 1946年春にカルテックの運営委員会はロックフェラー大学の物理学者だったリー・A.・デュブリッジをカルテックの学長に任命した。デュブリッジはビードルと年齢が近く、ビードルと同じように大学に新鮮なアイディアを持ち込むと期待された。デュブリッジはビードルからの祝福の手紙に感謝し、彼を支えると改めて保証を伝えた。 「貴兄がカルテックへ移ると知ったことが、私がカルテックへ来ようと決心したかなり大きな要因でした。貴兄がカルテックにいることで、キャンパスには少なくともこの先何年か、私の頭を悩まさないで済む学科がひとつはあると感じました。」 48。おそらくデュブリッジがカルテック運営委員会からの招聘を受けると決心する上で重要だったのは、ビードルよりは、ウィーバーとデュブリッジにウィスコンシン大学で数学を教えたマックス・メイソンの強い勧めだっただろう49。メイソンは、シカゴ大学の学長として短い2年間の職務を終えた後で、ロックフェラー財団の最高経営責任者となった50。ロックフェラーを1936年に去ったメイソンはカルテックへ移ってパロマ望遠鏡の建設に当たり、ビードルとデュブリッジが着任した時はまだ教授としてカルテックに残っていた。デュブリッジのリーダーシップのもとでカルテックは成長し、さらに影響力のある大学への発展を開始していた。1946年には大学の 「絶望的な財政状態」 が修復され、職員の給与も大いに改善された51

 スターテバントの家族は1946年夏に東部への慣例の旅に出発し、7月にはビードルの家族がパサディナへ引っ越してきた。彼らは秋にはキャンパスから3マイル離れた、サン・ガブリエル市のアデリン通りに面した小さな家に落ち着いた52。この家を手に入れるには、パロアルトの家を含む3軒の家の厄介な交換が必要だった。パサディナで適当な家は17,000から18,000ドルで、今ならこの40倍の高値だが、当時の大学教員にとっては気力を削ぐほどの値段だった。マリオンは小さな家に不満で、彼らはよりよい物件を探す計画だったが、結局そこで4年間を過ごすことになった。マリオンとデビッドはパサディナの猛暑を避けて、最初の夏のほとんどをコロナデルマールの海岸で過ごした(注:コロナデルマールはカリフォルニア州オレンジ郡ニューポートビーチの一地区で資産家が住む全米有数の都市)。

 パサディナに移る前にビードルはどのように既存の生物学科を計画に沿って統合するかに頭を悩ませた。まだ准教授だったE. G・アンダーソンが厄介な問題のひとつだった。アンダーソンは結婚した直後で、妻と小さな娘とともに1929年に大学が彼のために用意した農場の無料の家にまだ住んでいた。この家は大学が彼ら家族のためだけに維持していたものだった。農場の家で月一回開催する遺伝学セミナーはキャンパスから学生を集めたが、彼はセミナーと時折の講義以外には学科の仕事にほとんど参加しなかった53。ビードルとアンダーソンは15年以上も互いに知り合いで、二人ともコーネルとエマーソンに育てられた学生だったが、うまく行ったことがなかった。いつもの様にビードルはうまくやろうと努めたが、アンダーソンはビードルがカルテックへ戻って来たことを快く思わなかった。彼の不満は、ビードルが研究室の若手メンバー用の居住施設を建設するために農場の土地の一部を提供するよう求めた時に険悪化した。結局、街で適当な家が見つかり、その必要がなくなったのは幸いだった。農場自体はうまく行っていたし、アンダーソンもキャンパスでの学科の仕事に興味を表明したのでビードルは喜んで彼に手を貸した。それでも、農場と学科の資源を巡る争いは続き、農場の研究は新しい計画とうまく相容れなかった。モルガンの古い隠れ屋だったコロナデルマールの海洋実験所も、特にそこの利用頻度が低いという点で同じような問題を抱えていた。 「ボス」 に従って発生学に入ったアルバート・タイラーが海洋実験所の主な利用者だった。1946年にはタイラーはまだ准教授で、抗原と抗体の相互作用に関するポーリングのアイディアに刺激を受けて、卵と精子の相互認識に関する生化学研究をそこで続けていた。

 二人のオランダ人神経生理学者コルネリス・ウィールスマとアントニー・フォン・ハリベルトは、二人の植物生理学者アリー・ハーゲンスミットとフリッツ・W.・ウェントとともに生物学部門に残っていた54。ウェントは、これから先も 「ビードルの心配の種(首周りのアホウドリ)」 になるだろうと思われた。ビードルと同い年の彼は、オランダのユトレヒト植物園の園長で植物学教授を務めていた父親のもとで、植物園内の邸宅に住み特権的でアカデミックな環境で育った。1926年に植物生長ホルモンを発見しオーキシンと名付けたことで名声を得て、オランダ領東インド、ジャワ島の王立オランダ植物園で職を得ることができた。ウェントは、人伝えでは多くの創意に富んだアイディアをもつ目先の利いた人間だったが、ビードルが提示した生物学の新しい方法論と遺伝学には批判的だった。彼には、例えばオーキシンがインドール-3-酢酸であるというケニース・V.・ティマンが発見した事実を認めようとしないなど、科学の上でも多くの問題があった。この発見はウェントがパサディナに来る直前に、若い講師だったティマンが成し遂げた仕事だった55(注:ウェントとティマンは1937年に発行された 「植物ホルモン」 という本の共著者である。なお、ティマンによるオーキシンの構造決定は、既に成し遂げられていたフォーク・スクッグによるもう一つの植物生長ホルモン、サイトカイニンの構造決定、東大農学部の薮田貞治郎によって1935年に単離されたジベレリンと相俟って、細胞伸長、根の形成と芽の発育、屈光性や屈地性など植物の主要な生長制御機構の研究に貢献し、技術開発を通じて農業と園芸に大きな利益をもたらした。除草剤の2,4-Dや2,4,5-Tは人工的に合成されたオーキシンでベトナム戦争では枯れ葉剤として使われた。薮田貞治郎が単離したジベレリンは、1926年に台湾総督府農事試験場の黒沢英一によってイネの馬鹿苗病を引きおこす馬鹿苗病菌Gibberella fujikuroeが作る毒素として発見された。ジベレリンの結晶化は薮田らによって成し遂げられたが、その後に欧米で盛んな研究開発が行われ、構造決定はアメリカ人研究者達が成し遂げた)。

 ビードルがパサディナへ戻る数年前に、ウェントは植物生長に関する応用研究と環境要因の影響に興味を持った。ウェントをルイセンコ主義者だと言った者もあったが56、彼のカリフォルニア農産業との強い絆が設備と研究に主要な資金を提供していた。ビードルはウェントの資金獲得を助け利益を目的とした組織の準備に協力したが、1958年にビードルが植物を育成するための温室設備の要求を拒否したとき、ウェントはカルテックを離れてセントルイスのミズーリ植物園を率いることになった。ところで、ビードルがカルテックへ戻ると知ったスターリング・エマーソンもジェームス・ボナーと同様にカルテックを去る決心を翻していた57。ビードルは正常なアカパンカビでは生育を阻害するスルファニルアミドをむしろ要求する突然変異体に関するエマーソンの仕事に大きな関心を抱いていた(注:スルファニルアミドは、アニリンのスルフォンアミド誘導体からなる抗生物質で細菌感染症の治療薬)。それに、エマーソンがビードルの計画を支えてくれることは間違いなかったし、ビードルがスタンフォードを去る前までには彼が実験室とその設備を再構成してくれていると信頼してよかった。

 これらの人々を雇用する資金の要求は全てロックフェラーへの申請書に書き込まれていたが、資金獲得計画の成功は実のところ新しい研究者の招聘にかかっていた。ビードルは遺伝学の強化とウイルス学、微生物学、酵素学、核酸と核タンパク質の研究計画およびアイソトープ・トレーサーの使用に習熟した研究者を計画に加えたいと希望した。パサディナへ移ると決心した直後に、スターテバントは彼の学生で当時陸軍での兵役を終えたばかりだったエドワード・ルイスを講師に任命するようビードルに提案した58。ルイスは 「いい奴」 だっただけでなく、ショウジョウバエのコレクションを世話することができたから、ビードルはこの提案に賛成した。1946年春のパサディナへの頻繁な旅行のひとつの機会を利用してビードルがルイスに会った時、ルイスはコレクションの管理にはフルタイムの人間が必要だとビードルに訴えた。コレクションは世界最大の規模で極めて重要な資源だった。スタンフォードへ戻るとビードルは有能な学部生のパム・ハラーを見つけて、卒業後にカルテックで夏の仕事をする気はないかと誘った。 「どんなことでも、ビードルにノーと言えたことは私の人生で一度もありませんでした。彼が‘ハイ!皆コカインシューティング・クラブ(魅力的なクラブの意味)’に集まれ’といえば、私達はいつでも参加してきたのですから、私はすぐにイエスと答えてカルテックに行きました」 とパムは思い出して語った。彼女がOKした数日後に、ビードルが彼女を研究室に呼んで、 「ハイ!パム、君の背丈はどれくらいかね?」 と尋ねた。彼女が、 「5フィート3インチ」 と応えると、ビードルは、 「君の新しいボスは5フィート4インチで28才だ。多分、君は彼がとても好きになって恋に落ちてカルテックに留まる決心をすることになるだろうね」 と予言した59。実際、彼女はそうなった。彼らは1946年9月に結婚した。ルイスはカルテックのビードル時代の輝かしい遺産になった。彼の仕事はモルガンが何十年も前に設定した目標だった古典的なショウジョウバエ遺伝学と初期発生への分子的手法を結ぶ橋となった。彼の仕事の完全な意義が明らかになった1995年に、ルイスはノーベル生理学・医学賞を受賞した(注:ルイスが、初期胚発生に関する遺伝学的制御の業績でドイツ人のクリスティアーネ・フォルハルトと合衆国のエリック・ヴィーシャウスとともにノーベル賞を共同受賞したのはビードルが死んだ6年後のことだった。ビードルが生きていれば、どんなにかこれを喜んだことだろう)。

 他に二人の優秀な若い科学者レイ・オーウェンとノルマン H.・ホロウィッツが1946年にカルテックの教員に任命された。そのときオーウェンは免疫システムの遺伝学に興味をもつという理由でポーリングに招聘されたカルテックの研究員だった。ホロウィッツは31才で、ビードルのスタンフォード研究室で既に才能を証明していたが、1946年にアカパンカビ・グループの一員としてカルテックに移って来た。他のもっと若手の人々は主にスタンフォードからの移籍者達で、ケルケホッフ棟のアカパンカビ・グループを形成していたが、そこには結婚を間近に控えたハーシェルK.・ミッチェルとマリー・フーラハン、大学院生のアドリアン・サーブとオーガスト・ドールマンがいた。ミッチェルはしばらくして部門の教授になった。サーブはスタンフォードでちょうどPh.D.を修了したばかりで、パサディナとパロアルトの間の往復が必要な任務を与えられた。彼は1947年にカリフォルニアを離れてコーネルに職を得た後はそこで長く生産的な研究生活を続けた。ともにネブラスカ生まれででカイムの教え子だったビードルとサーブの二人は、既にそれまでに生涯続いた親密な友人関係を築いていた。その後に大陸を横断して続いた二人の行き来の最初の機会は、サーブがパサディナでオーウェンと本の執筆の仕事をしていた1949年の夏だった60

 若手の研究者はパサディナへ移るに際して未来の確証を求めなかった。研究キャリアーを始めたばかりの若手にとってビードルとポーリングの展望は夢の実現だと感じられた。一方、他所でよい地位に就いていなかった上級研究者達を勧誘するのはもっと大きな挑戦だった。うまく行かなかった例がある。モントレーのスタンフォード大学ホプキンス海洋研究所で微生物の光合成を研究していたC. B.・ヴァンニールは申請した微生物学プログラムのリストで高い位置にあったが、彼はスタンフォードに残る道を選択した61

 マックス・デルブリュックはビードルにとってウイルス学の第一の選択肢だった62。ロックフェラー財団フェローとして1937年から1939年までビードルのチームでデルブリュックが行ったバクテリオファージ(通常は省略してファージ)と呼ばれるウイルスの仕事は、遺伝情報の複製に関する理解に道を開いた。ビードル自身の仕事は遺伝情報がどのように使われるかについてだった。人間的にも科学的な見方でも自分とは随分違っているが、デルブリュックは生物学部門の活性を維持する鍵となる人材で、彼の高度に批判的な知識は間違いなく学生達を鼓舞するとビードルは期待した。

 マックス・デルブリュックは1906年にベルリンの有名な家庭に生まれた63(注:マックスの母は、窒素・リン酸・カリウムが植物の三大栄養素であるという説を提唱し化学肥料を作ったことで知られる19世紀最大の化学者の一人だったジャステス・フォン・リービッピの孫娘で、父のハンス・デルブリュックはベルリン大学の歴史学の教授だった)。1930年にゲッティンゲン大学で理論物理学のPh.D.を取得し、その後の2年間はヨーロッパの理論物理学の研究室を動き回ったが、そこで当時の最も重要な物理学者の多くと接触を持った64。何処でも皆が彼の知能と学識、特に彼のもつ社交的な人間性とユーモアと笑いのセンスしに感銘した。デルブリュックが会った全ての偉大な物理学者の中で、彼の生物学に対する興味をかき立て、彼を物理学から生物学への転向者の草分けとしたのはニールス・ボーアだった65。ボーアの生物学に対する考えは、現代物理学とハイゼンベルグの不確定性理論から直接に導かれたものだった66。このアイディアを生物学に応用する際に、彼は(デルブリュックによれば)、 「生物を眺めるとき、それを生物として見るかあるいは分子の寄せ集めと見るか、どちらも可能だろう。分子が何処にあるかを観察して調べることもできるし、動物がどのように行動するかを調べるための観察も可能である。しかし、生物学でも、原子物理学がそうであった様に、どちらの立場に立つかという互いに排他的な特徴がいずれ表面化するのは明らかなことだろう」 と予見していた67

 デルブリュックは1932年に、ベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所の化学部門でリセ・メイナーの助手になった68。メイナーとオットー・ハーンはウランに中性子を衝突させた時にできる物質の性質を調べていたから、そこは刺激的な場だった。しかし、当時は、メイナーもハーンもデルブリュックも自分達が観察していた現象が核分裂だったことを理解していなかった。メイナーはナチのドイツから追放された1938年になってこの事実を理解した。後にデルブリュックは、 「何が実際に起こっていたのか、核分裂の可能性を考えてみるべきだったが、私達は他の皆と同様にそれを見る想像力を欠いていた」 と語っている69。 「このように、マックス・デルブリュックは30才にして、有名な父親の二流の息子という烙印を得た」 70。しかし彼は、カイザー・ウィルヘルム研究所生物学部門の近くにあったN. W.・ティモフィエフ・レソヴスキーの遺伝学研究室で多くの時間を過ごし、X線照射で生じるショウジョウバエの突然変異から遺伝子の性質を知ろうとする努力に参加した。遺伝子は何世代を経ても極めて安定であるにも関わらず、自然にあるいはX線で誘導される突然変異によって変化する事実、しかも突然変異した遺伝子がもとの遺伝子と同様に安定である事実を物理学でどのように説明できるか、デルブリュックは知りたいと思った。ティモフィエフ・レソヴスキー、K. G.・ズィメルとの1935年の共著論文で彼が果たした理論的な貢献は、原子そのものとX線のエネルギーが原子に与える効果を直接的に論じた点にあった71。彼は暗示的に遺伝学者達の抽象的な遺伝子を原子で構成される物理的実体に変換したのだった。

 デルブリュックの豊穣なアイディアは他を刺激して自分の提案を実行させる並外れた技能に裏づけされていた。この時までにナチ政権は公式のセミナーへの参加を禁じていたから、彼は毎週の討論集会をベルリンの母の家で開いた。デルブリュックにとって特に重要なことは、生物学を学ぶことで物理学者は物理学に深遠な新しい発見をもたらすことになるだろうという推定で、そのアイディアは多くの研究者にやる気を起こさせ、彼らをデルブリュックの影響下に集めた。しかし、それは方向を誤ったアイディアで、生物学からは新しい物理学は何も生まれなかった。反対に多くの新しい生物学がデルブリュックを筆頭として物理学で訓練を積んだ他の科学者達の仕事から生まれたが、それは生物学に対する彼らの斬新な考え方が生産的であったからだった。デルブリュックには 「生化学の力という蓄え」 があり、実際に遺伝学の発展にとって本質的な重要性が判明したのは化学であって物理学ではなかった72

 アメリカの遺伝学者達が初めてデルブリュックの存在に気がついたのは、彼のティモフィエフ・レソヴスキーとズィメルとの共著論文が最初で、ロックフェラー財団はデルブリュックに生物学で仕事するための奨学金に応募するよう勧めた73。ショウジュバエの遺伝学をもっと学べるという可能性に惹かれた彼は、カルテックは自分の身を置くべき場所に違いないと考えた74。それに、 「おそらく余りの率直さの結果として」 、大学に職を求める候補者に要求されるナチの教化セッションで不満足な振る舞いをしてしまった彼は、ドイツを離れるのが得策だと考えたのだろう75

 デルブリュックのショウジョウバエ遺伝学への情熱は長くは続かなかった。スターテバントとブリッジスの丁寧な指導があったにも関わらず、遺伝学の複雑さと学術用語に彼はうまく対処することができなかった。彼が1937年にパサディナに着いた時、ビードルとエフルッシがまだそこにいたなら、おそらく彼は二人に引きつけられたであろう。彼はついにエモリー L,・エリスの研究室に望む課題を見つけた。エリスは20年以上前に発見されていたバクテリオファージによる細菌の感染を研究していた。ファージが粒子であること、ファージの感染後に細菌細胞は破壊されて多くの新しい子ファージ粒子が放出されることが既に明らかとなっていた。エリスは、がんにおけるウイルスの役割を理解するためにファージが役立つと期待して仕事を始めていた。彼は大腸菌に感染したファージをフィルター処理した汚水から分離した。デルブリュックが研究室を訪ねる少し前に、彼は共同発見者だったフェリックス・デュハーレルの観察、すなわち新しいファージが感染経過中に細菌細胞からの放出物として生産されることを確認した。新しいファージは細菌とファージが混ぜ合わされた数分後に初めて現れるが、感染を受けなかった細菌がまだ試験管の中に残っていれば、それは新しいファージによる感染を受け、同じ時間が経過した後で子ファージの爆発的な放出が再び起こる。このように、ファージの放出は段階的である。これに疑いをもったデルブリュックは 「私は信じない」 と言った76。彼は、セミナーに訪れる研究者達に声を大にして同じことを宣言するようになり、ついには皆の不評を買うことになった77。しかしエリスの仕事に十分な魅力を感じた彼はこの仕事に参加する決心をした。個別粒子と粒子の集団を扱う物理学者としての彼の数学の力が、仕事を量的な基礎の上に置くことで重要な結論を導くことになった。彼らは細菌へのファージの吸着と細菌細胞の崩壊の間の時間的な遅れ、感染を受けた細菌の細胞集団から放出されるファージの平均数および、ひとつの細菌細胞から放出されるファージの数を正確に測定した。これらの方法は次に、ファージの生産に対する様々な条件の効果を彼らが調べることを可能とした78(注:ファージを遺伝学の対象とするには、宿主である細菌の数とファージの数の両方を正確に数える必要がある。細菌の数を数えるには、細菌の培養物を十分に希釈して固形培地に広げ、ひとつひとつの細菌細胞から分裂によって生じた菌叢すなわちコロニーの数を数えればよい。一方、ファージの数を数えるには、ひとつのファージが固形培地上に広がった細菌集団のひとつの細菌に感染し、生じた子ファージが周囲の細菌に次々に感染して細菌を殺すことで培地上にできる透明な空間として観察可能なプラーク(溶菌斑)の数を数えればよい。エリスとデルブリュックは、ファージの増殖を解析する際に次々と起こる再感染を防ぐために次の方法を開発した。ファージが感染した細菌懸濁液を希釈後に培養し、一定時間ごとにその一部をとってファージに感染していない細菌と混ぜ固形培地上に播いて生じたプラーク数を数える。これにより、潜伏期、対数増殖期を経て放出期(飽和期)に至るファージの一段増殖が可能となった)。

 この仕事が発表されたとき、エリスは既にがん研究に戻っており、ファージに取り組んでいたデルブリュックは戦争でヨーロッパに帰ることができなかった。カルテックとロックフェラー財団の友人達は彼の仕事の重大な意義を理解し、ヴァンダービルド大学の職を彼に斡旋した(注:ヴァンダービルド大学はテネシー州ナッシュビルにある私立の大学で南部アイビーリーグの一校)。その後程なくして、彼はコロンビアのサルバドール・ルリアおよび当時はワシントン大学にいたアルフレッド・ハーシェイとチームを組み、後に大きな影響力をもつ 「ファージ・グループ」 となる研究協力関係の核を作った。この強力な3人組はファージを遺伝学発展の理想的な道具として確立し、他の科学者達をグループに加わるよう説得した。彼らのもっとも効果的な勧誘法は、デルブリュックが1945年の夏にコールド・スプリング・ハーバーで始めたファージ生物学のサマーコースだった79。ビードルは残念ながら参加できなかったが、彼らの最も重要な発見のひとつが1946年のコールド・スプリング・ハーバー・シンポジウムでデルブリュックとハーシェイによって報告された。その内容は、ファージが突然変異すること、組換えを起こす可能性があること、したがって遺伝子をもつことだった。

 ビードルは、一遺伝子一酵素理論を声高に批判したデルブリュックはアカパンカビの仕事に興味がないことを知っていた。後にデルブリュックは、 「確かに実際の生合成経路とそれらの関係について大きな知識を得ることができるだろう。でも、そのアプローチではどのように酵素が合成されたか全く学ぶことができなかった。どのように遺伝子が酵素を作るのか、どのように遺伝子が遺伝子を作るのか疑問が残っているし、この重要な疑問に生化学的な方法論は事実上全く答えていなかった」 と語った80。デルブリュックは厄介な種になる可能性があったが、賢明で生物学部門の誰に対しても強烈な刺激を与え得る人物になるのは疑う余地がなかった。デルブリュックが初めてカルテックで過ごした当時から知っており、二人で共同の論文を発表もしていたポーリングは、デルブリュックの招聘を支援した。ポーリングとビードルのふたりはどちらも挑発的な同僚とでもうまくやって行ける強い人間だった。デルブリュックはカルテックによい思い出をもっており、近くの砂漠が好きだった。彼の妻の両親はパサディナの近くに住んでいたが、合衆国のその他の場所は、例えばテネシーなどを含めて、洗練されたヨーロッパ人の彼らには魅力的でなかった8182。カルテックからの招聘が届いたとき、デルブリュックはすぐにポーリングとビードルを訪ねた。彼は給与と研究支援について激しい要求を突きつけた。正教授として任命するという寛大な提案が出たのは1946年12月で、招聘が可能になったのは全米小児麻痺研究財団から5年間、毎年30万ドルの資金提供があったからだった8384

 一月後にデルブリュックはパサディナへ移った。ファージ・グループはタンパク質ではなく核酸が遺伝情報の運搬体であるというエイブリーらの主張を真剣に捉え始めていた。それでも、デルブリュックは生化学が遺伝学に大きく貢献するとは確信できずにいた。一方でビードルは、ファージ・グループに加わることは決してなかったが、生化学と遺伝学というふたつの分野を統合する重要性を強調し続けていた。1949年になってもまだ、デルブリュックは遺伝学を理解する上で化学が果たす役割の重要性については懐疑的だった85。その数年後には、ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を提唱し、アーサー・コーンバーグが実際に無細胞系で遺伝子が複製する事実を証明することになる(注:第13章参照。ジェームス・ワトソンとフランシス・クリックがDNAの二重らせん構造モデルを発表したのは1953年で、この業績によって、DNA結晶のX線回折で貢献したモーリス・ウィルキンスとともにノーベル生理学・医学賞を受賞したのは1963年のことだった。コーンバーグがDNA合成酵素を単離したのは1956年で、彼は1955年にRNA合成酵素を単離していたセベロ・オチョアとともに1959年に同賞を受賞した)。その時点で、デルブリュックのファージと遺伝学の仕事は終焉を迎え、彼は何か新しいことに向かった。次の20年余りの間、彼は糸状菌の認識力について研究するためのモデル系の開発に努めたが、これは失敗に終わった86(注:デルブリュックがルリアとハーシーとともにウイルスの複製機構と遺伝的構造に関する発見でノーベル生理学・医学賞を共同受賞したのは1969年だった。ルリアの自伝 「分子生物学の道」 には次のエピソードが語られている。ルリアとデルブリュックは細菌のファージ抵抗性菌を対象に、細菌に自然突然変異があるかないかを明らかにしようとしていた。突然変異がなければ遺伝学はできないし、遺伝子の実体を知ることもできない。1943年にコロンビア大学で学長主催のパーティに参加し、パーティ会場に置いてあったスロットマシーンを見ていたルリアは突然次のことに気がついた。スロットマシーンでは、当たりが出た時だけ当たりに相当する褒美が与えられる。ファージ抵抗性菌の出現を自然突然変異の当たりと見ればよい。すなわちファージ抵抗性菌の出現数を全体の平均値として単に数えるのではなく、数のふれを見ればよいことにルリアは気がついた。ルリアの直感は当たった。パーティのあった金曜日の夜に始まった実験は月曜日に終了した。ルリアはこの結果をカルテックのデルブリュックに手紙で知らせた。デルブリュックからはすぐに、データのポアソン分布に基づく解析結果、すなわち細菌の突然変異率を計算した結果のついた返事が戻ってきた)。

 ビードルは、それでもデルブリュックの知性と指導者としての資質を誤りなく高く評価し、 「非情で自己本位の外面」 をもつ人物だと形容されていた事実に触れようとはしなかった87。デルブリュックの 「独裁的なやり方と鋭い舌鋒」 に関する説話は世に満ちていた88。そうではあっても、彼が魅力的な人物だったことに賛同する者は少なくなかっただろう。彼が計画し皆を誘ってカリフォルニアの砂漠へ出かけた一晩のキャンプは、彼がよき時間を過ごした思い出の印として記憶され、参加が自由意志によるものではなかったと言って批判した者もあったが、強い仲間意識を生んだ。グループはいわばカルト集団で、デルブリュックは法王、ファージ研究者はその信奉者だと評した者もあった。明らかにデルブリュックは、ドイツ人のロマン主義を発揮して、知識主義と権威主義からなる強烈な集団精神を作り上げようとした。ルリアは少なくともそうした者達とは無縁だった。彼は 「デルブリュックのキャンペーンから自由であることが保証されなければカルテックへは来なかっただろう」 89と語った。しかしデルブリュックの存在が生物学部門に卓越さをもたらし展望を確かなものにする力だったことは間違いがなかった。

 再編成された生物学部門の教員には、遺伝学(ファージ、ショウジョウバエとアカパンカビを含む)、植物学と神経生物学の3つのグループがあった。長い間准教授だった4人が1947年までに正教授に昇進し、ホロウィッツとオーウェンは准教授になった。デュブリッジが教員給与のかなりの増額とともにこの人事を支援した。これら全ての活動は、ポーリングとの協力を通じたビードルの精力的で成功率の高い資金集めとポーリング自身の資金収集力に加えてそれに向けられたデュブリッジの完全な支援の賜物だった90。しかし残念ながら、ロックフェラーからの巨額な補助金獲得の目標は日の目を見ることがなかった。そこで、ウィーバーの助言を得たポーリングとビードルは当初の要求をより穏便な年6万ドルで5年間、化学と生物学で折半する案に置き換えた91。しかしこの案さえも退けられた92。最終的に彼らに与えられたのは2部門の折半で年5万ドルだった93。財団はここ数年、戦後の世界でどのように研究支援計画を再編成するか熟慮を重ねていた。それでも、ついに1948年になると年10万ドルを7年間カルテックのプログラムに提供する決定を下した。この金額は素晴らしいものだったが、ポーリングとビードルが始めに要求した6年間で総額600万ドルと比べれば大きな減額だった94。資金集めは変わらぬ苦労だったが、デュブリッジは産学連携計画を打ち立て、それによって1952年末までには大学への資金として年に25万ドル以上を生み出すことができた。

 ビードルは全力を注いで部門をもう一度生物学の世界センターになるべく皆を鼓舞し支援することに努めた。1946年秋にデュブリッジが学長としてカルテックに赴任して来た時、ビードルはすぐにデュブリッジと生物学教員との面談を手配した95。バーバラ・マックリントックから手紙で、何か興味のあるもの、すなわち遺伝子の転移と取り組んでいるとの知らせがあった時には、彼は即座に彼女をカルテックの客員教授として迎える手筈を整えた9697。ビードルの挑戦は、カルテックで生物学部門を建設するだけでなく、化学生物学と生化学遺伝学あるいはウィーバーが好んだ言い方では分子生物学など様々な名称で呼ばれる新しい研究分野を作ることだった。目標を達成するためには優れた研究が必須だったが、新しい科学を他に広めることになる次世代の若者の教育も大切だった。イングランド、ケンブリッジのキャベンディッシ研究所のプログラムを別にすれば、ビードルの構想はユニークだった(注:キャベンディッシ研究所は、ジェームス・ワトシンとフランシス・クリックがDNAの2重らせんモデルを作った研究所)。ビードルがモルガンの後の学部長として赴任した1年以内に、研究助手とフェローの数は倍増した98。ビードルは生物学をもっと完全にカルテックの舞台に組み込もうと努めたが、それはモルガンができなかったことだった。生物学の大学院生の数を増やさなければならなかったうえ、学部生の興味も刺激しなければならなかった。ビードルとホロウィッツは上級遺伝学コースを、デルブリュックは生物物理学を学部学生に教えた99。1948-1949年の学年期にカルテックは学部学生に対して、長い伝統をもつ自然科学と工学に加えて生物学の勉強に集中する様々な機会の提供を始めた。その年、ビードル自身は学部学生の初級生物学を担当して、講義のための入念な資料の準備に時間を費やした。ビードルは1961年にカルテックを去るまで講義を続け、時々はホロウィッツとオーウェンに講義を任せて実験を担当した。こうした中でもビードルは 「自分でやる」 流儀を忘れなかった。ハーシェルとミッチェルは次のようにビードルを評している。 「ビードルのようなやり方で仕事をする人を他に見たことがありません。彼は何処でも歩き回って必要なことを探し出しました。それはきっと彼の農場での経験からきた性質だったのだと思います。人々に何か必要があれば、彼らのためにそれを試みて実現してあげるのです。水がこぼれると真っ先にモップとバケツを持ってそこに駆けつるのはいつでも彼でした」 100

 こうした全ての活動に時間を費やしたので、ビードルには自分自身の研究と大学院生の指導に使う時間がほとんどなかった。 「こうした状況でも私は試みました。大学経営に実質的に没頭しながら、生物科学の次の研究のための実験として何ができるか考えようとしました。でも、じきに私は、多方面の才能を持つ他の同僚と違って、自分には両方を同時にすることはできないと気がつきました」 101。デビッド・ホグネスが1950年にアカパンカビでPh.D.論文の研究をしたいと希望したとき、彼は、滅多に研究室にいない自分ではなく、いつも研究室にいるミッチェルと仕事をするのがベストだと伝えた102(注:ホグネスはショウジョウバエの脱皮ホルモンであるエクダイソンの役割を明らかにした他、世界で初めてヒストン遺伝子やリボゾーム遺伝子を単離し、この過程で遺伝子の転写開始に係るTATAボックスを発見したことで知られる。さらに高等真核生物の遺伝子がタンパク質に翻訳される領域と翻訳されない領域から成り立つことを発見するなど、分子遺伝学の基礎の確立に関わる多くの業績を挙げた)。ビードルは自分が主たる責任を負う対象は生物学部門だと考えていた。もし彼が遺伝子の性質に関する決定的に重要な問題に迫る方法を自分で見いだしていたのなら、研究室での仕事をやり遂げることもできたであろう。しかし、彼は遺伝子の重要な構成物質はタンパク質であるという考えを強調し続けていたのだから、実際上それは難しかったのかも知れない。 「遺伝子そのものが核酸と結びついたタンパク質を含む巨大な核タンパク質分子を形成していることを示す証拠がある。それに遺伝子は、自分のコピーを作るのと基本的に同じやり方で、遺伝子ではないタンパク質の合成を指令するという提案もある」 103。1951年になってもなおビードルは、 「遺伝子は化学で知られている最も複雑な化合物すなわちタンパク質と核酸でできているのだから」 と書いた104(注:第13章参照。アルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスがT4ファージと大腸菌の実験系を使ってDNAが遺伝子の本体であることを示したのは1952年のことだった)。ビードルは10年後にトウモロコシの研究に戻ることになるが、それまでに発表した最後の論文はスタンフォードで行った仕事に関するものだった105

 パサディナへ移ったこともビードルの家庭の状況を好転する役には立たなかった。ビードルは新しい責任のある仕事の遂行に埋没しただけでなく、以前にも増して講演や重要な委員会、研究資金の調達などで旅行に出ることが多くなった。マリオンには、すでに友人として助けてあげられる学生もポスドクと彼らの伴侶達との付き合いもなく、学部の社交的な行事に参加してスターテバントとエマーソンの夫人達と時々会うことはあったが、不幸で多くの問題を抱えていた106。デビッドは相変わらず学校でうまくやれず、母が自分に不満だったことをよく覚えており、自分と父の間を遠ざけていたのは母だったと信じていた。母がメキシコへの意味不明の旅行に出かけていた間に父とふたりだけの時間を過ごした高校生時代のふた夏はデビッドにとって忘れられない暖かい記憶だった。

 ところで実は、家族から距離を置いていたのはむしろビードルの方だった。カルテックへ戻った1946年でも、彼はシグマ・カイの講演で国中のカレッジや大学を旅して回り、8月から11月の半ばまでは、ニューヨークで全米研究評議会(NRC)の医学フェローシップ基金委員会の会合に3回も参加した。自分の研究は終わっていたが、彼は依然として重要人物で、遺伝学の発展に対する彼の見方は人々の大きな興味の対象だった。彼が成し遂げた仕事で大きな栄誉を得ることになるのもそれほど遠い先ではないと思われた。リンドグレンは、1950年にラスカー賞を受賞したビードルへの祝福の手紙で、ビードルの立場について次のように語った。 「貴兄は生化学遺伝学の全分野を代表するただ一人の人物で、科学界の隅々にまで効果的なメッセージを伝えました。貴兄の努力は私達全てに繁栄をもたらしたのです」 107



1. 1. Harriet Zuckerman, GWBとのインタビュー,December 12, 1963. COL.
2. GWB. 1945. Biochemical genetics. Chem. Rev. 37: 15-96.
3. GWBからH.M. Millerへの手紙, August 25, 1945 and September 6, 1945. Box 11/1, Beadle collection, CIT.
4. F.B. Hanson.メモ, December 3, 1945. Folder 143, box 10, series 205D, RG1.1, RFA; A.H. SturtevantからGWBへの手紙, June 28, 1945. Box 7/19, Beadle collection, CIT; L. Kay. The molecular vision of life. Oxford University Press, New York, 1993, p. 212.
5. SturtevantからGWBへの手紙, May 13, 1945. Box 7/19, Beadle collection, CIT.
6. James Bonner, Sterling Emerson, Normam Horowitz, and Donald Poulson. J. Goodstein, H. Lyle, and M. Terrallによる合同インタビュー, November 6, 1978, Pasadena, California, pp. 36-37, Oral History, CIT.
7. 同上.
8. Waren Weaverの日記,January 28 and February 1, 1937, RFA. 9. SturtevantからGWBへの手紙,
May 13, 1945.
10. Sterling EmersonからGWBへの手紙, May 21, 1945. Box 3/15, Beadle collection, CIT.
11. F.B. Hansonの日記, 1942, p. 137, Folder 73, box 6, series 205D, RG1.1, RFA.
12. Sterling EmersonからGWBへの手紙,June 20, 1945. Box 3/15, Beadle collection, CIT.
13. SturtevantからRobert Millikanへの手紙,June 21, 1945. Box 18/22, Millikan collection; SturtevantからGWBへの手紙,June 28, 1945. Box 7/19, Beadle collection, CIT.
14. GWBからMillikanへの手紙,July 16, 1945. Box 18/22, Millikan collection, CIT.
15. GWBからHansonへの手紙,July 20, 1945. Folder 143, box 10, series 205D, RG1.1, RFA. 16. Sterling EmersonからGWBへの手紙, July 25, 1945. Box 3/15, Beadle collection, CIT.
17. SturtevantからGWBへの手紙,August 1, 1945. Box 7/19, Beadle collection, CIT.
18. Kay, Molecular vision, pp. 210-214; T. Hager. Force of nature: The life of Linus Pauling. Simon and Schuster, New York, 1995, p.277.
19. Barbara Landによるインタビュー,1961. The reminiscence of Warren Weaver. Oral History, Volume 2, pp. 337-340. 1961. Category IA, no. 434, COL.
20. 同上.
21. Hager, Force of nature, p. 276.
22. SturtevantからGWBへの手紙, October 13, 1945. Box 7/19, Beadle collection, CIT.
23. Hager, Force of nature, p. 277.
24. C.V. TaylorからWarren Weaverへの手紙, October 22, 1945. Folder 143, box10,series 205D, TG1.1, RFA..
25. R. PageからGWBへの手紙, November 5, 1945. Box 1/1, chemistry division collection, CIT.
26. GWBからWarren Weaverへの手紙,October 26, 1945.
Folder 143, box 10, series 205D, RG1.1, RFA;ロックフェラー財団年報, 1946, RFA.
27. Hanson, メモ, June 23, 1945. Folder 143, box 10, series 205D, RG1.1, RFA.
28. Warren WeaverからGWBへの手紙,November 2, 1945. Folder 143, box 10, series 205D, RG1.1, RFA.
29. Bonner, Emerson, Horowitz, and Poulson, 合同インタビュー,1981, p. 36.
30. 合同インタビュー,1981, p. 37, CIT.
31. R.MillikanからGWBへの手紙,November 6, 1945. Box 18/22, Millikan collection, CIT.
32. J.R. PageからGWBへの手紙,November 5, 1945; Linus PaulingからGWBへの手紙,October 31, 1945. Box 1/1, chemistry division collection, CIT.
33. SturtevantからGWBへの手紙,November 1, 1945. Box 7/19, Beadle collection, CIT.
34. V. Bush, 1945. Science the endless frontier. (National Science Foundation, 1990, NSF 90-8再掲載).
35. PaulingからGWBへの手紙,November 13, 1945. Box 1/1, chemistry division collection, CIT.
36. Barbara McClintockからBoris Ephrussiへの手紙,December 29, 1945. Ephrussi correspondence collection, Gif-Sur-Yvette, France.
37.GWBからPaulingへの手紙,October 28, 1945. Box 1/1, chemistry division collection, CIT; David Beadleの私信によれば、父ビードルは変化が家族関係を改善する可能性があると考えたようである。
38. GWBからPaulingへの手紙,October 28, 1945.
39. PaulingからGWBへの手紙,November 6, 1945. Box 1/1, chemistry division collection, CIT.
40. GWBからPaulingへの手紙,November 10, 1945. Box 1/1, chemistry division collection, CIT.
41 .SturtevantからGWBへの手紙,November 1, 1945. Box 7/19, Beadle collection, CIT.
42. GWBからPaulingへの手紙,November 10, 1945.
43. PaulingからGWBへの手紙,November 19, 1945. Box 1/1, chemistry division collection, CIT.
44. GWBからPaulingへの手紙,December 12, 1945. Box 1/1, chemistry division collection, CIT.
45. GWBからスタンフォードのPaulingへの手紙,日付け不明, 1946. Box 1/2, chemistry division collection, CIT.
46. GWBからPaulingへの手紙,March 7, 1946. Box 1/2, chemistry division collection, CIT.
47. GWBからBarbara McClintockへの手紙,September 9, 1946. Box 5/26, Beadle collection, CIT.
48. L.A.DuBridgeからGWBへの手紙,May 23, 1946. Box 26/29, biology division records, CIT.
49. Kay, Molecular vision, 1993, p. 236.
50.メイソンはウィーバーが1929年にロックフェラー財団に着任するとすぐに彼を自然科学部門長に任命した。それまでにメイソンはウィーバーのカルテックへの奉職を斡旋し、ウィーバーがウィスコンシンへ、その後にロックフェラー財団へ移籍するまでの間もカルテックでの職位を彼のために確保しておいた。 51. Robert F. Bacher, Mary Terrallによるインタビュー,June 9, 1981, Pasadena, California, Oral History, CIT, p. 138.
52. GWBからBarbara McClintockへの手紙,August 13, 1946. Box 5/26, Beadle collection, CIT; GWB, 個人秘密保持アンケート,April 22, 1947, FBI file 116-HQ-6619, Washington DC.
53. Edward B. Lewis, 私信;Wayne Keim, 私信;Francis Haskins, 私信.
54. Lewis, 私信; GWBからDael Wolfleへの手紙,May 11, 1954, AAAS archives.
55. Lewis, 私信.
56. A.W. Galston and T.W. Sharkey. 1998. Frits W. Went. Biographical Memoirs 74: 3-17. National Academy of Sciences. 57. Bonner, Emerson, Horowitz, and Poulson, 合同インタビュー,1981, p. 36.
58. SturtevantからGWBへの手紙,November 1, 1945. Box 7/19, Beadle collection, CIT.
59. Pam and Ed Lewis, 私信.
60. Box 65/36, biology division collection, CIT.
61. GWBからPaulingへの手紙, February 27, 1946. Box 1/2, chemistry division collection, CIT.
62. 同上.
63. William Hayes. 1982. Max Ludwig Henning Delbur?ck. Biographical Memoirs 62:67-117. National Academy of Sciences.
64. 同上;S.W.Golomb. 1982. Max Delbur?ck. An appreciation. Am Schol. 51: 351-367.
65. R. Olby, The path to the double helix, University of Washingtom Press, Seattle, 1974, p.231; Kay, Molecular vision, p. 133.
66. Max Delbr?ck, Carolyn Hardingによるインタビュー, July 14 and September 11, 1978, Pasadena, California, p. 39. Oral History, CIT.
67. Max Delbr?ck. How it was. 1980. Engineering and Science. March-April 21-26 and May-June 21-27, 1980, CIT; Hayes, Delbr?ck, 1982.
68. Delbr?ck, インタビュー,1978.
69. Delbr?ck. How it was; Hayes, Delbr?ck, 1982.
70. Golomb, “Max Delbr?ck.”
71. N.W. Tomofeeff-Ressovsky, K.G. Zimmer, and M. Delbr?ck. 1935. Uber die Natur der Genmutation und der Genstruktur. Nachr. Ges. Wiss. G?ttingen, math. phys. K1., Fachgr. 6,1: 189-245.
72. Delbr?ck, インタビュー,1978, p. 73.
73. Olby, The path to the double helix, p. 236.
74. Hayes, “Delbr?ck.”
75. 同上.
76. E.L. Ellis. 1996. Bacteriophage: One-step growth. Phage and the origins of molecular biology (ed. J. Cairns, G.S. Stent, and J.D. Watson). Cold Spring Harbor Laboratory of Quantitative Biology, Cold Spring Harbor, New York, pp.53-62,掲載.
77. Olby, The path to the double helix, p. 238.
78. E.L. Ellis and M. Delbr?ck. 1939. The growth of bacteriophage. J. Gen. Physiol. 22: 365-384.
79. E.L. Ellis, “ Bacteriophage: One-step growth”; H.F. Judson. The eighth day of creation, Simon and Schuster, New York, 1979および拡大版,Cols Spring Harbor Laboratory Press, 1996.
80. Delbr?ck, インタビュー,1978, p. 73.
81. Manny Delbr?ck, Carolyn Hardingによるインタビュー,August 24, 1978, Oral history, CIT.
82. GWBからMcClintockへの手紙,August 3, 1946.
83. GWBからDelbr?ckへの電報,December 10, 1946. Box 3/4, Delbr?ck collection, CIT.
84. GWBからE.C. Watson学科長への手紙, December 4, 1946. Box 1/2, chemistry division collection, CIT.
85. M. Delbr?ck, 1949. A physicist looks at biology. Phage and the origins of molecular biology, pp. 9-22に再掲載.
86. G.S. Stent. 1966. Phage and the origins of molecular biology, Introduction: Waiting for the paradox. (ed. J. Cairns, G.S. Stent, and J.D. Watson). pp.3-8,Cold Spring Harbor Laboratory of Quantitative Biology, Cold Spring Harbor, New York掲載.
87. Olby, Path to the double helix, p. 238.
88. Kay, Molecular vision, 1993, p. 255.
89. 同上,p. 256.
90. J. Goodstein. Millikan’s school. W.W. Norton Co., New York, 1991.
91. PaulingからDuBridgeへの手紙,June 28, 1946; PaulingからH.M. Weaverへの手紙,June 27, 1946. Box 50/5, biology division collection, CIT.
92. W, WeaverからPaulingへの手紙, March 12, 1947. Box 62/23, biology division collection, CIT.
93. N. ThomsonからDuBridgeへの手紙, May 16, 1947. Box 62/63, biology division collection, CIT.
94.F.M. RhindからDuBridgeへの手紙,April 8, 1948. Box 62/62, biology division collection, CIT. 95. Lewis, 私信.
96. McClintockからGWBへの手紙,October 6, 1946. Box 5/26, Beadle collection, CIT.
97. GWBからWatson学科長への手紙,November 26, 1946. Box 1/18, biology division collection, CIT; GWBからAmerican Optical CoのH.M. Lende and H.G. Betkaへの手紙, 1946年秋,Box 10/4, biology division collection, CIT.
98. Ray Owen, アテネイムでのGWB記念講演のテープ記録,Norman Horowitz教授の提供,原本はCIT archive.
99. Academic catalogs, CIT.
100. Herschel K. Mitchell, Shirley K.Kohenによるインタビュー,Pasadena, California, December 3 and 22, 1997, CIT.
101. N.H. Horowitz. 1990. George W. Beadle, October 22, 1903 - June 9, 1989. Biographical Memoirs 59: 27-51. National Academy of Scineces. 102. David and Judy Hogness, 私信.
103. GWB. The genes of men and molds. Scientific American, September, 1948.(Facets of genetics (ed. A.M. Srb, R.D. Owen, and R.S. Edger), W.H. Freemen, San Francisco, 1970に再掲載)
104. GWB. 1951. Chemical genetics. Genetics in the 20th century: Essays on the progress of genetics during its first 50 years (ed. L.C. Dunn), Macmillan, New Yorkに掲載。
105. D. Bonner and GWB. 1946. Mutant strains of Neurospora requiring nicotinamide or related compounds for growth. Arch. Biochem. 11: 319-328.
106. D. Beadle, 私信.
107. C.C. LindegrenからGWBへの手紙, November 8, 1950. Box 5/10, Beadle collection, CIT.