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メンデル解題:遺伝学の扉を拓いた司祭の物語

‘Meine Zeit wird schon kommen’

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第7章 晩年と死  PDFファイルを開く

「私の時代がきっと来る」
グレゴール・ヨハン・メンデル

 「遺伝の法則」を発見し世に公表した後のメンデルの晩年は思うに任せないことの多い日々の連続であった。10年の歳月をかけて漸く完成したエンドウの研究成果「植物雑種の実験」が世に受け入れられなかったばかりか、これを検証しさらに“普遍的な遺伝の法則”を探る目的のもとに手がけたヤナギタンポポ属の実験では、不運にも、期待を裏切る結果しか得られなかった。そのうえ、ナップ院長の後継として、オーストリア帝国新政府が修道院に課した課税問題に悩まされたメンデルは、次第に精も魂も尽き果てて行った。こうして病に落ちたメンデルは、1884年1月6日早朝に63年の生涯を閉じた。

 一人の人間の真価は晩年あるいはその死後に凝結して顕れる。この最終章では、不運にも成果を上げ得ずに終わったヤナギタンポポの実験がメンデルにとってどんな意味を持っていたのかを探った後、苦悩の中にあってなお希望を失わず、自らの運命を受け入れて静かに死んでいったメンデルを描くことで、人と自然を愛したメンデルという一人の人間の人となりを浮き彫りにしようと思う。

  • ヤナギタンポポの不運
  •  1865年2月8日(金)、メンデルはブルノ博物学協会の例会で40人ほどの聴衆を前にエンドウの実験結果を発表した(Henig, R.M. (2000) The monk in the garden: The lost and found genius of Gregor Mendel, the father of modern genetics. Houghton Mifflin Harcourt, Boston, USA.; Mawer, S. (2006) Gregor Mendel: Planting the seeds of genetics. Harry N. Abrams.)。メンデルは、演壇に立ち大きく息を吸い込んだ後、交配実験で得た3:1の形質分離を説明したが、聴衆からは何の質問もなく1回目の講演は終了した。メンデルは再び3月8日に、今度は顕性・潜性と形質分離の規則性を詳細に説明したが、またしても儀礼的な反応しか得られなかった。メンデルの講演の聴衆の多くは園芸家や育種家ではなく博物学者たちであった。そもそも彼らはメンデルの話題に興味はなく、その重要性を理解しなかったのはもちろん、誰もが大切な2晩を退屈な園芸育種の話を語る司祭のために潰してしまったと感じていた。そこで翌年、メンデルは論文「植物雑種の実験」を公表し、その別刷りを40部だけ印刷して、少なくとも13名以上の著名な科学者たちに送った。その中には、ダーウィン、ボヴェリー、シュライデン、ウンゲル、ネーゲリなどが含まれていた。別刷りのうち一つは送り先のオランダの教授から転送されてド・フリースにも届いた。しかし、予想通り、誰もメンデルの期待に応えて論文の感想を書き送っては来なかった。

    Fig_1

    図1 ヤナギタンポポ

     しかし、メンデルの研究意欲がそれによって削がれることはなかった。「植物雑種の実験」を公表する数年前から既にメンデルは、エンドウで得た結果を検証するのにふさわしい植物種を探し始めていた。当時、ヒマワリ属(Helianthus)と同じキク科のヤナギタンポポ属(Hieracium)(図1)は極めて多様性に富む属で、ネーゲリを含む著名な植物学者たちから雑種の形成過程と種内・種間変異などの進化を研究するための優れた材料であると考えられていた。メンデルもまた、ヤナギタンポポ属は自ら発見した遺伝法則の一般性を確かめ、さらに懸案として残っていた「安定して雑種性を維持する系統」の存在基盤を説明する法則を明らかにするための格好の材料だと考えた。「植物雑種の実験」を始めた時と同じようにメンデルは用意周到で、予備実験で二つの亜属(PilosellaHieracium あるいはAechieracium)に属する数種を安定なホモ接合型で実験に適していると考えて交配材料に選んだ。メンデルによるヤナギタンポポ属の最初の交配はエンドウの「植物雑種の実験」論文発表の1866年であったが、幸いにも雑種種子を得ることができ、それらが発芽することを確かめた。

    Fig_2

    図2 ネーゲリ

     新たな材料についてメンデルが助言を求めた人物は、ウィーン大学時代に知己を得ていたミュンヘン大学植物学教授のカール・フォン・ネーゲリだった(図2)。メンデルはネーゲリの姪を妻として迎えている。雑種の問題についてメンデルの相談に応じ、相応しい助言を期待できる者はネーゲリの他にはなかった。メンデルは、1866年12月31日にネーゲリに1回目の手紙を送った。幸いにも翌年2月に、ネーゲリからの返信をメンデルは手にすることができた。そこで、一回目よりは詳細なエンドウの実験結果とともにヤナギタンポポ属で始めた交配実験を説明した二度目の手紙を送ったが、ネーゲリからの返事はなかった。ネーゲリはヤナギタンポポ属の専門家で、受精における花粉の役割を調べていた。ヤナギタンポポ属で雑種を作る難しさをよく知っていたネーゲリは、ラマルクの「獲得形質遺伝説」の流れを汲んだ「定向進化説」を信じており、進化は自らがイディオプラズマと名付けた花粉中の仮想的な形質伝達物質の推進力により一定方向に進む傾向があると考えていた。ネーゲリは、メンデルを理解しなかったばかりでなく、全く興味を示さなかったのである。それでもメンデルは諦めずに、三度目の手紙を1867年11月6日に送り、ヤナギタンポポの雑種がいくつか得られたので、これを新しい実験材料としてさらに調べて見ようと思うが如何でしょうかと丁重に意見を求めた。今度は、ネーゲリは「それは良いことだと思う」と賛同の意をメンデルに書き送った。ネーゲリの勧めに力を得たメンデルは、以後、何度も手紙を書き送って、新たに手がけたヤナギタンポポの実験の進捗状況を説明し意見を求めている。2人の間で交わされた書簡で残っているのは、1866年12月31日から1873年11月18日までの10通である。これらの手紙類は、コレンスがメンデルの法則を再発見した際、ネーゲリの家族に「何かメンデルに関する資料が残ってはいないか」と尋ねて発見したもので、1905年に公開されている(Correns, C. (1905) Gregor Mendel’s Briefe an Carl Nägeli, 1866-1873. Abhandlungen der Mathematisch-Physischen Klasse der Königlich Sächsischen Gesellschaft der Wissenschaften 29: 189-265.; van Dijk, P.J. and Noel Ellis, T.H. (2016) The full breadth of Mendel’s genetics. Genetics 204: 1327-1336.; Mendel G. (1950) Gregor Mendel’s letters to Carl Nägeli.1866-1873. Genetics 35: 1-29.(Leonie Kellen Piternick and George Piternickによる英語翻訳)

     メンデルの目的は何だったのだろう?ネーゲリのメンデルへの返事は一部を残してほぼ全てが失われてしまったが、メンデルが書き送ったネーゲリへの手紙からはメンデルがヤナギタンポポ属を選んだ目的を推し量ることができる。エンドウで発見した「遺伝の法則」をそれ以外の植物でも確認する必要があったというのが大方の見方である(Nogler, G.A. (2006) The Lesser-known Mendel: His experiments on Hieracium: Prespectives: Anecodotal, Historical and Critical Comments on Genetics. Crow, J.F. and Dove, W.F. eds., Gendetics 172: 1-6.; Stern, C. and Sherwood, E.R. (1966) The Origin of Genetics. A Mendel Source Book. Freeman, San Francisco.)。しかし、それだけだったであろうか?メンデルにはもう一つの重要な目的があった。これを示唆する事実をメンデルの手紙から引用してみることにする。メンデルがネーゲリに送った3通目の手紙には、「雑種の種子はよく根付き、来年には花をつけることでしょう。それらが雑種としての性質を保持するか、または様々な変異性・多様性を見せるかは来年の観察で分かるでありましょう。」と書かれている(van Dijk, P.J. and Noel Ellis, T.H. (2016) The full breadth of Mendel’s genetics. Genetics 204: 1327-1336.)。さらに手紙の末尾では、「稔性のある複数の雑種の子孫が開花するはずですから、私は次の春が待ち遠しくてならないのです」と期待を述べている。メンデルには、ゲルトナーの安定雑種に対する本質的な興味があった。エンドウの雑種では子孫が可変的すなわちあらゆる性質・形態の組み合わせを一定の規則に従って分離するが、ゲルトナーの雑種の例では対照的に自殖を繰り返しても安定に雑種型を維持するものがあった。メンデルはそうした“自殖を通じて雑種の形質を安定して子孫に伝える雑種型”の存在を確認したかったのである。メンデルの目的は次の二つに要約できる。i)可変型のエンドウから得た法則の一般性を確認すること、および ii)対照的な安定雑種型に見られる規則性と可変型との違いを決めている“より高いレベルの一般法則”を雑種と進化との関連から明らかにすることであった。

     それでは、メンデルは何故ヤナギタンポポ属を選んだのだろうか?メンデルが研究上の相談者・助言者としたネーゲリの勧めがあったからだと一般に言われているが、すでに述べたように、メンデルはネーゲリに相談する以前にヤナギタンポポ属で実験を始めていた。メンデルの選択の基準は安定雑種の存在にあった(Stansfield, W.D. (2009) Mendel’s search for true-breeding hybrids. Journal of Heredity 100: 2-6.)。そのために、メンデルはキク科のヤナギタンポポ属を最終的な実験材料として選んだのだが、その他にもアザミ属(Circium)やバラ科のダイコンソウ属(Geum)なども調べている。これらの植物属では、自然界に多くの安定雑種と見られるものが存在することが既に知られていた。実際にゲルトナーが調査し安定雑種型を報告した植物属の中にはダイコンソウ属も含まれていた。山登りが好きな人々にはお馴染みのチングルマやミヤマダイコンソウなど可憐な黄色い花を咲かす高山植物はダイコンソウ属の仲間である。

     メンデルは、「植物雑種の実験」を終了した1866年以後、こうした性質を持つ材料を相手に7年以上もの時間をかけて、極めて難しい交配実験を数千回も続けていた。ヤナギタンポポ属は私たちにお馴染みのタンポポと同じく、散房状あるいは円錐上の多数の花(頭花)を茎頂部につける。個々の頭花は雄蕊と雌蕊を持つ完全な両性花であるから、人為的な交配には特別の注意が必要である。密接した多数ある花のなかから、交配に用いる適期の花だけを選び出し、雄蕊を取り除いて、他植物個体から得た花粉を種子親となる個体の頭花の柱頭一つにつける人為交配がいかに困難な作業であるかは容易に想像できるだろう。しかし残念なことに、苦労の末に得られた結果はメンデルを困惑あるいは失望させるものだった。ヤナギタンポポ属では、メンデルが純粋種だと考えた両親系統間の雑種第一代F1 は均一ではなく、しかも自家受精によるF2 だと考えた雑種第二代では全てが均一で分離が見られなかった。

     ヤナギタンポポ属は小型で世代期間が短く、刺がないので徐雄と交配の際に手袋を着用する必要がないなど研究者にとって好都合な特徴を持っていた。しかし、メンデルを含めて誰もこの属が2倍体とともに倍数体の種で構成されていること、さらに完全ではないが任意性の単為発生で繁殖することを知らなかった。ヤナギタンポポ属は、花粉を取り除き別個体の花粉で受粉させても2%前後の自殖種子が着粒し、他殖による交配種子か自殖種子か区別ができない(Mraz, P. and Zdvoraku, P. (2019) Reproductive pathways in Hieracium s.s. (Asteraceae): strict sexuality in diploids and apomixis in poluploids. Annals of Botany 123: 391-403.)。実は、37年後の1903~1904年に初めて明らかになったことだったが、ヤナギタンポポは部分的に単為発生という特殊な生殖様式を行う植物属の一つであった(Murbeck, S. (1904) Parthenogenese bei den Gattungen Taraxacum und Hieracium. Botaniska Notiser 1904: 285-296.; Koltunow, A.M.G., Johnson, S.D. and Okada, T. (2011) Apomixis in hawkweed: Mendel’s experimental nemesis. Journal of Experimental Botany 62: 1699-1707.)

     メンデルにとって不運にも、今日アポミクシスとして知られる単為発生では、完全な減数分裂を経ることなしに親と同じ2nの体細胞染色体数をもった胚嚢細胞が形成され、そこから2nの雌性配偶体(卵細胞)が生じる。雌蕊中の卵細胞は受粉なしに発生を始め結実するから、雑種と見做したなかに母親と遺伝組成が全く同じクローンが多く混じっており、メンデルは遺伝的に均一な雑種F1を得ることができず、そうしたクローンの後代は当然ながら均質であった。クローンとは、同一起源を持つ遺伝的に均一な個体の集団を云う。ところで、特にヤナギタンポポ属は現在、自殖性雑種の育成法を開発するための格好な材料として利用されている(Bicknell, R., Catanach, A., Hand, M. and Koltunow, A. (2016) Seeds of doubt: Mendel’s choice of Hieracium to study inheritance, a case of right plant, wrong trait. Theoretical Applied Genetics 129: 2253-2266.)。その目的は、一代雑種が持つヘテロ接合型の遺伝子型をアポミクシスで維持し、均一で高品質な品種の育成である。一代雑種はヘテロシスのために高い生産性を発揮するが、雑種性は一代限りで失われてしまう。一代雑種のもつこうした特徴は雑種種子の生産企業にとっては好都合であるが、高価な雑種種子を毎回購入しなければならない生産者にとっては不都合な現実でもある。特に途上国などで農業生産性を高めるためには、雑種性を維持した作物系統が望ましいだろう。メンデルを悩ませたヤナギタンポポは今では人々の興味を引きつける農業生産性向上のための優れた研究材料のひとつである。さて、メンデルは論文を書き、すべての結果を取りまとめて次のように述べている。「エンドウでは調べたかぎり、雑種第一代は均一な性質を示し、その子孫は明瞭な法則に従って分離したが、ヤナギタンポポ属ではそうしたことが認められなかった。ヤナギタンポポ属は、より高いレベルの一般法則に従った全く別の行動様式を持つと言わざるを得ない」(Mendel, G. (1869) Ueber einige aus kunstlicher Befruchtung gewonnenen Hieracium-Bastarde. Verh. Naturf. Ver. Brunn 8 (Abhand-lungen): 26-31 (英語版 On Hieracium hybrids obtained by artificial fertilisation. Bateson, W. (1902) pp. 96- 103, Bateson W. (1909), pp. 362-368に引用されている)

     メンデルは、ヤナギタンポポ属にはエンドウ属とは違った遺伝システムが存在するのではないかと考えたが、もはやこれを確かめる十分な時間を研究に費やすことはできなかった。メンデルの失望と落胆はどんなにか大きかったことだろう。研究の維持断念を余儀なくされた1873年11月18日のネーゲリへの最後の手紙では以下のように無念な思いを率直に吐露している。「私が、私の子どもたちである植物を蔑ろにしてきたことは全く不幸なことでした。今の私には自由な時間がなく、来年の春がどうなるのかも私には分かりません。私は植物にこれ以上関わることができないことを心から残念に思います。それで、1870年から1871年に行った実験で得た種子をいくつか送らせて頂きます」。これは、ネーゲリの、「貴君の得た安定雑種を調べたいので、もし余分な交配種子を持っていたら素性・由来の詳細とともに送って欲しい」との依頼に応えたものであった(van Dijk, P.J. and Noel Ellis, T.H. (2016) The full breadth of Mendel’s genetics. Genetics 204: 1327-1336.)。メンデルがネーゲリの要求に喜んで答え、貴重な種子を送ったのは、実験の継続をネーゲリに託したいとの一途な希望の現れであった。しかし、残念ながら約束が果たされることはなかった!

     ネーゲリは、ヤナギタンポポの単為発生をもちろん知らなかったが、ヤナギタンポポではメンデルの主張する法則が当てはまらないことを既に知っていた。ネーゲリはメンデルの強い意思を挫こうとはしなかったが、メンデルが主張した遺伝因子の概念を受け入れようともしなかったのである。ネーゲリは、「メンデルの遺伝法則」を「再発見」したコレンスの教師であり、植物研究で多くの著作物を残した優れた研究者だったが、それらの著作中でもメンデルについては全く言及していない。ヤナギタンポポの実験はメンデルにとって確かに不運ではあった。しかし、少なくともメンデルはそこに新たな遺伝の法則を見出す可能性の契機を見ていたのである。以下では、失意のうちにありながらも、希望を捨てず、様々な懸案と立ち向かった晩年のメンデルの姿を見てゆくことにする。

  • 晩年と死
  •  メンデルはどんな晩年を過ごしたのだろうか。メンデルは日記をつけなかったし、家族や友人に宛てた59通の手紙が残されてはいるが、それによってもメンデルの心中を直接に伺い知ることはできない。それでも、メンデルの仕事と生涯に興味を持った研究者たちによって多くの優れた伝記が書き残されている(Iltis, H. (1924) Gregor Johann Mendel, Leben, Werk und Wirkung. Julius Springer, Berlin, Germany. 英語版 Iltis, H. (1966) Life of Mendel (2nd ed.), E. Paul and C. Paul(翻訳)、 Hafner, New York, New York, USA.; フーゴー・イリチス(著)メンデル伝 長島礼(翻訳)(1998)東京創元社。 Gustafsson, A. (1969) The life of Mendel - Tragoic or not? Hereditas 62: 239-258.; Orel, V. (1996) Gregor Mendel: the first geneticist. Oxford University Press, Oxford, UK.; Cox, T.M. (1999) Mendel and his legacy. Editorilal Q J Med 92: 183-186.; シリーズ「オックスフォード 科学の肖像」オーウェン・ギンガリッチ編集代表 エドワード・イーデルソン著 西田美緒子訳(2008)「メンデル 遺伝の秘密を探して」; Bardoe, C. (2015) Gregor Mendel: The friar who grew peas.)。以下ではそれらをもとに、メンデルの人となりと晩年の生活を振り返ってみる。

     メンデルの論文「植物雑種の実験」が世に公表された1866年、フランツ・ヨーゼフ1世のオーストリア帝国は運命の時を迎えていた。鉄血宰相ビスマルクが率いるプロイセン王国軍との間で普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)が始まる。プロイセン軍は破竹の勢いで首都ウィーンに迫り、ボヘミアとモラヴィアは主戦場となった。7月12日には、プロイセンの5千の兵力がブルノに進軍し、市街戦とともに周辺の村落でも戦闘とともに略奪が始まった。オーストリア軍は大敗し、8月23日にはオーストリア帝国にとって極めて不利な条件下でプラハ平和条約が結ばれる。これによってハプスブルグ家のドイツ統一の夢は打ち砕かれ、50年あまり続いたドイツ連邦は解体された。9月13日にプロイセン軍が去った後、オーストリア帝国は非ドイツ系のハンガリーと手を結び、1867年に、フランツ・ヨーゼフ1世は妃エリザベートとともに立憲君主制を敷いて、ここにオーストリア=ハンガリー二重君主国が成立する。全土でチェコ人による民族復興運動が起こり、モラヴィアでは、さらに悪いことに、プロイセン軍が持ち込んだコレラ菌(Vibrio cholerae)の感染によって数千の住民が死ぬ悲劇が起こった。

     こうした中、聖トーマス大修道院では、1867年にナップ院長が亡くなり、後継院長選びが始まる。人望の厚いメンデルは、同僚司祭・修道士からの圧倒的な支持を受けて、ナップ院長の後継者として1868年3月に聖トーマス大修道院の院長に選出される。それまでも司祭としての公務に熱心でナップ院長を深く敬愛していたメンデルは、こうした困難な時代に、院長としての職務に人生晩年のエネルギーの大半を費やことになる。

     新政府は次々と新たな改革に乗り出したが、とくにメンデルが院長就任直後に、過去の税の支払いを巡って中央政府との対立が始まる。メンデルがヤナギタンポポ属で骨の折れる交配実験を続けたのは大修道院長としての忙しい公務の傍らだった。ヤナギタンポポの小さな生殖器官を虫眼鏡で覗き、除雄し交配する仕事はメンデルの視力を損なった。メンデルはミツバチや農業気象学の研究も細々と続けたが、院長としての新しい職務は重い責任を伴うもので、もはや好きな科学の研究を続けることは難しくなった。そうした中、1870年11月9日にブルノを襲った嵐で修道院の温室はほぼ全壊し、メンデルが“子供達”と呼んだエンドウもヤマギタンポポも失われてしまう。さらに、1874年には、中央政府が教会や修道院にも所有財産に応じて支払うよう義務付けた特別税という新たな課税制度を決め、翌年に徴税が始まる。政府による圧力に他の多くの教会関係者が屈してゆくなかで、メンデルは烈しくこれに抵抗する。メンデルの晩年はキリスト教と修道院への奉仕、研究と教育とではなく、政府との課税を巡る闘争に費やされた。オーストリア=ハンガリー帝国の数ある修道院の院長の中で最後まで妥協しなかったのは、筆頭修道院であった聖トーマス大修道院の院長メンデルただ一人であった。しかし、妥協を排したメンデルの態度は多くの人々にはあまりに頑迷であると映った。そうして、人々の心も次第にメンデルから離れていった。

     友情に篤く周囲の人々に優しかったメンデルは孤立を深め、苦悩と失望の中にあったが、なお人々に対する優しい心遣いと温厚さを失わなかった。ドイツ語訛のチェコ語を話し、髪は金髪で、明るい灰色がかった眼に金ぶちの眼鏡をかけ、中背、太りぎみで、袖のひろい司祭服にシルクハットを冠り、長靴で歩く姿に誰もが好感を抱く気品にあふれたメンデルは、しかし時折、気弱で自嘲気味になることもあった。50歳を過ぎたころには、友人への手紙で、「私は体重が増して、今ではニュートンの万有引力に敏感になってしまいました。もう好きな山歩きも植物採集もかないません」と書いたほどに肥満して、医師の処方で体重を減らすために1日に葉巻を20本も吸うようになった。メンデルは幼少時から病弱で、青年期には闘病で学業を中断することもあったが、60歳を超えた春頃には、腎臓炎と心臓肥大の合併症に冒され、足に水腫ができて包帯を毎日とり換えてもらわなければならず、いつも寝台に横たわる状態で、公務もままならなくなっていた。

     死の数ヶ月前には、最後の公務として、それまで目を掛けてきた若い修道士フランツ・バリーナの着衣式(修道士になるに当たって、会の制服が授けられる式)を挙行し、その折、バリーナに次の言葉を残している。「私の人生には暗い時期もあったが、楽しく美しい時間が遥かに勝っていたことに私は感謝している。科学の仕事は私に大きな喜びと満足を与えてくれた。私は、世界が私の仕事の結果と意味を評価するのにそれほど時間はかからないと確信している」。友人のグスタフ・フォン・ニースルにはもっと打ち解けて、「私の時代がきっと来る “Meine Zeit wird schon kommen!”」と語った。これを語った場所は、メンデルのヤナギタンポポが植わった畑であった。この言葉を語るにこれ以上ふさわしい場所が他にあっただろうか(van Dijk, P.J. and Noel Ellis, T.H. (2016) The full breadth of Mendel’s genetics. Genetics 204: 1327-1336.)

     修道院の畑と温室でエンドウを相手に10年あまり営々と続けた交配実験から論理的に導きだし確信を持って世に問うた遺伝の法則が受け入れられず、新たに始めたヤナギタンポポの仕事もうまくいかなかった現実に直面したメンデルが、それでも絶望せずに未来への期待を込めて若者と気のおけない友人につぶやいた言葉であっただろう。真実を明らかにすることこそが、神に仕える宗教者としての使命である、私の使命はいつかきっと誰かが継いでくれる、メンデルの思いはそこに凝縮されていたのであろうと思う。

     死の訪れが間近なことを覚悟したメンデルは、それでも感傷に浸ることもなく、自分の運命を自然の流れと冷静に受け止めていたようである。努めて明るく気丈に振るまい、特に愛した甥たちには死の数日前までユーモアに溢れた率直な内容の手紙を書き送っている。そのうちの一つ1883年4月の手紙では、「私に、接ぎ木用の2種類のナシの若枝とその他の何かよい果樹の若木を保存園からもってきてくれたら嬉しい。修道院の果樹園できっと立派に育てて返すから」と伝えている。ウィーン大学で医学を修め医師となっていた甥のアロイス・シンドラーに宛てた12月26日の最後の手紙では、大事な話があるからブルノまで訪ねてきて欲しいと頼んだ。アロイスが訪れると、メンデルは静かな様子でベッドに横たわっていたが、自分に死をもたらす病を知って役立てるために、死後は検死をして欲しいと伝えている。

     メンデルは、自分を取り囲む世界を、人間と動物、美しい花々をつける植物をこよなく愛した。気象学では、「オーストリア=ハンガリー自然科学会誌」や「ブルノ自然科学会誌」に幾つかの論文を書いている。メンデルが気象学研究で採用した方法論は、「植物雑種の実験」で用いた方法と同じもので、丹念なデータの収集とその統計学的な分析であった。アマチュア天文学者として太陽の黒点の観察も長年続けた。幼少時に父アントンから学んだ養蜂にも大きな興味を注ぎ、その成果は動物学の専門誌に優れた論文として掲載されている。ミツバチの研究を根気よく続けたメンデルは1971年には全国養蜂家協会の副会長に就任した。修道院の庭には、当時の中央ヨーロッパ初のミツバチ研究センターとしてメンデルが建てたミツバチ実験棟(第1章 図10)の跡が今も残っている。

     メンデルがミツバチの研究を続けたのは、養蜂が修道院の重要な収入源であったというだけでなく幼少の頃からミツバチが好きだったからではあったが、それ以外にも正当な科学的理由があってのことだった。実は1845年にシレジア教区のヨハン・ジェルゾン司祭がミツバチの雌は受精卵から生まれるが雄は未受精卵から生まれるという仮説(単数二倍体性、haplodiploidy)を発表していた。メンデルはこれに興味を抱き、エンドウで自ら明らかにした遺伝法則が動物でも適用可能であることを確かめようと思った。そのためには、体色が黒と黄の地理的に異なる二つの品種(レース)を交配し雑種の女王蜂を作ってやればよい。雑種女王蜂が産む雄の子には父がないから、女王バチの子では雌雄で同一の体色分離が見られるはずである。しかし、残念ながらメンデルのアイデアはうまく運ばなかった。女王蜂は遠くの巣から飛んでくる数多くの雄蜂と交配するが、メンデルには交配相手の雄を制御し決めることができなかったのである(Page, Jr R.E., Rueppell, O. and Amdam, G.V. 2012. Genetics of reproduction and regulation of honey bee (Apis mellifera L.) social behavior. Annual Review of Genetics 46: 97-119.)。ミツバチが特殊な単為生殖を行うことを知っていたメンデルは、ヤナギタンポポ属もそうである可能性に気が付かなかったのだろうか?

     メンデルはもちろん植物育種家としても大活躍した。聖トーマス大修道院は大きな土地資産と酪農場、ブドウやリンゴなどの果樹園を保有していた。ナップ院長に勧められて、初めにブドウの育種を手がけたメンデルは、モラヴィアの他に国内各地とイタリヤ・フィレンツェなどから集めたブドウの品種を修道院の果樹園で育てた。嬉しいことに、メンデルの育てたブドウのひと一株は、遠く海を越えて東京大学理学部附属小石川植物園(第1章 図8)に運ばれ、植えられ、さらに株分けされて、日本の数カ所に今も植わっている。ブドウの他に洋ナシ、リンゴやアンズなどの果樹の育種にも力を注いだメンデルは、1873年にはモラヴィア・シレジア農業協会の副会長に、1882年には会長に選出されたが体調不良でこれを辞退している。

    Fig_3

    図3 フクシアをあしらった
    メンデルの紋章

    Fig_4

    図4  フクシアの花を
    手に持つメンデル

     わけても、メンデルは小さく可憐な草花を愛した。中南米原産のアカバナ科の低木で、茎が枝垂れて、赤、ピンク、白や紫色の花弁と萼片をもち、花が下を向くフクシア(Fuchsia)をこよなく愛でたメンデルは、自分の修道院長としての正式な紋章にフクシアの花をあしらったほどであった(図3)。メンデルがナップ院長、同僚司祭とともに撮った写真には、フクシアの花を手にもち嬉しそうに眺めているメンデルが写っている(図4および第1章 図9)。メンデルは自らの手で多くの品種を育成したが、そのうちのひとつは長い間「メンデルのフクシア」として市場で人気を集めた。

     メンデルは、旅行と山登りも大好きだった。ドイツ中を旅して歩き、ローマでは法王に謁見し、パリ、ロンドンにも足を伸ばしたし、アルプスには何度もでかけている。おそらくヒツジの毛色をした柔らかく美しいエーデルワイスの花をメンデルはアルプスでたくさん見たことだろう。日常の公務や研究に忙しく、少しばかり休養をとりたいときには、修道院が保有していた森の管理小屋で数日を過ごすのがメンデルの至上の楽しみだった。

     メンデルの死は静かだった。1884年1月6日の午前1時半、ソファーに座ったままひとりで息を引きとっているところを、包帯のとりかえで部屋に入った修道女によって発見された。メンデル61歳の時だった。メンデルの死亡記事のひとつには、メンデルの人となりについて次のように書かれていた。「気前の良さ、親切さ、温厚さから、メンデルは誰からも尊敬された。援助を求められて応じなかったことはなく、懇願する者に友好的な態度で接し、どうしたら慈善をうけていると彼らに感じさせないかをよく心得ていた。ドイツ語訛りは終生消えなかったが、修道院ではできるだけドイツ語ではなくチェコ語を話すように努め、ドイツ人よりはチェコ人の修道士を多く受け入れて、異文化の融合に努めた」。いつも、幸せは誰か他の人に分けてあげるもの、分かち合うものと考え、終生これを実践したメンデルは一人静かに旅立っていった。

     「旅に病んで、夢は荒れ野を駆け巡る」 松尾芭蕉

     メンデルの死は、同日中に、大修道院によって公に告げられた。告示に書かれたメンデルの紹介は以下の通りであった。「オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフのもと、オーストリアの大修道院の現職院長であり、偉大な功績をあげたモラヴィア抵当銀行の頭取、王室および帝国モラヴィア・シレジア農業技術開発協会と帝国の自然科学と学術の協会、その他多くの有益な協会の学識ある会員であった修道士ヨハン」。ブルノの新聞も多くの人々に敬愛された大修道院長メンデルの死亡記事を掲載した。しかし、大修道院の告示と同様に、そこにはメンデルが植物雑種の研究を続けたことが書かれているだけで、遺伝の仕組みを明らかにした偉大な科学者であったことは書かれていない。

    Fig_5

    図5 ヤナーチェク


     追悼のミサが3日後の1月9日午前9時に聖マリア聖堂で執り行われた。レクイエムの指揮をとったのは、29歳で新進気鋭の作曲家、聖歌隊長であったレオシュ・ヤナーチェクだった。11歳のとき聖トーマス大修道院の少年聖歌隊員となったヤナーチェクの才能をメンデルは愛し、その成長を暖かく見守り、惜しみなく支援した。ヤナーチェクは後に、スメタナ、ドボルザークと並ぶチェコを代表する作曲家のひとりで、モラヴィアの自然と民族を愛でた多くの楽曲を残した大音楽家となる(図5)。

     会葬者の長い行列の中には、メンデルが辛酸をなめた人生の後半で果敢に闘いを挑んだオーストリア=ハンガリー帝国中央政府の役人、ブルノ市の代表者、多くの同僚司祭、教授と教師、カトリックの僧侶、プロテスタントの牧師、ユダヤ教のラビ、メンデルが支援した数えきれないほどの団体からの出席者、メンデルの生まれ故郷ハイツェンドルフの消防団員、メンデルが金銭的にも援助の手を差し伸べた多くの貧しい人々がいた。メンデルは、生まれ故郷のハイツェンドルフ村で、消防団の設立を資金面でも支援した。メンデルは、感謝した村人たちから消防団の名誉団員にさせてもらったことで、大いに喜んだようだ。プロテスタントの牧師とユダヤ教のラビがカソリックの司祭、修道士とともに参列していた事実はメンデルが宗派を超えた宗教人であったことの証である。メンデルの遺体は、ブルノ中央墓地に運ばれ埋葬された(墓碑銘は、「R. R. D. Gregorius Jo. Mendel, Abbas, ob. d. 6. Jan 1884, R. I. P.」である)。ヤナーチェクもまた、死後はメンデルと同じブルノ中央墓地に埋葬され、そこに眠っている。

     美しいモラヴィアの小村ハイツェンドルフに父アントンと母ロジーネの一人息子として生まれ、姉ベロニカと妹テレジアとともに過ごした幼少年時代をメンデルは幸せな気持ちで回想し、友人や甥たちに語っている。メンデルの才能が磨かれ大輪の花を咲かせて実を結ぶまでには、村長はじめ村人たちの理解と暖かい支援があった。その後は、優れた学者や教育者がメンデルの資質を発見し、その才能を重視し、支援の手を差し伸べた。聖トーマス大修道院の修道士となり、ウィーン大学で学んだ青年期から、再び修道院へもどり、司祭の任を務めながら、「植物雑種の実験」を完成させるまでの日々はメンデルにとって幸せな時だったであろう。特にナップ院長に率いられた大修道院は、自然科学と教育への興味によって結びつけられた広範な自由主義的雰囲気をもつひとつの知的共同体であった。さらにナップ院長の計らいによりウィーン大学で学ぶ機会を得たメンデルは、そこで当時としては第1級の科学と知性に触れることができた。互いに助け合い励まし合う修道院という豊かに耕された土壌にメンデルという稀有な資質が根を下ろし、花開き、結実した。幾多の論争を経てメンデルの名は、メンデルが発見した遺伝法則とともに不滅の栄光をもって科学史に刻まれた。メンデルの歩んだ道の先にはたくさんの綺麗な花が咲いたのであった。

    Fig_6

    図6 メンデルの記念碑


     1910年には、聖トーマス大修道院前の広場(メンデル広場と呼ばれている)にヨーロッパ中から多くの科学者が駆けつけて、メンデルの記念碑の除幕式が盛大に取り行われた。現在、聖トーマス大修道院には、2007年以来マサリク大学が管理するメンデル博物館が置かれ(第1章 図6)、メンデルの記念碑(図6)はその中庭に移されて、そこを訪れる人々とともにある。