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メンデル解題:遺伝学の扉を拓いた司祭の物語

‘Meine Zeit wird schon kommen’

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 メンデルのドイツ語論文「植物雑種の実験」が公表されてから150年の節目にあたる2016年に、私はWEB版「メンデルの仕事と生涯:今に私の時代が来る( http://www.research.kobe-u.ac.jp/ans-intergenomics/)」を神戸大学農学部「インターゲノミックス研究会」のご好意で公開させて頂いた。本WEB版「メンデル解題:遺伝学の扉を拓いた司祭の生涯」は、前版を大幅に書き改め、メンデルの生誕200年を記念して新たに公開するものである。

 前版の「おわりに」では、メンデルを書こうと思った動機について次のような経験を書いたが、この改訂版でも同じ思いを以下に書き残しておくことにする。 私は、アメリカ合衆国コロラド州立大学大学院修士課程の2年生だった1975年秋に受けた「放射線生物学」で、可をとった。試験は獣医学科の担当教授と1対1の質問形式で行われ、1問目はメンデル遺伝学についてだった(2問目は放射線遺伝学)。30分ほどの試験の後で教授から頂いた評価は、「2問目はよくできたが、メンデル遺伝学はダメ」だった。メンデルの遺伝法則の理解が不十分だったのである。私は面目なく、教授の言葉に俯く他なかった。

 その後、神戸大学農学部で教職についた私は、「遺伝学」と「細胞遺伝学」をそれぞれ1回生と3回生の学生諸君に講義した。神戸大学退職後の龍谷大学では「遺伝学基礎」と「遺伝の考え方」を1、2回生に講義した。実は、2003年には中学の生物学教科書からメンデル遺伝学が消えていた。今は、高校生物学の教科書からメンデル遺伝学が消え、再び中学の教科書に戻っている。高校で生物学を学ぶ学生が少ない現状から、義務教育の場である中学でメンデル遺伝学を教えるべきだとする意見を反映した措置であると聞いている。メンデル遺伝学が日本の中学・高校の教科書から消える日が来るとは思えないが、少なくともその取り扱いには変化が見られる。多くの教科書で、メンデル遺伝学はワトソン・クリックのDNAの説明の後に登場する。遺伝子DNAの構造、複製様式と機能を理解したうえで、子孫への形質伝達の仕組みであるメンデルの遺伝法則を教える方が効率がよいし、学生諸君にも理解しやすいだろう。私も講義ではそのやり方を採用してきた。反面、このやり方は歴史を無視したきらいがある。私達の知識は、そのような経緯を経て順調に積み上げられてきたものではないからである。どんな知識もそれが生まれ育った時代という文脈に置いて初めて、生き生きとして血の通った意味を持つ。科学の歴史とそれを生み出した科学者の伝記を読むのが面白いのは、時代を超えて、今を生きる私達の共感を呼ぶからであろう。本書を読まれた皆様がメンデルをより身近に感じてくだされば、私は嬉しく思う。

 本書を書き終えた今、私は、メンデルのひたむきさは日本人の感性に近いのではないかという感慨を持つ。遺伝学の大道に続く扉を拓いた魁であったメンデルは、細部に目を行き届かせ、そこに潜む美を感じとる繊細な人であったに違いないと私には思われる。同時に、ヨーロッパの辺境に生きたメンデルと同時代を生き科学界の中枢にあったダーウィンとの不思議な因縁を感じる。二人に直接的な接触はなかったが、メンデルの「遺伝法則」はダーウィンの「進化論」に確かな科学的根拠を与えたのであった。

 本書は、神戸大学農学部遺伝学研究室の卒業生で古くからの友人でもある吉田晋弥氏(元兵庫県立農林水産技術総合センター生物工学担当研究主幹)が私の原稿を元にHTLM版を作成し、龍谷大学農学部および神戸大学農学部「インターゲノミックス研究会」がWEBサイトに公開してくれた。ここに深甚の感謝を申し上げる。収めた図表はすべて本書掲載の引用文献およびWikipediaから再掲したものである。なお、本書には、私の不注意な誤りとともに、メンデルに対する私の思い入れに基づく思い違いも含まれていることであろう。読者の皆様のご指摘、ご批判を賜れば嬉しく思う。

                    令和3年(2021年)5月12日                     中村千春                     (神戸大学名誉教授、                     龍谷大学農学部元特任教授)