*

メンデル解題:遺伝学の扉を拓いた司祭の物語

‘Meine Zeit wird schon kommen’

HOMEPROFILE  

はじめに  PDFファイルを開く

 2022年(令和4年)は、遺伝学の創始者グレゴール・メンデルの生誕200年に当たる。この年には、おそらく日本を含めて世界の多くの国々でメンデルを記念した様々な講演会、シンポジウムや記念出版が計画されていることであろう。本書を書いた目的は、そうした企画の一つとして、改めてメンデルの仕事と生涯を振り返り、メンデルの遺伝学への貢献を再確認することであった。

 グレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel)は1822年(日本では江戸時代の文政5年)7月20日に、オーストリア帝国のモラヴィアとシレジアの境界にある小村ハイツェンドルフ(チェコ語ではヒンツィーツェ)で呱々の声をあげた。小農の長男として生まれたメンデルは、苦学の青年期を経て、帝国第2の都市ブルノの聖トーマス大修道院の修道士となった。メンデルの才能を愛でた家族を含む多くの人々の理解と支援を得て、ひそやかに、しかし確固とした目標と信念をもって始めた10年に及ぶエンドウの交配実験が遺伝学の扉を拓いたのであった。

 メンデルが「遺伝法則」の発見者であること、遺伝学の魁であることは疑う余地がない。それでも、メンデルの仕事と生涯について知る人、況やメンデルの発見が激しい論争の的になってきた事実を知る人はそう多くないであろう。本書ではメンデルの仕事と生涯について語った。実は、メンデルについては多くの優れた解説書や評論が出版されており、今もなお欧米では科学史上の貴重な題材として研究論文が学術誌に発表され続けている。メンデルの遺伝法則発見の意義はもちろんだが、中でも最も注目を集め関心を呼んでいる事柄は、1)メンデルの研究の興味・動機と目的、2)メンデルを巡る論争、3)メンデルの遺伝学とダーウィンの進化論との関係であろう。本書では、これまでの論評とともに最新論文の情報をレビューし、この3点に的を絞ってメンデル遺伝学の本質とメンデルの人となりを含めた実像に改めて迫ろうと試みた。

 1)メンデルの興味・動機と目的には謎が多いとされてきた。メンデルの「遺伝法則発見」の意義を理解するためには、メンデルが生きた時代背景を知らなければならない。本書では、メンデルの興味の変遷を明らかにするとともに、その研究の動機が、「種形成に果たす雑種の役割を知ること」および「雑種後代への形質伝達の規則性を知ること」にあったと云う事実を明確にしようと努めた。2)メンデルの遺伝法則の再発見後に沸き起こった批判と論争のうち、特に「メンデルは遺伝学の発見者ではなかった」とする見解に対する多くの反証事例を挙げて、「メンデルは遺伝学の真の創始者であった」と云う結論を導き、メンデルの発見がその後の遺伝学発展の揺るぎない礎になった事実を示した。3)「メンデルはダーウィンの批判者であった」とする見解と「メンデルはダーウィンの理解者であった」とする見解が対立し、激しい論争があった。本書では、両者の見解を紹介し、さらにメンデルの遺伝学とダーウィンの進化論の相克が解消され、その後の統合進化説(ネオダーウィニズム)へと発展・進化した経緯を明らかにしようと努めた。なお、本書の構成は、メンデルが解析したエンドウの7つの形質と7対の染色体数に合わせて、以下の7章とした。

第1章 幼少年期、青年期から修道院
 メンデルの誕生から幼少年期、青年期を経てブルノの聖トーマス大修道院へ入り、修道士としての務めを果たしながら、学費の工面と糊口の凌ぎに悩まされることなく学問研究に親しむことのできた幸せな日々を記述した。ここでは、メンデルの生まれ育ったモラビアの美しい風土と父母姉妹との生活及び聖トーマス大修道院がもっていた学問・研究を奨励する自由、知的な雰囲気の中で生き生きと生き、さらにウィーン大学で当時最先端の科学知識を学んだメンデルを描いた。

第2章 メンデル以前
 メンデル以前のヨーロッパ世界における生命・生物の発生と遺伝に関する考え方の変遷を概ね辿った。全て科学は、先人が積み重ねた知識と時代背景のもとに生まれる。ここでは、本題であるメンデルの「植物雑種の実験」の意義を理解するための準備材料となる重要な考え方を提示した。特に、古代ギリシャ時代の自然発生説と汎生説、中世の前成説と後成説、ラマルクの用不用説およびメンデルと同時代を生きたダーウィンのパンゲン説について解説した。

第3章 植物雑種の実験
 メンデルが遺伝法則を明らかにした論文「植物雑種の実験」について詳細に説明した。さらに、そこに書かれた内容を正確に理解するために必要な重要事項を解説し、次章以下で論じる問題点を指摘した。メンデルがこの論文を書いた時代には「遺伝学」と云う学問領域は存在せず、「遺伝」を記述するための学術用語すらなかった。こうした時代背景のもとで、新たな概念を創出し、これを説明して識者の納得を仰がざるを得なかったメンデルの苦労と、その記載方法から来る「メンデルの言葉の意味の解釈の難しさ」についても解説した。

第4章 遺伝法則発見の意義と秘訣
 メンデルが明らかにした「遺伝法則」の意義を現代的な概念への拡張事例を含めて解説し、発見に導いた秘訣について論じた。遺伝学史におけるメンデルの最大の功績は、1)親から子へ伝達するのは表面に現れる形質ではなく形質を決めている個別の因子(遺伝子)であることを明らかにしたこと、及び2)両親に由来しそれぞれの形質に対応した対をなす因子(対立遺伝子)が無作為に分離して両親の作る配偶子(卵細胞と花粉細胞)へ分配され、受精によって再結合されることを明らかにしたことにある。
 前段では、メンデルの遺伝法則の例外とされる現象もそれらが全くの例外ではなく法則の拡張として説明可能であることを示す多くの研究事例をあげて解説した。後段では、メンデルの発見の秘訣が、綿密で用意周到な材料選びと実験計画の立案、丹念なデータ収集、さらには得られた膨大なデータの数学的な解析など、当時の博物学を凌駕した科学的な方法論(帰納法と演繹法)を用いた点にあったことを明確にした。

第5章 メンデルの動機と目的
 メンデルの真の動機と目的について、従来の見方とともに最近の研究で明らかになった新たな視点を加えて解説し、メンデルが目指したところをより正確に理解するよう努めた。特に、今まで謎であった時期、すなわちメンデルがウィーン大学から修道院へ戻り「植物雑種の実験」を完成させ出版するまでの10年間について、発見された新たな一次情報に基づく考察を紹介した。それらによれば、メンデルの興味は植物育種や園芸など実際的・実用的な対象に根差しながら、そこから次第により基礎的、広範で博物学的な対象へと移っていった過程が明らかにされている。さらに、メンデルの目的が、単に「子孫への形質伝達の規則」を明らかにすることに留まらず、より本質的な「配偶子形成と受精の意味」および「種の形成に果たす雑種の役割」の解明にあったとする見解を確かなものとする新たな事実を資料から探った研究を紹介した。

第6章 遺伝法則の再発見とその後の論争
 科学上の新たな発見は、それが重要であればあるほど、常に厳しい批判と検証の対象となる。ここでは、メンデルの遺伝法則の再発見に至る経緯を見た上で、その後に巻き起こった論争をレビューした。三人の再発見者であったド・フリース、コレンス、チェルマックだけでなく、メンデルを世に広めた、日本人を含む多くの科学者たちの功績についても解説を加えた。メンデルを巡る批判には、「メンデルは遺伝法則の発見者ではなかった」あるいは「メンデルの興味は遺伝にはなかった」とするものがよく知られているが、本書ではこれに関する論争を取りまとめて、「メンデルこそ遺伝法則の真の発見者であった」と云う結論を導き、多くの事例をあげてメンデルの発見の意義と、上述したように、特にメンデルの遺伝法則がダーウィンの進化論との相克を超えて「遺伝と進化の統合説」が生まれるまでの経緯を明らかにしようと努めた。

第7章 晩年と死
 メンデルの晩年は不運の連続であったと言ってもいいであろう。「植物雑種の実験」の後で自ら手がけたヤナギタンポポとミツバチの研究を取り上げて、その目的がどこにあったのかを探った。残念ながら、ヤナギタンポポとミツバチの研究は期待に反する結果しかメンデルに与えなかった。さらに不運にも、その後の運命はメンデルの科学への希望と熱意を打ち砕き、諸々の事情からメンデルは研究継続を断念せざるを得なかった。

 科学と科学者のあり方が様々な側面から議論されている今日、メンデルというひとりの学究が生きた古い歴史の一コマを改めて振り返って見ることで、科学は優れた個人の独創的なひらめき、思索とともに、緻密な実証実験と得られたデータの正確な解析と解釈から生まれること、および同時代と後世の多くの同僚科学者(peer)たちによる厳正な批判と検証に耐えてその価値が世に認められるものとなることが改めて確認できる。加えて、科学は社会の要請とともに、社会を生きる人々の理解と支援の上に成立し発展するという重要な事実を思い起こすことができるだろう。そして何よりも、科学的知識を生み出した人間とその時代背景を知ることで、科学の面白さや真理を追い求める躍動感とともに、それに伴う苦悩や葛藤を知ることができる。 本書が学生諸君はもちろん、教師や専門家にも手にとって読んでもらえ、広く一般読者諸氏にとっては科学への親しみを増すための一助となれば著者として嬉しく思う。