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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第14章 遺伝学と核の時代

 1950年代初頭になると、世界中の人々が核兵器に関する困難な問題にますます頭を悩ますことになった。合衆国とソビエト連邦の間で拡大する冷戦の渦中にあって、核兵器の破壊力が世界の安全保障上どんな意味をもつかはほとんど理解の及ばない難問だった。核兵器の製造、貯蔵と実験に本質的にまつわる危険が広く認識され始めた。放射線は、それが特別の機器がなければ感知できないものであるという理由で、とりわけ恐怖の的となった。最も強調されたのは人間の健康に対する直接の脅威だった。公衆の代表にもあるいは政府の代表にも、遺伝子に対する放射線の影響を考える者はなかった。しかし、数十年も前にマラーとスタッドラーが既に明らかにしていたように、放射線は突然変異を引き起こす。合衆国では遺伝学が主要で重大な人々の関心事となりつつあった。遺伝学者には、象牙の塔に隠れたまま不明確な態度をとることはもはや許されなくなった。

 広島と長崎への原爆投下後の10年間、合衆国における放射線の危険に関する政策と公開情報について第一義的な責任を負ったアメリカ原子力エネルギー委員会(AEC)は決定の元となるデータのほとんどを秘密扱いにした。ビードルは、それが国家的な展望に関わる課題への最初の関与だったが、1947年の人間集団の遺伝に関する原子力エネルギーの影響を評価するAEC特別委員会に参加し、放射線遺伝学に関する報告書の執筆に加わった。しかし、1954年3月1日のビキニ環礁における 「スーパー爆弾」 実験の後では、AECが否定したにも関わらず、核実験の後で放射性粒子が世界中に拡散しつつあることを世界中の人々が知った。 「フォールアウト(放射性降下物)」 という新しい術語が人々の間で囁かれ始めた。ポーリングは、カルテックの評議員達の懸念を払拭するためにもう一度身を低くして研究に専念すると決心してまだ数ヶ月しか経たないうちに、未知および既知の放射線障害に関する懸念を公に語り始めた。

 カルテックの教員で放射線のフォールアウトについて公に発言したのはポーリングだけではなかった。スターテバントは、アメリカ科学振興協会(AAAS)の太平洋支部の代表という立場を利用して、1954年6月の学会で見解を述べた。彼は、短い間隔をおいた高線量の被曝が個人の健康に与える直接的で時として可逆的な影響と、検出不可能で不可逆的な遺伝的変異である突然変異の違いを強調した。突然変異は閾値なしに全ての線量でしかも累積的に起こると彼は信じていた。スターテバントによれば、 「明確に安全な線量」 はなかった。AEC議長のルイス L.・ストラウスがホワイトハウスの記者会見で、合衆国とソ連の核実験後のフォールアウトから生じた自然界のバックグラウンド放射線量の増加は 「人間にとって、どのような形であれ、有害レベルよりはずっと低い線量だった」 と述べたことに彼は不安を覚えた。核爆発はそのリスクに見合う利益を与えるかもしれないが、特に放射線が与える遺伝的な影響について我々が知っている事実のほとんどは人間ではなく動物実験から得られているのだから、将来の人類に与えるリスクを評価することは現在では不可能であるとスターテバントは考えた。さらに、突然変異の圧倒的に有害な影響は何世代も表面化することがなく、生殖効率をほんの僅かに減少させることになるだけだろう。しかも、世界の人類集団に既に蓄積された望ましくない遺伝的負荷に核実験がさらにどれだけの負荷を加えたかについて、確実に知り得ることはほとんどない。スターテバントはさらに付け加えて、 「被爆した個人に生じる遺伝子の突然変異は被爆から何年も後に現れる、特にがん細胞増殖の確率が増加するという点で当該個人を危険に曝すことになると推定できる理由がある」 と語った。1927年には、既にマラーがX線によるがんの誘発は突然変異と関係する可能性があると提案していた

 当時、生物学と医学の部門長だったジョン C.・ブファーは、遺伝学の素養はなかったが、AECのために動いた。ブファーは、放射線が永続的で通常は負の遺伝的変化を引き起こすこと、こうした影響は全ての線量で起こるというスターテバントの意見に賛成はした。それでも、彼がフォールアウトによる放射線量は遺伝的に 「有意でない」 と結論したのは論理的ではなかった。ビードルはスターテバントの見解に実質的に賛成だった

 1954年の後半にアメリカ科学振興協会(AAAS)の次期議長に当選していたビードルは 「国家安全保障の基盤強化」 に関するAAAS声明文の作成支援に関与した。声明文の核心は次の1文に込められていた。 「我々が所有する情報を過剰に保護することではなく科学の継続的な進歩こそが軍の力と安全保障のより望ましい保証である」 。AAAS委員会は、 「安全保障審査計画が必要となるのは危機に直面する時代に限られる」 という考え方を強く支持し、 「基本的あるいは驚異的と言ってもいい事実は、無期限の科学的秘密などというものは存在しないことである」 と主張した。声明文は、 「漏洩の危険をどのように回避するかという否定的な質問の代わりに、どうしたら国家の発展をもっとも効果的に支えることができるかを問うことによって国家機密をより積極的に保護する計画」 の策定を要求した。それは、安全保障に関するリスクの評価に際しては、科学者が貢献できる可能性と果たすべき役割の特定により重点が置かれるべきだという要求だった。

 AAAS委員会の声明文は新聞社の注目を集めた。ニューヨークタイムズ・ヘラルド・トリビューンの論説は声明文を誤って解釈して、 「科学者は、彼らがどのような研究に携わっていようと、安全保障審査手続きの対象とされるべきではない」 とする解説文を掲載した。AAASのその年度の議長だったワレン・ウィーバーは、声明文に関するヘラルド・トリビューンの誤った決めつけを批判する必要があると感じて、強い抗議文を新聞社へ送った 。AAAS内では声明文を支持する声は強かったが、関係者の中にはAAAS会議の場で、特に 「国家安全保障と無関係な研究に対しては、たとえ他の理由で安全保障審査の却下があった場合でも、連邦政府の資金は貸与されるべきだ」 とする決議案をAAASが採択したことに 「不賛成と憤慨」 を表明した委員もあった10。1年後に米国科学アカデミー(NAS)委員会は同様の声明文を公表した11

 1955年が始まると、ビードルはウィーバーの後を継いでAAASの会長となり、協会業務の最前線に立つことになった。会長の任期は3年で、実際上、最初の年は選出会長として、2年目は会長、3年目は退職予定会長および会議の議長を務めることになっていた。ワシントンDC本部の賢明なデール・ウォルフルの下には高い力量をもったプロの職員がいるのだから、会長としての義務は概ね儀礼的なものだろうとビードルはおそらく考えていたのだろう。しかし、会長は種々の行事に出席しなければならず、ビードルは6月のAAAS会議ではアラスカに旅行し、東海岸へは何度も行き来した。

 安全保障と忠誠問題の他に、ワシントンDCの新しいAAAS本部棟の建設に関わる継続的な問題と、1955年12月のAAAS定例会議を人種差別都市であるジョージア州アトランタで開催する計画から生じた重要で公開論争の的となった問題にもビードルは直面していた。会議の日が近づくにつれて、ますます苦情が大きくなった。アフリカ系アメリカ人社会でもAAAS会員の間でも、アトランタでの開催に対する意見は割れた。 「見本を示すあるいは他のやり方で差別の壁を壊すという意味で、開催によって期待される状況は不利益を上回ると主張する委員会の見解に賛成する者もあった」 12。しかしAAASの少なくとも一部会は、 「サイエンス誌の1955年5月27日号752ページに掲載されたような内容の案内、すなわち会議参加者が‘白人専用’であることを理解した上でのみ利用できる高級ホテルやビジネスホテル、設備などが公開されたことは、黒人会員を含むAAASの全会員に対する粗野で節度を超えた侮辱である」 として会議のボイコットを主張した13。しかし、開催予定日の12月まであと半年しかない時点で会場の変更を試みることは問題で、開催委員会はアトランタ開催計画を進める決定を下した14。ウォルフル委員長は、プログラム、展示、社交行事などが黒人大学のキャンパスや他の人種差別のない施設で開催できるように手配することで状況を改善しようと試みた。

 こうした活動の間もビードルは新しい家族と生物学部門に多くの時間を捧げた。1955年の夏の盛りに、ビードルとミュリエルはネブラスカに帰省し、そこでミュリエルはアシランドの老人ホームに住むビードルの88才になる父に会うことができた。そこから彼らは西にドライブして、ワイオミングにあるカレッジの生物学教員のための研修機関に立ち寄った後、7月の終わりにパサディナへ戻る前に北カリフォルニアのサマーキャンプに息子のレドモンドを訪ねた。カルテックのキャンパスでは、ビードルも他の誰もが化学生物学の新しいノルマン・チャーチ研究棟の建設計画で忙しかった。この事業はモルガンが何年も前に提案し、ビードルがパサディナへ戻ったときに再びポーリングとビードルによって再開された事業だった。1954年にはロックフェラー財団が150万ドルを寄附し、ノルマン・チャーチから同額の遺産贈与が決まった。実はチャーチは、自分の競争馬が 「ドーピング」 問題で訴えられたときに、化学部門の助教だったアーノルド・ベックマンがそうした事実はないと証明したことに恩を感じて、何年も前からカルテックの支援者だった15。しかし1955年に落成するとすぐにチャーチ研究棟は手狭となってしまったので、ビードルはチャーチ棟と古いケルクホッフ生物学研究室を連結する新棟の建設に向けて議員達へのロビー活動を始めたが、それは1931年にモルガンが思い描いた計画に沿った事業だった16

 1956年にビードルは、退職を控えたAAASの会長として、ニューヨークの年会で重要な講演を行った17。講演は壮大なスケールの展望だった。ビードルは宇宙論から始めて、生命の誕生、生物学的および文化的進化、食料と人口問題、核戦争の危険と国家間に存在する機会の不平等までを俯瞰した思索を展開した。遺伝子の性質に関して早い時期から蓄えてあった思索のその後の変転を考えると特に意義深いことだったが、彼は、 「自己複製と突然変異というふたつの性質は全ての生物に共通の特性で、従ってこの特性は生きている状態を定義する客観的な基礎を提供すると断言することができる。今日の生物が保有する核酸がこれらふたつの性質を備えていることを示す証拠が蓄積されつつある」 と語った。彼は遺伝学が約束する広範な将来展望を以下の言葉で語って講演を締めくくった。 「人類は今、これまで人類の進路を長く決めて来た自然選択の限界を越えた立場に立っている。人類が生物学的および文化的に自由な未来へ向かうためには、どの人類社会でもいまだ明示されたことがないほどの包括的な知恵と勇気が科学的知識に伴わなければならない」 。

 この如何にも政治家がやるような講演を行った時、ビードルは原子放射線がもたらす遺伝的結果を考える高名な遺伝学者達で構成される遺伝的影響に関する一年以上も続く委員会の仕事で手一杯だった。全米科学協会(NAS)のデトレフ・ブロンク会長は1955年10月の委員会開催を決定し、事業はロックフェラー財団の経済的支援を受けることになった。ロックフェラー財団の職員は、放射線のフォールアウトがもたらす結果に関する独立な非政府組織からの助言の必要を認めた。財団は、1930年代には核物理学の研究を支援したことから、責任を感じていた。財団の評議員達は 「更なる集中的な研究が緊急に求められる課題」 の発見を含む 「生物への原子放射線の影響の広範な評価」 の必要性を強調した18。AECとの協議を経た上で財団はNASの一部門である全米研究評議会(NRC)に研究の実施を命じた。遺伝的影響に関する委員会は、NASのデトレフ・ブロンク会長が設立した複数の委員会の最初のひとつで、原子放射線がもたらす生物学的影響に関する委員会(BEAR)という一般名で呼ばれた。後に、例えば病理学的影響、食料の安全性、放射性廃棄物の処分と散乱などに関する他の委員会が設立された。遺伝学を強調したことは、核実験のフォールアウトと関連した低レベルの放射線が白血病や他のがんのような大量の被爆から生じる直接的な放射線障害とは異なることを国民に請け合うことに主力を注いできたAECの既定方針からの方向転換だった。遺伝学に関する委員会は、優生学に基づいて第2次世界大戦の間にナチスが行った実験の結果として遺伝学が被った厄介な評判に打ち勝つという別の困難な役割にも直面しなければならなかった。

 委員会の最初の当番表に書き込まれたのは著名な遺伝学者達の名前で、そこにはビードル、ジェームス・クロー、デメレック、ドブジャンスキー、ベントレー・グラス、マラー、ジェームス V.・ニール、トレーシー・ソーンボーン、スターテバントとシーアル・ライトの名前が挙がっていた。マウス遺伝学と放射線の専門家であったオークリッジ国立研究所のウィリアム L.・ラッセルとアレクサンダー・ホーレンダーも委員になった。遺伝学者ではなかったがシールズ・ワレンが政治家として手腕を発揮する役割を担うことになった19。NASのブロンクス会長が数学者のワレン・ウィーバーを遺伝学委員会の議長に任命したのは大胆だったが、この選択は結果として優れた判断だったことが分かった。ブロンクは、ウィーバーなら委員間にあった意見の不一致を公平に裁くだろうと信じたが、それは正しかった。 「委員会のもっとも目立った二人の遺伝学者だったニールとマラーは互いに言葉を交わすことさえ拒否した」 ほど、状況は険悪だった20

 マラーの個人的な歴史は問題の連続だったが、彼は既にノーベル賞受賞者で、他の誰よりも放射線の遺伝的影響について考えて来た人物だった。彼の長年の見解は知れ渡っていた。1955年4月のキンバー講義で彼は当時表明されていた極端なふたつの見解を批判した。ひとつは核実験を繰り返してもリスクは存在しないとする見解で、他方はリスクを考慮すれば全ての核実験は直ちに停止すべきであるとする見解だった。マラーは核兵器の開発は必要だと信じていた。ソ連独裁主義との直接の経験が彼のソ連による脅威に対する現実主義的な見解の基礎となっていたのは疑う余地がなかった。しかし彼はフォールアウトの危険について人々の安心を誤って買おうとするAECの声明には反対した。ショウジョウバエの仕事から彼は、遺伝的な損傷は被爆の全蓄積量に比例すると信じていた。彼は、γ線照射の入手可能なデータから、合衆国国民は核実験からひとり平均0.1レントゲン(約1ミリシーベルト)の放射線に曝されてきたと計算した。合衆国の人口は1億6,000万人だから全体で1,600万レントゲン(約1億6,000万ミリシーベルト)の被爆量である。入手可能な数値によれば、広島の16万人の人々は一人平均100レントゲンの被曝量だから、全体では同じ1,600万レントゲンだけ被爆したことになる。従って、ふたつの集団では同じ数の突然変異が起こったと考えられた(注:マラーの推論に従えば、広島では合衆国の1,000倍の確率で人々に突然変異が起こったことになる)。マラーはまた、医療と歯科治療による不必要な放射線被爆に加えて、それが適切な遮蔽を考慮しないままに実施されている点についても不安を語った21。この講演がもとで、マラーはAECとの公開の場での討論に身を置くことになった。

 8月中旬にジュネーブで開催予定の原子力平和利用に関する国際会議で講演するように自分は招待を受けているとの印象を持ったマラーは、1955年6月にインディアナからヨーロッパに向かった。出発後に、アメリカ原子力エネルギー委員会(AEC)はマラーに手紙を送り、国連は貴殿に講演を求めておらず、貴殿は合衆国代表派遣の一員でもないと伝えた。AECは、数日後には、別便で連絡の遅れを詫び、国連の不手際を非難した。いずれにしても、マラーは会議に出席した。放射線の遺伝的影響:予想される人間への影響と題したセッションに彼が現れると、委員会は当惑したが全員が起立して拍手を送った。国連によれば、AECがマラーに伝えた内容とは反対に、AECは国連に宛てた6月の手紙で、マラーは代表団の一員ではないこと、AECはマラーに講演を求めていないことを連絡していたことが分かった22。後に、AECは国連の説明を認めただけでなく、マラーを招待しなかった理由として核エネルギーの平和的利用のための会議で広島への原爆投下に関する講演を承諾することは 「全く受入れ不可能」 だったことをあげた。AEC委員長のストラウスは 「過ち」 に対する責任を認めた23

 AAAS会長としてビードルは、10月のサイエンス誌の論評で、マラーの処遇に対して科学界は失望しているとする意見を表明した24。この件に関する事実が同誌のニュース記事で紹介された25。ビードルは、 「マラーを会議プログラムから外すために不明瞭な方法が採用されたと思われること、さらに、委員会(AEC)の見解とは明らかに異なるマラーの見解が多くの遺伝学者達が望んだ完全な形では表明されなかったという理由で、多くの人々はこの件を残念に思うだろう」 と論評に書いた。ビードルが不明瞭な方法と指摘したのは正しかった。マンハッタン計画に参加しAEC委員会委員だった高名な化学者のウィリアム F.・リビーにとっては、共産主義者と共産主義擁護者であると疑われる者は誰でも呪われた人物だった。リビーはマラーが忠誠な反共産主義であるとは信用できず、他のAEC委員を説得して、部会のひとつである生物学・医学委員会による国連会議へのマラーの招待を目的とした推薦を破棄させたのだった26

 原子放射線がもたらす生物学的影響に関する委員会(BEAR)の第1回会合が、1955年の感謝祭の直前に、ニュージャージー州プリンストンで開かれた。ブロンクは委員会に指令し、遺伝学者の委員達には最終報告が出るまでは協議の内容について沈黙を守るよう要請し、委員達もこれに同意した。マラーの強い要請もあって、機密扱いの材料を対象としないこと、AECの兵器グループおよび生物学・医学部門とは関係をもたないことにも同意した27。ウィーバーは、 「この劇的な事例を掌握」 すれば、委員会は科学と公衆の関係に有益な効果を与える特別の機会をもつことになるだろうと理解していた28

 同時に委員会(BEAR)は、実験動物に対する実験室条件での被爆試験とエニウェトク環礁での核実験による放射線の突然変異効果に関して世界の専門的知識を代表する機関でもあった(注:エニウェトク環礁はコードネーム 「ブラボー」 のもとで挙行された15メガトン級の水爆実験場となったビキニ環礁の西200kmにあるマーシャル諸島の環礁のひとつである。太平洋戦争の末期に日米間の激しい戦闘があった地として知られるが、ここでも合衆国による数多くの核実験が行われた)。人間に関するデータのほとんどは、NRCが設立した原爆障害調査委員会ABCCの後援により派遣されていたニール、クロー達が日本で行った8万人を対象とした非機密調査から得られた(注:原爆障害調査委員会ABCCはトルーマン大統領の指令で、1947年3月にNASの実動部隊であるNRCに設立された。施設は広島市の比治山の山頂に設置されたかまぼこ型の建物だった。ABCCは1975年には日米の共同出資・運営による公益財団法人放射線影響研究所RERFに改組された)。しかしこれらのデータの多くは放射線による直接の死傷に関するもので、損傷もその大半は非可逆的な突然変異とは違って可逆的な障害に分類される事例だった。この2種類の障害の区別は、公衆も明らかにAECでもほとんど理解されていなかった。日本が被った放射線量の計算を可能とするデータが機密だったことがもっとも大きな問題だった。その情報が入手可能であれば、委員会が疑いつつ不明瞭な評価を下す他なかった困難な任務を達成することも可能だっただろう。データがないままに委員会は、人々の懸念の中心課題は何かについて、それが合意に達し得るという仮定の上で確定する他にできることはなかった。最初の会合から議論沸騰の課題が持ち上がった。

 AECは 「許容できる線量」 の放射線という概念を持ち出したが、有意で信頼の置ける評価が実は極めて不明瞭で、委員の見解によれば、悪くすると余りにも高いレベルに設定される懸念があった。現実的には、フォールアウトからの放射線だけではなく、X線や当時よく使われたX線透視撮影装置からの放射線について公衆に勧告を与えるためには、一定の数字の提示が必要だった。例えば、放射線被爆が避けられない職務に従事する者に許容される特別な線量はあるべきではないだろうか?委員は、放射線の危険と国家安全保障のための核兵器製造の必要性と民間目的での核エネルギーの利用に一定のバランスが必要である点には賛成した。意見がぶつかったのは、このバランスをどのレベルで取るかについてだった。どんな許容線量であれそれを推薦する報告書への署名をニールが拒否すること、一方でマラーはそのような推薦がない報告書への書名を拒否するだろうとウィーバーは既に理解していた。生殖腺への放射線照射が突然変異を増加させること、突然変異の誘発には線量の閾値があるとしても遺伝子の損傷には閾値がないこと、さらに遺伝的な影響は累積的であることは誰もが賛成した。彼らはまた、公衆が信頼できる勧告を得るためには、遺伝子の構造と突然変異に関するもっと根本的な知識が必要であると認めることにも同意した。今や自らの無知と不確実に直面しながらも、彼らには報告書を書いて勧告を行う必要があった。ウィーバーは可能な限り速やかに報告書が公表されるよう集中した努力を委員に要求した。彼は全ての仕事を調整する責任を共に負った他の委員会の議長達にも会った。委員会の委員には次の数ヶ月間はこのための努力で忙殺されることが事前に知らされていた。ビードルは、例えば1956年9月に東京と京都で開かれる国際遺伝学シンポジウムに参加した機会を使って、人間への放射線障害の研究に日本人遺伝学者が参画できる方法を探った29

 遺伝学の委員会は1956年2月にシカゴでもう一度会合を持った。ウィーバー委員長は委員会内部の不一致にも関わらず、委員全員が承認する報告書を作成する必要があると考えていた。彼がシカゴに来た理由はこの任務をうまくやって成功を収めるためだった。ウィーバーは、遺伝学委員会も含めて、全ての委員会の最初の報告書は簡潔で明確に内容を語った書類でなければならないと提言した:実は彼は、自分で書いた遺伝学部門の報告書の原稿を書類カバンの中に潜ませていた。将来はより知恵に富んだ勧告ができるように、ロックフェラー財団は遺伝学の基礎研究への実質的な支援を提供すべきだと考えた彼は安易な妥協をしなかった30。ウィーバーは、委員からの時折の質問と自分の科学上の見解に過ちがあるかも知れないという言い訳を交えつつ、長々と自分の原稿を読み説明した。ビードルはウィーバーの話しを黙って聞いていたが、最後はウィーバーにゴーサインを伝えた: 「貴方はその任務をやり続けてください。私達には普及のための専門家は要りません、貴方だけで十分だと考えます。私達は今この仕事に終止符を打ち、報告書の文章を訂正して証明を与える、そうすればいい仕事がひとつ完成したことになります」 。マラーは賛同した。数ヶ月のうちに完成した短い報告書を手にできると理解したウィーバーは安堵した。

 ある種の問題はシカゴの会合で個別委員会を越えた共通議論の中心となった。予想通り、放射線は全てのレベルで突然変異を起こすとニールは主張して、 「許容線量」 の値を提示することに反対した31。もし委員会が数値を設定しなければ、AECがそうするだろうし、その数字は高すぎることになるだろう。もし委員会が低すぎる数字を設定すれば、AECはそれを無視するだろう。利用価値のある数字が設定できなければ、政策論争での遺伝学者の将来的な役割は不確かなものにならざるを得ないだろう。ビードルは被爆限度を設定する重要性をこのように主張した。しかし彼は、 「許容線量」 という術語は科学的に不正確で混乱を引き起こすという理由で、この術語の使用そのものには反対した。その代わり彼は 「最大許容線量」 という術語が好ましいと述べた。ほとんどの人々は最大許容線量に曝されることはないが、核分裂物質を扱う人々に取ってそれは有益な基準になるだろう。しかし迂闊にもビードルは、おそらくそのような仕事は生殖年齢を超えた人々にだけ許されるべきだろうと意見を述べた。彼の同僚は即座にビードルに注意を促し、男性は生涯を通じて生殖が可能なことを思い起こさせた。実験物理学者には遺伝学の知識が全くなく、彼らは自分達にとっても彼らの学生にとっても線量の限度は真剣な考慮の対象でないと考えていることにマラーは不安を感じた。議論はそれでも妥協に達した。彼らは、不確実さと無知の程度を表明した強い言葉とともに、現時点での最良の知識を反映した線量域を公表することで合意に達した。

 シカゴの二日間で、委員達は放射線量が個人に及ぼす影響と同時に平均して世界の全人口が受ける相対的な影響に関する問題にしばしば立ち返って議論した。ほとんどの突然変異が劣性であると仮定すれば、それらは特定の個人の直接の次世代には影響を及ぼすことはないと言っていいだろう。さらに第一世代で深刻な異常を引き起こした突然変異は急速に消失すると期待される。しかしより軽微な劣性突然変異は将来の人間集団に重大な影響を及ぼす可能性がある。ライトは 「遺伝学の立場から見れば、個人が受けた線量が実際に何らかの意味をもつとは私は考えない」 と繰り返した32。マラーは反対に、個人とその子孫に及ぼす放射線による誘発突然変異の影響を心配した。マラーは全ての突然変異は有害であると主張したが、ライトは、そうではなく多くの突然変異は中立なアリルとして生じると主張した。当時は適切な証拠がほとんどなかったが、この点ではライトが正しかった(注:1968年に木村資生が体系化した進化の中立説では、分子レベルで起こる突然変異の大部分は個体の生存にとっては有利でも不利でもなく、進化的に中立であるとされる)。40年後に、この議論を振り返ってジェームス・クローは、放射線が誘発する突然変異のほとんどは、自然突然変異の多くがそうであるような小さな染色体変化ではなく、欠失や切断など大きな染色体変異であるという事実を認識していたという理由で、スターテバントの意見が最も正かったと見解を述べている33

 全ての委員会報告は短い合同の概要文書として公表され、1956年6月のプレス会議で発表された34。 「許容線量」 も 「最大許容線量」 もどちらも報告には現れなかった。公衆に最も大きな影響を与えた勧告は治療用のX線使用についてで、医学的な必要量に即した限りでその使用量に制限を求めたことだった。委員会は、合衆国の個人が30才までに生殖腺に受ける平均的な被ばく線量は、医療および歯科治療で受けるおよそ3レントゲン(30ミリシーベルト)と、その他の避けることができない自然放射線による4.3レントゲンであると見積もった。これとの比較で、委員会は、核実験が過去5年間と同じスピードで継続されたとしても、追加的で比較可能な被曝量は0.02から0.05レントゲンの範囲内であると推定した。報告書は懐妊時から30才までの個人の生殖腺への平均全照射線量は10レントゲン(100ミリシーベルト)を限度とし、同年齢までに生殖細胞が浴びる線量は50レントゲンを越えてはならないと勧告した。これらの被曝線量限界は人々に病的な影響を与えることはないと期待されるが、合衆国の全人口では500万のオーダーで突然変異遺伝子をもたらしうる。重要データを集めるためには個人の生涯にわたる累積被爆線量を記録する必要があった。

 報告書は公衆の高い関心を呼んだ。新聞は勧告内容を広範に伝え、ベントレー・グラスを遺伝学者として迎えた米国議会の公聴会が開かれた。合衆国における医療の実施に与える影響がすぐに明らかな現実となった。7月までには、全米結核協会は全ての関係機関に対して、若者へのX線とX線透視撮影の使用禁止と他の全ての人々への使用制限を勧告した。サイエンス誌の論説委員は、ほぼ同時に発表されたイギリスの医学研究局(MRC)による報告でもほぼ同様の結論に達したことを報じた35(注: MRCのもとには、生物学と医学で世界をリードするMRC分子生物学研究所が1947年に創設されていた)。人間の突然変異率が倍加するには現在の放射線被曝量に比べてどれほどの増加が必要かという質問に対する最良の見積もりは、どちらの報告でも30から80レントゲン(300から800ミリシーベルト)であると見積もられた(注:国連科学委員会(UNSCEAR)の2000年報告によれば、人間が自然界から受ける年間被曝線量は、世界平均で2.4ミリシーベルトである)。しかし、政治的な意味合いをもつフォールアウトの影響については両国の意見は異なり、アメリカの委員会は全ての放射線は害をもたらすことを強調したが、他方、イギリスの委員会の結論はフォールアウトがもたらす危険性の増加は 「無視できる」 だった。これらの報告書が発表されたとほぼ同時に、ポーリングを含む多くの科学者と市民による核実験禁止に向けた運動が始まった36

 報告書が公表されたその日にウィーバーはブロンクに辞表を提出した37。この仕事は自分から余りに多くの時間を取り上げただけでなく、今後の課題はより技術的、具体的であるから専門的な議長が必要だと彼は主張した。ウィーバーはまた、自分は遺伝学者達に対する歓迎の意をすでに使い果たしてしまったと確信していた。彼はブロンクに交替したい自分の率直な思いを伝えた38。委員のうちの10人は委員を引き継ぐには 「決定的に不適当」 で、他の4人は 「理想的でない」 とされた。ただ一人ビードルだけが残ったが、ウィーバーが喜んだことにビードルは議長を引き受けたのだった39。ビードルと委員会が 「短い報告」 の完成からどれだけ開放感を味わったかは分からないが、なさなければならない深刻な仕事が依然としてある事実は、そうした開放感をすぐに吹き飛ばしてしまった。

 ビードルの献身的な行動は多くの人々を圧倒したが、それは同時に 「簡単に退屈する」 生来の傾向から彼を守る役にはたっていた40。カルテックでの仕事が滞ったことはなかったが、ビードルは家でも研究室でもひとつところに落ちつく人物ではなかった。彼の消耗的とも言えるスケジュールと東海岸への頻繁な飛行は、もちろん航空会社に少しの利益を与えただろうが、科学界にとっては極めて有益だった。遺伝学委員会は1956年5月にニューヨークで会合を持った。1956年春に、AAAS役員会に出席した後で、ビードルは2週間以上かけて国中の東西南北を飛び回った。最初はコールド・スプリング・ハーバー・シンポジウムで4日間を過ごした。次は、カルテックの卒業式でパサディナへ戻り、一日庭仕事をした後で東海岸へ飛んでウェスリアン大学で名誉学位を受賞し、残りの二日間は再びシンポジウムに参加した。パサディナに戻ると、別のシンポジウムのための論文書きで4日間を過ごした後、バルチモアの遺伝学・生化学学会に4日間参加して、ようやく落ちついた41。ある時など、ワシントンDCから夜間便でパサディナに朝に戻り、その日の夜に再び東海岸へ向かったビードルをミュリエルは叱りつけることもあった42

 同時にビードルはカルテックで一般生物学を講義し、3月と5月にはオレゴン州立大学のコンドン講座を引き受けた(注:コンドン講座はオレゴン州高等教育局がオレゴン州立大学の最初の地質学教授だったトーマス・コンドンを記念して1944年に創設した講座)。ビードルはまた、ネブラスカ州アッシランドの老人ホームを出てワフーへ戻り、一人で余生を過ごしたいと希望する父のことがいつも気がかりだった43。ルース、ミュリエルとビードルには、89才の老人が一人でやって行けるのか、費用はどれだけかかるかなどの心配があった。父はルースあるいはジョージ、ミュリエルとカリフォルニアで一緒に生活することにも、ネブラスカ州フレモントにあるルーテル協会が経営する老人専用のルテランハウスに移ることにも反対するだろうと思った。しかし父の反応は予想外で彼らを驚かせた。父は 「ワフーの家には一切こだわらない」 と決心し、5月にはフレモントで喜んで新しい生活をはじめた44。ビードルは国を横断する旅の途中にネブラスカに立ち寄ることができなかったこと、クリスマスの週にパサディナへ父を呼んで一緒の時間を過ごすことがAAAS会合の参加で実現できなかったことを済まないと感じた45。ビードルには強い義務感があったが、明らかに父との関係を無理矢理作ろうとはしなかった。

 1955年11月の最初の会合では遺伝学委員会は原子放射線とそれに関連した危険の性質と規模に関する完全な報告書の作成を目指した。1956年夏にビードルが議長を引き受けたとき、報告書はまだ出来上がっていなかった。彼は、科学者と社会が放射線の遺伝的影響をよりよく理解するために必要な研究課題の記載を含む委員会独自の報告書への長期にわたる追跡調査の心配もしなければならなかった。

 ラーフリン・プルマン報告の原稿が1957年春のレビューに向けて準備された46(ラーフリン・プルマン報告は、NASのブロンク議長が統括するBEARのもとに置かれた多くの委員会からの報告のひとつ)。レビューの期間は秘密にしておく趣旨だったが、150部が世に出回り報道機関は情報を容易に入手することができた。生殖腺被曝に関するいくつかのデータが非公式に発表され、大きな混乱を招いた47。医療と歯科治療から受ける放射線被曝の新しい推定値は1956年6月の50%増になった。民間の医者も含めて、専門の医療健康機関は事態を重く見て、人々の間でX線の使用に否定的な見方が広まった。ブロンクは、いらだった内科医達が報告書は医療職に対する信頼を蝕み、医学の正統さを損なっていると批判するのを聞いた。報告者が事業に与える影響を心配したX線を扱うピッカー社は委員界の各委員とブロンクに抗議の電報を打った48。ブロンクはこうした問題のほとんど全てに対処する任を引き受けたが、ビードルは委員の間で加熱する論争の仲介に奮闘した。

 委員会の最初の会合で、マラーが議長を務めビードルが参加する小委員会が指定を受けて将来の研究課題に対する青写真を用意する任務を任されることになった。委員会は、あれを始めこれを止めるなど様々に奮闘して内部の不一致を掌握しようと努めた。論争の的となった問題のひとつは、哺乳動物を使った実験を奨励するか否かであった。人間に対する放射腺の影響が一般大衆にとって最も重要な関心事だったが、実験的な手法の適用はもちろん不可能で疫学的なデータも少なく、たとえデータに信頼性があってもその解釈が難しかった。マウスは哺乳動物のモデルとして開発されていたが、当時はマウスのデータが人間に適用可能かどうかを誰も知らなかった。特にデメレックは、研究は実験生物であるトウモロコシのような植物とショウジョウバエのような動物に焦点を当てるべきでだと強く主張した。

 ビードルが委員に回覧したカルテックの同僚のエド・ルイスが行った電離放射線による被曝と白血病の量的関係に関する論文原稿から判断すると、人間の疫学的データに頼って得られる展望が極めて限定的であることが明らかだった49。ルイスは放射線量とX線取扱い技師の白血病誘発を関係づけるデータの他に、ビードルの助けを得て広島と長崎で被爆した生存者から得た日本原爆障害調査委員会が収集したデータを含む入手可能なデータを集めていた。集団の違いによらず、彼の計算は 「放射線が誘発する白血病発症の確率は1年間1ラッド当たり100万人に2人であると見積もられる」 ことを示していた(注:吸収線量の1ラッドは生物への影響を評価する目的で設定された線量当量に換算すると約10ミリシーベルトである)。ルイスは、 「白血病の発症と放射線量の間の直線的な関係」 に対する説明は、マラーが1927年に始めて議論し50、1954年の論文でスターテバントがほのめかした仮説、すなわち放射線が誘発する体細胞の突然変異に当てはまるだろうと考えた。結果は放射線量と突然変異の間には直線関係があるという既にショウジョウバエで認められた期待によく合致しており、従って提案された研究課題の対象としてはモデル生物が強調されるべきだとする委員の主張が支持された。

 ショウジョウバエの遺伝学者ルイスは、人間に対する放射線の影響について決まって声高に主張される意見のいくつかに疑いの眼を向けていた。ルイスの白血病のデータは、例えば、放射線のフォールアウトにはルイスが見いだした直線関係はなく、線量の閾値が存在しなければならないと確言していたカルテックの物理学者達の見解とは相反していた。同様に彼は、ストロンチウム90のフォールアウトの影響について、リビーがAECの側に立って 「現在のスピードでの核実験からくる世界規模での人間の健康に及ぼす危険は有意ではない」 とサイエンス誌上で公に宣言したことを危惧した51。ストロンチウムのデータを自ら分析したサイエンス誌の論文でルイスはこの結論に真っ向から挑戦した52。AECと議会の原子力エネルギー合同委員会からの反応は、サイエンス誌のページを使ったルイスに対する憤激を伴う公然の非難で、デュブリッジとロバート・バッチャーはAECの側に立った53。2年後にルイスは、フォールアウトで汚染した牧草を飼料として育てた乳牛のミルクを飲むことで摂取した過剰なヨウ素131からの乳幼児と子供の甲状腺への放射線量を評価した。彼は乳幼児と子供が経験した年間の放射線量は少なくとも自然界からの年間バックグラウンド放射線量の2倍に達したと結論した54。ルイスの原稿を読んだバッチャーは、これを発表しないようルイスに警告した。デュブリッジもルイスを説得しようと試みて放射線学者と話すよう手配したが、その放射線学者は放射線の危険について頑な見解をもち、人種差別的な考えさえ述べるような人物だった。インタビューを聞いたビードルは嫌悪を表し、 「なぜデュブリッジにはそんな友人がいるのか?」 と訝しく思った55。ビードルは、いつものように陰に隠れたやり方でルイスを援護した56。ポーリングは核兵器の実験停止を求めたパブリック・キャンペーンでルイスのストロンチウム90の分析結果を利用した57

 ビードル、スターテバントとクローは1957年の春に概要報告書の執筆に取り組んだ58。マラーが原稿に手を入れ、デメレックは自分の考えを7月にビードルに伝えたが、それは以下の内容だった。 「我々の現時点での知識からすれば、極めて複雑な仕組みの関与が考えられるという理由で、人間の遺伝学研究と哺乳動物を使った遺伝学研究は放射線の遺伝的影響に関する問題の解決に有意義な貢献ができない」 。彼は展望可能な研究課題を述べ、実現には巨額の資金と数十年の時間が必要であると正しく予想した。デメレックが列挙した根本的な質問には、化学的および物理的な遺伝子の構造、染色体の構造、遺伝子の作用、ゲノム中での遺伝子間相互作用、自然および放射線が誘発する突然変異の化学と仕組み、および理論的な集団モデルの実験による検証が含まれていた59

 1957年に遺伝学委員会が開かれたとき、彼らは新しい懸念と議論に直面した。彼らの報告書には実施されるべき研究が記載されていたが、除外された研究はなされるべきでなかったのだろうか?議論されたが合意できなかった問題のすべてについて、提案された研究の見通しを全般的な様式で記述する以外に可能な解決の方策はなかった60。会議に向かう折りに、ビードル達はイサカに立ち寄り、そこでミュリエルはジョーとアドリアン・スルブに会うことができた61。それは大陸の東西に分かれた二つの家族が互いに行き来した旅での再会の最初だった。

 委員会が直面したもうひとつの問題は、特定の放射線量から予測できる突然変異の数の評価だった。ショウジョウバエではデータはあったが、それらは容易に検出できる表現型を伴った選ばれた特定遺伝子の突然変異であって、突然変異率が全ての遺伝子について同一であると信じる理由は全くなかったし、特定の遺伝子に生じる全ての突然変異が同一の表現型をもたらすと信じる理由もなかった。さらに、人間の突然変異率とショウジョウバエやマウスのような実験動物の突然変異率が同等である証拠もなかった。

 1958年、サバティカルでオックスフォードにいたビードルは(15章参照)、まだ報告書の完成に従事していた。12月にはセウォール・ライトが 「人間に対する放射線の遺伝的影響、特にその社会的負荷への影響評価に関する可能性」 について補遺を添えるよう提案した62。彼は、 「社会的価値に関する人間の表現型の分類」 を開発し、 「社会への貢献と社会的コストの間のバランスという点」 で問題を扱った。精神的異常、知能の遺伝や身体的障害の社会的コストという議論を呼ぶ問題が彼の分析の核だった63。提案された補遺は委員会に嵐を巻き起こした。特に議論の的になったのは、増加する突然変異率は人間の集団に多様性を与えるのだから、場合によっては恩恵をもたらすとライトが主張し続けた点だった。

 マラーは、ライトの主張は 「実際に論争中の放射線被害の問題とは無関係」 であり、 「公衆を誤った方向に導き、放射線による遺伝的障害はこの問題に携わっているほとんどの研究者達が主張して来たほどには広範でもなく証明されてもいないと考えさせる恐れがある」 と指摘して、補遺を含めることに断固として反対した64。ビードルは報告書を完成させる唯一の方法は論争の的になった点を全て削除することだと結論した。原稿は1956年の結論を再確認する10行の文章にまで削減された。各委員会の議長で構成される全体会議は10月の会合でこの件を知ると報告書を受理せず、ビードルはもう一度仕事をやり直さなければならなかった65。ついに遺伝学委員会は 「意見の違いを解決する満足できる実施可能な方法を見いだすことに失敗した」 事実を表明した補遺を添えて報告書を送付した66。生物学的影響に関する委員会(BEAR)全体会議の代表幹事は報告書と同時の補遺の公表は避けるべきだと判断した67。ビードルは、補遺の削除に自分は反対しないがライトと他の委員達は強く異議を唱えるだろうと代表幹事に警告した。ビードルは全委員会の電報による投票を勧めたうえで、さらに、 「報告書の主要な本体は逐語的にたたき出した文章で、もし意味を変えるかあるいは僅かでも強調点に影が差すような編集上の修正があれば、委員の感情は燃え上がって収集がつかなくなるでしょう。遺伝学者はご想像のとおり敏感ですから」 と代表幹事に注意を促した68

 ビードルは既に、報告書が発送されるまでに、議長と委員会を何時でも辞退する用意があるとブロンクに伝えてあった69。そこで彼は委員会の委員を交替すること、交替に当たっては、ブロンクが一方あるいは他方を贔屓にした印象をもたれないために、ライトとマラーの問題は同時に扱うことをブロンクに勧めていた70。しかしビードルは、実際には、最新版の概要報告書が出版される1960年5月まで議長を務める他なかった71。低線量の放射線の影響に関する知識が深刻なほどに欠如していることが全ての委員会の報告書が指摘した共通の課題だった。遺伝学委員会の全ての委員がライトの見解のある部分を反映した報告書に署名した。議論の的となった補遺は、ライトの署名だけを付けて報告書に含まれていた。その夏の後半にブロンクがジェームス・クローを新しい議長に任命して、ビードルはついに責任から開放されることになった。

 多くが不確実のまま残されたにも関わらず、報告書では 「遺伝学的な観点からすれば、それ以下では遺伝的な損傷が起こらない被曝レベルの閾値があるようには見えない」 とする主張が述べられた。 「見えない」 という語は委員会による重要な防御方策を意味したが、それは、閾値は存在しないとする見解は当時の議論の的であり、今日でもなお議論が続いている難問だからだった72。委員会は慎重になって、 「人生の最初の30年間で生殖腺に蓄積する人工放射線による平均被爆線量は10レントゲン(100ミリシーベルト)を越えてはならない」 とした以前の結論を確認した。報告書でもっとも強調され長い議論が行われたのは、合衆国の国民が経験する線量のような実際的な面と基礎研究の両方を含む将来の研究課題の詳細についてだった。放射線による突然変異と突然変異を誘発する化学物質の包括的な理解に向けた研究の重要性が明確に指摘された。依然として議論を呼んだ 「悪性腫瘍には体細胞突然変異にその起源をもつものがある」 という概念については、総じて報告書は注意深い配慮のもとで行われた遺伝学的研究から得られた非常に複雑な最新の理解を反映して作成されていた。

 ビードルは、がんと闘うためにどんな研究が相応しいかを決めるには科学者の間にある広い見解を考慮する必要があることをアメリカがん協会に納得させる上で主導的な役割を果たした。1956年には、他の役目に加えて、補助金とフェローシップ申請のレビユーを含むアメリカがん協会の新しい政策を管理する科学諮問委員会の委員長に任命された。科学諮問委員会のフェローシップ計画はアメリがん協会による大学教授任命の開始を告げるもので、これによって大学は外部資金による研究を目的に正教員を増やすことができるようになった73。1958年4月にイギリスから放射線の影響に関する国連会議に出かけたビードルは、時間をうまく都合して、ミュリエルとアルプスで過ごすことができた。1週間後にはワシントンで自ら組織した遺伝学と放射線障害に関する米国科学アカデミーのシンポジウムに参加した。

 こうした中でも、ポーリングとビードルが10年以上前に展望した化学遺伝学の概念がカルテックで花開きつつあったことは見逃せない。1957年にロバート・シンシェーマーが生物学部門の生物物理学の教授に任命された。シンシェーマーは、1953年にデルブリュックの研究室で6ヶ月間の任期付のファージ研究をした後にアイオワ州立大学物理学科へ戻って、1940年代に発見された非常に小型のファージであるφX174の性質を調べていた。ビードルはシンシェーマーの洗練された仕事に感嘆し、1956年暮れにカルテックのセミナーに彼を招いた。後に論文発表された彼のセミナーでの話題はDNAと遺伝子に関する最近のレビューで、8つの異なる発見のひとつひとつに厳密な論証を加えた内容だった74。ビードルは37才のシンシェ−マーをすぐにカルテックに招聘した。彼はパサディナでφX174のゲノムが2本鎖ではなくひとつの環状一本鎖DNAであることを発見した75。2重らせんであれば必要な条件であるアデニンとグアニンの量がそれぞれチミンとシトシンの量と同一ではなかったことがこの発見を導いたきっかけのひとつだった76

 ビードルとポーリングの独創的な展望を最も説得力を持って肯定した事実は化学の大学院生だったマシュー・メッセルソンと生物学のポスドクだったフランクリン・スタールによる洗練された実験だっただろう。彼らはDNA2重らせんの複製は、少なくとも細菌では、半保存的であることを綺麗な実験で証明した。すなわち、ふたつの新しい娘鎖のそれぞれは親のDNA2重らせんのうちの1本と新しく合成された1本の鎖からなっていた77。DNAの2重らせん構造から導かれていた重要な予想を証明したこの実験は、ほとんど全ての分子生物学の教科書で記述されるこの分野で最も有名な実験のひとつである78(注:ワトソンとクリックがDNAの2重らせんモデルを発表した1953年のネーチャー論文で、彼らは次のように書いている。‘私達が想定した特別の対合が遺伝物質として可能な複製機構を即座に提示しているという思いが私達の念頭から去ることはなかった’。実際には、この半保存的複製とは別に2通りの可能性が予測できた。すなわち保存的複製と分散的な複製様式である。保存的な複製様式では、親となる2本鎖は複製後もそのまま残り、複製後の鎖は2本とも新しい。分散的な複製様式では、複製後には新旧の鎖が入り交じると予想された。半保存的複製が正しいことを証明したメッセルソンとスタールの実験は次のように行われた。彼らは、非放射性の同位元素15Nからなる塩化アンモニウムを含む培地で大腸菌を培養し、DNAを15Nで標識した。15Nからなる重いDNAは塩化セシウムを含む平衡密度勾配遠心分離で14Nからなる軽いDNAと区別することができた。続いて、15N-DNAをもつ大腸菌を14Nからなる塩化アンモニウム含む培地へ移して培養し、分裂の回を追ってDNAを解析した。14N培地へ移して1回の分裂を経たDNAはちょうど中間の密度をもち、15Nと14Nの雑種鎖からなると考えられた。保存的複製モデルが正しければ、重いDNA鎖と軽いDNA鎖の両方が生じるはずだから、このモデルがまず捨てられた。2回目の分裂後は、雑種鎖からなると思われる中間のDNAと新生鎖のみからなると考えられる軽い鎖が1:1の割合で生じた。もし分散的複製モデルが正しければ、2回目の分裂後も雑種鎖からなると思われるDNAのみが検出されるはずだから、ここで分散的複製モデルも捨てられた。さらに複製を続けると、雑種鎖からなると思われるDNA鎖の割合が複製ごとに半減し、同時に軽い鎖のみからなると考えられる新生鎖が同量だけ増加した。これらの事実は、2重らせんからなる大腸菌DNAの複製が半保存的であることを見事に証明している。実はワトソンは、複製様式を暗示したDNAモデルを発表した後も、その正しさに確信がもてずにいた。それは、らせんをなす2本鎖は巻きもどさないかぎり分離できないという立体構造上の問題(DNAの旋回問題)であった。DNAが複製する際には、2本鎖が1本鎖に分かれなければならない。ところで、DNAは1ピッチ10塩基で右巻きに1回転しているから、4.6メガの塩基からなる大腸菌の染色体DNAは、4.6 x 105回転している。大腸菌染色体DNAの複製には20分かかるから、これを巻きもどすには少なくとも1カ所に切れ目が入った後、1分あたり23,000回転する必要がある。DNAが複製するときは2本鎖に多くの切れ目が生じてらせんが解けるはずだと考えたデリュブリュックは分散的複製が正しいと予想した。現在は、ワトソンの予想もデルブリュックの予想もともに正しかったことが分かっている)。

 生物学部門は1958年秋までには全てビードルが望んだ通りとなっていた。カルテックは分子生物学、細胞生物学と発生生物学で最先端を行く中心的な研究所のひとつとして世界で広く認められていた。研究とフェローシップのための資金はどのような基準から見ても潤沢で、教育の負担は過重ではなく、全般的に見て学生と教員が平等な権限を持つ共同体を形成していた79。ビードルの指導力は飛び抜けて優秀な研究者達のグループの間にも共同体としての雰囲気を育んでいた。彼は、決定のためのミーティングの前に皆に一人ずつ語りかけることで、部門の方針について誰もが共通認識をもてるようにした。その結果、部門のミーティングでは恨み言や大きな反対は滅多になかった80。実験室棟は広く最新だった。教員と学生達はビードルの家でしばしばもたれた夜の会合に招待され、そこで未来の資金提供者に研究内容を紹介することができた81。ミュリエルはこうした会合の全てに熱心に誇らしく参加したし、彼女自身のプロとしての活動力がビードルの頻繁な欠席をいつも穴埋めした。ビードルの主要な外での活動が一段落し始めたときには、科学政策の困難な問題について彼が発言する思慮深く、イデオロギーに染まらない、しかも実利的な意見に対する名声は国中に知れ渡っていた。政策論争でも、彼は厳格な態度で科学的知識に敬意を表し続けた。彼が義務に対して献身的だという理由だけでは国家的課題に対する彼の激しく熱狂的ですらあった献身ぶりを説明することはできない。彼は、ちょうど科学の実験から何時も満足を得ていたように、自分で行う仕事から大きな満足を得ていたに違いなかった。

 ビードルは大きな仕事を成し遂げたが、ネブラスカの農場で育った人間としての自己を失うことがなかった。このことは、彼がロサンジェルスの一般大衆に対して行った遺伝学の講演テープを聴いてみても明らかに読み取れる。彼の声は鼻にかかって調子高い。maternalとpaternalは 「may-ternal」 と 「pay-ternal」 と発音され、forは 「fer」 でinterestingはin-ter-res-tingと4シラバスの発音になった82。突然変異を説明する時には、それをタイピストが文章をコピーする時に時々犯してしまう誤りに例えた。この例えは、後にビードルとミュリエルが評判となった二人の共著本で用いた工夫のひとつになった83。講演では、聴衆全員にフェニールチオカルバミドを含んだ紙切れが渡され、それを舐めるよう求められる。次にビードルは何人が苦いと感じるか、何人が味を感じないかを尋ねて数える。優性の 「味覚」 形質に関する既知の遺伝的頻度から期待される通りなら、約70%の人々が苦いと感じると期待できる。語る間とその後の質問時間でのビードルの態度は典型的に単純でユーモアに溢れたものだった。科学と宗教の間に予想される衝突について質問されたときのビードルの答えは、 「ふたつは別の問題を扱うのだから衝突はないと思います」 だった。ロバート・メッツンバーグは思い出して次のように語っている。 「あなた方は、彼がネブラスカ州ワフーの出身であることを何時でも気がついていたでしょう。アカデミアの世界では誰もが自分をできるだけスマートに見せるように努めるものです。私には多くの人が彼を過小評価する理由はそれだと思います。あなた方は騙されていたのです。彼は、本当はとても利口者でした」 84(注:メッツェンバーグは、ポモナ・カレッジで科学を学んだ後、1951年にカルテック生物学部門へ大学院生として入学しビードル・グループの研究に大きな影響を受けて、アカパンカビの代謝研究に入り業績を残した。カリフォルニア州立大学ノースリッジの生物学教授を務め、2005年にトーマス・ハント・モルガンメダルを受賞した)。



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