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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第18章 トウモロコシ論争

 大学の学長にとって学長職を退くことは気力を失わせる試練である。彼らは注目の中心、大学における決定の最終責任者、国内および国際の場で占めた重要人物の立場から一夜にして私的な生活に戻ることになる。専門的な支援を失い立派な学長邸を去るのである。教育と研究に立ち戻ることのできる者もいる。専門分野がもはや理解の及ばないところまで到達してしまっていることを知る者も多い。知的、政治的、社会的な立場の喪失は彼等にとって堪え難い試練である。しかしビードルにはそれらは特段の問題ではなかった。彼は大きく安堵のため息をついたであろう。恐らく彼は学生達の過激な運動がさらに燃え盛り複雑さを増すなかで、今やその混乱の外に身を置いていることから得る安堵を実感しただろう。それにビードルには自分のやりたかったことがよく分かっていた。彼は研究に立ち戻りトウモロコシの起源を明らかにしたいとずっと考えていた。

 ビードルはまず家族としての生活を整えることから始めた。カルテックの同僚達はパサディナへ帰ってくるよう勧めたが、今やビードル達はシカゴのハイドパークが落ち着ける場所だと感じていた。彼らは 「大学の近くの100年も経った古い一軒の家を法外な安値で手に入れて修理に取りかかった」 。さらにビードルは家の前庭に運んであった上質の土と肥料と畑仕事の道具を裏庭に移し、大学の評議員達から退職の贈り物としてもらった温室の設置に取りかかった。やがてミュリエルは家の前に張り紙を出して、近所の人々をビードルが実験用に草花を植えた庭の見学に誘った。ミュリエルはハーパーコート・ショッピングセンターの芸術家達との共同の仕事を続けながら、1969年の終わりには幼年期の発達に関する本の出版に漕ぎつけた。ビードルとミュリエルは5組の夫妻との月一回の学術的な発表会と夕食会を楽しんだ。ビードルはそこでトウモロコシについて語るのが常だった。彼らはまた旅を楽しみ始めた。二人は初めてリンダウのノーベル会議に参加し、ヨーロッパを旅した後でイングランドに立ち寄ってデビッドと彼の新しい家族との再会を楽しんだ(注:リンダウ会議はノーベル賞受賞者を招いてドイツのリンダウで毎年開かれる科学の会議で、通常は30人ほどの受賞者と600人ほどの若い研究者が参加して開催される)。デビッドとジャクリーン・イシットには1966年末に生まれたカサリーンとその1年後に生まれたメイウェンの2人の幼い子供があった。ビードルは今や5人の孫を持つお祖父さんだった。

 実は、当然のことだったが、シカゴのいくつかの研究機関はビードルの威信と資金獲得の才能を借りて自分達の事業をもり立てようと腐心していた。アメリカ医学協会(AMA)は、科学的知識の普及を目的とした政治団体としてのイメージに磨きをかける意図のもとに、生物医学のためのAMA研究所を1963年に設立した。シカゴ市街の中心に位置するAMA本部棟の最上階に居を構えていたAMA研究所の研究室群には先端的な医学生物学の研究センターから招聘した人材を多く含む80人の科学者達が働いていた。主としてAMA教育研究財団からの支援を得た事業も適度な成功を収めていた。そんな中、1967年に所長が退職すると、学長だったビードルに後任としての招聘の誘いがあった。ビードルはAMA研究所が生き残るためには規模を拡大し大学キャンパスの近接地に移転する必要があると忠告した。AMA経営会議はこの要求を受入れ、ビードルは学長職を辞した1ヶ月ほど後の1968年12月1日にAMA研究所長として着任した。新しい研究所の建築に相応しい場所が見つけられ、選ばれた建築家達が最終設計図を仕上げると、ビードルは必要な700万ドルの資金集めを開始した。ビードルには資金集めに関して相反する思いがあり、以前デルブリュックには 「シカゴ大学では3年を費やして1億6,000万ドルの資金獲得の仕事をしたのだから、その後はもうそんな仕事はしなくてよいと思っていたのですが。でも資金集めは、首尾よくことが運べばですが、面白くないこともありません」 と伝えたことがあった。しかしこの時は全く違った。ビードルはAMAの代表者会議に計画が有望なことを納得させようと説得に努めたが、 「極めて古くさい考え方の医学博士達で構成される」 AMAは決定ができない優柔不断な組織で、さらに一般の医師達からの献金は望み薄であることがすぐに理解できた。彼らの支援がなければ他の献金者に呼びかける伝手がないことは自明だった。研究所は1969年秋にはAMA自身の決定によって閉鎖された。こうしてビードルは給与を手にする職を失ったが、それを悔やみはしなかった。

 ビードルがレヴィーに学長職を譲る前にシカゴ園芸学会はすでにビードルを会長に選出していた。園芸学会は、ビードルが学長時代に語った言葉 「シカゴ大学のキャンパスでは、芝生はアイディアと同じように抑圧されずに自由に育つべきである」 を引用して、ビードルの園芸家としての技能を誇らし気に宣伝した。彼らはシカゴの北20マイルの地に300エーカーの植物園を建設するための計画の立案と取りまとめに加えて資金集めの指導をビードルに期待した。 「乗せられて会長にされた」 と感じはしたが、ビードルは彼らの期待に応えた。巨大な事業は、スコッキー湿地帯に150万トンもの土を運び込み、いくつもの丘と池とそこに島を造営して周辺の景観を全く変えるほどの規模だった。植物園はそこで市民が遊ぶだけでなく研究のための施設として設計されたが、その目的は見事に達成された。ある春の晴れ上がった日曜日に開催された園遊会は、美しい景観と咲き乱れる花々を愛でる多くの市民で溢れた。そこには研究圃場と温室群を公式のガイドが誇らし気に案内する姿があった。ビードルが植物園の建設に打ち込んだのは人々のためだけではなかった。トウモロコシの起源を探る研究にはシカゴ大学のキャンパスに用意された圃場だけでは不十分だったのである。植物園が完成に近づく頃には、トウモロコシを育てる十分な場所が出来上がっていた

 ビードルは7月にデルブリュックに手紙を書いて 「信じてもらえるかどうか分かりませんが、研究を始めました。毎朝、毎晩、週末もです!」 と意気揚々伝えた10(注:デルブリュックはこの年1969年秋に、ウィルスの複製機構と遺伝的構造に関する発見の功績で、ルリア、ハーシェーとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した)。ミュリエルはビードルが新しい企てを楽しんでいるのを嬉しく思った。 「研究費も助手もないけれど、溢れるエネルギーと興奮で、彼は栽培トウモロコシがメキシコのテオシントの子孫であるという仮説の試験を検証しています。これほどに熱心な彼を今までに見たことがありませんでした」 11。ビードルが長い中断の末にマックリントックに手紙を書いて仕事の再開を知らせると、彼女は次のような返事を送って来た。 「貴方が長い間離れてしまっていたトウモロコシにもう一度戻られたと聞きましたが、本当だったのですね。もちろん貴方はトウモロコシを見捨てたことなどありませんでした。何時でも、裏庭や玄関前の芝生や手に入る一握りの土がありさえすれば、何処かでこっそりトウモロコシを育てていたのでしょう!」 12

 トウモロコシは恐らく7,000年ほど前に中央アメリカで生まれた古い起源を持つ作物である13(注:ウィスコンシン大学、現在は福井県立大学の松岡由浩らの研究によればメキシコでのトウモロコシの栽培化は約9,000年前にまで遡ることができる; Matsuoka Y et al. Proceeding of the National Academy of Science USA. April 30, 2002; 99(9): 6080?6084)。放射性炭素による年代測定で4,000年以上前のものとされた小さな穂が当時の人間が住んでいた合衆国南西部とメキシコの洞窟で見つかった。トウモロコシの存在は1492年にスペイン人が西半球に到着するまで西側世界に知られることはなかった。その時までは、アメリカ大陸を北から南に広がる全地域の文明とそこに住む何百万かの人々だけがトウモロコシを利用して生活していた。しかしトウモロコシは一体何所から来たのだろう?これは150年以上もの間、人類学者と植物学者の興味を誘った疑問だった。他の主要な食用作物とは違って、栽培トウモロコシによく似た形態を持った野生種を見つけることは難しかった。それでも、その起源に関する不可解な疑問ついてはいくつかの可能な答えがあった。古代人による意図的な交配育種の結果であったか、あるいは二つの近縁野生種間の自然交雑から生じた雑種だが親となった野生種のどちらも雑種と非常に異なっていて発見できないでいる可能性もあった。あるいは、既に絶滅したか未発見の野生種があったのかも知れない。さらには、ビードルと他の何人かの植物学者が信じていたように、トウモロコシの 「野生」 先祖種が存在していたが、それは求める祖先親とは容易に認められないほどトウモロコシと形態的に違っていた可能性もあった。ビードル達の仮説では、テオシントと呼ばれる土着の野生種から生じた有用な突然変異体を古代の中央アメリカに住んでいた人々が意図的に選抜した結果としてトウモロコシができたとされる。名前それ自体がこの仮説を支持していた。実は、テオシントはアメリカ大陸で最大の言語集団であった先住民の言語ユト・アステカ語では神のコーンの意味である(注:コーンは英国英語ではトウモロコシやムギなどの穀物全体を指す言葉で、メイズがトウモロコシを意味するが、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどではコーンがトウモロコシを意味する言葉して使われる)。ビードルの見解はコーネル大学で学んでいた時代に根ざしており、ロリン A. エマーソンに植え付けられたものだった。ビードルは1930年代には実際にこの仮説を証明できたと考えたことがあった14

 テオシントは典型的なトウモロコシの約半分から4分の3の草丈で、トウモロコシの茎がひとつしかないのに対してテオシントでは茎が叢状に数多く形成される。トウモロコシは花粉を作る 「雄性」 器官である雄花(雄穂)がひとつだけ茎の先端にできるが、テオシントでは多くの分枝のそれぞれに雄花がつく。テオシントの 「雌花(雌穂)」 (トウモロコシの穂軸と同義)はトウモロコシの穀粒の一列ほどの幅と3から4インチの長さしかない。穂にはビードルや他の研究者の研究対象となった本来メイズと呼ばれるべき典型的なインディアン・コーンの特徴である8列以上(近代品種では25列以上)の丸みを帯びた穀粒(種子)ではなく、一列の小さく固い穀粒だけが着粒する。トウモロコシの穂軸を覆う葉状の皮は成熟したテオシントには存在せず、穀粒はひとつずつ固く丈夫な 「包潁」 と呼ばれる殻で被われている。個々の穀粒は花穂から互いに簡単に離れて地に落ちる(脱粒する)。種子を含む 「果実」 である穀粒は固い殻を持つために動物が消化できず遠くまで運ばれるが、この性質は野生植物の繁殖にとって重要である。対照的にトウモロコシは、ビードルが繰り返し強調したように、自然界では生存できず、その生存には栽培する人間が必要である。トウモロコシでは穀粒が皮に密に包まれた穂軸上に固く付着しているために、自然界では種子が分散することがほとんどなく次世代を確保できない。穀粒は鳥や小動物似よって食されて消化されてしまうから、穀粒が他所に運ばれて分散されることもない。トウモロコシとテオシントの違いはそれほどに大きく、トウモロコシはZea、テオシントはEuchlaenaというそれぞれ別の属に分類されていた。

 ビードルがコーネルの大学院生になった時、エマーソンは既にテオシントの研究を始めていた。ビードルには実験を継続する役割が与えられた。テオシントは1880年代には早くも牧草用の作物としてメキシコから合衆国へ導入されていたが、緯度が高く夏季の日照時間が長いイサカでは栄養成長のみで種子を付けない理由をエマーソンは既に理解していた。二つの種の交配を可能にするために、エマーソンは人工的な短日環境を作ってテオシントが日中の光に曝される時間を短くした。その結果、テオシントはトウモロコシと同時に花を咲かせ、両者の交配実験が可能となった。こうして多くの種間雑種が作られ、雑種は稔性のある種子を実らせた。二種類の生物が交雑可能で稔性のある子孫を残す時に両者は同一の種に属するとする定義に従えば、この結果はトウモロコシとテオシントが血縁的に近いことを強く示唆していた(実は、稔実種子はテオシントの特定の系統を用いたときのみに達成された)。さらに稔性のある子孫を残したテオシントの染色体数はトウモロコシと同数の10対だった。実際、既に10年以上前に、植物学者達はこれらの植物は同じZea属に分類されるべきだと提案していた15(注:現在、Zea属は多年種のdiploperennis, perennisと一年種のluxurians, nicaraguensis, maysの5種に分類され、4倍体のZea perennis以外は2倍体である。トウモロコシはZea maysで、それ以外の4種がテオシントと呼ばれる。Zea maysには4つの亜種が存在する)。

 ビードルはエマーソンが作成したトウモロコシとテオシントの雑種を1932年にまず分析した。彼は顕微鏡で雑種の減数分裂ではテオシントの10個の染色体がトウモロコシの同数の染色体と完全に対合することを観察したが、これはもし両者が異なる種に属するとしたら驚くべき結果だった1617。雑種の減数分裂における両染色体間の対合が正常なだけでなく、組換え(染色体断片の交換)が通常のトウモロコシ間の雑種と同じような頻度で観察された18。従って、トウモロコシとテオシントの染色体と遺伝子はよく似ているだけでなく両者の染色体上の遺伝子の配列もまた類似していると考えられた。しかし不思議なことに、ビードルの論文にはテオシントとトウモロコシが事実上は同じ種であることあるいは栽培トウモロコシの祖先種は恐らくテオシントであるという明らかな推論が全く記述されていない。

 テオシントが栽培トウモロコシの祖先野生種であるとビードルが論文で初めて主張したのは1939年のことだった19。スタンフォードでのショウジョウバエの研究と講義で忙しかったビードルは、ポール C. マンゲルスドルフとR. C. リーベスが提唱した別の仮説は全くの誤りであると考えたが、強いて反論はしたくなかったのだろう。彼らはその仮説で、絶滅または未発見の祖先種が存在したかまたは今も存在すること、さらにテオシントの起源はトウモロコシより新しいと主張していた20。マンゲルスドルフとリーベスによれば、テオシントは交雑の結果生じた種で、彼らの説ではトリプサクムと呼ばれる属に由来する4つか5つの染色体断片がおよそ1,300年前に原始的な野生のトウモロコシに挿入された結果生じたと主張していた。これは彼らが初めて主張した見解ではなかった。この見解は、マンゲルスドルフとリーブスも認めていたように、マンゲルスドルフのハーバードの同級生で植物多様性の研究で高い評価を得ていたミズリー植物園のエドガー・アンダーソン(ともにアンディーと呼ばれていたコーネルのE. G. アンダーソンとは別人)によって提案されたものだった21。後にマンゲルスドルフはこのいわゆる 「三連仮説」 は自分のアイディアであるという印象を広めようとしたが、この仮説の提唱者として評価されたのはアンダーソンだった22

 トウモロコシとテオシントと同様にトリプサクムも中央アメリカとメキシコに自生する植物である。第三の属Tripsacumに分類されるが、トウモロコシとテオシントのどちらにも見た目はよく似ている。ビードルは18対の染色体を持つトリプサクムが染色体数10対のトウモロコシとテオシントとは近縁ではないことを知っていた。より重要な点は、トリプサクムとトウモロコシは交配が困難な事実だった。トリプサクムの花粉でトウモロコシの雌花を受精させるには様々な実験上の 「トリック」 が必要だった。受精に成功して生じた種子もほとんどが成熟せず、稀に得られた雑種でも減数分裂時に両者の染色体間で対合が起こらない上、雑種の雌性配偶子には僅かの稔性が認められたが花粉のほとんどは不稔だった。人為的な雑種形成が困難なこの事実から、ビードルは稔性のあるトリプサクムとトウモロコシの雑種が自然界で生じることはほぼないと考えた。一方でビードルはテオシントとトウモロコシの間の近縁関係を支持するデータがマンゲルスドルフとリーベスの論文中にもあることを見いだしていた。彼らの論文にはこの事実に関する記載がなかったが、彼らのデータはテオシントとトウモロコシに見られる遺伝的な違いはわずかで、それらは4つないし5つの染色体断片に限定されることを示していた。ビードルに従えば、これらの二つを異なる属に分類し続けることに正当性はなかった。マンゲルスドルフとリーブスの仮説はビードルの見方からすれば筋の通らないものだった。ビードルはテオシントがトウモロコシの野生祖先種であるという自分の見解に向けられた以下の二つの批判に反証を示す必要を感じた。

 マンゲルスドルフと同調者達は古代人が自然に生じたテオシントの突然変異体を選抜してトウモロコシを作るにはとんでもない長時間が必要だと主張した。ビードルは二つの種には小さな違いしかなく選択は比較的短時間で起こりうると反論した。2番目の反対意見は質問の形で発せられた。古代人がテオシントそのものを栽培しなかったのは一体何故なのか?それは穀粒を覆う皮が固く可食部分を得るのは難しいという理由からだった。ビードルはこの疑問への答えはあると考えた。1939年2月に彼は投稿直前の論文草稿のコピーを添えて、 「テオシントはポップ可能(原文ではPoppability)」 という観察結果を告げる熱狂的な手紙をエマーソン宛に送った23。実際、コロンブス以前の中央アメリカの先住民がポップコーンを食していたことを示す考古学的な証拠があった。そこでビードルはテオシントの種子をポップコーン機に入れて熱を掛け、普通のポップコーンとよく似たポップテオシントを作った。彼は食物としてのこの可能性は古代人によるテオシントの栽培を説明する十分な理由で、彼らが栽培テオシントに生じた好ましい突然変異を選択した結果、トウモロコシによく似た穀粒を付ける植物をついに獲得したのだと主張した。エマーソンは返事を書いて、そのアイディアは面白く、自分には気がつかなかったことだと伝えた24。エマーソンはE. A. イーストとD. G. ランハムも二つの種には5つか6つの明瞭な違いしかないこと、彼らが調べた限りトウモロコシの形質が優性である証拠を持っているとビードルに教えた。エマーソン自身もテオシントの形質が変化したと考えられる3つないし4つの突然変異の存在を認めていた。エマーソンには古代人がテオシントに興味を示した可能性を説明できる他の事実もあった。彼は容易に脱穀が可能な突然変異を持つ野生のテオシントを既に得ていた。何年か後にビードルは原始的な石製の研削道具で実際にテオシントを砕くことができること、水に浮かべるだけで固い種子を穂軸から取り分けることが可能なことを明らかにした。テオシントを食べることができる事実を示すために、ビードルは挽いたテオシントを4日間かなりの量食べてみたが腹を壊すこともなかった25。同僚も同じ様にテオシンテの粉から作った不味いクッキーのようなものを食べるようビードルに強要されたが、彼らの健康が害されたようには見えなかった26

 ビードルは、1939年からの30年間、トウモロコシの起源に関する問題に注意を払うことはなかった。その間、マンゲルスドルフは執拗にこの問題を追い続けていた。1898年にカンサスで生まれたマンゲルスドルフは、ビードルと同じようにトウモロコシ栽培が盛んな田舎で育った。農学を学びにカンサス州立大学へ入学するまでに彼は植物、特にトウモロコシを十分に理解していた。農学部を卒業すると彼は東に向かいハーバードでトウモロコシ育種と遺伝学の大家だったイーストやコネティカット農業実験試験場のドナルド F. ジョーンズなどの指導を受けPh.D.を修得した。彼はテキサス農工大学に設置された合衆国連邦政府の農業実験試験場に職を得て、そこで十分な仕事を成し遂げた後、1940年にハーバードの植物学教授に任命され、その直後に植物学博物館の館長になった。マンゲルスドルフの全人生はトウモロコシに捧げられた。休暇の間さえ、宝石とも言えない最近のガラクタから、トウモロコシの穂をかたどった16世紀中国の象牙製の像まで、トウモロコシのモチーフを表現したありとあらゆる品物の収集に時間を費やした。

 マンゲルスドルフは三連仮説とともにビードルが行く手を立ちふさがなかったならば賛同を得たかもしれないアイディアを支持する証拠集めの仕事に何十年もの時間を費やした。多くの研究論文と一般大衆向けの読み物で喧伝されたマンゲルスドルフのアイディアは生物学、歴史学と考古学の教科書に記述され、あたかも確立された事実とみなされるようになった。彼は至る所で 「テオシントがトウモロコシの祖先であるという仮説はもはや完全に根拠を失った」 と主張した27。彼は最終的にテオシントがトウモロコシと同じZea属に分類されるべきであるとする主張を認めたが、三連仮説への拘泥を捨てなかった28。ビードルが学長を務めていたシカゴ大学で出版されたブリタニカ百科事典の1968年版にマンゲルスドルフは、 「トウモロコシの祖先はテオシントではないことが既に証明されている」 と躊躇なく書き記した。他の多くの研究者が論争に加わった結果、何百ページにも及ぶ論文や記事と多くの議論が巻き起こった。実験と多くの議論では、トウモロコシの起源への疑問だけでなく三連仮説が主張するようにテオシントがトウモロコシとトリプサクムの雑種であるとするマンゲルスドルフの主張に言及しなければならない状況だった29

 現実の状況を漸く知ったビードルは 「私の意見は何の影響も持たなかったが、その理由のひとつは私が長い間別の研究に移ってしまっていたことにある」 と思った30。H. ガリソン・ウィルキースが著したモノグラフ31にビードルは 「憤りを覚えた」 が、そこにはテオシントがトウモロコシの祖先であるとするビードルの見解は 「粗雑」 で 「神話」 に等しいと書かれていた32。ビードルは 「三連仮説がもたらした34年間の混乱を何としても収拾しなければならないと決意した」 33。彼にとって競争に参加することは実際的には日々を圃場で過ごすことだったのだから、既に何時でも仕事ができる十分な準備ができていた。

 ビードルは3つの到達目標を目指して動いた。ひとつはトウモロコシとテオシントの間で有為な差を示す遺伝子の数を決定すること、第2はそれらの遺伝子の役割を理解すること、最後は洞窟で発見された古代トウモロコシの穂とよく似た穂を原始的なトウモロコシとテオシントの交配実験で再現することだった。最後の目標はマンゲルスドルフが既に試みて失敗していたが、ビードルも成功していなかった34。まず始めにトウモロコシとテオシントを区別する遺伝子の数をメンデルの方法で決定するために、彼は雑種を作り雑種の自殖次代で両親型がどんな頻度で出現するかを調べた。この時彼は、広く栽培されているトウモロコシ品種を交配親として用いることから予想できる結果の曖昧さを避けるために、原始的でテオシントに似たチャパロッテと呼ばれるトウモロコシとチャルコと呼ばれるトウモロコシに似たテオシントを両親に選んで交配実験を始めた。メンデルの法則によれば、両親間でひとつの遺伝子に違いがあれば、雑種を自殖することで両親型を示すホモ型の子孫がそれぞれ子孫の4分の1を占めると期待される。同様の論理で、もし2つの遺伝子に違いがあればそれぞれ16分の1の割合で両親のホモ型が生じる筈である。同様の原理をさらに進めれば、両親の違いが6遺伝子以内ならばどちらかの両親性質を示すホモ型は約4,000個体にひとつとなる。統計的に有為な結果を得るためにビードルはおよそ5万個体を育ててその形質を調査した35

 1970年になると研究は既にフル稼働だった。研究材料は植物園とシカゴ大学のキャンパスで育っており、ビードルは頻繁にメキシコへ旅行した。彼は爪切りで穂軸から入念に切り離した数千の雑種種子と両親との戻し交配で得た種子を植え付ける準備を整えた36。自殖三世代目の2万個体がロックフェラー財団の国際トウモロコシ・コムギ改良センター(CIMMYT:Centro International de Mejoramiento de Maiz y Trigo)がメキシコシティーの北方20マイルの地に設置したエル・バタン実験所で育っていた。何人かのメキシコ人研究者の他に、マンゲルスドルフの三連仮説が受入れられている事態に不満足な合衆国の同僚と同士もビードルの熱意に引きつけられて協力した。

 トウモロコシの起源に関する論争に加わった多くの研究者達が1969年9月にイリノイ大学の所在地アーバナで開催された会議に集まったが、そこには招待研究者ではなかったH. ガリソン・ウィルキースとヒュー H. イルティスも参加していた37。マンゲルスドルフの学生だったウィルキースはビードルに反対意見を述べた。他のトウモロコシ論争の参加者と同様にウィルキースはこの問題について神懸かり的で、ビードルに向かって 「貴方がコムギの研究者であったなら気にもなりませんが、トウモロコシに関してはそうは参りません。トウモロコシは人間の背丈ほどもあるのですから見誤ることなどあり得ないじゃありませんか?」 とまで言った38。しかし、形態学と分類学が専門で率直なイルティスはビードルに賛同した。彼はメンデルが修道士を務めたモラビアのブルノで1925年に生まれ、1952年にワシントン大学でPh.D.を得ていた。父親のフーゴ・イルティスは、家族が合衆国へ移住する前には、ブルノで自然科学を教える教師でメンデルの伝記の著者でもあった39。30年もの間この論争に加わっていなかったビードルは、イルティスを招いて会議の最後に総括を任せたが、ビードルの名声は会議の結果に大きな影響を与えることになった。イルティスは 「分類学と遺伝学の全ての基準に照らして見れば、テオシントがトリプサクムと今や神秘的で絶滅したと言われ、しかも形態学的に無理に再構成されてトリプサクムとは似ても似つかない空想でしかない‘野生のトウモロコシ’との雑種では到底あり得ません」 と結論した40。これを聞いた 「マンゲルスドルフは憤懣やるかたなしだった」 に違いない41

 一風変わったやり方で研究に取組んでいたウォルトン C. ガリナットも会議に出席していた一人だった。彼は、ずっと後の1983年だったが、研究室を訪れた訪問者に 「トウモロコシは私の宗教であり、この研究室はその教会です」 とまで語った人物だった42。真剣な仕事ではあったが、何年もの時間をトウモロコシの起源に費やした情熱家のガリナットは、合衆国国旗の星条旗のような四角い模様のついた穀粒を着けるトウモロコシや、3フィートもの長さの穂軸を持つトウモロコシを育種しようと努力していた。彼は指導教授だったマンゲルスドルフが正しいと信じて仕事を始めたのだった。しかし1970年になって彼自身のデータとビードルの主張に確信を持ったガリナットは立場を変えた43。彼はテオシントの穀粒を穂軸に止める役割を果たす固くカップ状の殻斗と呼ばれる構造の痕跡がトウモロコシの穀粒の間に存在する事実を観察した。同じ頃にイルティスも気がついたこの観察は、トウモロコシには穀斗がないと仮定する三連仮説へのもうひとつの打撃となった44

 ビードルとガリナットは1970年10月にエル・バタンで育てたトウモロコシとテオシントの雑種に形成された小穂の構造を丹念に調査した。彼らは一日14時間も働いたので、ミュリエルはビードルを心配して、 「そんなに長い時間立ち詰めでいると膝によくありません」 と注意したほどだった45。小穂は雌器官では穂軸と穀粒に成長する構造で、雄では花粉を形成する構造すなわち雄穂(尾房)である。トウモロコシは雄穂と雌蕊の両方で小穂が対をなすが、テオシントでは一対の小穂が着くのは雄穂のみで、雌蕊では一方の小穂は成熟せず小穂がひとつで着粒数もひとつとなる。彼らのデータは雌蕊の小穂がひとつしかないテオシント形質の決定には2つの遺伝子が関与することを示唆していた。

 ビードルはメキシコで2万5,000個体の雑種第三世代を育てる計画を立て、実際1973年夏までに5万個体を圃場に展開した。結果は明瞭だった。一方の両親型の形質を示す劣性ホモ型の個体の出現頻度は約500個体に1個体で、この頻度はトウモロコシとテオシントの間の遺伝的な違いは4つないし5つであるという以前からの考えと一致していた。

 第2の目的だったテオシントとトウモロコシの根本的な違いを明らかにするために、ビードルはトウモロコシに似た形質をひとつでもふたつでも示すテオシントの突然変異体を探そうとした。このためには何千もの野生種を探してその種子を集める必要があった。そうした形質を示すテオシントを求めてビードルは 「テオシント突然変異体探索隊」 を組織した。1971年11月に、7大学とシカゴ園芸学会の有志の他にマックリントックの指導を受けたことのあるメキシコの若い細胞学者のT. A. カトーと、1920年代にコーネルで学び今は77才になるL. F. ランドルフも参加した18名の隊員が最初の探索隊を組織して、メキシコシティーの南で1週間の探索を行った46。必要な経費のほとんどはアメリカ国立科学財団(NSF)からの6,582ドルの奨学資金で賄えた。ビードルは、これに先立つ数週間前に単身でメキシコシティーへ出かけて、探索隊の兵站準備と研究材料の収穫をした。彼は食料、宿泊所からメキシコ往復とメキシコ国内での移動までのすべてを手配し、旅の詳細な計画を全員に知らせた。探索隊は7万5,000のテオシント個体から種子を集めたが、これによって原始社会でも十分な量の収穫が可能であったことが推測できた。ビードルは特にtunicate(被嚢)と呼ばれる形質を示す突然変異体を探した。トウモロコシのtunicateアリルを実験的にテオシントに導入すると、通常は固い穀粒を覆う殻が柔らかくなる。ビードルはこの遺伝子に自然突然変異が生じたことが、古代の人々にとっては、テオシントを栽培化するための重要なステップだったと考えていた47。しかし残念だが、そのような突然変異体を探索で見つけることはできなかった。

 シカゴ園芸学会はビードルに常勤の会長職を提供したが、ビードルには研究と講演以外には会長としての仕事はなかった。この立場を利用してビードルは自分の研究に時間を割くことができた。ビードルはミュリエルとともにシカゴの寒い冬を抜け出てカリフォルニア大学デービス校で2週間の講演旅行をする機会を手にした。二人は一緒に都市の改造をテーマにした発表会でそれぞれが興味を持つ問題について講演した。ビードルはその後1972年11月に二回目の探索隊を組織し派遣した。メキシコシティーの北70マイルのグエレロ州マザトランの住民の援助を得た探索隊は、73キロのテオシントの成熟種子を二日間で集めることができた。種子は植物体を揺すって地面に敷いたブランケットやプラスティックのシートの上に落として集めた。ビードルは種子をエル・バタンに持ち運び、マリオ・グティエレッツ博士の助けを得て仕分けし、消毒と乾燥を施した後に種子を調べて、一日当たり8時間あれば毎日2キロの種子(およそ6万個)をチェックできることを確認した。シカゴに戻ると彼は200万個の種子のひとつひとつを調べたが、残念ながら今度もトウモロコシのtunicateアリルに典型的な柔らかい皮を持つ変異体をひとつも見つけることができなかった。

 ビードルの主張に対する頑強な反対者でも無関心でもなかったウィルキースがテオシント突然変異体の第二次探索隊に参加した。ウィルキースは精通した収集家で、トウモロコシの起源についてはビードルと意見が違っていたが、ビードルは彼とは馬があったから参加を歓迎した。ビードルは真剣でしっかり仕事をすればトウモロコシ論争の戦闘員達はきっと自分の見解に近づくと考えていた。二人ともガリナットのレビュー論文には批判的だった48。ビードルは2人でマンゲルスドルフとの闘いに立ち上がるようガリナットを説得できたことが大いに嬉しかったし、ガリナットとウィルキースはきっと 「光明を見いだすに違いない」 と信じた49。しかし闘いは続き、数年過ぎてもウィルキースはまだ 「異説への以前の思いを捨てていない」 のではと、ビードルは心配した50

 40年間も別々の道を歩んだ末に、マックリントックがトウモロコシの起源に興味を抱いていることを知ったビードルは、彼女が関係データを持っているかもしれず、あるいはこれから得ようと計画しているかも知れないと思いついた。マックリントックは1972年に正式に 「退職」 していたが、コールド・スプリング・ハーバーにまだ実験室を確保していた。他の生物学者達の説得に努めた25年間の闘いの末に、トウモロコシの染色体にはゲノムを動き回る断片が存在するという彼女の積年の主張がついに立証された51。マックリントックが 「調節要素」 と名付けた可動(転移)因子が、トウモロコシだけでなく事実上全てのゲノムに存在することが他の研究者によって立証されたのだった。そのとき彼女は世界中のトウモロコシの様々な系統の由来を探る仕事に没頭していたが、マックリントックをこの仕事に向かわせたのはマンゲルスドルフとの対立から 「大きな腹立ち」 を覚えたからだった52。しかし、どのような評価や批判があろうと、マンゲルスドルフが多くの研究者を鼓舞し、マックリントックさへトウモロコシの起源の研究に引き込んだたことは間違いなく彼の功績だった。マックリントックはテオシントのゲノムの何がどのトウモロコシ系統の起源に貢献したかを明らかにすることに特別の興味を抱いた。彼女はメキシコの共同研究者とともに、トウモロコシとテオシントの染色体を識別する鍵となる特徴的なノブと呼ばれる構造を手がかりに、仕事を続けていた。

 可視的なノブはトウモロコシ、テオシントとトリプサクムの染色体がもつ特徴的な構造で染色体のランドマークである(注:ノブは高度の反復配列からなる染色体上のヘテロクロマチン領域で、色素によって濃く染まることから顕微鏡下で明瞭な構造として観察できる)。現在ではノブのDNA塩基配列が明らかにされているが、その機能は未だ不明である。様々な系統が持つノブの大きさ、位置と数(ゼロから20)が地理的起源によって異なることから、ノブは栽培トウモロコシの起源を理解するために有効であると考えられた。長期間互いに隣接して生育し自然交雑によって遺伝子を交換してきたトウモロコシとテオシントはノブの構造を共有しているに違いないとはビードルは考えた。マックリントックは既にデータを持っていると彼は期待したが、そうでなくともメキシコでのビードルとマックリントックの研究にそれぞれ参加していたT. K. カトーに仕事を依頼することができるだろうとも期待した。この仕事をPh.D.論文の基礎として用いることが可能であること、さらにCIMMYTでよい仕事に就く踏み台となりえる点でも、このアイディアはカトーにとって魅力的に思えた53。マックリントックもカトーの将来を心配して、ガリナットに研究指導を依頼するなど彼の学位取得を助けた。ビードルとマックリントックはカトーに奨学金を支給するようロックフェラー財団の説得に努めたが、カトーが40才を越えていたことで、この希望はならなかった。カトーに期待したビードルは、彼にポケットマネーの提供を申し出た54

 マックリントックはメキシコの共同研究者達とすでにノブに関する多くのデータを集めていた。そこには、中央、南、北アメリカの各地から集めた何千もの個体のノブ(とその他の染色体の構造的特徴)に関する詳細な情報が含まれていた。ビードルの予想どおり、データは地域によって違っていた。少なくともメキシコのある地域ではテオシントとトウモロコシに共通点があったが、グァテマラでは両者は似た形状のノブを共有していなかった55。ビードルは驚かなかった。彼とエマーソンは何年も前に、トウモロコシとの交配だけでなくメキシコのテオシントとの交配でもグァテマラのテオシントからは稔性のある雑種ができないことに気がついていた。グァテマラのテオシントはトウモロコシの親となったテオシントとはトウモロコシが進化するずっと以前に分かれた明瞭に異なる古代の系統で、トウモロコシの起源に無関係だとビードルは結論を下した56。この結論は、グエレロ州のメキシコシティーの南に位置するリオ・バルサスがトウモロコシの生まれ故郷であるとしたマックリントックの提案と合致するものだった。

 テオシントがトウモロコシの祖先であるとする説を支持する証拠が蓄積されつつあったが、マンゲルスドルフはそれでもこの説への疑いを捨てなかった。彼を納得させようとビードルは、 「本物の」 トウモロコシとテオシントとの交雑から得た第2世代のトウモロコシによく似た個体を混ぜたコード番号付きのサンプルを渡して、どれがトウモロコシか識別してくれるように依頼してマンゲルスドルフに挑戦した。マンゲルスドルフは複数の雑種個体を指して 「よいトウモロコシだ」 と断言した。雑種の後代がトウモロコシだと認めた事実をどう釈明することもできず、マンゲルスドルフは弱り果てた。トウモロコシ論争の戦闘員が1972年6月にハーバードで開催された研究会に集まった際には、 「3時間かそれ以上にも及ぶ悪口と当てつけさえ含む加熱した喧しい激論」 の後で、マンゲルスドルフはテオシントがトリプサクムとトウモロコシ間の交雑から最近できた雑種であるという説を支持する証拠がないこと、従って三連仮説は破棄されるべきであることを不承不承に認めざるを得なかった57。それでも彼は直後に、古代の未知な恐らく絶滅した野生トウモロコシがテオシントの祖先であると主張し、この仮説を解説する中でビードルの主張への痛烈な批判を展開した58。マンゲルスドルスの著書に対する書評でビードルは、著書は権威あるものだとしたうえで、さらにトウモロコシの進化に関する分野に与えた論敵の偉大な影響を認めた59。しかしビードルは、 「さて、むしろあっけない結末ではありましたが、私達は三連仮説がもはや支持し得ないことを認めるしかありません」 と付け加えることを忘れなかった。さらにビードルは、マンゲルスドフが三連仮説を撤回した理由に確たる根拠があるとも到底 「納得できなかった」 。実際ビードルは困惑した。もしトウモロコシがテオシントの祖先種の一つだったとするなら、マンゲルスドルフはなぜ野生のテオシントのある一部がトウモロコシの祖先だったことを認めようとしないのか?60。しかし、トウモロコシ論争はこれで終わりではなかった。

 ビードルは1970年代もずっと使命を持った人間として生きた。この間に科学上で関わりを持った人々は、もっぱらトウモロコシ論争に加わった研究者達、メキシコの同僚とマックリントックだった。その間に遺伝学は急速に分子科学への変貌を遂げていたが、新しい展開についてもデルブリュックとの交流からビードルは知識を得ることができた。しかし、デルブリュックが鋭い意見を述べたにも関わらず、トウモロコシの起源の解析に新しい方法論を用いようと彼が考えた形跡はない61。デルブリュックはテオシントとトウモロコシを別ける最も重要なアリルは何かを知りたいとビードルに伝えた。それはタンパク質の変化をもたらした遺伝子の構造的な違いなのか?あるいは遺伝子が発現する細胞タイプ、または遺伝子発現のレベルやタイミングに影響を与えるような調節に関わる遺伝子の違いなのか?デルブリュックは、 「多くの進化的に主要な突然変異は調節遺伝子の変異である」 とするアラン C. ウィルソンの主張に加えて、もし調節に関わるに遺伝子の違いであるならば、それはDNAのひとつか複数の塩基対に起こった変化か、あるいは例えばマックリントックの調節要素のひとつが挿入した結果引き起こされた突然変異なのか?テオシントにはそのような転移可能な因子は存在するのか?(テオシントにもトウモロコシと同じ可動因子が存在するが、当時はまだ知られていなかった)など矢継ぎ早の質問をした(注:ウィルソンは、カリフォルニア大学バークレー校の生化学の教授で、分子時計の概念を実験的に証明したこと、特に大学院生だったレベッカ・キャンとマーク・ストーンキングとともにヒトの起源に関するミトコンドイア・イブ仮説を提唱したことで知られる)。ビードルは、デルブリュックの質問と自分の 「むしろナイーブで原始的な」 方法論について 「よく考えてみる」 と返事を書いた。ビードルは、他の研究者がすでに得ていた洗練されたデータを概観した上で、新しい方法論について少人数で議論する機会をもってはどうかとデルブリュックに尋ねてみた62。熟考したかどうかはともかく、ビードルは遺伝学の本流から離れてしまっていることにも大きな不満足を抱いてはいなかったようで、8年間の試行の後についにトウモロコシの感光性遺伝子をテオシントに導入することに成功し、それによって北半球で両者を並べて育てて研究材料とすることができたことをむしろ誇りと感じていた。

 同じ手紙でビードルはデルブリュックに、トウモロコシの研究仲間と設備が手に入る場所を探すことができるならば、ミュリエルと一緒にもっと暖かい所へ移ってもいいと考えていると伝えた。ハワイ大学は魅力的だったが遠く離れ過ぎていた。カルテックで温室は使えるだろうか?物理的な環境への心配と特に自分が現代科学から離れてしまっている実情からはビードルの落胆の様子が窺えた。それでも、ミュリエルの最新の本‘猫とその生物学、ペットとしての役割と行動’について語るときのビードルには情熱が溢れていた63。彼の胸中には過去への思い入れもあった。彼は、自分に大学進学を勧めたワフーの先生だったベス・マックドナルド・ヒギンスを記念した財団を創設した。他にも彼は、妹のルースとワフーの住民達とともに、ワフー高校を卒業してネブラスカ大学へ進学する学生一人に毎年奨学金を支給するための基金に募金した64

 古い友人の同僚が励ましを求めていることを察知したデルブリュックは、ビードルの後を継いで生物学部門の議長を務めるロバート・シンシェーマーにすぐに相談を持ちかけた。シンシェーマーも時を措かずビードルに手紙を書いてパサディナに来ることを考えてみるよう勧めた。しかし現実的なビードルには、そのような話しが実現するとしても次の年だろうと考えて、 「その時には私は75才を越えていて、身体的にも精神的にも、そうあって欲しくはないと思いますが、下り坂です。悲しいことですが、ご提案は美しい夢だと言わなければなりません」 と返事に認めた65。ほぼ1年後にビードルはデルブリュックと彼の夫人に手紙を送って、今はテオシントとトウモロコシの雑種の戻し交配で原始的な形質のトウモロコシを得ようとしていますと伝えた66。彼の研究手法は時代遅れではあったが、それでも年とともに衰えるビードルの手と心に確固とした目的となすべき仕事を与えていた。

 ちょっとした具合の悪さと不快感はあったが健康には問題がなく、多くの活発な人々と同じように、ビードルには老化に伴う不快感をおそらく払い除けることができていた。関節炎からくる膝の痛みは悩みではあったが、これも彼を仕事から引き離すほどではなかった。酷い頭痛に悩まされた1977年夏にはしばらく圃場から遠ざかったが、大学医療センターで受けた神経学的な検査では悪い所は見つからず、頭痛もそのうちに消えてしまった67。それでも、ミュリエルと友人や同僚は、ビードル自身もだが、彼の記憶と行動に時折ちょっとした異常が見られる事に気づいていた。75才の誕生日の数ヶ月前に彼は、記憶の喪失が 「このところ2〜3年でかなり急速に進み、自分が完全によく知っていた人だと分かるのに立ち止まって考えてみなければならず、名前を思い出さないこともしばしばある」 ことに気がついた68。他方、ミュリエルはかなり健康で疲れを知らずに著作や地域の活動に忙しかった69。夫のビードルがトウモロコシの起源の研究に没頭して頻繁にメキシコへ旅行した1970年から1977年の間に彼女は3冊の本を出版した70,71,72。 「猫」 と題した本の出版準備中に彼女は、 「加齢」 と仮にタイトルをつけた8番目の本を書き始めていたが、ビードルはミュリエルにこのタイトルは 「私を観察した結果だろう」 と皮肉を言ったりした73。しかし1978年の春には、彼女の計画は粉々に砕けて2人の生活も一変することになった。ミュリエルが心臓発作の直後の脳卒中で障害を起こしてしまった74。危うい状態を乗り切りはしたが、彼女は結局6ヶ月以上も入院しなければならなかった。予定通り元気を取り戻し回復した後も、彼女はずっと足に金属のかすがいをつけ、杖なしで過ごすことができない状態になった。

 ミュリエルへの心配と家事の責任に加えて自身の記憶減退もあったが、それでもビードルはシグマ・カイが主催する講演旅行を厭わずこなし、合衆国中の大学を訪問して回った。パサディナからの招待を特に喜んだビードルは1978年11月にカルテックの生物学部門の50周年記念式典で講演し、トウモロコシの起源について自説を語った75。その後、ドルチェスターの家が余りに不便であることに気がついたビードル達は、東56番街から数ブロック離れたアパートを借りることにした。悲しいことに、それはビードルにとって学長として退職して以来育んで来た花壇と温室を諦めることだった。生涯で初めて彼は、ドアを開けるとすぐに戸外の空間に出ることのできた生活に別れを告げた。

 時が経つにつれてビードルはあらゆる種類の健康問題を抱えることになったが、この事実は誰の目にも明らだった。ウェルチ財団の科学顧問委員会の会合で彼は自分が何処にいるのかあるいは自分の部屋が何処かを思い出すことができず、ホテルの廊下を彷徨っているところを見つけられた76(注:ウェルチ財団は、1954年にロバート・アロンゾ・ウェルチによって創設されたテキサス州ヒューストンに本部を置く合衆国で最も古く大きな化学研究への資金助成財団)。テキサス州ヒューストンへの一人旅は既に無理だった彼は1980年に委員を辞した77。同じ頃、彼は 「親愛なるルース」 で始めた妹宛の手紙の末尾に、失念して 「ルース」 とサインをしたことがあった78。それでも彼の研究は続いた。 「私は本当に仕事の対象であるトウモロコシで埋まった温室を去ることができないのです。今はマンゲルスドルフとバーグフォーン達の、テオシント以外のですが、野生トウモロコシに関する仮説の真偽を確かめようと思っています」 とビードルはノルマン・ホロビッツに書き送った79(注:ホロビッツは、シンシェーマーの後を継いで1977年から1980年までカルテックの生物学部門の議長を努めた)。77才という年齢も病もまだビードルの情熱を押し止めることはできなかった。加えて、野生のテオシントが栽培トウモロコシの改良に直接用いることができる唯一の新しい遺伝資源だった事実は、仕事そのものに重要性を与えていた80。マンゲルスドルフにも同じようにまだ闘い続ける用意があった。

 ミュリエルが家族に手紙で知らせたように、酷くなりつつある精神状態にも関わらず、その後の8ヶ月間ビードルがノルマン・ホロビッツ、デービッド・パーキンスとヒュー・イルティスとの間で交わした科学に関する応答書簡は首尾一貫して目的明瞭な内容だった(注:パーキンスは、1948年から2007年までスタンフォードで研究を続けた高名な遺伝学者で、1977年にはアメリカ遺伝学会の会長を務めた。彼は1941年からビードルと共同でアカパンカビの研究を始めていたテータムの共同研究者だった)。ビードルは一般向けの科学雑誌サイアンティフィック・アメリカンにレビュー論文を発表し81、サイエンスへの投稿論文にも取り組んだ。驚くべきことに彼は、およそ1年後の1981年10月に予定されていたシグマ・カイの定例年会でのプロクター賞講演への招待を何の懸念もなしに承知したのだった(注:プロクター賞講演はP&Gの創設者の一人ウィリアム・プロクターの寄附でシグマ・カイに与えられた賞金による年1回の講演会で、著名な科学者が招待講演を行う)。彼はサイエンスの論文でマンゲルスドルフとバーグフォーンの野生トウモロコシの仮説をついに叩きのめすことができたことに満足を感じた82。論文でテオシント物語に別の側面を切り開くことのできる新しい実験に関して提案するビードルには、精神的あるいは身体的な問題を窺わせるどんな兆候もなかった83。彼の科学に関する心と社会生活に関する心にはまるで全く別の制御が働いているかのようだった。

 科学の仕事から満足を得ていることでビードルはミュリエルほどには直接的に自分達の病という重荷をあからさまに訴えないで済ますことができたのだろう。ミュリエルは 「時に酷く落ち込むことがあったが」 84、やがては憂鬱をうまくコントロールして長い手紙を家族や友人に書き送るまでに元気を取り戻した85。ミュリエルにはビードルの安全が気がかりで、今まで楽しんだ毎日と比べて 「より制限された単調な」 生活となることは承知の上で、退職者の社会に移り住む可能性を考えてみた。ミュリエルの心配や差し迫った感情に共感できないビードルは、彼女の念頭にある解決策が今すぐに必要だとは認めなかった。彼が反対するのは、 「若し‘老人ホーム’に入居すれば目的のない暇で惨めな生活を送ることになると恐れている」 のだとミュリエルは考えた86。ビードルにとって恐らくもっと大きな懸念は他の研究者達との連絡を失うこととトウモロコシの研究を続けられなくなることだっただろう。

 1981年夏に、82才のマンゲルスドルフはハーバード・ブッセイ研究所から出版される直前の二つの論文の結論部分のコピーをビードルに送った。彼は再びトウモロコシの起源に関する新しい案を思いついていた87。しばらくしてマンゲルスドルフはもう一度手紙を書いて、ビードルの最後の論文となった1981年のサイエンス論文について自分の意見を述べた88。ビードルは論文で過去の生物学、遺伝学、考古学、人類学研究から得られていたトウモロコシとテオシントの関係を示す証拠を簡潔にレビューした。ビードルは明らかにマンゲルスドルフの仕事全体に、中でもメキシコシティーの遺跡からドリルで切り出した円筒形のサンプルから発見された古代の化石花粉に関する彼と彼の同僚達の長年の主張を支持するために考案された新しい実験について特に苛立を覚えた。その実験では、化石花粉は2万5千年以上前の物だと推定されたが、それはその地域で記録されたどんな人間の遺跡よりもずっと古いことを意味した。マンゲルスドルフ達の話しの多くは、古代の化石花粉の中には現代のトウモロコシ花粉と同じ大きさの花粉粒があるという観察に基づいていた。ビードルは、花粉粒はドリル・サンプルへの最近の混入物であるという可能性と、トウモロコシとテオシントの花粉の大きさには重なりがあるという自身の観察を交えた様々な根拠に基づいて、彼らの結論を批判した。彼は、以前と同じように、花粉の大きさはトウモロコシとテオシントの祖先を診断するための信頼できる指標ではないと主張した。マンゲルスドルフは長い手紙で、ビードルは誤っていると主張し、最後に次の決別の言葉を添えた。 「あなた方は全員が沈みつつある同じボートに乗っているのですから、この手紙のコピーはウォルド(ガリナット)とヒュー(イルティス)にも送っておきます」 。ここに及んでは、トウモロコシ戦争と言ってもいい論争そのものとその戦士達は、情熱を失ったとは言えないまでも、疲弊して解決に必要な合理的な力を既に失っていた。

 科学者は時に強固な敵対者となることがあっても公民である。しかし本音では相手に対して常に礼儀を弁えて行動するとは限らない。ポール・マンゲルスドルフJr.は父について次の様に語っている。 「父にはビードルの経歴に対する好感はありませんでしたが、それは特に父がハーバードでジョージ・ウォルド、ジム・ワトソンと接触する中で、ノーベル賞受賞者達には自らほとんど知識のない分野でさえ権威を振りかざす傾向があると感じていたからです」 89(注:ジョージ・ウォルドは、網膜の色素ロドプシンの仕事で1967年にノーベル生理学・医学賞を受賞した)。彼はその上で、 「父はビードルを注意深く傾聴に値する意見を持った真面目な学究ではなく、むしろ不快な人間だと本当に考えていたのではなかったかと恐れます」 とつけ加えた。この点では、ビードルも似たり寄ったりだった。ビードルが信頼するマックリントックは手紙で、 「ポール・マンゲルスドルフは夢の世界に生きていて、それが真実だと確信しているのです」 と自分の意見をビードルに述べたことがあったが90、これに対してビードルは、 「ポールは今や化石花粉の証拠に戻ってしまったけれど、それは正しくないと私は信じています。私はトウモロコシの化石花粉についてはただの一言一句も信じませんし、ウォルド(ガリナット)も同じ考えです」 と答えている91

 生物学者達は1970年代半ばには、遺伝子を純粋なDNA断片として分離し、DNAの塩基配列を決定し、さらに遺伝子をある生物から別の生物へ移転する技術(形質転換技術)を手に入れていた。これによって、テオシントと原始的なトウモロコシの違いを説明する染色体領域を同定することが可能になった。新しい技術をトウモロコシに応用した科学者の一人はウィスコンシン大学でイルティスの指導を受けてPh.D.を得たジョン・ドーブレーだった。ドーブレーの研究は、遺伝子と発生の関係に関するモルガンの疑問を含むより広範な積年の懸案だった疑問や、エマーソンとイーストが1914年に記述し、デルブリュックがビードルに採用を勧めた量的遺伝子座(あるいは混合形質)の本質と、さらに進化の仕組みにも及ぶ画期的な仕事だった。

 ジョン・ドーブレーと共同研究者達が1990年代の初めに公表を開始した一連の正確で決定的な研究論文は、科学がどのように進展するかを教えてくれる注目すべき成果だった。何十年もの論争と何十万もの個体観察、何ヶ月にも及ぶ形質測定とその目録作りは脇に追いやられ、実験室と温室で行われた10年ほどの最新実験に取って代わられたのだった。鍵となったのは古典的な遺伝育種実験と分子遺伝学的解析による洞察の統合に成功したことだった。それでもドーブレーは、トウモロコシ論争で闘った戦士達のうちでビードルこそが独特のやり方で正しい結論に到達していた事実を理解し高く評価している92。ビードルは、他の研究者達とは違って、テオシントとトウモロコシの違いをもたらす遺伝子あるいは染色体領域はいくつあるのかという単純で直接的な質問を設定した。さらにビードルは、テオシントが正常に開花する短日条件が満たされるメキシコを実験場所に選んだ上で、合衆国で栽培される高度な選抜を経た典型的な近代品種ではなくテオシントによく似た原始的なトウモロコシを選んで交配実験を行い、こうして得た5万個体の雑種第2世代を育てることで多くの制御できない未知要因が問題を複雑にする可能性を避けたのだった。それでもなおビードルの努力には依然として問題を複雑化する二つの要素が含まれていた。ビードルには、交配実験に実際に用いた原始的なトウモロコシの染色体地図ではなく近代品種から作成された地図を基準に用いる他に術がなかった。さらに、ビードルが解析した形質は複数の遺伝子が支配する 「混合」 形質(量的形質)だった。近代的な方法論がこれらの問題のどちらも克服したのだった。

 分子遺伝学の道具建てによって検出されるDNA塩基配列の変異が、それまでの突然変異遺伝子に代わるマーカーの役割を果たした。特定の染色体領域のDNA塩基配列の違いが突然変異と同様にアリルを定義することになった。植物体や種子から得た多数の資料についてそれらの迅速な配列決定が可能である。混合形質がもたらす複雑さは、そうした量的形質に関与する複数の染色体部位の同定を可能とする洗練された統計的方法論によって扱うことができる。これらの解析道具を用いてドーブレーはトウモロコシとテオシントの主要な形質上の違いは5つの染色体部位によって決定されるとするビードルの結論の正しさを確認した93

 ドーブレーの実験によれば、二つの遺伝子に見られるDNA変異すなわちアリルによって形質の主要な違いのいくつかが説明できる。テオシント・ブランチ1(tb1)と名付けられたひとつの遺伝子は、植物体がトウモロコシと同じように単一の主茎の先端に雄穂を着けるか、またはテオシントのように複数の分枝状の茎の先端にそれぞれ雄穂を着けるかを支配する。実は、テオシント・ブランチ1突然変異体は、1930年にエマーソンのもとでともに過ごしたトウモロコシ研究者の一人だったチャールズ・バーナムによって、早くも1959年に発見され記載されていた(注:ビードルは当時大学院生だった。第4章参照)。バーナムはドーブレーに突然変異体の種子を譲渡したが、トウモロコシ論争の戦士達の誰一人も自分の発見に目を留めようとしなかったのは何故だと思うかと却ってドーブレーに質問した上で、彼らは穂に注目しても植物体そのものを見なかったからだと自ら答えている94。トウモロコシ論争が始まった頃、戦士達の多くはバーナムの突然変体を見たことがなかったから、それが本物のテオシントによく似ていることに全く気がつかなかったのだろう。この思い違いにはビードルにも責任の一端があった。ビードルは1972年に誤解を招くテオシントの線描画を公表したが、1980年になっても同じイラストを用いたことがあった95。イルティスが1983年に正確なイラストをサイエンスに発表したが96、今でも時々ビードルの誤ったスケッチがテオシントを表す資料として用いられることがある97

 テオシント・ブランチ1突然変異体は側枝の先端に着く生殖器官の雌雄と側枝の長さを含む他の形質にも影響を与える。テオシント染色体のテオシント・ブランチ1アリルを含むDNA領域をトウモロコシDMAの対応領域で置き換えると、テオシントはトウモロコシ様の形態を示し、雄穂を着けた長い側枝ではなく雌穂を着けた短い側枝を持つようになる。テオシント・ブランチ1遺伝子が単離されてそのDNA塩基配列が決定されると、それは側枝と花の構造に影響を与える他の植物にも存在する遺伝子群と類似の遺伝子(オーソログ)であることが分かった。最も注目すべき発見は、トウモロコシとテオシントのアリルがコードするタンパク質に事実上の違いがないことだった。むしろ突然変異は遺伝子の発現レベル、従って植物体で作られる対応するタンパク質の量に影響を与えた98。ビードルに遺伝子発現の調節について尋ねたデルブリュックの質問はまさに当を得た質問だった。この遺伝子の正常な作用がある種の器官の生長を調節することだったとすれば、トウモロコシにおけるこの遺伝子の高レベル発現によって側枝の長さを短くする理由とともに、トウモロコシとテオシントに見られる他の違いも説明できるかもしれない99。異なるアリルが示す複数の効果は、テオシント・ブランチ1遺伝子がコードするタンパク質がそれら複数の遺伝子の活性を調節していると仮定すれば説明できるだろう。

 もうひとつの主要な違いをもたらす遺伝子は苞葉の構造に関与することからテオシント・グルーム・アーキテクチャーtga1)名付けられた100。このtga1遺伝子のアリルは穀粒がテオシントに特有の固い種子皮を持つかどうかに影響を与える。トウモロコシのアリルはテオシントの種子皮を変化させて種子を部分的に露出させる。中央アメリカに住んでいた古代人にとってこの性質が柔らかい種子を持つテオシントを発見する上で如何に重要だったかは容易に想像できる。種子皮の硬さは、少なくとも部分的には、シリカ(二酸化ケイ素の結晶)の分布と濃度および種子皮を構成する細胞の生長速度による101。他の染色体領域が、これら二つの主要な遺伝的違いに加えて、単一穀粒が2列に並ぶテオシントに特徴的な構造と2粒が数多く列をなして並ぶ近代的なトウモロコシの構造の違いを決め、さらに穀粒が脱粒するテオシント型か穀粒が穂軸に付着したまま残るトウモロコシ型かを決めている102

 後付けの考えではあるが、ビードルの見方は遺伝学に特徴的な取り組み方から生まれており、一方マンゲルスドルフは形態を何より重んじたのだろう。彼らの見方はそれぞれ進化に対しては多様な見解があるという事実を反映していた。マンゲルスドルフには、トウモロコシからテオシントへの進化が7,000年という短い時間内に起こったとすれば当然仮定される急速な遺伝的変化を信じることがどうしてもできなかった。多くの小さな変化がゆっくり蓄積することで新しい種が生まれるとするダーウインのもともとの漸進的な見解にマンゲルスドルフは固執していたのだとイルティスは指摘した。一方ビードルは、限られた数の遺伝的変化と人間の介入による強い選択圧が急速で大きな変化をもたらしうると考えた。ドーブレーがビードルに軍配を上げてこの論争に決着をつけたのだった。遺伝子発現の制御に起こる小さな変化でさえ劇的な表現型の変化をもたらしうる。さらに異なるテオシント系統のサイレントな(注:形質として現れない)遺伝的変化も、それらが共存すれば、明瞭に異なる新しい形質を急速に生み出すことができる103

 ドーブレーは、まだ大学院の学生だった1980年に、失われつつある記憶と闘うビードルを直接に見たことがあった。ビードルに会おうと考えた彼はビードルの自宅に電話して、ミュリエルにビードルとの面会の予約を頼んだ。その時、ミュリエルがビードルに相談もせず、2人が会って昼食を取る日時を指示した上で、灰色のスーツと紅いネクタイを締めたジョージが貴方をアパートの玄関先で待っていますと告げた言葉に驚き訝った。ビードル家を訪問しどうしようもない失望と落胆を味わったドーブレーは、その時ミュリエル夫人の注意深い指図の意図が理解できた。高名で偉大な科学者ビードルは、もはや昔日の頭脳明晰なビードルではなかった104



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