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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第6章 トウモロコシからハエへ

 南カリフォルニアはマリオンの故郷だったが、ビードルにとってはすべてが新しかった。天候と周囲の環境は彼がこれまで知っていた何処とも違っていた。パサディナの地はリンカーンやワフーの周りの田舎と同じように平坦だったが、眼を上げれば北に向かって競り上がる堂々たる山々が見えた。イサカを囲む緑の丘とは違って、山々は茶色で冬になると時々雪に覆われた。ヤシの木と様々な亜熱帯植物も彼にとっては目新しく、一年を通じて農作業ができる見通しは歓迎すべき変化だった。

 ビードルは家族とともに農場の小さな家に移った。アンダーソンとビードルには東部ネブラスカの農場で過ごした子供時代や、リンカーンでの学部学生時代とエマーソンの下で過ごしたコーネルでの大学生生活など多くの共通な思い出があった。しかし、彼らの仲はそこそこではあったが近しい友人同士とは決して言えなかったし、共同で論文を書くこともなかった。対照的にビードルはスターリング・エマーソンとはすぐに友人関係を結ぶことができた。ビードルが来たときには、もう一人の中西部の人間でコーネルでも交流のあったチャールズ・バーナムがアンダーソンとともに農場で働いていた(注:バーナムは細胞遺伝学論考という当時の多くの細胞遺伝学徒を魅了した素晴らしい教科書を書いたトウモロコシの細胞遺伝学者)。バーナムはふた夏をイサカで過ごし(冬はハーバードで)、コーネルの農場にあった中心圃場 「ホール」 でトウモロコシを育てながらマックリントックから細胞遺伝学の技術を学んでいた

 コロンビア・グループがパサディナへ移って一年後の1929年に、それまでは全員がアメリカ人だったモルガンの遺伝学研究室に二人の英国生まれの科学者、一人は物理学者で生化学者のヘンリー・ボルスークともう一人は植物学者のケニス・V. ティンマンが加わった。ボルスークの科学における興味はビタミン、栄養と酵素反応のエネルギー論など幅広い生化学の課題に広がっていた。カルテックでポスドク研究員として植物ホルモンの仕事に携わっていたティンマンは助教に任命された。モルガンは、エマーソンのもう一人の教え子だったミリスラフ・デメレックをコールド・スプリング・ハーバーやコロンビアのポスドク研修を終えてドイツに帰国していたカート・スターンの元ではなくカルテックへ招聘しようとしたが、その企画はうまく運ばかなかった(注:カート・スターンはモルガンとモルガン研究室の多くの研究者との親交を持ったドイツ生まれの遺伝学者でロチェスター大学やカリフォルニア大学バークレー校でショウジョウバエやヒト遺伝学を研究した)。

 カルテックへ移ったモルガンは、もはや全盛期にあったハエ・グループの現役遺伝学者ではなかったが、それでも仲間達から好意と尊敬を込めて 「ボス」 と呼ばれていた。ハエ遺伝学は、1920年代後半になると、モルガンの直感的な科学スタイルにとっては余りにも量的な側面が強調された複雑であり過ぎる科学になってしまっていたと考える者もあった。彼はもはや実験的な進展に付いて行けなかったし、ますますハエ・グループの仕事の指導がスターテバントとブリッジスに任されるようになり、学生の世話も彼らが代理で担当するようになった。それでもモルガンは依然として国内外の科学行事に活発に参加し、科学的影響力のある講演や論文執筆を続けた。彼の時間の多くは新しい生物学部門の職員の獲得とケルクホッフ実験室の完成に必要な資金集めに費やされた。しかし、このような重責に時間を費やす日々にあってさえ、モルガンは科学研究への献身と理論の組み立てや推論よりは実験結果に重きを置く信念を変えようとはしなかった。彼の好きなもの言いは決まって 「よしやってみよう」 だったが、彼の 「やってみよう」 はいつも具体的な実験をして見ようという意味だった

 モルガンはカルテックで発生学への古い興味を再び掘り起こそうとした。彼は、コロナ・デル・マールの近くにあったケルクホッフ海洋実験所で週末を過ごし、コッド岬のウッズ・ホールにある海洋生物学実験所で夏を過ごした(注:ケルクホッフは1928年に生物学部門が開設されたすぐ後でモルガンが設立した世界で有数の海洋実験所)。PH.D.を修了して職員に任命されたアルバート・タイラーがそこで働いていたが、ボスと海辺で過ごすために週末にやってくる他の研究者達はいつも大歓迎された。しかしモルガンが生物学部門での日々の活動からは身を引いたことで、彼と学生やビードルのようなポスドク研究者との交流は途絶え勝ちになった。学生はグループ全体が責任を持つ対象と考えられたので、管理上の目的以外で彼らが正規に個々の教員に割り当てられることはなかった。スターテバントとブリッジスにとって学生は興味ある仲間ではあっても、教員の研究を代わって実施する便利な存在ではなかった。学生は自分達の研究構想と発見だけでなく将来についても自分で責任をもつこととされた。モルガン研究室のハエ部屋がもっていた相互の交流、働きかけと連帯を大切にして奨励する開放的な習慣を含む独特の精神とやり方がカリフォルニアへ移動してきたのだった。

 シュルツと特にドブジャンスキーはビードルのような新しい参加者が一風変わった実験室の文化に早く順応するよう手助けした。ビードルは10年以上後になってシュルツに次のような手紙を書き送った。 「全米科学財団(NSF)の奨学生としての私の引受人はアンディー(アンダーソン)が務めることになっていました。でも自分はハエ・グループの一員だと感じた私は、すべての変更手続きを省略して、すぐにドブジャンスキー、スターリング(エマーソン)、スターテバントや他の研究者達と一緒にハエの仕事を事実上始めてしまったのです。私はモルガン、スターテバント、ドブジャンスキー、アルバート(タイラー)、ブリッジスや貴兄と他の研究者を通じて、コロンビアのハエ実験室の精神がカルテックの生物学部門にそっくりそのまま移されていたと感じました。他では希薄になりつつあったのかも知れませんが、そうした精神はモルガンの時代もその後も遺伝学のグループにずっと残っていました。。モルガンは仕事をうまくやることこそが最も重要だと主張することで実験室の連帯精神を確立したのだと、シュルツは何時も感じていた。連帯は常に当然のことと考えられ、実例をもってそのことが教えられた。ハエ・グループの実験室も生活習慣もコーネルのエマーソン・グループで機能したやり方とよく似ていたから、ビードルにとっては快適だった。何年も後になってビードルは、自分が学んできた自由でやり易く争いを好まないこうした流儀が、自分自身の研究グループをもつ時にどんな環境と精神を目標として育てるべきかを決める際のよい示唆となったことに感謝した

 パサディナに到着した直後にビードルはセミナーで発表する機会を与えられたが、それは新しく加わった研究者にいつも要求される習わしだった。皆が驚いたことに、セミナーではよく寝てしまうモルガンがずっと眼を覚ましてノートさえ取ったのだった。誰もがモルガンはビードルの発表の何かに特別の興味を引かれたに違いないと思った。だが、ビードルを部屋に呼んだボスは、セミナーは確かに上出来だったと言って彼にノートを手渡したが、そこにはビードルが誤って発音した単語のリストが列挙されていた。おそらくイサカの農学部ではビードルのネブラスカなまりに気づく者がいなかったのだろうがモルガンはそれに気づいたのだった。

 ビードルはパサディナでの始めの数ヶ月間は手紙と論文書きに時間の一部を費やした。彼はカイムとの共同の仕事も手がけたが、それはネブラスカで学部生としてやった仕事のとりまとめだった10。一方でエマーソンとはテオシントの仕事で共同研究を続けており、二人は頻繁に連絡を取り合って様々なプロジェクトについて情報とともに種子を交換した。エマーソンの研究助手としてビードルはテオシント・プロジェクトの責任の一部を負っていたが、今は研究成果を論文発表する時だった。エマーソンはビードルへの手紙で、ランドルフとマックリントックと彼女の大学院生だったハリエット・クレイトンが発表した関連論文について書き記して、彼ら3人の間に存在する3方向の競争状況について悩んでいることを匂わせたりした11。1932年に発表されたエマーソンとビードルのふたつの論文はトウモロコシの起源に関するビードルの仕事の長い物語の第1章だった(第18章参照)。ビードルは特にトウモロコシとテオシントの雑種で見られる両染色体間の交叉に関する実験に興味を抱いていた。これらの実験は交叉の仕組みに関する一般的な質問の核心に触れるもので、カルテックのハエ・グループにとっても大きな興味の対象だったが、ビードルにとってはショウジョウバエ遺伝学の手始めとなったスターリング・エマーソンとの共同研究テーマだった。

 論文書きに加えてビードルはコーネルで始めた実験を完成するための仕事にも力を入れた。パサディナに着いて4ヶ月が経った1931年3月には、彼が 「易変不稔variable sterile」 と名付けたトウモロコシで3番目の不稔突然変異に関する調査の最終段階に向けた種まきを終えた。易変不稔に関する論文を書きあげた11月までには、ハエ・グループとの十分な交流から彼は既にふたつの生物種を対象とした遺伝学研究には多くの共通点が備わっていることに気づいていた。易変不稔の論文はハエを含むいくつかの動植物の染色体行動に影響を与える遺伝子に関する短い論評で始まっている12(注;論文が発表されたのは財団法人日本メンデル協会から1929年に創刊された日本初の欧文専門の国際細胞学雑誌キトロギアだった)。ビードルは、農場に張り付いていることに満足していたアンダーソンとは違って、メインキャンパスのモルガン・グループとの科学に関する刺激的な会話を好んだ。それに、ボスが36才の年齢差にも関わらずテニスコートでの挑戦的な競争相手であったこともビードルを大いに喜ばした。モルガンはカルテックの学生向けの一般生物学コースで講義を続け、ビードルはモルガン実験室の手助けをした。ビードルは、モルガンがどれほどの労力を講義に費やしていたかを長い間忘れることがなかった。モルガンは時々間違いを犯したが、それはもしかすると学生達の興味を引きつけておくための意図的な工夫だったのかも知れないと思ったこともあった。しかし実はそうではなくモルガンはただ間違っただけだったのだろうと納得することになったようだ13。メインキャンパスでは他にも刺激的な出来事が続いた。1931-32年の学年度にはアインシュタインがしばらく滞在し、齢30にして既に有名な化学の教授だったライナス・ポーリングが化学と生物学の関係に興味を持ち始めて毎週の一般生物学セミナーに時々参加するようにもなっていた14

 セミナーが開かれるのは夕食後だった。主催者のモルガンとリリアン夫人は研究室と通りを隔てた家に住んでいた。彼女も遺伝学者であり、モルガンがブリン・マールで教えていた頃の学生だった(注:ブリン・マールはフィラデルフィア西部ブリン・マールにあるリベラルアーツを専門とする女子大学)。子育てが一段落した後、彼女は実験室に戻って活動的な役割を果した。彼女の重要な仕事のひとつは、ふたつのX染色体が付着したハエの系統を発見したことである15。この付着X染色体突然変異は便利な実験材料で、ビードルとスターリング・エマーソンは交叉の研究にこれを用いた16(注:リリアン・モルガンは体色が黄色の黄体色突然変異を発見し野生型の雄と交配した。すると予想に反して得られた子の雌はすべて黄体色で雄はすべて野生型であった。ブリッジスのX染色体不分離現象から、リリアンはすぐに理由を説明した。すわなち、この突然変異雌では予想通り2本のX染色体が染色体の末端部に近い動原体部分で融合した付着X染色体を持っていた。X染色体不分離と同様に、突然変異体の子の雌は変異体の母から2本の付着X染色体と野生型の父からY染色体を、雄は野生型の父から正常なX染色体をひとつ受けとることになる。この発見はブリッジスのX染色体不分離と同様に、遺伝子が特定染色対上にあることの決定的な証拠となった)。セミナーでモルガンはしばしば居眠りをした。自然と眼を覚ますこともあったし、モルガン夫人が小突いて漸く目を覚ますこともあったが、彼は眼を覚ますとすぐに議論に加わり鋭い質問をしたり既知に富んだ批評を加えたりした。ビードルがよく知っていたシナプシス・クラブでの会合のように、プログラムは実験室の最新の結果からモルガンが受けとった手紙の中で見つけた話題やパサディナへ一週間遅れで届くニューヨーク・タイムズの面白い話題など色々だった17

 易変不稔はごく少数の葯と花しか生産しない突然変異で、エマーソンがその鋭い観察眼で見いだし保存していたものだった。変異体の名前の 「易変」 は葯の数と花粉の生産量が個体間で変動する事実に由来した。この事実は植物体が突然変異体であるかないかを決める際には頭痛の種だった。誤判定を避けるためには数日間に及ぶ繰り返しの観察が必要だった。マリオンの助けを得てビードルは花粉母細胞の細胞学的分析を行った。易変不稔の染色体行動については、それぞれ10染色体すなわち一組の染色体をもつふたつの細胞に分裂するまではすべてが正常だった。しかしその時点で通常は細胞を別ける中間部分にできる細胞板の形成が見られず、細胞は分裂しなかった。細胞分裂が欠如しているために染色体数が大幅に増え、この異常を 「感知した」 細胞が死ぬ。花粉細胞の中にはこの異常を回避して正常に発達するものもあった。このように、易変不稔は効果が部分的で浸透度が低い突然変異のひとつの例だった。結実した少数の種子を用いて、ビードルはこの現象に単一の劣性遺伝子が関与することを証明し、さらに易変不稔と第7染色体上の複数の既知遺伝子との連鎖を決定した。これらの結果を報告した論文には、ビードルの他のすべてのトウモロコシに関する論文と同様に、染色体の行動を示すカメラ・ルシダによる像と顕微鏡写真が載せられていた18(注:カメラ・ルシダはスケッチなどを描く際の補助的な光学機器で、機器を通じて覗いた先の物体の像が手元に置いた紙の上の像と重なることで物体の輪郭を紙の上に描くことができる簡易で使い勝手のよい器具)。

 易変不稔の研究では、ビードルはポリミトティックで行ったよりは一歩進んだ遺伝解析を実施して、第7染色体上の連鎖群に属する遺伝子の相対位置を決定した。すなわち、リンカーンで学生時代に学んだ法則に従って、組換え頻度に基づく連鎖地図を作製した。易変不稔と第7染色体上の別のふたつの突然変異遺伝子を用いて、彼は完全連鎖から期待される結果との隔たり(組換え率)を測定した。彼は相同染色体対の一方に3つの突然変異アリルをもち他方に正常なアリルをもつ3重テロ接合体の自家受粉を行った。予想通り子孫の大半で親植物のもつ遺伝子の組み合わせが維持されていることが分かった。次に多く出現した子孫は交叉を反映していた。そのうちのひとつの種類では、易変不稔突然変異アリルが正常アリルと置き換わっていたが、他のふたつの突然変異アリルは連鎖したままだった(注:換言すれば、易変不稔突然変異遺伝子と他の二つの遺伝子の間で交叉が起こっていた)。この結果は、他のふたつの遺伝子間の距離がそれぞれと易変不稔突然変異遺伝子間の距離よりも近いことを示唆した。3番目に多く現れた子孫では、苗の色を黄色にするもうひとつの劣性突然変異遺伝子yellow seedlingsが正常遺伝子と置き換わり、他の二つの突然変異アリルと二つの正常アリルは連鎖のまま残っていた。この結果から、遺伝子の並びは易変不稔 ? glossy seedlings(3番目の劣性突然変異体で葉に苗に光沢がある) - yellow seedlingsであることが示唆された。上記二つの染色体交叉からはそれぞれ同時に正常稔性 - glossy seedlings ? yellow seedlingsと易変不稔 ? glossy seedlings 正常?が生じるだろう。実際、この組み合わせの子孫が見つかった。幾種類かの異なる組換え体の相対頻度を示すこうしたデータから、ビードルは易変不稔とglossy seedlingsの染色体上の距離はglossy seedlingsとyellow seedlingsの距離より大きいと結論した。

 ビードルがこの仕事を論文発表した時点では、遺伝的組換えは相同染色体間の物理的な部分交換を反映するという、それまでの20年にも及ぶ仮定に対する最終的で厳密な証拠が既にあった。マックリントックとクレイトンが連鎖状態からの逸脱(遺伝的組換え)は染色体部分の交換、すなわち、シナプシスで対合した相同染色体が互いに絡み合う時に起こる 「交叉」 とともに生じることを証明していた19(注:二人は、トウモロコシの第9染色体上に存在する種子の色と胚乳デンプンの性質を決める遺伝子をマーカーとして用い、一方で同じ染色体上に連鎖して存在し塩基性の染色液で濃く染まるノブと呼ばれる形態的マーカーを用いることで、マーカー遺伝子について組換え型を示す個体がすべて染色体の形態マーカーについても組換え体であることを明らかにした。これによって、遺伝子の組み換えが相同染色体間の染色体部分の交換すなわち非姉妹染色分体間の交叉によるとするモルガンの仮説に証拠を与えた)。ほぼ同時期に、カート・スターンも遺伝的組換えと染色体の交叉に同様の関係が認められることをショウジョウバエで証明した20(注:スターンは、1931年に発表された実験で、形態的に正常なX染色体と区別できるふたつのX染色体を用いた。すなわち、一方のX染色体は末端の動原体部にY染色体の一部が転座しており、他方のX染色体は末端部分が第4染色体に転座して正常なX染色体より短くなっており顕微鏡で明確に識別できる。さらに、これらのX染色体にそれぞれ半優性の棒眼突然変異と眼色をカーネーション色にする劣性突然変異をもたせたヘテロ接合の雌を利用した交配実験から、染色体の行動と表現型を比較して遺伝子の組換えが交叉の結果であることを見事に証明した)。

 ビードルは染色体機能の理解に役立つ他の突然変異を探そうと考えた。1932年に発表された論文では、彼は多くの遺伝資源から集めた少なくとも18種類の不稔系統を記述した21。これらの系統の多くを対象に顕微鏡観察で花粉母細胞を調べたが、残念なことに欠損を特定することができなかった。突然変異体の多くは稔性のある花粉を形成する前に細胞崩壊を示したが、それまでの過程は完全に正常だった。この観察はビードルを失望させたに違いなかった。というのも、以前の研究から減数分裂で染色体が機能する複雑な過程を遺伝学によって解析できる可能性があると期待していたからだった。もし、それぞれが連続した減数分裂過程のある段階に欠損をもつ一連の突然変異体を得ることができれば、この重要な過程に関する多くの疑問点を明らかにすることが可能だろう。期待した一連の突然変異体を得ることはできなかったが、多段階からなる減数分裂過程でそれぞれが異なる欠陥を生じる一連の突然変異体を用いて生物学的仕組みを明らかにしようとするこのような研究手法は、引き続く20年間でビードルが果たした偉大な貢献となるショウジョウバエの眼色とアカパンカビの代謝に関する研究という新たな道を拓く予告だった。ビードルは、この研究手法の意義に果たして気がついていただろうか?彼の発表論文にも、個人的な書簡にも、そのことを述べた形跡はない。ビードルは、1932年の段階ではまだこのことに気づいてはいなかったのだろう。

 ビードルがパサディナに着いた1930年の末は、全米科学財団(NSF)のフェローシップの二期目に向けた申請の時期だった。ビードルの延長申請は減数分裂に影響を与える新たな突然変異体の探索に向けた継続研究、易変不稔突然変異に関する更なる研究、アシナプティック突然変異体が示す交叉が正常であるという予期せぬ発見と、最近見いだした 「粘性(viscous)染色体」 (後に粘着性(sticky)染色体と名付けられた)に関する研究計画が主だったが、その他にトウモロコシとテオシントの雑種に関する仕事の展開も含まれていた。アンダーソンとエマーソンは二人とも2年目の延長を強く支持する推薦書を書き、ビードルには完成すべき進行中の多くの仕事に加えて他にも多くの研究アイディアがあることを強調した2223。エマーソンはビードルとアンダーソンを比較して以下のように予見した。 「彼(ビードル)にE. G. アンダーソン博士ほどの聡明さがあるか否かについて私は定かではありませんが、彼の聡明さに欠けるところはなく、私は今後10年以内にアンダーソンが達成するよりもっと多くの仕事を彼はやり遂げると予想致します」 。助言者達からの推薦状の他にフェローシップ委員会の委員の一人でビードルとアンダーソンを訪ねたことがあったE. J. クラウスからもビードル自身と彼の状況について熱心な支持が表明された24。結局すべてがうまく行き、フェローシップのもう一年の延長が認められた。

 粘着性突然変異は、アシナプティック、ポリミトティック、易変不稔と同じように、減数分裂の染色体行動に独特の影響を与えた25。突然変異アリルをふたつもつ細胞では相同染色体は正常に対合したが、正常な染色体対が細胞の両極へ向かって移動を始めるその時点で染色体は動きを止めて減数第一分裂での分離が起こらない。さらに染色体は切断を起こし易く、あたかも染色体を分離しようとする力に抗しているように見えた。細胞分裂の仕組みは、配偶子をもたらす前駆細胞である卵母細胞と花粉母細胞だけでなく植物体のすべての組織で妨害され、その効果は体細胞分裂と減数分裂の両方に及んだ。さらに予想に反した現象は、染色体の粘着性と切断が、ビードルが粘着性染色体をマップした第4染色体だけでなくすべての染色体で認められたことだった。遺伝学的な実験によって、彼は突然変異が第4染色体の他に少なくとも3つの染色体上の複数の遺伝子に影響を与えていることを確認した。明らかに、粘着性染色体突然変異はトウモロコシの減数分裂全体に影響を及ぼすトラブルメーカーだった。

 粘着性染色体は、 「私が実践から生んだ教訓に根本的な激励を与えてくれた」 とビードルをして言わせた発見だった26。これは、多くの異なる生物種に存在する現在ではミューテーター(突然変異誘発)遺伝子と呼ばれる一群の遺伝子の最初に記載された例だった。これらの遺伝子の突然変異アリルは突然変異の頻度を一般に増加さる。スターテバントは感動の余り、 「これをボスに見せてもいいか?」 と聞いてビードルを大喜びさせた27。それに、この発見はトウモロコシの染色体で見られる自然変異について当時関心を抱いていたマックリントックにとっては、核心的な意味をもつ発見だった。彼女は、そのような異常と自然突然変異の頻度が遺伝子型によって制御されること、染色体の粘着と引き続く切断が減数分裂だけでなく体細胞分裂でも起こること、異常な表現型が植物体のあらゆる部位で見られることに大きな衝撃を受けた28

 マックリントックは1931年夏に始まる全米研究評議会(NRC)のフェローシップの貸与を勝ち取った。彼女の活動の根拠地はコーネルではあったが、11月から翌年3月までは寒冷なイサカを避けて頻繁にカルテックを訪ねて滞在した。コーネルと違ってカルテックでは女性は異星人であり、実際、教員と学生は全員が男性だった。カルテック職員の学術クラブだったアセニーエム(アテネ神殿)での昼食にスターリング・エマーソンがマックリントックを招待した時でさえ物議を醸すことになり、モルガンがカルテックの理事達に頼み込んで漸くエマーソンに彼女を食事に連れていく許可が下りた。何年も後に、マックリントックは二人が食堂に入ると皆からじろじろ見られたと思い出して語った29。なるほど、彼女には生物学研究室に行き来する際にも予約が必要で、アンダーソンの許可を得て春の植え付けのために農場へ行く際にはバーナムに同行してもらう必要もあった30。彼女はライナス・ポーリングとも話しをしたが、それは彼女がライナスは社交的で遺伝学グループに属していると考えたからだった31。マックリントックは、当時、細胞が仁と呼ばれる目立った核内構造を作るために必要な仁形成体領域(NOR)と呼ばれる染色体上の領域を同定するという、もうひとつの重要な発見に導く実験を行っていた。実験室での仕事の他にもバーバラ・マックリントックには古い友人と過ごす時間もあった。ある日、バーバラはビードル夫婦と一緒に、マリオン・ビードルの運転で、バーバラが助手席に座り、唯一残った場所のドアの下の踏み板にビードルが立った状態で(これはパサディナでは違反行為だった)ドライブに出かけたが、警官に車を止められて反則切符を切られようとした時に、バーバラは声を上げて 「ご心配ないわよ。彼は彼女の夫で、右側は彼がちゃんと見ているから」 と警官に向かって言った。実際この一言で彼らは無罪放免となった32

 デービッドがマリオンとジョージ・ビードルの息子として1931年の12月に生まれた。デービッドの誕生で、ビードルは全米研究評議会のフェローシップが切れる翌年6月以降の仕事について今まで以上に心配をしなければならなくなった。フェローシップは滅多に2年を越えて延長されることがなかったが、ビードルなら3年目も大丈夫だろうと考えたアンダーソンは申請を試みた。その間ビードルはトウモロコシの遺伝学を続けるだろうと考えたエマーソンは、ビードルに手紙を書いて、デメレックがコールド・スプリング・ハーバーでビードルに職を用意したいと考えていること、一方で自分はビードルにコーネルに帰って欲しいと思っていることを伝えた。エマーソンはデメレックが1,500ドルより高い1,800ドルの年俸をビードルに用意するのではないかと心配だった33。だが、ビードルはデメレックの申し出を断りカルテックでトウモロコシの仕事を続けたい旨をエマーソンに伝えた34。デメレックは、実際はエマーソンが予想したより低額の給与を用意していたのだったが、独立して研究する自由とトウモロコシ用の圃場と温室の提供を約束してビードルの説得を続けた35。たくさんの仲間と大きなトウモロコシ研究グループがいるコーネルに帰ることが本当の希望だったビードルは、溢れるほどの感謝と謝罪にデービッドが生まれた事実も添えてデメレックの申し出を再度断った36。ビードルがこの手紙をデメレックに出す直前の9月1日には助手のポストが空く可能性があるという知らせがエマーソンから届いていた37。エマーソンのアイディアでは、予定通りイサカで8月に開催される国際遺伝学会に参加してそのままそこに残ることだった38。それでもデメレックは容易に諦めなかった。1932年の1月中旬にはもう一度手紙を書いてビードルに再考を促した39

 2月初旬には、1932年9月までの3ヶ月間はカルテックでのフェローシップが延長されるだろうという連絡がビードルに届いた40。コーネルでの身分は学部教員ではなく一時的な助手でしかなかったことに不安を覚えていた彼は、このチャンスを得てカルテックに残ることに決めた。資金の出所は分からなかったが、春が来る前までには少なくとももう一年間カルテックで仕事ができるという確証がビードルにはあったようだった。ビードルがコーネルに戻って来ないことに失望したエマーソンは、この状況でようやくビードルにカリフォルニアに残るよう勧めた41。スターリング・エマーソンは父に、カルテックでビードルが終身教員職を手に入れる可能性があることを伝えたが、大恐慌のあおりでその期待は他の計画とともにご破算になった42(注:合衆国での大恐慌は1932年後半から1933年春が最も深刻な底辺だった)。酷い財政的制約からモルガンは新しい職員を雇用することもならず技術補助員の雇用さえ半減しなければならなかった。より広く生物学を展開するにはロックフェラー財団の支援が不可欠なことは自明だったから、モルガンは1933年に何度かウォーレン・ウィーバーに緊急事態の相談を持ちかけた43(注:ウィーバーは1932年から1955年までロックフェラー財団の自然科学部門長を務め、特に分子生物学、遺伝学、農学、医学などへの補助金交付の責任者だった)。秋には正式な申し出をウィーバーに送った44。申請書には遺伝学と生理学の関係および遺伝形質と関連した化学的変化と遺伝形質が依存する遺伝子との関係を探る重要さが指摘されていた。この指摘はビードルが数年後にエフッルシとともに企てることになる研究目的そのものだった。ロックフェラー財団は2年間で50,000ドルの資金を提供する約束でこの申し出に応じたが45、ビードルに終身の職の提供はなかった。事実、ウィーバーは1934年春にカルテックを訪問して若手の生物学研究者の何人かと面談したことがあったが、ビードルとは話を交わした記録さえない。彼はカルテックのグループに概ね 「失望」 し、当時カルテックを訪れていたマックリントック一人を 「かなりの第一級」 だと名指しで褒めた46

 1934年にノーベル賞受賞式に出席するためにヨーロッパへ出かけたモルガンは、その機会を利用して遺伝学以外の分野でカルテックの職員となる可能性のある人物を捜した(注:モルガンのノーベル賞受賞は1933年だったが、その年の授賞式にモルガンは多忙を理由に不参加だった。第7章参照)。モルガンは 「我々が欲しかった種類」 の人物を見つける幸運に恵まれることなく47、そのとき丁度ヨーロッパを旅行していたロックフェラー財団職員のハリー M. ミラーには彼が 「絶望的」 な状態であると見えた48。モルガンは 「ユダヤ人でない生理学者を求めて英国とスカンジナビアを探しまわっていた」 と財団のパリ事務所在住の職員は話した49。ナチスを逃れて合衆国へ移住することを求めた多くの優れたユダヤ人研究者に偏見を抱いていたのは、モルガンだったのかカルテックだったのかは分からない。が遂に神経細胞の電気生理学者だったコルネリス・ウィールスマと彼の同僚のアントニー・フォン・ハリヴェルドが職を得ることになった。彼らは生物学部門の展望を広げはしたがカルテック全体に輝きをもたらすことはなかった。 「もしモルガンがヨーロッパで払った努力の半分でもこのアメリカに注いでいたなら、同程度かもっと優れたアメリカ人の若手研究者を得ることがきっとできたはずだと誰もが思うだろう」 とミラーが不思議に思ったのも無理がなかった50

 ビードルの予定表は詰まっていた。ショウジョウバエとトウモロコシの遺伝学プロジェクトへの募る思いの他に、彼にはトウモロコシの近縁野生種である中央アメリカのテオシントとの進化的関係に関する興味が高まっていた。エマーソンとコーネルのもう一人の遺伝学者R. A. フレイザーとの重要な共同研究で果たす中心的な役割も抱えていた。イサカへの到着時には既にエマーソンがビードルを実験室の染色体コレクションの 「秘書役」 に任命していたが、カルテックでもその仕事を拡大するための努力をビードルは続けた。データ収集の他に、面白い染色体異常と突然変異を示す種子を、誰かが遺伝学研究に使いたいと希望するまで小袋に保存しておく。種子の収集と注意深く詳細な記録の保存に加えて、トウモロコシ研究者から届くこうした貴重な材料の配布要請に応える仕事は彼を拘束したに違いなかった。エマーソンは材料と情報はトウモロコシ研究者仲間の間で自由に分かち合うべきだという固い信念を持っていたから、ビードルの負担が軽くなることはなかった。典型的だったのはデメレックからの要求で、それはいつも植え付け直前に届きすぐに送れと言って来る内容だった51

 コレクションを役立てるにはカタログを常に更新して関心のある研究者なら誰にでも配布する体制を整える必要があった。こうした骨の折れる仕事は、それまでの数年間は非公式に行われてきた。しかし1929年の終わりにビードルは改めて関係者全員に手紙を送り、その前年にエマーソンが連鎖関係にある遺伝子リストを掲載した印刷物を添えてコレクションに関する野心的な未来計画を発送ずみであることを再確認した上で研究者仲間にさらなる協力を求めた52。そこには、トウモロコシの遺伝子と遺伝地図に関する未発表データも含む全データを集めて照合した概要版を公表する構想が盛られていた。概要版には、優性、劣性を含むトウモロコシの既知の突然変異遺伝子すべてと、それらをもつ植物体の形質変化の簡潔な記載および分かる範囲内ではあるが連鎖関係にかかる情報が含まれていた。エマーソン(とエマーソンの手紙を引用したビードル)は、全員に適切な評価を配布すると確約した上で、この巨大事業は実際に進行中であり概要の改訂版が間もなく配布される予定であることを言明していた。事実、エマーソンは、ここ数年間、改訂概要版を完成する必要について会員をいわば 「脅迫」 さえしてきた。1928年のアメリカ科学振興協会の会合では、ホテルの部屋のドアに計画内容を明示した 「トウモロコシ・デザイン」 と標した掲示を飾り付けたりした。1930年の晩秋は仕事がまだ進行中ではあったが、間もなく公表の準備が整う希望がもてた53。この年月、エマーソンとビードルは手紙を何度も発送しては仕事の遅れを詫びながら情報を集めてきた。手紙の中には競争相手と目される研究者に向けた二人の憤りを窺わせるものさえあった54。エマーソンはある時、イースト・ランシングで予定されていた講演で 「聴衆に感銘を与えたい」 から、それまでに集めたデータをもとにビードルが作成していた染色体地図のスケッチを使わせて欲しいとビードルに頼んだこともあった55。その間に彼らはニュースを規則的に広報するための手順作りにも着手した。

 トウモロコシ遺伝学研究共同体向けのガリ版刷りの概要の初版が秘書役のマーカス・ローズの編集によって1932年10月5日に発行された56。概要には、突然変異体のデータ、遺伝資源のストックと遺伝子名の標準化を任務とした情報センターをコーネルに設置する目的で、イサカで開催された第6回国際遺伝学会の期間中の1932年8月6日にエマーソンが招聘した会合に関する報告が掲載された。その会合にはおよそ45人が出席した。研究共同体は会員からの関連データを受け取り、校合し、センターを通じて情報を配布する責任を皆がそれぞれに分ち合うべきだという考えから、染色体それぞれに関する分担が一人か数人の研究者に割当てられた。エマーソンには染色体1が、ビードルとローズには2、テキサス農工大学のポール・マンゲルスドルフとその他の研究者には4などとそれぞれに割当が決まった。これは、ひとつのゲノム全体の理解に必要な大量のデータの管理を目的とした遺伝学者達の最初の組織的な努力も結晶だった(注:ゲノムという術語は、1923年にハイデルベルグ大学のハンス・ウィンクラーによって 「配偶子に存在する一組の染色体」 と定義された。その後、京都大学のコムギ遺伝学者の木原均が、コムギ属のゲノム分析法で得た結果に基づき、 「個々の生物を定義づけるための必要最小限度の染色体セット」 と定義した。現在では、ゲノムの用語は 「生物がもつ核酸の塩基配列に書かれたすべての遺伝情報」 という意味で用いられる)。概要の利用勝手の良さは研究者達にすぐに理解され、1934年にはロックフェラー財団から5年間の補助金が事業を支援する目的でトウモロコシ研究共同体に与えられた。研究共同体が発行した第3号(1933年11月13日)では、ショウジョウバエ研究者が同様な試みを始めつつあることが報告された。ローズはその中で 「トウモロコシ研究者が示したと同じ寛大な共同の精神をショウジョウバエの研究共同体も発揮して欲しい」 と希望を述べた。

 トウモロコシ研究共同体は依然として機能しており、今でもすべての遺伝学研究のモデルとしての地位を占めている57。近年では、ヒト遺伝学者達がこれらの先例に習って大規模な委員会が24の異なるヒト染色体のそれぞれに責任を持つよう割り振りを決めた。遺伝学者間の最近のそうした共同の例はショウジョウバエ、マウスとヒトやシロイヌナズナやイネのもつ全ゲノムの塩基配列決定と、これらの生物の完全なDNA塩基配列に関する公共で利用可能なデータベースの作成に向けられた国際的で組織化された取組みに見ることができる(注:こうした国際コンソーシアムによって、2001年にはヒトゲノムの概要版が、2000年から2002年にはショウジョウバエ、マウス、シロイヌナズナ、イネのゲノム概要版が発表された)。さらに、丁度ビードルとローズがトウモロコシ突然変異体の種子を誰にでも利用可能としたように遺伝学研究用の重要なモデル生物について変異体を集中的に保管する組織が今では普通のこととなっている。もうひとつの重要な共同体としての活動、すなわちボストンの会合(1934年1月25日)で提案されていた遺伝子、突然変異と染色体構造の変化を記述するための命名システムの採用が第5巻で提案された。こうした学術名称に関する議論は些細なことに思われたし、確かに興奮させる課題でもなかったが、その当時も今も同じ遺伝子が別の実験室で発見され別の名称を与えられることは珍しいことではなく、観察された突然変異体が特有の共通した表現型をもちながら別の名前で呼ばれる例は少なくとも混乱を引き起こし、最悪な場合はまったくの誤解を生むことになる(注:逆の場合、すなわち表現型がよく似た別の遺伝子に同じ名称が与えられる場合も同様である。一般には、ある突然変異の引き起こす遺伝的、生化学的変化を特定するのは簡単ではない。一方で評価できる範囲でよく似た形質を示す複数の突然変異が同一の遺伝子の変異によるか否かは相補性検定と呼ばれる試験で決めることが出来る。相補性検定とは、よく似た表現形質を示すふたつの突然変異体を交配しその雑種の表現型を調べる方法で、雑種が正常な形質を示せばふたつの突然変異は互いに相補した、すなわち別々の座位にある別々の遺伝子によると結論し、変異型が観察されればそれらは非相補的で同一の遺伝子座に起こった突然変異アリルであると結論される)。そこで提案されたシステムは、研究者が互いに合意することを条件に、ショウジョウバエの研究者達が採用したやり方と同じではなかったがよく似たものだった。要するに、トウモロコシの研究共同体は根本的な情報を共有することで知識を進展させる模範的な科学の慣習を確立したのだった。

 1935年に完成され発表された概要の完全版には300を越える遺伝子が記載されていた58。そこでは、トウモロコシの各遺伝子の簡単な記載の他に、連鎖および異なる遺伝子間の交叉頻度に関して利用可能なデータがすべて列挙された。概要に記載された最も古い参照項目は1901年のカール・コレンスの仕事だった。コレンスはメンデル法則の再発見者3人の一人で、トウモロコシを遺伝学研究の便利な材料とした独特の性質、すなわち配偶子の発達過程、重複受精の過程と種子の胚乳が母植物体ではなく新たな次世代の遺伝構成をもつというキセニアと呼ばれる現象などの生殖過程に見られる特性を研究し明らかにしたことで知られる(注:キセニア現象により胚乳に現れる形質は母植物体につく種子で直接に解析できるために、次世代でなければ観察できない形質とは異なり、形質評価のために種子を播いて次世代の植物体を育てる必要がない)。細胞遺伝学と遺伝学の解析結果は長い表にまとめられ統合された。作成された表を使ってトウモロコシの10本の染色体のそれぞれについて地図を描くことができた。染色体の相対的な長さは、一方の端から他方の端までの既知のすべての交叉が示す間隔の和として決定され(例えば、第1染色体は128センチ・モルガン、第10染色体は32センチ・モルガンのように)、それぞれの染色体上の既知の遺伝子が交叉の頻度に従って配置された。交叉頻度で測定される間隔は5年前にマックリントックが定義した相対的物理距離を確認するものだった。トウモロコシの概要論文の公表はブリッジスとモルガンがショウジョウバエで同様の地図を作った15年後のことだったが、トウモロコシのより複雑な遺伝学、10個の染色体と長い世代時間を考慮すれば、人類が知ることのできた2番目の染色体地図をもたらした研究として偉大な勝利だった。

 概要の著者であるエマーソン、ビードルとフレイザーは概要の完成はトウモロコシ遺伝学研究共同体全体による 「非利己的な協力の特例のひとつ」 であると完全版で謝辞を述べたが、事実そう言ってよかった。他の研究者が得たすべての発見の情報をいち早く知ることができるという彼らに約束された利益が非常に荷の重い仕事を支えたひとつの理由ではあったが、概要はトウモロコシの遺伝学者と育種家の興味を促進するものだった。しかし、トウモロコシは1935年の段階で99,974エーカー(40,458ヘクタール)の栽培面積をもち、およそ230万ブッシェル(注:58,420トン)の全収穫量を誇る合衆国の主要作物であったが、今日見られる遺伝子の商業化と比べれば、当時の社会はトウモロコシの突然変異がもつ経済的な可能性に特別の関心を持たなかったようだった59(注:合衆国における2014年のトウモロコシ栽培面積は9,200万エーカーで、収穫量は1億700万ブッシェルで、当時とは比較にならない)。合衆国農民によるトウモロコシ生産量の増加は、20世紀初頭の研究がもたらした革新的技術だった雑種種子の導入が原因だった。1920年代後半までに雑種トウモロコシの種子を育てて販売する会社が4つ設立された。農場雑誌の編集者で農民をいわば改宗させて雑種トウモロコシ種子の重要性に眼を向けさせたヘンリー A. ワレースが最も重要なパイオニア・ハイブレッド社(Pioneer Hi-Bred)を設立した。ワレースは後に農務省長官となり、第3期目のフランクリンD. ルーズベルト大統領のもとで副大統領を務めた。ワーレスは1948年のハリー・トルーマンが勝利を収めた大統領選挙に出馬して敗北した。

 ビードルは、カルテックで過ごす年月の間に、いち早く自分自身の立場を確立した。エマーソンとの関係が自分の役割を高めるために大いに役立った。ローズは連鎖地図の完成はビードルの熱意と効率的な仕事のお蔭だと確信していた60。ビードルは、それでも、高名な年長の科学者に時として挑戦することもあった。英国の遺伝学者のシリル・ディーン・ダーリントンが、1932年にビードルのポリミトティックの仕事を再解釈して、減数分裂終了後の過剰な細胞分裂は実際には相同染色体の対合だけでなく交叉も含む減数分裂の追加現象であると提案した。新旧のデータを整理したビードルはダーリントンの見解は実験的証拠によって弁護あるいは支持することもできないと論じて、ダーリントンに反論した61。そのときダーリントンはカルテックを訪問中だったが、ダーリントンの評価は少なくともパサディナでは明らかに盛りを過ぎていた。アンダーソンは農場でダーリントンを迎えた後に、いつものぶっきらぼうさで、私は 「ビードルが言うことはどんなことでも信じません」 と言ったとされる62。しかし最も重要なことは、ビードルがハエ・グループとの仕事にますます興味を持ったことと、ハエ・グループが彼を評価したことだった。

 ビードルは、学部学生の時の勉強とコーネルでの多くの議論から、ショウジョウバエ遺伝学の本格的で理論的な面についてよく理解していた。しかし、ショウジョウバエの遺伝学はその独特の語彙、奇妙な系統と突然変異体の名称に加えて一風変わった実験手法からトウモロコシの遺伝学徒にとっては異質だった。新参者の多くはブリッジスからハエ遺伝学の手ほどきを受けたが、ビードルは、コーネルの恩師の子息であるスターリング・エマーソンの助けもあって、すぐに新しい知識に習熟することができた。それで、 「群を抜いて優秀な遺伝学者」 であるブリッジスとの会話に最後までついて行くことができるか不安ではあったが、ビードルはブリッジスと同僚のH. S. ペリーがコーネルで開発した遺伝的交叉の理論についてブリッジスに教えを求めた。ビードルが大いに安心したことに、ブリッジスは議論の間中とても友好的で辛抱強く几帳面に説明してくれた。 「ブリッジスはひとつひとつの点を注意深く完全に乗り越えてからでなければ次のテーマに移ろうとはしなかった」 とビードルは書いている63

 ビードルの興味がトウモロコシの交叉の仕組みにあることを知ったスターテバントは、ショウジョウバエで交叉の事象を調べるようビードルを促した。その頃に問題だったのは、相同染色体間で起こる交叉の確率は染色体の全領域を通じて同じだろうか、すなわち交叉は染色体のある領域で優先的に起こり、他の領域では抑制されることはないだろうか?もし染色体上のアリルの相対位置をマップするために減数分裂の間に起こる交叉頻度を用いるとするなら、この質問は根本的な意味をもつ。確かに1931年の画期的な実験で、スターテバントは交叉の起こり易さは染色体の全長を通じて同じであると仮定したが、この仮定が正しいか否かを証明してはいなかった64。何年もの間、アリルの配置と隔たりを評価するこの方法は、X染色体以外の染色体にも近縁のハエ系統にも用いられてきたが、ますます多くの実験結果が、マッピング操作の裏付けとなるこの根本的な仮定に疑いもたらしていた。マラーが想定した二重交叉は遠く隔たったアリル間の距離がいつも過小評価される理由を説明していた。彼はまた、相同染色体対の一方の染色体に生じた構造異常は異常構造を含む領域で期待値に合わない交叉頻度をもたらすことを発見した。ドブジャンスキーは、マラーのこの仕事を発展させて、染色体の転座を含む領域では交叉頻度が大きく減少することを明らかにした65。彼はまた、紡錘糸の付着点(動原体)近傍では遺伝子間の交叉頻度に基づくアリル間の遺伝距離が細胞学的に観察される物理的な距離よりもずっと小さくなることにも気づいていた。

 ドブジャンスキーに勧められて、ビードルは動原体近傍と動原体から離れた位置におけるふたつの相同染色体間の交叉の起こり易さを比較することにした。得られた実験結果は明白で、交叉頻度は動原体近傍でずっと低かった 66。相同染色体が減数分裂の間連結した付着X染色体をもつリリアン・モルガンが見つけたショウジョウバエ系統が、この現象を解析するための巧妙なやり方を提供してくれた67。ふたつのX染色体が連結した付着X染色体ともうひとつの正常なX染色体からなる3つのX染色体をもつ雌を用いて、ビードルは付着X染色体間の交叉頻度が正常なX染色体と付着X染色体のどちらか一方との交叉頻度より高いことを確認した。これで相同染色体間の距離が近いほど交叉の頻度が高まることが示された68。後にビードルはスターテバントとチームを組んで、逆位を起こしている相対的に小さな染色体領域における交叉の頻度を測定した。そのような染色体異常は、多糸性染色体の逆位を含む領域内の縞模様が正常と比べて逆向きであることから、容易に同定できる。彼らは、マラーが提案していたように、小さな逆位領域の内部と近傍で交叉が起こりにくいこと、逆位を含む染色体部分の長さが増すとともに交叉の頻度が増すことを見いだした69(注:逆位を相同染色体の一方にもち、他方の染色体は正常な逆位へテロ接合体では、逆位の内部や近傍で交叉が起こると重複と欠失をもつ染色体が生じ、そうした異常染色体を受けとった配偶子が機能不全を起こして稔性が低下することから、結果として交叉が抑制されるように見える。従って、稔性低下の度合いも逆位内および近傍の交叉頻度を測定する目安になる)。その他の実験と併せてこれらの実験から、スターテバントとビードルは、染色体対の間の相同性の程度に依存する交叉の頻度が減数分裂での遺伝子の分離に大きく影響するという新規な仮説を提唱した70

 1932年8月に第6回国際遺伝学会に参加するためにイサカへ戻ったビードルは、もはや熟達した独立な科学者だった。彼は、農場の仕事であろうと実験室の仕事であろうと、熟慮と勤勉によってしか問題は解決されないことをよく理解した。イサカでは、アメリカと海外の研究者の研究状況を把握する目的に加えて、ビードル、エマーソンとフレイザーの3人は共同の強みを発揮してトウモロコシ突然変異体の概要に関するいくつかの課題を解決することができた。モルガンが会議の議長を務め、エマーソンは国内組織委員会の議長だった。ビードルには、他のどんな若手遺伝学研究者達よりも、この二人との強い結び付きがあっただけでなく、二人も彼のために大いに便宜を図った。ビードルのショウジョウバエにおける交叉実験に関する発表を聞いた後で、モルガンは今度も彼の誤りを発見して、エマーソンに 「ビードルの仕事は素晴らしいが、貴方はビードルに発表の仕方を改善するよう忠告されては如何ですか」 と忠告したようだ71。会議を終えてカリフォルニアに戻ると、すべてを修得することに熱心なビードルは、ロスアンジェルス公共図書館の一連の講演会で自分の講演スタイルの練習ができるよう手筈を整えた。彼はこの経験から、聴衆は知的で鋭い質問をするけれど、何か新しいことを教えてもらうことよりは講演の聞き心地のよさにむしろ関心があるのだという事実を学んだ72

 会議はまたビードルに海外からきた遺伝学研究者との出会いとともに国際感覚を養う機会を与えてくれた。遺伝学は1920年代後半の合衆国にあっては花盛りで、特に植物遺伝学は合衆国の農業生産に大きく貢献していたが、ソビエト連邦の状況はあたかも鏡に映る逆の像のようだった。1927-1928年と1928-1929年のソビエトにおける冬コムギの生産量の落ち込みは、農業改善に望みを賭けたスターリンを絶望に追い込んでいた。スターリンは、1929年にソビエト農業で最も有力で影響力を持ち始め1964年までその地位を保ったトロフィム・デニソヴッチ・ルイセンコに期待した。ルイセンコは眼を見張るような結果をスターリンに約束した。当時、ソビエトには群を抜く優れた植物遺伝学者がいたが、職業科学者に不信感を抱いていたスターリンは、誤った情報で凝り固まり非科学的な方法論を唱えるルイセンコをむしろ好ましく思っていた。ソビエトの優れた植物遺伝学者の筆頭は、レーニン全組合連合農学科学アカデミー会長で国際的に知名度の高かったニコライ I.バビロフだった。バビロフはイサカの国際遺伝学会議に参加していた(注:バビロフは1929年に日本、台湾、朝鮮を訪れ、京都帝国大学ではコムギの研究で有名な木原均教授と会い、 「栽培植物の起源」 と題する講演を行っている)。当時、彼はまだルイセンコ説を弁護しており、集まった国際会議の聴衆にルイセンコの説を説明した。トウモロコシの概要誌 「共同」 の第2号(1933年1月23日発行)で、バビロフはヤロビザーツィア(バーナリゼーション、春化)と呼ばれた操作、すなわち吸水後の種子を暗黒下で低温に曝す操作によって植物の生育期間は有意に短縮できるという1929年にルイセンコが発見した操作法を記載した。しかし、この技術を採用したことでソビエト農業は事実上何十年にも及ぶ絶望状態に陥ったのだった。さらに、ルイセンコの政治的影響力によってヨーロッパと合衆国で遺伝学が目覚ましい発展を見せていた時代に、ソビエットでは長期間にわたって近代的な遺伝学研究と教育が圧迫されたのだった。概要誌 「共同」 では、おそらくローズの述べた次のコメント 「この現象を追求している研究者達の主張の正当性がもし確認できれば、この発見は植物遺伝学者と育種学者にとって重大な意味をもつ」 が言及された。ローズが実際に何を考えたのかを正確に知ることは不可能だが、彼の記録されたコメントは、おそらくバビロフに対する思いやりと尊敬に加えて、自分の正直な批判がバビロフに悲劇的な結末を齎す危険性を彼が感知したことで触発されたのだろう。スターリンやルイセンコと和解しようと何年間も努めたバビロフは、1937年にルイセンコの堕落したアイディアに対する辛辣な科学的批判を提唱したことでスターリンの怒りを招いた。1940年には研究所を追われ、1943年には監獄で命を失った73(注:ルイセンコは、春化処理によって秋播きコムギを春播コムギに転換することで秋播きコムギが遭遇する冬期の厳寒による凍結を回避して収量増加を期待できると主張した。ソ連の育種家イワン・ミチューリンが主として果樹で開発した栽培方法をルイセンコが強引に普及させた農法で、戦後の日本でもソ連とスターリンへの崇拝を背景に 「先進的なヤロビ農法」 として普及された時期があった。春化は低温馴化と呼ばれる現象、すなわち一定期間低温ストレスに曝された植物がその後のより強い低温ストレスに対する耐性を発揮する現象である。換言すれば低温ストレスの発揮には一定程度の低温ストレスに一定期間曝される必要がある。例えば、秋播きの冬コムギは秋から初冬の低温に曝されることで厳冬期の極寒に耐えて越冬し春を迎えることができる。実際に冬コムギはこうした低温馴化の期間を経なければ光条件が満たされても春に開花することがでず、栄養生長のみを続ける。低温馴化の現象は植物が寒冷な気候に馴化する過程で勝ち取った適応現象である。現在では、この低温馴化の過程で一連の低温応答性遺伝子群の発現が誘導され、植物に低温適応能力を発揮させていることが分かっている。ルイセンコは低温馴化の過程を理解せず環境を人為的に制御することでコムギの遺伝形質を変えることができると主張したが、この主張は当時のソビエトのイデオロギーに合致したのだろうと思われる)。

 イサカからパサディナへの帰路、ビードルはヘルマン・マラーのハエ・グループを訪ねてオースティンのテキサス大学に立寄った。世代時間が10日で短いショウジョウバエのもつトウモロコシに比べて圧倒的に有利な性質に魅せられて、ビードルは今や興味を完全にハエに向けたという印象を皆に残してテキサスを去った74。パサディナへ戻ると、トウモロコシとテオシントの雑種に関する遺伝学と細胞遺伝学を含む仕事についていくつか主要な論文を完成した。1932年には、6つのトウモロコシ論文と最初のショウジョウバエ論文を含む全部で9つの論文を発表した。その後は、1935年のトウモロコシ概要誌の論文と1939年のテオシントに関する短い論文を除くと(第18章参照)、ビードルは40年間トウモロコシに関する論文をひとつも発表することがなかった。ビードルは既にハエに向かって歩き出していた。



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41. R.A. EmersonからGWBへの手紙, May 25, 1932. Box 8, Department of Plant Breeding Records, #21/28/889. COR.
42. 同上
43. T.H. MorganからMax Masonへの手紙, May 15, 1933. RG 1.1 Series 205, Box 5, Folder 71, RFA.
44. T.H. MorganからW.W. Weaverへの手紙, November 9, 1933. RG 1.1 Series 205, Box 5, Folder 71, RFA.
45. ロックフェラー財団からT.H. Morganへの手紙, December 19, 1933. RG 1.1 Series 205, Box 5, Folder 71, RFA.
46. Warren Weaverの日記, April 16, 17, 1934. RFA. 47. T.H. MorganからW.W.Weaverへの手紙, January 11, 1934. RG 1.1 Series 205, Box 5, Folder 72, RFA.
48. H.M. Millerの日記,June 7, 1934, RG 1.1 Series 205, Box 5, Folder 71, RFA.
49. W.E.Tisdale日記,May 9, 1934. RG 1.1 Series 205, Box 5, Folder 71, RFA.
50. H.M. Miller. Report, September 25-27, 1935. RG 1.1 Series 205D, Box 6.74, Kay, 1993で引用
51. M. DemerecとGWBの手紙, November 1929-1930, Folder 1, M. Demerec Papers, APS.
52. GWBからDemerecへの手紙 November 23,1929. Folder 1, Demerec Papers, APS.
53. GWB, Fraser, and Emersonからトウモロコシ研究者への連絡, November 28, 1930. Folder 1, M. Demerec Ppaers, APS.
54. R.A. EmersonとGWBとの連絡,November 1930 ? 1935, Boxes 8, 10, and 20, Beadle Files, COR.
55. R.A. EmersonからGWBへの手紙, March 4, 1932. Box 8, Departmentn of Plant Beeding Records, #21/28/889, COR.
56. Maize (or corn) Genetics Cooperation. microfilm 1417, PS.
57. http://www.w3.ag.uniuc.edu/maize-copy/wwwlist.html
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71. GWB and S. Emerson. Studies on the mechanism of crossing over in Drosophila. II. Experiments with certain translcations. Proceedings of the Sixth International Congress of Genetics. Ithaca, New York, Brooklyn Botanical Garden, 1932. Vol. 1-2, p.7掲載.
72. GWB, “Thomas Hunt Morgan.”
73. D. Joravsky. The Lysenko affair. The University of Chicago Press, 1970; Z.A. Medvedev. The Medvedev papers: The plight of Soviet science today. MacMillan, St. Martins Press, London, 1971.
74. Kay, Molecular Vision, 1993, p.125, ハーマン・マラーの指導を受けた合衆国の遺伝学でコラムニストのヒーラム・ベントレー・グラスによれば、ビードルは1930年あるいは1932年にイサカからパサディナへの最初の旅の途中にテキサス大学を訪問したようである。