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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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訳者のあとがき

 本書は遺伝学者ジョージ・ビードルの生誕100年を記念して2003年にコールド・スプリング・ハーバー・ラボラトリー・プレスから出版された彼の伝記です。サイエンスとネーチャーに掲載されたジェームス・クロー(King Corn, James F. Crow, Science 302, 17 October 2003: 394-395)、ベンノ・ミュラーヒル(From Genes to Biochemistry, Benno Muller-Hill, Nature 426, 13 November 2003, 122)とギュンター・ステント(A giant of genetics, Gunther S. Stent, Nature Genetics 36, January 1, 2004: 5)の書評を読んだ私は本書を取り寄せ、一読してその魅力に引きつけられました。それ以前から遺伝学の講義などでビードルの研究と人生について学生諸君に繰り返し話してきましたが、本書との出会いは改めてビードルの足跡を知るよい機会でした。

 私は幸運にもビードルに出会ったことがあります。1975年の秋だったと思いますが、ビードルがネブラスカ大学農学部時代に指導を受けたフランクリン・カイム教授のご子息で、当時コロラド州立大学農学科長を務めていらしたウェイン・カイム教授を訪ねてこられた時のことでした。大学院生だった私は教職員食堂であった歓迎昼食会に参加することができ、遠くからビードルの姿を見て声を聞くことができました。その時ビードルが何を話されたか覚えていませんが、自分が興奮していたことは今でも鮮明に覚えています。本書の翻訳を思い立ち完成することができたのは、退職後に自由な時間を手にしたことに加えて、そのときの記憶が後押ししてくれたからだと思います。

 本書は20世紀を生きた一人の遺伝学者ジョージ・ビードルの伝記ですが、現代の私達にも科学の面白さを教えてくれます。古典遺伝学から分子遺伝学・分子生物学が花開く時代に、当時のトップの科学者達が遺伝の本質を理解しようと格闘した軌跡が、まさにその牽引者の一人だったジョージ・ビードルを中心に、彼を囲む著名な先輩、同僚、後輩科学者達との生き生きとした友情・葛藤と第2次世界大戦という時代背景の下で彼らが苦悩しながら果たした役割が活写されています。当時のアメリカ合衆国の大学と研究教育のあり方、特に研究資金と優秀な人材の獲得に向けられた努力とそれを実現する組織と社会の力から科学と科学者を育てる彼の国の土壌の豊かさを改めて思い知らされます。著者はスタンフォード大学名誉教授でノーベル化学賞受賞者のポール・バーグとカーネギー研究所名誉所長のマキシン・シンガーで、二人の綿密な調査に裏付けられた語りは魅力に溢れています。古い時代の物語ですが、私達が汲むべき多くの教訓が書き込まれた良書だと思います。

 科学上のひとつの発見が真実として認められ新しいパラダイムを切り開くには、厳格な実証実験を通じて得た事実を広く開示して、予想される多くの懐疑と批判を乗り越える必要があります。「教科書」に書かれる知識はすべてこうした営みを経て今に生きている私達の文化遺産です。社会との関わりを含めて科学のもつ光と影を知るには、一流の科学者の格闘の歴史を学ぶ必要があると思います。科学が生まれた過程を実際の例に則して学ぶことは科学を志す若い人たちにとって貴重な教材です。同時に私のような年寄りにとっては過去をもう一度振り返り現在を考えるための手だてとなります。本翻訳版が多くの皆様に読んで頂ければ何より嬉しい次第です。

 最後になりましたが、本書の編集とホームページの作成にあたって大きなお力を頂戴した私の古くからの友人である吉田晋弥氏(兵庫県立農林水産技術総合センター研究主幹)に心からの感謝を捧げます。細部にまで目の行き届いた適切な校正なくして、この翻訳書がこうした形で公開されることはありませんでした。作成中の翻訳文を読んで頂き、貴重な助言を賜った恩師の常脇恒一郎先生(京都大学名誉教授、日本学士院会員)、神戸大学の元同僚の杉本幸裕教授、竹田真木生教授、中屋敷均教授に感謝致します。もうひとり、翻訳の仕事に没頭する私を支え労ってくれた妻の修代にも感謝します。1979年5月、コロラド州立大学の学位授与式で、ウェイン・カイム農学科長(ネブラスカ大学農学部時代のジョージ・ビードルの恩師であったフランクリン・カイム教授のご子息)とともに撮った写真は私達の宝物のひとつです。

                         平成27年1月25日
                         中 村 千 春