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非凡な農民

George Beadle, An Uncommon Farmer, The Emergence of Genetics in the 20th Century

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第4章 トウモロコシの研究共同体

 1926年秋にイサカに着いたビードルは、カイムが整えた計画に従って農学部農学科の大学院生としての生活を始めた。農学科の助教授だった生態学のハーバート・プレス・クーパーが指導教員となり、生活を支えるために必要な研究アシスタントシップによる賃金が支給されることになっていた。クーパーの計画はビードルをニューヨーク州の牧草地草本の生態学に集中させることだった。遺伝学はマイナーな専攻の一つに過ぎなかった。ところがクーパーはビードルの独立をほとんど認めず、ビードルには妨害的ですらあった。ビードルは誰か他の人間の研究を手助けすることを期待して大学院に来たのではなかった。何年も後のインタビューでビードルが語ったように、「それ(ニューヨーク州の牧草問題)は彼(クーパー)の課題であって私の課題ではないことがはっきりと分かりました。それで私は遺伝学と細胞学に専攻を変えると主張し事実そうしたのです」。さらに後になってこの出来事を思い出したビードルは、もっと生き生きとした言葉で、自分自身に向かって「まっぴらご免だね。止めた」と宣言したのだった。コーネルの生態学科は「死んでいる」とアドレアン・サーブに伝えたこともビードルは覚えている(注:サーブはビードルのネブラスカ時代の後輩で、後にコーネルの育種学教授になる)。それに比べて、エマーソンが遺伝学に新境地を開いていた植物育種学科こそ自分に相応しい場所であるとビードルは感じ取っていた。

 1914年にネブラスカを離れてコーネルで植物育種学を率いることになったエマーソンは、応用研究よりは基礎研究に努力を集中することを希望したが、実際その希望を叶えることができた。1914年から1926年の間にエマーソンと学生達が行ったトウモロコシの遺伝学研究によってコーネルの植物育種学科は植物遺伝学分野における世界の先導的な存在になった。コーネルはトウモロコシ研究の中心としてハーバードをも凌ぐ優秀な学生を集めた。遺伝学一般でもトウモロコシはショウジョウバエに次ぐ地位を占め、基礎科学のある面では植物が最も注目を集めた研究対象になった時代だった。トウモロコシが合衆国農業生産の主要作物であったことが重要な理由で、これによってトウモロコシの育種研究は十分な資金的支援を得ることができた。エマーソンの科学界での地位は高まり、モルガンと並んで遺伝学の指導的研究者となった。エマーソンは大学内でもますます重要な人物となり1925年にはコーネル大学院の院長に任命されたが、それは認められつつあった農学部と植物育種学分野の関係者にとって明記すべき偉業だった

 「チーフ」と学生から親しみを込めて呼ばれたエマーソンは、一緒に「リンカーンからイサカへ」の伝統の先陣を切ってやってきた二人、アーネスト・グスタフ・アンダーソンとアーネスト W. リンドストロームを含む優れた学生を何人か既に育てていた。リンドストロームは1917年にコーネルでPh.D.を取得した。ネブラスカで学部学生だったアンダーソンは、1920年にPh.D.を取得し、コロンビアのモルガン研究室とコールド・スプリング・ハーバーで暫く過ごした後、ミシガン大学の教員になった。エマーソンはアンダーソンが並外れた研究者になることを期待し、「小さなアンディー」がコーネルを離れた後も長く彼と共同研究を続けた(注:アンダーソンはネブラスカでそう呼ばれていた。第3章参照)。エマーソンに宛てた長いたくさんの手紙でアンダーソンは研究結果をいつも詳細に語ったが、研究者仲間や競争相手との間で頻繁に生じた争いをどう処理したらいいか忠告を求めたりもした。アンダーソンはデータを厳格に吟味し注意深く解釈する研究者だったが、他人とうまく折り合える人物ではなかった。1927年にアンダーソンをグッゲンハイム奨学金の給付生に推薦したエマーソンは、その推薦書でアンダーソンについて、「適応能力を欠いていると感じたことがしばしばだった」が、知的に優れていると評価できる4人ないし5人の学生のうちで一番かおそらく2番目に優秀であったと語っている(注:グッゲンハイム奨学金は1925年に始まったジョン・サイモン・グッゲンハイム記念財団の奨励金制度)。暫くしてモルガンがアンダーソンをカルテックの新部門となった生物学部門に招聘したとき、これでアンダーソンは期待できる最も高い地位を勝ち得たのだとエマーソンは確信した。それというのも、エマーソンはアンダーソンを「自分とともに仕事をした者のうちで最も鋭い学生だったが、感情の起伏が激しく、自分が気に入らなければ何も成し遂げることができなかった。もし自分をうまくコントロールできないか、あるいは自分ではどうにもならないことで悩むのを止めなければ、私は彼を諦める」とさえ評していたからだった。それでもなお、エマーソンは、ビードルを含めて他の学生を推薦する必要があった時にはいつも、アンダーソンを自分の評価の最も信頼できる「金本位制の標準」としていた。

 1927年には既に「チーフ」のトウモロコシ研究共同体の中にアンダーソンよりずっと生産的で影響力があった若手研究者達がいたことを考えると、エマーソンのアンダーソンに対する特別の評価は注目すべきことだった。そうした若手研究者の一人はユーゴスラビアから1919年に移民として合衆国に渡ってきてすぐにコーネルの学生になったミリスラフ・デメレックだった。デメレックは1923年にエマーソンの下で遺伝学のPh.D.を取得した後、ニューヨーク州コールド・スプリング・ハーバーのカーネギー研究所遺伝学部に加わり、そこでますます重要な人物となり、部門長として20年間の務めを終えた1960年に退職するまでそこに留まった。エマーソンのトウモロコシ研究共同体に加わりコーネルで学部と博士の研究を終えたバーバラ・マックリントックもアンダーソンよりはずっと光った一人だった。

 イサカに着任した当初から、「チーフ」は意識的に学生と同僚を社交的、科学的な共同体に組み入れようとした。そのため、エマーソンは1907年に始まっていた遺伝学研究者のシナプシス・クラブを再活性化しクラブの夕食会を自宅で開くことにした。特別の招待者がなかった時には、教員と学生からなる会員が交代で最近の研究、集会や科学界の活動の様子を報告した。旅から戻った者は訪ねた国や研究所について語った。新入学生はすぐに科学的な共同体の生活に適応し、トウモロコシ生産における雑種種子の重要性を初めて証明したジョージ・シュルなどのしばしば訪れる有名な科学者を囲む非公式な場に溶け込んでいった。トーマス・ハント・モルガンさえクラブの夕食会を訪れた。イサカに着いてすぐにシナプシス・クラブの会員になったビードルは、1929年1月25日に、ニューヨーク植物園からの訪問者バーナード O.ドッジが紹介したアカパンカビ Neurospora の話しが特に印象的で興味を惹かれたことを覚えている10。ドッジは彼自身の新しい遺伝学的発見のいくつかについて「説明に窮した」が、ショウジョウバエの交叉に関する最新の論文を読んでいたビードルと他の会員にとっては彼のデータを理解するのは容易なことだった11。ビードルは、10年以上後のことになるが、ドッジとアカパンカビのことを思い出して、このカビが遺伝子の機能を理解するための格好の生物であることを知ることになるだろう。

 シナプシス・クラブは、減数分裂の開始時に相同染色体が並んで対合するシナプシスと呼ばれる現象から名付けられていた(第3章参照)。会員がすべてそうだったようにビードルは、決まった儀式に則って、「細胞」に迎えられ「染色体」と呼ばれる一人になった。1927年3月28日の会合までの間、「食事委員会」に属したビードルは、エマーソン家の台所で25人の風変わりな参加者のために、ミートローフ、ポテト、サラダやパイを作る役割を務めた。シナプシス・クラブの特別部門だったラズベリー・クラブでは皆が1年に一度集まって、遠足、詩の印刷と朗読、教授のパロディーや一コマ漫画など種々雑多なプログラムを実行した。クラブでは科学上での友情とともにロマンスが生まれることが奨励されたし、青い目をしたハンサムでしかも友好的な態度のビードルは若い女学生達の憧れの的だったに違いない。ラズベリー・クラブの冷やかしの的になったが、ビードルは時間を無駄にすることなく彼自身のシナプシス(ガールフレンド作り)をうまくやった。「遺伝学201、特別問題#1000:以下の状況を遺伝学的に説明せよ:これはシナプシス(対合)かアシナプシス(不対合)か」と題した一コマ漫画がストランド劇場のスクリーンに映されたが、そこには、「リリー、僕たちのネブラスースカ(注:ビードルの訛った発音)の景色はこれよりずっときれいだよ(誤ったスペルでprittierと書かれていた!)」と女の横で呟く男の後ろ姿が映し出された12。リリーはシナプシス・クラブに参加するリリアン・フェルプスだった。ネブラスカでビードルを待つレオナ・デービスは今やすっかり忘れ去られてしまっていた。

 ビードルは、クラブの会合で熱心に交わされる遺伝学研究者達の議論を聞き、エマーソンのグループが自分にとって相応しい場所であることを確信し始めた。この思いは彼が最初のセメスターで取った遺伝学の入門講義の講師で「当時知られていた遺伝学上の事実を整理する能力を持つという意味で優れた教師だった」A. C. フレーザー教授を知ってより強くなった13。この遺伝学の講義を含めたすべての講義で得たビードルの評価は「満足すべき」だったが、当時はこれが試験に合格した者に与えられた唯一の評価段階だった。トウモロコシの最初の収穫がまだ済んでいなかったし、正規には主専攻を遺伝学へ変更していなかったから、この成績は形式的な結果にしか過ぎなかった。遺伝学専攻への正規の変更は1928年春のセメスターの始めに行われた。彼の副専攻課題は植物学科のレスター W. シャープ教授の細胞学とルイス・クヌッドソン教授の植物生理学だった14

 学科を変えたことでリサーチ・アシスタントシップによる経済的支援を失ったビードルは、「さらに厳しいスパルタ式の質素な生活への準備」を始めた1516。エマーソンが助け船を出してくれて得た新しいパートタイムのアシスタントシップで祖母アルブロの遺産からくる収入を補うことができた。そのうちに十分な貯金ができたビードルは、ネブラスカに残してきたT型フォード車の代わりにA型ロードスターの二人乗りオープンカー、オフェリア・バンプを手に入れることができた17。彼は新しい環境に満足し、エマーソンの学生に接する態度にも好感を持った。エマーソンは教授で大学院長だったが、学生達には容易に近づくことができる人物だった。トウモロコシ遺伝学の研究共同体と大学に大きな責任を負いながら、エマーソンは自分自身の研究も行った。彼が大学院生を指導する際の主要なやり方は研究を通じた現場主義で、滅多に正式な講義はもたなかった。卓越した講師だったが「未発見の事柄にはそれほど興味を示さなかった」フレーザー教授とは対照的に、エマーソンは「既知の事柄にはほとんど興味を示さず、発見されるべき未知の事柄に魅了されていた」18。彼は研究に高い標準を掲げたが、それは「彼が一貫した強い客観志向の持ち主で、実験材料から真実を抽出し、一度ではなく何度も多くのやり方で証明するまでは決して論文を発表しなかった」ことからも明らに見ることができた19

 エマーソンの歴代の学生は畏敬の念とともに彼を思い出した。不満足や欠点を仄めかす者さえなかった。彼は誰からも常に科学と学生に自らを捧げた深い思いやりのある人物だと評価された。世界中の遺伝学者が彼を尊敬しその指導力に信頼を置いた。彼は安易な指導者ではなかった。彼によれば、教授は知的な面でも感情的な面でも学生を甘やかしてはならなかった。彼は学生を成熟した人間として扱い、彼らの独立心を鼓舞し、彼らが独創性を発揮することを期待した。エマーソンのこのやり方は賞賛すべき成功を収めて、その後の遺伝学の発展に大きな影響力を発揮し続けた多くの科学者達を世に送り出したが、ビードルにとっては教授として学生を指導する際のよい手本となった。それでも、エマーソンの判断がいつも正しかったわけではなかった。1918年のことだったが、彼はルイス J スタッドラーを博士コースの学生として受入れることを拒んだ。ルイスはミズリー大学へ戻り1922年にトウモロコシの育種でPh.D.を取得した。1926年夏にイサカに訪ねて来たスタッドラーと会ったエマーソンは彼の才能に驚き、以後は彼に対する考えを変えた。スタッドラーは優秀なトウモロコシ遺伝学者になり、ヘルマン J. マラーと同時期にX線による突然変異効果を発見した。

 コーネルのトウモロコシ研究共同体で日々実現されつつあった細胞学と遺伝学の融合を文字通り目の当たりにした学生と研究者は自分達の科学的情熱が呼び覚まされるのを実感した。細胞学では細胞内部を研究する方法の一つとして顕微鏡が採用された。こうして細胞学と遺伝学の融合から細胞遺伝学と呼ばれる研究分野が生まれた。イサカの古くからの細胞学者はロウエル F. ランドルフだった。だが、輝かしい技術革新と極めて独創的な洞察をもたらし、トウモロコシ細胞遺伝学の確固たる地位の確立に寄与したのはバーバラ・マックリントックだった。トウモロコシの遺伝様式とそれに伴う染色体の変わった特性を研究した彼女は、そこから得た実験結果を洞察することで細胞遺伝学上のより深い理解をもたらすことになる。

 マックリントックはビードルより1才年上だった20。メイフラワー号の乗客の末裔だった彼女は子供の時から変わり者だった(注:メイフラワー号は1620年に英国南西部のプリマス港から新天地アメリカのプリマスに渡った102名の清教徒達が乗った帆船)。彼女の両親は、当時の若い女性としては風変わりな多くの興味を持ち我が道を行く式のおてんば娘をよく守った。しかし母は、バーバラがブルックリンのエラスムス・ホール高校を1918年に卒業した後でコーネル大学へ進学したいと希望した時、それには反対した(注:反対の理由は、教育を受けた女性は結婚できないだったが、母の予想は正しく、バーバラは生涯独身だった)。コーネルへ進学することが可能となったのは、父がフランスでの第一次世界大戦の役務から戻って2人の仲介役になってくれた1919年の秋だった。1923年に農学部で学部教育を終えた後も彼女はコーネルに残って植物学科で博士号を取ろうと決心した。彼女はエマーソンのもとでの研究を望んだようだったが、当時コーネルの植物育種学科は女子学生の入学を認めなかった21。それで、既に彼女に目をかけていたレスター W. シャープが論文研究の指導教員になった。シャープは、すべてを任せて彼女自身の着想の自由な追求を許しさえすれば、彼女が最善を尽くすことをよく理解していた。

 マックリントックは、ほとんどの大学院生がそうであったように、勉学を続けるための資金を得る必要からランドルフの研究アシスタントの職を得た。ランドルフはコーネルの合衆国農務省農業研究所の職員で、当時は遺伝学を最大限育種に利用する目的でトウモロコシの染色体を研究していた22(注:合衆国では、1887年のハッチ法で、各州の公立大学農学部に隣接して農学部と連携関係にある農業試験場が設置された。農業試験場で行われる研究が大学農学部のカリキュラムと農業改良普及プログラムを支えており、職員の多くは農学部教員を兼務した)。ランドルフはマックリントックと共著で、通常の2組ではなく3組の染色体セットをもつ同質倍数体の一種で3倍体と呼ばれる植物体をトウモロコシで最初に記述した23。しかし、二人の共同研究からは他にはほとんど注目すべき成果が生まれることがなく、二人の人間関係がうまく行かなかったこともあって共同研究はほどなく終了してしまった。ランドルフは注意深く几帳面な科学者だった。マックリントックも注意深く几帳面だったが、彼女には複雑な細胞学的観察の意義に対する優れたひらめきとも言える洞察力と新しい技術を採用する大胆さがあった。彼女のこうした特性は科学の発展にとっては喜ばしいことだったが、ランドルフにすれば自分自身の結果を解釈する知的な喜びと、言うまでもないが同僚の賞賛を自分から奪う脅威であった。一方でマックリントクは自分の独立を脅かすと思えるどんなことにも苛立ちを覚えた。マックリントックの希有な才能を認めた多くの人々は、彼女はいつの日か天才と呼ばれる人物になると考えることで彼女に対して覚える困惑の気持ちを抑えていたが、彼女が問題の多い人物であるとあからさまに主張したのはランドルフが最初だった。

 ランドルフには自分の技術と献身をもってしても理解できなかったトウモロコシの染色体に関する一つの重要な疑問があった。彼はトウモロコシの一つ一つの染色体を識別して数える方法を確立したいと考えていた。すでにだいぶ以前からショウジョウバエでは4つの小さな染色体を互いに識別することが可能となり、4つの連鎖群のそれぞれに属する遺伝子が特定の染色体と関連づけられていたが、トウモロコシではまだ誰もこれを実現した者はなかった。同じようにトウモロコシの連鎖群も特異な染色体と関連づける必要があったが、そのためには染色体を同定する特別な細胞学的方法が必要だった。ランドルフは何度も試みたて失敗した。だが、彼にとってもっと悪いことに、それを成し遂げたのはマックリントックだった。

 マックリントックは、ランドルフが用いていた根端細胞よりも発達過程にある生殖細胞がより鮮明な染色体を観察するための優れた材料であることを理解した(注:特にパキテーン期と呼ばれる減数分裂前期の一時期に観察される染色体は、相同染色体が全長にわたって対合し長く延びた特徴的な形態を示すことから、サイズのずっと小さな根端細胞の染色体より観察が容易な優れた材料を提供する)。彼女はまた新しく発表されたばかりの顕微鏡観察用のスライド作りと染色体の染色法をさらに改良した。この方法で、マックリントックはトウモロコシの個々の染色体をそれぞれの長さと動原体と呼ばれる狭窄部から伸びる二つの染色体腕の相対比のような一組の特異な形態的特徴に基づいて識別したうえで、さらに生殖細胞には識別可能な10個の染色体が、従って通常の体細胞では10組20本の染色体が存在することを明らかにした(注:狭窄部は分裂時に染色体を両極に別ける役割を果たす紡錘糸が付着する動原体と呼ばれる染色体部分)。彼女は染色体に長いものから短いものまで順に1から10の番号をつけた。ランドルフがマックリントックのこの仕事を初めて知ったのは、トウモロコシの10個の染色体の図解を示した彼女の1929年の論文が発表された時だった24。すべてを網羅した完全な仕事は彼女のPh.D.論文の基礎になった25。その後すぐに、彼女は「3倍体植物」の子孫を用いて既知の連鎖群と特定の染色体を関連づけることに成功した。3倍体植物の子孫では、9対の正常な2倍量の染色体と特定のひとつの染色体を3倍量でもつ植物体が出現するが、これを用いれば両者の関連付けが可能だった。そのような植物体が示す表現型が過剰な染色体が属する連鎖群を決める鍵として役に立った(注:特定の染色体のみを3本もつ植物体を3染色体植物あるいはトリソミックという。トリソミックを利用して遺伝子が座乗する染色体すなわち連鎖群を決める方法はトリソミック分析と呼ばれる)。1931年には、彼女と他の研究者によって10個の既知の連鎖群がそれぞれ特定の染色体に振り当てられた。こうした業績によって、マックリントクはトウモロコシ遺伝学分野の先駆者として卓越した細胞遺伝学者の一人になった。一方、ランドルフは怒りの感情を拭い去ることができなかったが、それは彼女が彼に何の相談もなく仕事を進め、彼の長年の希望だった目標に彼を差し置いて到達してしまったからだった26

 コーネルの農学部は、1926年秋にビードルとスプローグが移ってくるまでに既に世界でその名を知られる存在になっていた。農学部は発展しつつある遺伝学と細胞遺伝学の中心であり、素晴らしい教授陣、最良の設備と優秀で勤勉な学生からなる研究共同体がそこにあった。学生達は主として公立大学(カレッジ)で十分な学部段階の教育訓練を受けており、自分たちの手を使った農作業による実践的な生物学の経験に加えて研究へのあこがれを強くもつ学生が多かった。エマーソンの周囲に集まった若い学生達は特に他では見られないほど能力に秀でていた。友人や同僚として彼らは自分たちの課題、知識とアイディアからくる興奮を互いに分ち合った。

 植物学科と植物育種学科は別の建物内にあったが、活発な学生と研究アシスタント達は植物学発祥の場であるストーン・ホールの屋根裏の大学院生用の共通部屋に机を割り当てられていた。木の床の上の本棚で拵えた小さな小部屋が個人に割り当てられた場所だった。1929年にハリエット・クレイトンがやってきてマックリントックの下で大学院の研究を始めたとき、クレイトンはひとつの小部屋をビードルと彼の犬とで共有することになった27。共通部屋は非常に混雑していたから、誰かが出入りする時には小部屋に座っている者は誰でも自分の椅子を立たなければならなかった。そのような状況では、誰かの用事は皆の用事だった。それでもこの混雑は互いに相手から学ぶことを容易にしたから、クレイトンにとってはむしろ好都合だった。そこでは興奮とおしゃべり、議論が絶えることがなかった。誰かが顕微鏡で何か興味のある観察をするとすぐに他の誰かがそれを見た。こうしたすべての好ましい環境のお蔭で、賢く大志があって独立心旺盛な若者達の真剣な科学的親密さから彼らの間にしばしば論争が巻き起こることもあった。マックリントックはそんな時、例えば、イライラしながらも彼らの顕微鏡を覗いて、彼らが像の意味を自分で考えだす前に結果を素早くしかも正しく解釈してあげたりした。

 学生間の友情はトウモロコシが植わった数エーカーの実験圃場でも育まれた。周りの土手に囲まれた「くぼ地」と呼ばれた場所は、晩春や早秋の霜害から圃場を守ってくれた。一人一人に区画が割り当てられていたが、植え付け、育成など植物の世話をみる辛い仕事を彼らは全員で助け合った。エマーソンと学生達には、一時に数千の個体を育てることも珍しいことではなかった。春と夏は、短い時間のうちに仕事を片付けなければならなかったから、てんやわんやの大忙しだった。出始めた穂は袋をかけるか取り除くかして、風で飛んできた花粉で望まない受粉が起こり注意深く計画した実験交配を台無しにしてしまうことがないようにする必要があった。同じように、雌花の柱頭も誤って未知の花粉が着かないように防御する必要があった。正しい花粉を正しい柱頭に降りかけた後で、柱頭と雄穂にもう一度袋を掛ける必要があった。トウモロコシが成熟した後では、穂を収穫し穀粒は正しくラベルを付けて保存しなければならなかった。すべての記録は細部に気を配って保存された。

 トウモロコシの交配シーズンには全員が「夜明けから日没まで1週間に7日働いた。エマーソンが時間の配分を決め、昼食と休憩時のおしゃべり時間まで管理した」28。圃場の仕事は辛かったが、その時間は同時にグループ全員が集まって経験を共有する時間で、エマーソンの講義を集中して聞ける貴重な時間でもあった。「くぼ地」の中央にある物置小屋は今も保存されていて、後にノーベル賞受賞者となったビードルとマックリントックの2人がそこで働いていたことを訪れる者に思い出させる標識が立てられている(注:ビードルは1958年に、マックリントックは1983年にノーベル生理学・医学賞を受賞する)。何年も後になって、ビードルはコーネルの大学院生だった日々に自分の中で充満していた激しい情熱を心地よく思い出すのだった。合衆国におけるもう一つのトウモロコシ遺伝学の研究センターだったハーバードのブッセイ研究所で仕事をしていたチャールズ・バーナムが1929年と1930年の夏をコーネルで過ごしてマックリントックから細胞遺伝学を習った。バーナムは当時を思い出して、エマーソンは世界中の「トウモロコシン研究者の注目すべき団結心(エスプリ・デ・コープス)」を育んだだけでなく、コーネルの学生達に「チームワークの意識」を育てたと語っている29。エマーソンは多くのことを成し遂げたが、特にトウモロコシの突然変異体の種子が誰の手にでも入るようにすることで優れて協力的なトウモロコシの研究共同体を確立したのだった。

 エマーソンのもう一人のPh.D.学生だったマーカス・M.ローズはビードルとともにマックリントックと強い絆を結んだ。カンサス出身のローズは、1928年にアーネスト G. アンダーソンの素晴らしい推薦書を得て、ミシガン大学からコーネルにやって来た30。ローズとビードルの二人はマックリントックの比類ない知識と技術が自分たちの研究の役に立つことを理解した。特にローズは早くからマックリントックの才能を評価していた。彼はマックリントックとランドルフの件について次のようなことがあったのを覚えている。ランドルフは、マックリントックの自分本意なやり方についてエマーソンに不満を語ったうえで、たとえ反論されても反駁できると期待してエマーソンを問い詰め、ついにはエマーソンが彼女の実験を知っていたのにランドルフにそれを伝えなかったと認めさせたのだった31。ローズにはマックリントックの競争心と衝突した経験がなかったようだが、おそらくそれは、彼が彼女の優れた才能をいち早く受入れたからだった。細胞遺伝学はローズの主要な興味の対象となり、彼とマックリントックの二人は、ともに90才の誕生日を迎える直前に亡くなるまで親密な同僚、友人であり続けた。マックリントックとビードルも2人の間に同じような関係を育てたが、彼らの道はそれぞれがより険しく、2人の絆はなくてならないほどのものにはならなかった。ビードルはその後も彼女との関係を時折復活させることがあったが、それは彼女の助力と助言が必要な時だけだった。おそらくビードルは、二人がまだ学生で実験室とテニスコートで競争相手だった頃の彼女を何時も覚えていたのだろう。

 ビードルはコーネルで早い時期から二つの独立な研究の流れを確立していた。その一つはトウモロコシと中央アメリカの野生の近縁植物テオシントとの関係についてだった。テオシントはエマーソンの有給の研究アシスタントとして実施した仕事だったから、博士学位の取得に用いることはできなかった(注:合衆国の大学では、博士学位取得の条件が厳しく決められていて、指導教授自身の研究テーマの補助となるような研究課題を審査対象外とする大学が多かった。第13章参照)。もう一つは大学院研究の中心となった課題で、トウモロコシの不稔性に関係する突然変異に焦点を当てた内容だった。そうした不稔突然変異体は、雄花の花序に発達した葯を欠きほとんどあるいはまったく花粉を作れない植物体が稀に存在することを観察したエマーソンを含む初期の研究者達が集めておいた材料だった。メンデルの法則に従えば、突然変異体を稀に生じる正常な両親は稔性のある花粉の生産に必須な一つの遺伝子に関して正常なアルルを一つと機能を失ったアリルを一つもつヘテロ接合体であると予想される。運悪く機能を欠失したアリルを二つ受けとってホモ接合体となった子孫は不稔の花粉を(しばしば不稔の卵細胞も)作る。ビードルは、不稔性の遺伝様式の研究に留まらず、機能をもった卵細胞と花粉を作れない突然変異体に潜む不稔の仕組みを研究するために細胞遺伝学的手法を用いようと計画した。1927年夏のシャープ教授の細胞学のコースではいい成績を収めた彼にも、研究上マクリントックの助けが必要だった。彼女は学びたいと思う誰にでも、相談者の能力が足りないと判断しない限り、進んで教えることにしていた。ビードルは幸いマックリントックの試験にパスした。

 ビードルとマックリントックは不稔の突然変異アリルを一つもつことが知られていた親植物から自家受粉で得た種子を圃場に植えて育てた次代の植物体の花粉母細胞を顕微鏡で調査した。植物体のなかには生殖細胞の発達過程で深刻な異変を示すもの、すなわち成熟分裂の初期に正常な植物体であれば観察されるはずの染色体が対の状態で並ぶプロセスに過ちがあることを示す変異体があった。この観察結果は機能的な花粉を作るプロセスが初期に崩壊していることを意味しており、これによって不稔の理由が説明できた。突然変異アリルが正常な減数分裂時の染色体対合すなわちシナプシスに干渉することから、この遺伝子はアシナプティック(不対合)と名付けられた。後にビードルは、こうした植物では卵細胞の成熟過程も異常であることを報告した。マックリントックとの共著でサイエンスに発表されたアシナプティック突然変異に関する1ページの報告がビードルの最初の論文になった3233

 アシナプティックは染色体の行動に影響を与える突然変異として最初に同定された例だったという点で意義ある発見だった。「アシナプティックという形質を発見した感動は他に比べようがなく、忘れることができません。私と同じようにこの発見に熱中したバーバラ・マックリントックは、突然変異体を細胞学的に解釈したいという欲求に駆られて、私が作った細胞標本のすべてを私から取り上げてすぐに観察を始めました。もちろん、彼女は私よりはずっと効果的に仕事を成し遂げました」とビードルは語っている34。一方、マックリントックの記憶はまったく違っていて、「ビードルはこの仕事をとてもうまく、しかも素早くやりました。彼流のやり方ですべてをやったのです」だった35。この成功に気を強くしたビードルはエマーソンに不平すら述べて彼流の仕事をやり始めた。ビードルはマックリントックから「押しつぶし法」という染色体の顕微鏡観察用のスライド作製法を学んだが、他の者と同じように彼女ほどうまく染色液を作ることができず、彼女の「とてもいい」酢酸カーミン染色液のストックをいつも頼りにしていた。適切に準備された染色液でなければ、染色体だけでなく細胞全体が色素を吸着して染まってしまうからだった36(注:酢酸カーミンは煮沸中の45%酢酸水溶液に塩基性色素のカーミンを飽和するまで溶かし、さらに鉄イオンを僅かに加えて作る。染色液の作成には長時間の作業が必要な上、古ければ古いほど「とてもいい」染色液になる)。Ph.D.論文の謝辞でビードルは「技術的」な(原文はtechnic)点と解釈の点の両方でマックリントック博士が快く与えてくれた援助に特別の感謝をささげる」と銘記したのだった37

 ビードルは交配と種子の収穫、播種と次世代の育成を含むすべての実験を自分でやった。この仕事は主に1927年と1928年の夏に行われたが、1927年から1928年の冬と翌年の冬は温室作業だった。科学上のどんな仕事に従事することになっても何時でも理由を見つけてはトウモロコシを育てた所から見ると、ビードルはこうした「農作業」に親しみと満足を感じていたに違いない。マックリントックとの共著論文を発表した2年後に、彼は遺伝学実験と細胞学実験のすべてを詳細に記述した論文を単独で発表した38。その論文はアシナプティック突然変異アリルを一つ持った植物の自家受粉で得た子孫を調べた結果をとりまとめたものだった。播種した144の種子から得た子孫のうち109個体が正常で35個体が不稔だった。この結果は、もし両親がそれぞれ一つの正常なアリルと一つの欠損アリルをもち欠損アリルが劣性であると仮定した時にメンデルの第一法則で期待される分離比(3対1)と極めてよく適合していた。ビードルはメンデルの法則から得られる率直な解釈が正しいことを確認した。交配実験で得た稔性のある子孫をさらに自家受粉して着粒した種子から育てた次世代の植物に実った種子を分析した結果は以下のようなものだった。自家受粉で子孫を残すことのできない不稔個体は不稔の原因となる突然変異アリルを2コピーもつに違いなかった。自家受粉で得た11個体のうち4個体は純粋だった、すなわち次世代の個体はすべてが正常な念性を示したが、これはこの4個体が正常なアリルのみを持っていたとすれば期待される結果だった。残りの7個体から得た種子からは親が1コピーの不稔突然変異アリルを持っていたとすれば期待される通り花粉を作らない個体が見つかった。ビードルのデータは期待値に非常に近く、ただの11個体を観察したに過ぎなかったことを考えると驚くべきことだった(注:全体の4分の3の比率で生じた稔性個体のうち、稔性のある正常なアリルを2コピーもつホモ個体が3分の1、正常なアリルと不稔のアリルをひとつずつヘテロな状態でもつ個体が3分の2を占めると期待できる)。

 上記の論文の中心的な意義は遺伝子が減数分裂時の染色体の行動を制御できるという発見だったが、ビードルはその他に「一対の染色体上にある遺伝子がどのようにして生殖細胞の生理学的状態を変化させて染色体シナプシスの全面的な停止をもたらすのかは、今のところ推測の域を出ない重要な疑問である」と極めて洞察力と独創性に富んだ疑問を提示した。彼はエドワード・テータムとともに11年後に答えを、すなわち遺伝子の作用は細胞に特別のタンパク質を提供することであるという基本的な事実を発見することになる。アシナプティック遺伝子に対応したタンパク質はすべての染色体が正確なシナプシスを形成するためにおそらく必要なのであろう。今日では、多くの遺伝子とそれに対応したタンパク質がこの複雑で重大な対合プロセスに必要なことが分かっている。ビードルはよき農民でありよき実験者であっただけでなく、自分のデータの意味をどう考えるべきかを知る優れた科学者だった。

 ビードルは研究の他にも講義とエマーソンのテオシント・プロジェクトで忙しかった。1年目の1926年にはジェームス・サムナーの化学を受講した。サムナーは「それほど熱意のある講師ではなかった」が、彼の講義を受講したのは記憶に残る経験だった39。サムナーはその年、酵素ウレアーゼの結晶化に成功したことを発表して、化学と生物学の世界を驚かせた(注:ウレアーゼは尿素を加水分解でアンモニアと二酸化炭素に分解する酵素)。それまで酵素すなわちタンパク質の標本を同一物質の純粋な集合体(結晶)として分離することができるか、さらに、その結晶化は純度のみに依存するかに関しては大きな論争があった。ウレアーゼは本当にタンパク質かと疑問を呈するほど懐疑的な研究者も多かった。酵素タンパク質が明確な構造をもつ真の分子である事実を人々が受入れたのは、ロックフェラー研究所のジョン・ノースラップが胃液中に分泌される酵素ペプシンを結晶化した1937年以後のことだった。遺伝子と酵素タンパク質の実際の関係が確立されるにはさらに10年の年月が必要だったが、サムナーの成功は両者の関係を考えるために必須な事実を提供するものだった。

 シナプシス・クラブは科学的で社交的な交流の場だったから、ビードルは会合を滅多に欠席することがなかった。クラブの記録によれば、ビードルにとってイサカでの2年目のセメスターが始まった1927年の秋に、マリオン・ヒルが新しい会員としてクラブに加わった。彼女はカリフォルニア生まれでビードルより2才若く、ポモナ・カレッジで学士を修了していた(注:ポモナ・カレッジは南カリフォルニアのクレアモントにある私立のリベラル・アーツ大学)。学部時代の専攻科目が植物学だった彼女はコーネルでも植物学の修士学生として登録した。彼女は植物の他に鳥が好きで生態学に興味を持っていた40。すぐに彼女がリリアン・フェルプスに変わってビードルのガールフレンドになった。その間に、妹ルースもイサカにやってきた。ビードルは兄として、コーネルはネブラスカよりいい大学だから栄養学を学びにくるべきで、そうすれば当時から女性に開放されていた数少ない職業のひとつだった栄養士の資格が取れるとルースを説得していたのだった。既に絵画に興味を持っていたルースにとって栄養学はそれほど刺激的な課題ではなかったが、彼女の世界はいつも兄を中心に回っていたのだから、その忠告に従った。彼女はビードルのアパートへ入居して家事をしたが、リンカーンでもそうだったように自分の住む場所については自分の考えを持っていたから、兄との同居は長く続かなかった。ルースは学生寮に入りたかったし、それにどちらにしても、恋に落ちていたジョージとマリオンが直に結婚するのは明らかだった41。1928年8月22日に、イサカに近いニューヨーク州ワトキンス・グレンの緑の丘陵に囲まれたフィンガー湖に流れ落ちる美しい瀑布のひとつを式場にして、コーネルの友人達の前でふたりの結婚式が挙行された42。ルースは家族を代表して参列した。ビードルは、丁度トウモロコシの収穫で忙しい時期だったが、イサカで最もロマンティックなカップルとしてマリオンとともに友人達の前に晴れ姿を見せた。1928年10月からはマリオン・ヒルはシナプシス・クラブの名簿にマリオン・ビードルと署名することになった。

 マリオン・ビードルは、その時代の多くの女性と同じように、結婚後は勉学をそっちのけにした。彼女は果樹学の研究アシスタントの職を得て研究室でビードルを助ける時間を手にした。息子デービッド・ビードルによれば、マリオンは世俗的で、ずけずけものを言う、つきあいにくい女性と人々には思われていたようだ43。ルースは、最初の面会で、マリオンがタバコに火をつけたことに驚いた。マックリントックもルースには仰天するような驚きの存在だったに違いない。というのも、おそらくまだ学部学生だった頃の写真に写るマックリントックは、指先にタバコをもち、にやにやと笑っていたからだった44。マリオンは音楽と美術に広い興味を持っていた。対照的にビードルはいつも世俗的でなく、研究室以外のことには興味を示さないが人付き合いは大好きなネブラスカの農場青年だった。ビードルのお気に入りの作家はサキというペンネームのヘクター・ヒュー・ムンロだったようだが、20世紀初頭の英国上流社会の気取った物語に彼が心を惹かれるのもなど実は何もなかったはずだった45(注:サキはスコットランドの小説家で、オー・ヘンリーと並ぶ短編作家として有名)。おそらく、それは自分とは相反するものへの興味からだったのだろう。一方、マリオンは、いわば「縒り戻し」ともいえる状態にあったのかもしれない。彼女は、カリフォルニア時代の大学のボーイフレンドから絶交を宣言されたとき以来、長く大きな失意を感じていた。マリオンには、自分が「カウボーイ」と呼んでいたこの若者が与えた記憶、例えば一対の拍車、38口径の回転式連続拳銃コルトと皮のケース、それに銀貨で作った指輪が生涯を通じて心の中に残っていた。ビードルはといえば、高校時代の化学と物理学の先生だったベス・マクドナルド(1章参照)の記憶の影として、おそらくマリオンに美しく趣味のよい女性を見ていたのだろう。いずれにしても、この結婚によってビードルの研究が滞ることはなかった。

 ビードルは、アシナプティックの他に、減数分裂の後期に多くの異常な細胞分裂を起こすことからポリミトティックと名付けた別の不稔劣性突然変異を研究し、今度も初めに短い予備的な論文をサイエンスに発表した1年後に完全な論文をコーネル大学農業試験場紀要で公表した46。彼は正常なアリルをひとつとポリミトティック突然変異アリルをひとつもつ雑種植物を自殖して、子孫で正常な個体とポリミトティック形質を示す個体を3対1の比率で得たが、この結果は単純なひとつの劣性遺伝子に典型的な比率だった。アシナプティックと同様にポリミトティックについても、ビードルは顕微鏡で発達過程にある花粉を分析したが、この時はマックリントックの協力なしに細胞観察をすべて自分一人で実施した。ポリミトティック突然変異では染色体対合期の後で正常な減数分裂が妨げられることが明らかだった。

 シナプシスの後の第一減数分裂では、対合した相同染色体が両極に分かれてそれぞれ10個の異なる染色体からなる二つの娘細胞が生じるように見えるが、よく観察すると10個の染色体のそれぞれは実際には二つの同一の姉妹染色分体からなる二量体であることが分かる。これは、シナプシスの前にそれぞれの染色体が倍加し、倍加した染色体を構成する姉妹染色分体がそのまま密接に連結した状態のまま残るからである。減数分裂の第2分裂では、姉妹染色分体は動原体部で分離して別々の細胞に入るので、それぞれ10個の異なる染色体を含む4つの細胞が生じる。その後、これらの細胞は、卵細胞になるか花粉になるかに関わらず、一回あるいはそれ以上の細胞分裂を行い、成熟した生殖細胞ができて分裂を止める(注:植物では、卵細胞の形成時に1回、花粉の形成時には2回の細胞分裂が起こる)。各分裂の前には染色体が再び倍加し、細胞が分裂して二つの娘細胞ができる時に倍加染色体が分離する。減数分裂後の細胞分裂では、体の各部を作る細胞を生む分裂と同様に娘細胞が親細胞と同数の染色体を受け取ることになるが、この種の細胞分裂様式は体細胞分裂と呼ばれる。

 ポリミトティック突然変異アリルをホモにもつトウモロコシでは花粉形成を導く成熟分裂の開始は正常だった。染色体が正常に対合した後で細胞は一度分裂し、第2減数分裂で再び分裂した。問題はその後に起こった。体細胞分裂の後の段階で通常起こる分裂停止の代わりに、細胞は分裂を何度も繰り返した。加えて、各娘細胞に10個からなる個別染色体の全量を正確に分離する仕組みが働かなかった。この段階でトウモロコシの正常な卵細胞と花粉であれば受けとるべき10個の染色体は無差別に分離し、多くの娘細胞が受精に必要な10個より少ない数の染色体しか受け取らなかった。ビードルは、例えばアシナプティックのように対合が起こらず何かが欠けているように見える多くの劣性遺伝子とは違って、ポリミトティックでは過剰な細胞分裂が起こっていると解釈した。突然変異体では細胞分裂の様式と時期を制御する正常な機能から何らかの要因が欠落しているのだろうと推測された。アシナプティック論文と同じように、ここでもビードルはデータを注意深く吟味し新しい仕組みを提案している。ある明白で単純な性質を与えるのではなく、むしろ生物学上の複雑な過程を制御する多くの遺伝子が存在することが今では知られている。ビードルの1930年の論文の最後の文章では、次のような予知が述べられていた。「ポリミトティック遺伝子が細胞分裂の時と様式を制御する要因として機能しているように見える事実は、腫瘍が見せるある種の増殖は細胞分裂と成長の制御に関与する遺伝子の突然変異の結果であるとする仮説との関連で興味深い」。彼は、レオネル C. ストロングの1929年の論文を引用して仮説の功績をこの論文に与えた47。現在では、細胞分裂の制御機能を持つガン抑制遺伝子と呼ばれる遺伝子群が存在し、その正常な機能が失われるか突然変異型として存在する時に制御不能な細胞分裂が誘導され、従って腫瘍を引き起こすことが明らかになっている。

 ビードルはポリミトティック遺伝子を連鎖群すなわち特定の染色体と関連付ける実験も行った。ポリミトティックは多くの遺伝子と独立に遺伝したが、互いに連鎖した二つの遺伝子と同じ染色体に乗っていることを明らかにした。ひとつは突然変異アリルが植物体(種子ではない)を紫色とするP遺伝子で、もうひとつは突然変異アリルが通常の白い胚乳ではなく黄色い胚乳を形成するY遺伝子だった。彼は、正常なポリミトティックとYアリルを一方の親から、他方からは両者の突然変異アリルを受け取った2重へテロ接合の雑種植物を自家受粉させた。ビードルが数えた約1,200個体の子孫のおよそ88%が、どちらも正常かまたは突然変異型を示し、元の両親で共存していたアリルの対が2世代を経ても連鎖していることを示唆した(注:この結果は、ポリミトティックとYの間の交叉頻度がおよそ12%であることを示唆する)。同様の結果がPとポリミトティックについても得られた。3つの遺伝子はすべてマックリントックが第3番と名づけたトウモロコシの染色体上で連鎖していた。

 ビードルの仕事のほとんどは1929年中に終了し、その内容はPH.D.の必要要件を十分に満たすものだった。10月にビードルは「トウモロコシの減数分裂に影響する遺伝子」と題した概略的な講演発表を植物育種学科のセミナーで行った48。彼の28ページのPh.D.論文には、アシナプティックに関する研究とショウジョウバエを含む他生物における減数分裂時の染色体行動に影響を与える突然変異に関する他研究者の最新論文について議論が展開されていた49(注:ビードルの学位論文の基礎となった研究結果は、マックリントックとの共著を含む4報の関連論文で詳細に報告されている)。Ph.D.の授与は1930年2月5日だった。何年も経った後でマーカス・ローズは、ビードルが証明した染色体行動の遺伝的制御はトウモロコシ細胞遺伝学の発展をもたらした爆発的な時代の主要な業績のひとつだったと断言している50

 ビードルの家族はイサカにもう一年ほど留まった。この間の公式な職名は植物育種学科の実験研究者で、年報は1,389ドルだった。エマーソンの研究共同体に残ることで、それまで何年にもわたって収集、目録化、保存されてきた突然変異体の種子とその親植物に関する詳細な情報を自由に手に入れることができたことはビードルにとって実質的な利益だった。これらの材料は独創的な仕事をするたくさんの機会を与えたし、実際にそれらを利用していくつかの仕事をやり終えて新たな仕事も開始できた。ビードルが研究対象とした材料の中には葉に縞模様ができるイエロー・ストライプと呼ばれる突然変異体があった。エマーソンがこれを見いだしたのは1926年で、劣性突然変異体と思われた。ビードルは顕微鏡で突然変異体の葉を観察し、黄色の形質は通常の緑ではなく黄色を呈する異常な葉緑体に起因すると結論した51。黄色と緑色の縞模様は葉の主要な維管束の間の中間点で典型的に生じていた。彼は何らかの重要な因子が主要な循環系から葉組織へ十分に輸送されないことが原因だと推論したが、それは正しかった。今ではその因子が鉄であること、すなわちイエロー・ストライプ遺伝子は細胞への鉄輸送を促進するタンパク質の遺伝暗号をもつことが分かっている52

 ビードルには大志があり、イサカで研究ができることは大きな喜びだったが、同時に自分の未来もよく考えなければならなかった。だが、祖母の遺産のお蔭で可能だった生活は1929年の銀行倒産で消えてなくなり、学業を続けたいのならルースさえも仕事を探さなければならない状況に追い込まれた53(注:1929年10月24日にニューヨーク証券取引所の株価の大暴落で世界恐慌が始まった)。エマーソンの翼の下に残って自分が価値を置いていた仲間との研究共同体の中でキャリヤーを進めながら、生活のために新たな仕事を探すことを先延ばしにする方法がひとつあり、それは生物科学の研究フェローシップをワシントンD.C.の全米研究評議会(NRC)に申請することだった54。ビードルがコーネルで研究を続けられることを希望したエマーソンにとっても第一の選択肢はその研究フェローシップに申請することだった。カリフォルニア工科大学(カルテック)へ移ることは第2の選択肢だった。そこでビードルは、どちらの研究所でもトウモロコシ遺伝学の二つの課題、すなわちメンデル遺伝に則った機能的不稔性の研究とエマーソンの研究アシスタントとして従事した近縁野生種テオシントとトウモロコシの雑種に関する細胞遺伝学の二つを研究課題として申請した。

 もしコーネルに残ることが可能ならばエマーソンの指導の下で、もしカルテックへ移るのならE. G.アンダーソンの下で研究を続ける計画だった。ところでビードルには細胞学についてはまだランドルフとマックリントックの助けが必要だと考えたエマーソンは、ビードルがイサカに残って不稔突然変異体の研究を完成して欲しかった55。エマーソンはビードルが既にマクリントックとでも十分に太刀打ちできるほどの細胞学の技術を修得していた事実を明らかに認識していなかったが、それは彼がその点に十分な注意を払っていなかったからだった。エマーソンにとって残るもう一つの希望はアンダーソンの指導を受けることで、彼ならトウモロコシ遺伝学に協力的な環境を提供してくれるに違いないと期待できた。それにカルテックのハエ遺伝学の研究者達よりはアンダーソンの方がイサカとの共同研究を歓迎してくれるだろうとエマーソンは考えたに違いない。フェローシップの期間はコーネルに残って仕事を継続して欲しかったが、そのときエマーソンは一時的なカルテックでの滞在はむしろ有利であることに気がつく。ビードルをコーネルの終身教員として採用する希望を抱いていたエマーソンは、将来の可能性として教員候補者への任命を大学に提案する際には、コーネルに現に所属していない方が大学からより好意的な評価を受けるはずで、「ビードルをパサディナのカルテックに送ることを避けるのはむしろ賢明な判断ではない」と思い至ったのだった56

 1930年の始めにNRC委員会議長のフランク R. リリーが、3人の主要な教授達にビードルの評価を依頼した。リリーはビードルの到達度と「目標、能力、独創性、判断力、熱意、勤勉さと人柄から見た研究への期待」に関する評価を教授達に要求した。教授達が知る大学院生のうちでビードルがどれほどの位置にあるかについても評価が求められた57。シャープ、クヌッドソンとエマーソンはすぐにビードルの評価を書き送った5859。三人の教授の推薦状はどれもビードルを高く評価する点で一致していた。三人ともビードルが勤勉で情熱的で研究計画の策定に長けていることに賛同した。クヌッドソンとシャープはビードルを彼らが知る最も優れた学生と少なくとも同等と評価した。エマーソンの推薦状は、ビードルの学科変更を詳しく説明し、それがPh.D.の学位取得に時間が掛かった理由のひとつであることへの理解を求めるものだった。

 「コーネルに着任した15年間で幸いにも私は何人もの優れた大学院生達と一緒に研究する機会をもつことができました。しかし将来に大きな仕事を達成すると確信させた学生は多くはなく、実際にコーネルを離れた後で顕著な研究を成し遂げた者は僅かでした(エマーソンはここで群を抜いていた学生達の名前を列挙している)。ビードル君が上記のグループのどこに位置するかについて言及するにはまだ早すぎると思われますが、大学院生の時の仕事から学生の未来を判断する能力を私がまだ失っていないとしたならば、彼はそのような優れたグループのなかでも際立った存在であったと言えます。ビードル君は精力的で、変わることのない働き者で、自分のエネルギーを効果的に目標に差し向けることができます。研究では特筆すべき独創性と新規性を発揮しました。事実、ささいな細部に彼の努力を向けさせようと試みても、彼が価値ある研究を達成するのを妨げることはできませんでした。彼を正規に指導したある教授がこうしたやり方を採用しましたが、うまく行きませんでした。彼が私のもとへ専攻を変えた理由のひとつは間違いなくこの経験であったと私は思います。私は、学生自身の責任に任せて、自分にある物とない物を自身で理解できるようにさせる学生に対するいつものやり方で、すぐにすべてを彼の責任に任せましたが、彼はうまくやり遂げました。ビードル君は、私と議論する目的で、学生諸君に通常見られるよりはずっと頻繁に私を訪ねてきましたから、私は彼を他の学生の誰よりも近く感じていました。実は私は、彼の頻繁な訪問は私の助言が必要と彼が感じたからだと思ったことはありませんでした。むしろ彼は当たり前のように自分の仕事に熱心で、新しい進展があればいつでも私に語らないではいられなかったのだと考えます。貴殿には、あまりに過度なビードル君への評価だと思われるかも知れませんが、私は喜んでこうした事実をそのままにお伝えしたいと思います。もし彼が、数年経っても真に重要な仕事を達成できなかったとしたら、私は驚くだけでなくきっと失望することでしょう」。

 エマーソンはフェローシップ委員会からのビードルの履修成績に関する問い合わせに対しては次のように答えている。「この情報を貴殿に与えることは私にはとてもできません。コーネル大学の大学院教授会は、大学院生が講義で得る成績を記録することや成績と講義に費やした時間で大学院での勉学と研究を評価することに強く反対です60」。

 フェローシップ委員会は、2月初旬の会合の数日後に、ビードルについて好意的な報告書を作成した61。しかし、新しい環境へ移ってそこでさらに研修を積むフェローをより高く評価する委員会から申請書に対してひとつの問題が指摘された。ビードルはその時の自分の感情をよく覚えており、コーネルに残りたかった理由のひとつは「コーネルとエマーソンへの大きな愛着」だったと語っている62。エマーソンは委員会への返事でビードルにコーネルに残っていて欲しい理由を丁寧に説明した63。ビードル自身はパサディナ行きを希望していること、コーネルに残るよう無理強いしたのはむしろ自分であると彼は認め、ビードルが7月1日までは植物育種学科の研究助手である点も指摘した。実はマーカス・ローズがカルテックでの1年の研修を終えてコーネルに戻り、ビードルに変わって研究助手となる予定だった。しかしビードルがそれまでコーネルに残るとすると、3月1日が通常の播種の日だった西海岸では、トウモロコシを植えるには遅過ぎることになる。エマーソンは、アンダーソンへ提案したのと同じ様に、申請研究のためにはコーネルの細胞学研究者の助けが必要だとビードルに繰り返し説明した。だが結局ビードルの提案した次のような解決策、すなわち1930年7月1日にコーネルでフェローシップを開始し、9月あるいは遅くとも1931年1月までコーネルに滞在し、その後パサディナでフェローシップを完了する案に落ちついた。パサディナへ発つ前にトウモロコシの種子を穂軸に着いたまま乾燥させ、脱穀してイサカ周辺の害虫であるコロラドハムシがパサディナのトウモロコシに感染して広がるのを防ぐ準備を完了させておく必要があり、そのためには出発は早くても9月30日だった。この計画は幸いNRCフェローシップ委員会委員長のアレンに認められ、1930年6月5日にはNRCから最初の小切手がビードルに届いた64

 フェローシップによって研究面で当面の未来が確かになっただけでなく、年俸が当時としては比較的気前がよい額だと考えられる2,300ドルに増えた65。フェローシップの申請で提出された書類によれば、ビードルが所有していた他の収入は不動産の抵当権から得る年400ドルの利子だけだった。おそらくこれは1929年の大恐慌で失われることがなかった祖母アルブロの遺産の一部からくる収入だった。その年、シアトルのワシントン大学植物学科から求人の申し出があり、終身教員という身分の魅力に心を惹かれたビードルはこの可能性を一旦は考慮してみたが、シアトルの天候はトウモロコシの栽培には適さないと判断して断念した66。1930年10月中旬にはビードルの家族はイサカを離れる準備を整えた。彼らはフォードのA型ロードスターを運転して西に向い、アイオワ州エームスに立ち寄ってから、ワフーで父CEを訪ね、カリフォルニアのクレアモントではマリオンの家族を訪ねて、11月1日にパサディナに到着した。

 ビードルは自分が達成し得たことに満足を覚えてコーネルを後にした。奇妙なことに細胞学を一人でやる能力がないとエマーソンが疑っていた点は別にして、ビードルは独創的な遺伝学研究を行う技術と頭脳があることを自分はもちろんコーネルの他の人々にも証明して見せたのだった。彼は生態学の専攻を念頭に置いたカイムの計画から遺伝学に変更した自分の決断の正しさが完全に証明されたこと、これから先も自分が下す独立した判断を信頼すべきことをはっきりと理解したに違いなかった。

 イサカで過ごした4年の間に細胞遺伝学の主流はハエからトウモロコシに移っていたが、これはマクリントックによる細胞学上の技術的な進歩とショウジョウバエの小さな染色体を観察する相変わらずの難しさが主な理由だった。だが、ビードルがカルテックに移ってすぐに、研究対象としての優位さは再びショウジョウバエに戻り、ビードルはこのハエを対象とした研究に参加することになる。後にビードルは研究の場を替えるように強く主張したアレンの知恵に感謝し、教授として学生を指導する立場になった時には、自分だけでなく他の教授の指導学生に対しても、PH.D.の学位を取得した後は研究の場を替えることを強く薦めることになる67



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31. M.M. Rhoades, The early years of maize genetics.” 32. GWB and B. McClintock.,1928. A genetic disturbance of meiosis in Zea mays. Science 68: 433.
33. 実は、アシナプティックという名前は遺伝学的な術語がその分野以外の者をしばしば困惑させる面を持つ一例である。他の多くの遺伝子と同様にアシナプティックは突然変異アリルが引き起こす可視的形質の明らかな異常に対してつけられた名前である。正常なトウモロコシのアリルは発達中の生殖細胞で適切なシナプシスが起こることを可能にするが、それにも関わらずこの正常なアリルもアシナプティックと呼ばれることになる。だが突然変異アリルの名称に関するこの奇妙に思える慣習にも、その名称が正常なアリルの機能についてヒントを与えるという一つの有利な点があって、遺伝学者は欠損機能を表すこうした名称を一般に用いる。
34. GWB, 1966. “Biochemical genetics: Some recollections.” 1966.
35. N.C. Comfort, The tangled field, p.52.
36. Harriet B. Creighton, 私信,April 13, 1998.
37. GWB. “Genetic and cytological studies of Mendelian asynapsis in Zea mays.” Ph.D. Thesis, Cornell University, 1930. SB124, 1930, B365, COR.
38. GWB. 1930. “Genetical and cytological studies of Mendelian asynapsis in Zea mays.” Cornell Univ. Agric. Exp. Station Memoir 129: 1-22.
39. GWBからAdrian Srbへの手紙,November 9, 1958. Ho Srb私信.
40. Davis Beadle, 私信,June 14, 1999.
41. R. Beadle, インタビュー,August 1, 1997.
42. Fred Hill夫人からの結婚案内,R. Beadle私信;David Beadle, インタビュー,June 14, 1999.
43. David Beadle, インタビュー,June 27, 1997; Ed Lewis, インタビュー,October 16, 1996.
44. Keller, A feeling for the organism, p.32.
45. Jo Srb, 私信.
46. GWB. 1929. A gene for supernumerary mitoses during spore development in Zea mays. Science 70: 406-407; GWB. 1930. A gene for supernumerary cell divisions following meiosis. Cornell Univ. Agric. Exp. Station Memoir 135: 1-11.
47. L.C. Strong. 1929. Transplantation studies on tumors arising spontaneously in heterozygous individuals. J. Cancer Res. 13: 103-115.
48. GWB, 前掲,Collected papers 1928-1950. SB43 B36, Mann Library, Cornell University.
49. GWB, Ph.D. thesis.
50. M.M. Rhoades, “The early years of maize genetics.”
51. GWB. 1929. Yellow stripe-A factor for chlorophyll deficiency in maize located in the Prpr chromosome. Ann. Nat. 63: 189-192.
52. C. Curie, Z. Panaviene, C. Loulergue, S.L. Dellaporta, J-F. Brita, and E.L. Walker. 2001. Maize yellow stripe1 encodes a membrane protein directly involved in Fe(III) uptake. Nature 409: 346-349.
53. R. Beadle, August 14, 1997.
54. GWB. 全米研究評議会(NRC)への生物科学領域フェローシップの申請,December 26, 1929. NRCフェローシップ,Fellows Roster Files, NRC.
55. R.A. EmersonからE.G. Andersonへの手紙,February 7, 1930. Box 15, Department of Plant Breeding Records, #21/28/889, COR.
56. 同上.
57. Frank R. LillieからR.A. Emersonへの手紙,January 2, 1930. Box 15, Department of Plant Breeding Records, #21/28/889, COR.
58. Lester W. SharpからFrank R. Lillieへの手紙,January 6, 1930. NRCフェローシップ,Fellows Roster Files, NRC; Lewis KhudsonからFrank R. Lillieへの手紙,January 8, 1930. NRCフェローシップ,Fellows Roster Files, NRC.
59. R.A. EmersonからFrank R. Lillieへの手紙,January 14, 1930. Box 15, Department of Plant Breeding Records, #21/28/889, COR; NRCフェローシップ,Fellows Roster Files, NAS.
60. R.A. EmersonからEdith E. Congerへの手紙,January 6, 1930. NRCフェローシップ,Fellows Roster Files, NAS.
61. C.E. AllenからR.A. Emersonへの手紙,February 21, 1930, Department of Plant Breeding Records, #21/28.889, COR;NRCフェローシップ,Fellows Roster Files, NAS.
62. GWB, “Genetics at Nebraska.”
63. R.A. EmersonからC.E. Allenへの手紙,February 18, 1930. Box 15, Department of Plant Breeding Records, #21/28/889, COR.
64. C.E. AllenからR.A. Emersonへの手紙,February 21, 1930, Box 15, Department of Plant Breeding Records, #21/28/889, COR; GWB Graduate Student File, COR.
65. C.E. AllenからGWBへの手紙,February 13, 1930. NRCフェローシップ,Fellows Roster Files, NAS.
66. GWNからG.B. Riggへの手紙,Jube 18, 1930. Box 8, Department of Plant Breeding Records, #21/28.889, COR.
67. Zuckerman, 1963; GWB, “Biochemical genetics: Some recollections,” 1966, p.25.